1.メインは苺かケーキか
たとえば、ショートケーキの上の苺が好物だとして。
ショートケーキの存在のみが記憶から失われてしまったら、『その苺』が好物であり続けることは不可能なのではないだろうか。
今のわたしは、そんな不可能な存在だ。
自分について覚えているのは、読書が好きだったことと自分の性格が悪かったこと。
それと、性悪な自分にも友人らしき者が一人いたこと。それだけだ。
自分がどこの誰だったか、どんな人間だったか、どんな人生を歩んだか、覚えていない。
多くの記憶が異様に抜け落ちているのに、それを自然に受け入れてしまう不自然さ。
ショートケーキを忘れてしまったのに、その上に乗っていた苺のことだけは覚えているような不気味さ。
それが今のわたしだ。
その世界で意識を取り戻したわたしは、一人の幼い女の子の『中』にいた。
目の前に立ってこちらを見下ろす女の顔には、美しさと醜悪さが共存している。
「魔力なしのくせに図々しい……。朝からその顔を見せられて気分が悪いわ」
「……ご、ごめんなさい……お母様……」
「お前などわたくしの娘ではないわ」
「……はい、侯爵夫人」
怖い、苦しい、ごめんなさい。
そんな気持ちと一緒に、彼女のこれまでの記憶がぶわりと流れ込んできた。
アリーシャ・ローゼンベルクは、アイゼンターク国のローゼンベルク侯爵家に生まれた一人娘。
魔術を使うのが当たり前のこの世界で、魔力を持たず生まれたアリーシャは魔術が使えなかった。
両親が強力な魔力を持つため周囲の期待は高かったが、その期待を一身に背負って生まれた子どもに魔力が無かったことは、誰にとっても不幸であった。
父親は娘に無関心になり、出来損ないの娘を生んだ妻にも興味を失った。
母親は夫の変わりように心を病み、ひたすら娘を避けるか、いたぶることしかしなかった。
アリーシャはたった五歳にして、多くの嫌悪と蔑み、無関心の中で生きている。
――なぜわたしはアリーシャの中にいて、胸糞悪い生き様を見せられている?
アリーシャの記憶を読んでから、ここは異世界だ、生まれ変わったのだと心が叫ぶ。
……いや、そんなわけないだろう。なんて思ってみても、現状も視界に映る世界も変わらない。
生まれ変わったというが、前世の記憶をほとんど覚えていない。死んだかどうかも覚えていない。
というか、今のわたしはアリーシャの中にいるがアリーシャではない。これで生まれ変わったと、生きていると言えるのか?
だが、今いるのは死後の世界でこれが地獄だというのなら、たしかにそうなのだろうなと思える世界だった。
母とは呼べない屑と別れた後、アリーシャが向かった部屋には、鞭を持ってこちらを睨む女が立っていた。
この世界の女はアリーシャを睨まねば気が済まないのか。
勝手に伝わってくるはずのアリーシャの感情は特に揺れていない。
もはや睨まれるくらいでは揺らぐことすらないらしい。
「ごきげんよう、マクレール夫人。本日もどうか、ご教示よろしくお願いいたします」
これが五歳児の挨拶か?
少し舌足らずな発音が愛らしくはあるが、所作に子どもらしさは感じられない。
「姿勢が少し歪んでいますね。魔力なしはこれだから……」
そういって歩み寄った女は、何の躊躇も遠慮もなく顔に鞭を打ちつけた。
いやいや、この子貴族だし女の子でしょ?
せめて見えるところは殴らないとか、顔は避けるとかあるだろう。
それにバランスを崩してるのは、さっき屑に突き飛ばされて脚を痛めたせいだ。
自分の心中でそう呟いても、もちろん誰にも伝わらず無視される。
そこから始まった『ご教示』はマクレール夫人とやらによる礼儀作法についての授業で、不必要に鞭打たれるアリーシャの様がそれはそれは腹立たしかった。
授業が終わり自室らしき部屋に戻ったアリーシャが鏡台を覗く。
鏡に映るのは髪も瞳もピンク色の美幼女。何人だ? 異世界人か。
ピンクなのに不思議と派手に感じない落ち着いた色合いが、幼いながらに美しい顔立ちを上品に引き立てていた。
この子を絵画とするなら、安直なタイトルは『オールドローズの天使』だろうか。
その頬に赤く腫れて血が滲んでいることだけが酷くもったいない。
極上の芸術品を汚されると、きっと人はこういう気持ちになるのだろうなと思う。
『……痛そう』
腫れる頬を見て思わず漏れた自分の声が不思議に響いた瞬間、アリーシャがぴくりと反応した。
「誰かいるの……?」
あれ、話しかけたら聞こえるやつ?
それは重畳。がんがん話しかけるしかない。だって暇だし。
『痛そうだね。大丈夫?』
「大丈夫よ。あなたは誰? どこにいるの?」
『んー、たぶんあなたの中にいる。気づいたらここにいたから不可抗力だよ。名前は覚えてない』
「まぁ……」
本当に「まぁ」と驚く人に初めて会った気がする。前世の記憶ほぼないけど。
さすが、貴族は子どもでも驚き方が上品だ。
『この世界は魔術があるんでしょ? 治癒魔術かけてもらおうよ。脚も痛めてるし、手とか体もぶたれてたでしょ』
「心配してくれてありがとう。でもわたくしは魔力なしだから、貴重な治癒魔術師を呼んでもらえないわ」
あぁそうだった、とアリーシャの記憶を思い返す。
怪我をしても、病気をしても、親や使用人はほぼ放置だったな。
『わたしが治せるなら治してあげるんだけどね』
そう呟いた途端、アリーシャの体を真珠色の光が包んだ。
温かくて気持ちがいい、とアリーシャの柔らかい感情と驚きが伝わってくる。
光が収まったアリーシャは鏡を覗き、全身を確かめ、どこにも怪我や痛みがないことを確認する。
『治った……ね?』
「ありがとう……! 治してくれたのね!」
いや、わたし……なのか?
自分がそれをなした実感は微塵もなかったので、もう一度同じ事ができるか念じてみる。
またもアリーシャの体が光り輝いた。
『あ、わたしがやった……みたいだね、たぶん。こんな便利な力が自分にあるとは』
「あなたは精霊なの? こんなすごいことを簡単にできるなんて、きっと精霊だわ!」
勝手に自己完結したらしいが、理解できないのでアリーシャの記憶から精霊の情報を探る。
精霊はその存在を多くの書物で語られているが、ほとんどの人は見たことも会ったこともない伝説的な存在らしい。
この世界の人がよくわからないならわたしにもわからない。神様みたいなものかと理解しておく。
え、わたし神みたいな存在になっちゃった?
……まぁいいか。その力で世界を救えだのなんだの面倒なことを言われなければ問題ない。
「わたくし、精霊とお話したのは初めてよ。あなたに会えてとても嬉しいわ」
興奮冷めやらぬ様子でアリーシャが微笑んだ。
この顔に生まれてたら人生楽勝だろうな……なんて思えないほど美しい。
美しすぎる異端は人から恐れられ、妬まれ、排除されやすいだろう。
この世界で重要視される魔力を持たないならなおさら。
『じゃあ友達になろう、アリーシャ。わたし、名前覚えてないからアリーシャの好きに呼んで』
なんとなく鏡を見て話していたアリーシャは、目を瞠ってすぐにぱっと俯いた。
ふるふると手を震わせてスカートの裾をぎゅっと掴む。
それが拒絶じゃないことは、流れてくる彼女の感情から理解していた。
「ありがとう……わたくし、初めてのお友達だわ」
ずっと側にいて。一人にしないで。
そんな感情が痛いほど伝わってくるのに、アリーシャは少しもその願いを口にしようとしない。
「あなたはアリスよ。わたくしの名前から取ったの。名前も分かち合えるなんて、あなたは最高のお友達ね」
その時、いつかのアリーシャの記憶が流れ込んできた。
不快な嘲笑を向けてくる使用人の女。その女が口を開くと、耳障りな音が垂れ流された。
――アリーシャ様がお生まれになるまで、奥様はいつもお腹を撫でながら話しかけていたんですよ。『アリーシャ、わたくしの可愛いアリス』と。
場合によってはアリーシャを思っての慰めの言葉と言えそうだが、絶対そうじゃないだろうという嘲笑を見てしまったせいで苛立ちしかない。
自分はもう呼んでもらえることがないから。
そんなアリーシャの気持ちが勝手に流れてくるのが苦痛だった。
というか、生まれる前にお腹の子に魔力があるかどうかわからないのか。
アリーシャにとってはわかったところでという話かもしれないが、せめて生まれる前に周囲がそれを理解していれば、心構えのひとつでもできたのだろうか。
……いや、ないな。奴等はおそらく何をしても屑だ。わたしと同じ性悪ではけしてない、ただの歪んだ人間だ。どうあっても魔力なしを蔑むだろう。
アリーシャの記憶を探って、生まれた子どもは三歳になると教会で魔力を調べる儀式を受けるのだとわかった。そこで魔力量や得意な魔術の適性を知ることができるらしい。
興味深いし便利だが、アリーシャを見ればそんな教会の存在すら面白いと思えない。
能力を確認して精査するのは別にいい。
だがそれだけで個人の価値を測るのは違うだろう。
魔力はただケーキを彩る苺だ。価値は苺ではなくケーキそのもので測れ。
『ああ、わたしはアリス。アリーシャの友達だ。ずっと側にいるよ』
いろんなものを飲み込んだ顔でアリーシャが笑うと、アリーシャの胸が淡く光り始める。
わたしは何もしてないぞ、たぶん、と考えている間に、わたしの意識を引きずりながら光がアリーシャの頭上へ移動する。
次の瞬間には光が消え、きょとんとした顔で鏡越しに頭上を見つめるアリーシャと、そこに浮かぶ妖精のようなものがいた。
黒髪に黒い瞳、透き通る羽を生やした小人。その体がわたしの意思通りに動くということは、これがいまのわたしなんだろう。
……アリーシャの中から生まれた?
全く意味がわからんが自由に動けるようになったのは良し。
「アリスなのね?」
『うん。何か動けるようになった』
「姿が見えると、あなたが側にいてくれてるのをより実感できて嬉しいわ」
アリーシャは天使のような笑顔を見せた。
***
そこからアリーシャと暮らす日々が始まった。
これが夢ならそのうち醒めるかと思っていたが、地獄のような毎日は未だ醒めることがない。
アリーシャはいつも美味しくなさそうに食事を取り、やたら厳しい多くの授業を受け、飽きもせず虐げられ、暴力を振るわれ、その度に心も体も律儀に傷つく。
『あいつら殺す?』
「そんな怖いこと言わないで、アリス。わたくしなら大丈夫よ」
こんなやり取りは、地獄に住んでいたら日常茶飯事だ。
アリーシャと一緒に人目を忍んで精霊の能力検証をしている中で、できることも増えた。
人を殺そうと思えば殺せるだけの力が自分にあることを自覚している。
今ではアリーシャが傷つく前に守ることも反撃することも可能だが、精霊の存在は隠しておいた方がいいだろうと潜んでいる。
アリーシャが傷ついた後で治癒したり、怪我が治ったのを怪しまれないよう幻影で誤魔化したり……といった中途半端なことしかできていない。
せめて殴られた瞬間に痛みを感じなければと思ったが、思うような痛みの消し方はできず、自分がその痛みを引き受けることでしかアリーシャの痛みを消せなかった。
そうしたら何の説明もしていないのに、アリーシャにバレて怒られた。
「わたくしの痛みをあなたが引き受けて傷つくなんてだめよ! せめて半分こにしてちょうだい……!」
そんな風によくわからない怒られ方をされてからは、なぜかアリーシャの痛みを半分しか引き受けられなくなった。
痛みの総量を把握できているわけではないが、怪我のわりに痛みが小さいことが多く、おそらくアリーシャの言葉通りになったのだろうと理解している。
その頃にはなんとなく、自分はアリーシャの言葉に逆らえない体なのかもしれないと考えるようになった。
ショートケーキのメインは苺派です。




