第47話 砂漠と滅びた街
イヴァンとルナを必ず助け出す。
その想いを胸に俺は異界樹へと身を投じたはずだった。
「……うっ……」
次の瞬間、視界が暗転し、世界がひっくり返るような感覚に襲われる。
身体が落下していくのか、それとも浮かび上がっているのかも分からないまま俺の全身は地面に叩きつけられた。
けれど。
――痛くない。
明らかに衝撃はあった。
骨まで震えるような強烈な衝突感覚も。
けれど不思議なことにどこも痛まない。
それどころか肌に触れる空気はやけに柔らかく、ぬるい春の風のようだった。
「……ここ、は……?」
息を吸った瞬間、肺の奥まで澄み渡るような空気が満ちていく。
俺はゆっくりと上体を起こし、目の前の光景に言葉を失った。
そこに広がっていたのはまるで幻想のような風景だった。
水晶を溶かしたような透明な泉が静かに佇み、その水面には幾千もの陽の粒が瞬いていた。
泉の周囲には高く茂る木々。
濃く鮮やかな葉が風にそよぎ、枝の合間からは色とりどりの花が顔をのぞかせている。
紫、白、紅。
どれも名も知らぬ花ばかりなのに、どこか懐かしい香りを運んでくる。
あまりにも美しい。
現実のものとは思えないほどに。
いや、完璧すぎるがゆえにむしろ不安が胸をざわつかせた。
「……これが、下の世界……?」
呆然と呟いた言葉は誰に届くでもなく泉の水面へと吸い込まれていった。
たしかに俺は異界樹を通ってきた。
ようやくたどり着いた唯一の道。
だが、想像していたものとはあまりに違う。
俺が思い描いていた下の世界は、荒廃と暴力に支配された地獄だった。
だが目の前に広がるのは、まるで楽園のような景色だった。
立ち上がり、よろめきながら泉へと近づく。
そっと手を伸ばし、水をすくって口元に運ぶ。
「……冷たい」
それは確かに現実の感触だった。
澄んだ冷たさが喉の奥まで染み渡っていく。
「ルナ……イヴァン……本当にここにいるのか……?」
返ってくるのは風の音だけだった。
俺は立ち上がり周囲を見渡した。
そして背後に気配を感じて振り向く。
「……なんだ、あれは……」
そこにあったのは空を突き破るようにそびえ立つ一本の巨木だった。
根は大地を覆うように広がり、幹は複数の巨木が絡み合ったかのように太い。
枝は遥か高くまで伸び、幾千もの葉が風に揺れていた。
異界樹――
だが俺が知っているものとは明らかに異なっている。
「これが……下の世界の異界樹……?」
ザァァァ……
草を揺らす風の音だけが遠くから届いた。
人の気配はない。
鳥の声もない。
虫の羽音すら聞こえない。
まるでこの地では音そのものが禁じられているかのようだった。
異様な静寂が、この楽園のような景色に決定的な違和感を与えていた。
多分これは異界樹が創り出した森だ。
直感がそう警鐘を鳴らしていた。
この美しさは本物ではなく、何かの結界か幻のように思えた。
やがて俺は泉から離れ、森の奥へと足を進めた。
振り返れば異界樹が泉のほとりに静かに根を下ろしている。
悠久の時を見守る古の存在のようだった。
そして森を進みながら、胸の奥に小さな不安がざわめく。
ここまでの道を異界樹は拒まなかった。
まるで最初から俺の通過を認めていたかのように。
(王家の血が流れていない俺が生きて下の世界まで辿り着けた理由――それはやっぱり、俺に精霊の力があるからなのか……)
証拠はない。
確かめる術もない。
だが、ウェルシュナーの言葉とあの森を抜けた事実が否応なく頭の中にこびりついていた。
(もし本当に俺が精霊の力を持っているなら……俺は一体何者なんだ……)
だが考えを途中で断ち切る。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
イヴァンとルナを助け出す。
目の前のこと以外、どうでもいい。
◇ ◇ ◇
どれほど歩いたか、時間の感覚は完全に失われていた。
空を覆う木々の隙間からかすかに漏れていた光が、ふと消えた。
森は深い影に沈み――
「……うっ……」
次の瞬間、視界の奥でまばゆい光が弾けた。
森の向こう、木々の隙間から灼けつくような陽光が一気に差し込んできた。
俺は目を細めながら一歩ずつ進んでいく。
木の幹を抜けた瞬間――
熱風が顔を叩いた。
「……な、なんだ……?」
思わず足を止める。
そこに広がっていたのは砂漠だった。
まるで景色が一瞬で塗り替えられたかのように、果てのない砂の海がどこまでも続いている。
あまりにも唐突な景色の断絶に思わず息を呑んだ。
どこまでも続く乾いた大地。
風は絶えず砂を巻き上げ、地表に細かな紋様を描いては消していく。
高く澄んだ空には一切の雲がなく、ただ一つ、太陽だけが天頂にあって容赦なく照りつけていた。
降り注ぐ光は容赦も遠慮もなく肌に刺さるようだった。
乾ききった地面には影一つない。
首筋が焼けるように熱く、息をするだけで意識が遠のきそうになる。
「なんだよ……これ……マジかよ……」
さっきまで確かに森の中にいた。
緑の葉と花の香りに囲まれ、水の冷たさに安堵していたはずなのに。
ありえない。
そう思った瞬間、俺は反射的に振り返っていた。
しかし、そこにはもう何もなかった。
木々も、花も、あの美しい泉すらも消え去り、ただ果てのない砂の海がどこまでも広がっているだけだった。
「おい……嘘だろ……? 森が……消えてる……?」
呆然と呟いた言葉が熱を含んだ風にさらわれていく。
そこには俺が通ってきたはずの景色を裏付ける痕跡すらなかった。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
(……異界樹が俺をここに導いたのか?でもなんでこんな何もない場所に……?)
唇を噛み、乾いた砂の上で拳を握りしめた。
皮膚がひりつく。
だが、そんな痛みが苛立ちを別の感覚へと押しやってくれる。
「くそっ……!」
怒りは湧いてくるのにぶつける相手はいない。
ルナを助ける。イヴァンを探す。
その一心でここまで来たというのに、待っていたのがこの焼け焦げた砂の地獄だったとは。
だが。
「……こんな所で諦めてたまるかよ……!」
踏みしめた砂の感触は頼りなかったが、それでも俺の足は前へと進んだ。
何歩進んだのかも思い出せない。
ただ、止まれば終わる――その思いだけが俺を支えていた。
太陽は容赦なく照りつけ、首筋は火照り、背中は汗に濡れていた。
息を吸うたびに喉が焼ける。
「水……」
かすれた声が自然と漏れた。
背筋に冷たいものが這い上がった。
喉の渇きとは別の、得体の知れない死の気配だった。
「……ルナ……イヴァン……待ってろよ……」
その名を口にするたびに沈みかけた意識を無理やり引き上げる。
俺は歯を食いしばり、砂漠の先を見据えた。
◇ ◇ ◇
いつの間にか太陽は頭上を過ぎ、わずかに西に傾いていた。
日差しは容赦なく肌を焼く。
もう何時間も歩いているのだろう。
腕は鉛のように重く、足の感覚もほとんど残っていない。
それでも足だけは止まらなかった。
ふと、地平線の向こうに何かが霞んで見えた。
「……あれは……?」
最初は陽炎かと思った。
だが、それは徐々に輪郭を帯びていく。
瓦礫が砂に埋もれ、崩れかけた城壁の一部が姿を現す。
強い日差しに照らされながらも、そこだけ異様な存在感を放っていた。
「……何かある……!」
意識の底に残った最後の力を搾り出すように俺は駆けた。
足はもつれ、何度も倒れかけたが、それでも歩みは止まらなかった。
やがてたどり着いた。
そこは、かつて人が生きていた痕跡を残す街だった。
だが、今はもう全てが失われている。
建物は砂に飲み込まれ、屋根を失った家々は折れた肋骨のように並んでいた。
広場らしき場所には寂しい風が砂を運び、かつて人々が暮らした痕跡だけが崩れかけたまま残されていた。
生命の匂いはどこにもない。
だが、それでも俺は――
「……ここで、休もう……」
絞り出すように呟いた声は風の中に消えた。
誰からの返答もない。
肌にひりつく風が這い、遠くで砂がさざめく音だけが耳に残る。
俺はふらつく足取りで滅びた街の中心部へと進んだ。
建物の影を選ぶように歩きながらかつて人がいた気配を探していた。
その時だった。
「……!」
足が止まる。
目の前の砂の上に何かがあった。
食べかけのパン。
そして、その傍には水筒。
どちらも風に飛ばされることなく、その場に無造作に転がっていた。
パンにはかじられた痕が残り、水筒も蓋が閉じられたままだ。
まるで誰かが慌てて置き去りにしたようだった。
ほんの数分前までここに誰かがいた。
「……まさか……?」
俺はしゃがみこみ、パンをそっと見つめた。
食べかけのまま放り出されたようなその姿に奇妙な胸騒ぎを覚える。
急に何かに追われたか、逃げざるを得なかったか理由は分からない。
だが無造作すぎる。
意図的ではない「不在」の気配が、かえってこの場所の異様さを強く浮かび上がらせていた。
「……ここで、何が……?」
誰かがいた。
それだけは確かだった。
俺は顔を上げ、廃墟に囲まれた街並みを見渡す。
どこもかしこも静まり返っていた。
人の気配は感じられない。
だが、その静けさに潜む不自然さを肌が敏感に感じ取っていた。
「……誰かいるのか?何もしない……害はない、だから……いるなら出てきてくれ」
声を張る。だが反応はない。
ただ、風の音が残るばかり。
「くそ……とにかく、水を……」
渇きは限界だった。
足は震え、喉の奥が焼けつくようだ。
俺が水筒に手を伸ばした、その瞬間。
「動くな!!」
――ピキィッ、と背筋が硬直した。
空気が一瞬で張り詰め、冷たく鋭い声が耳を突いた。
人の声だ。
しかも明らかに敵意に満ちている。
俺はゆっくりと手を止め、恐る恐る後ろを振り返る。
「両手を挙げろ……ゆっくりだ……!」
視線の先、崩れた建物の陰から一人の男が姿を現す。
若く見えるが、瞳は鋭く、殺気を露わにしていた。
片手には傷だらけのサバイバルナイフ。
日焼けした肌。
乾いた空気にまみれた服、この地で生き延びてきた人間の姿だった。
「な、なんだよ……!」
頭が真っ白になり、思わず叫んでいた。
俺は両手を上げたまま状況を呑み込めずに立ち尽くす。
「避難民じゃないな。お前、どこから来た?」
「……俺は……ただの旅人だ。水を飲もうとしただけなんだ……」
「嘘をつくな!!」
男が怒鳴った。
その声は乾いた空気の中で響き、やけに鋭く心に突き刺さる。
「そんな綺麗な格好で旅してる奴がいるかよ!ここに来るような奴なんて、もう誰もいねぇんだぞ!お前……どこの王国の人間だ?」
「だから違うって!俺は――!」
説明を試みたその瞬間だった。
ピィーーーー!!
男が鋭く口笛を吹いた。
その音が空気を裂いた次の瞬間――
――ザッ……ザザッ……ザザザッ!
砂の中、瓦礫の陰、崩れかけた建物の隙間、誰もいないと思っていた街のあらゆる場所から気配が次々と溢れ出した。
「……なんだよ……嘘だろ……?」
目を凝らす。
十人――数えて間違いない。
人影が瓦礫の間からゆっくりと浮かび上がってくる。
全員がボロボロの服を身に纏い、手にはそれぞれ武器を握っていた。
鉄パイプやさびたナイフ、板切れに釘を打ちつけた即席のものもあれば斧のような本格的な武器を持つ者もいる。
しかも数人は両手を俺に向けて構えていた。
掌に集中する気配、魔力だ。
(魔法を使うつもりか……!?)
汗が背中を伝う。
逃げ道はない。
完全に囲まれていた。
しかも敵意は明らかで、単なる疑いや警戒ではなく生き延びるために敵を排除しようとする者たちの目だった。
(……まずい。誤解されてる……!)
けれど下手に動けばその瞬間に殺される。
声を上げれば、さらなる誤解を招くだけかもしれない。
だが、黙っていても殺される。
「おい……冗談だろ……?」
絞り出すような声で呟いた俺に四方から笑い声が返ってきた。
「あ?何だこいつ……まだ子供じゃねぇか?」
「どうせ化けてんだろ。人間の皮を被って近づいてくる魔物さ。あいつらはそういうことを平気でやる」
「殺す前に一応確かめとけ。どうせ腹裂いたら中身が出てくるんだろ、こういうのは」
互いに視線を交わしながら男たちは当たり前のように会話を続けていた。
「違ぇよ!!ふざけんな!!俺は――俺は本当に人間だ!!」
叫びは震えていた。
けれど、それでも言わずにはいられなかった。
だが、囲んでいる彼らの目に宿る光は理性ではなかった。
もはや人間としての疑念や思考すら希薄で、代わりに渇きと怯えと、そして狂気がぎらついていた。
「待てって!敵じゃない!人を探してるだけなんだ!話を聞いて――」
最後まで言えなかった。
横から飛び出した男に肩を突き飛ばされ、俺は砂の上に倒れ込む。
「うわっ!」
「喋るな!」
気づけば刃が喉元に突き付けられていた。
「ずいぶんと可愛い魔物だねぇ?」
一人の女がにじり寄る。
手には割れた酒瓶。
そのガラスの破片が太陽に照らされ、血を求めるように鈍く光っていた。
砂が口に入り、咳き込みながらも叫ぶ。
「違うって……言ってんだろ……!俺は……本当に……!」
俺は反射的に身体を起こそうとする。
だが背中を踏みつけられ、顔面が砂に沈んだ。
「動くな」
「ぐっ……!」
「なら、証拠を見せろって言ってんだよ!!」
怒鳴り声が耳に突き付けられる。
「おい、こいつの血を見てみろ。人間かどうかハッキリさせろ」
「ちょ、やめろ……!やめてくれ!!触るな!」
声はもう叫びに近かった。
だが、それすら意味をなさない。
ナイフが喉元に当てられ、次の瞬間、全員が一斉に俺に飛びかかる。
無数の手が俺を押さえ込み、砂の中に体を沈めていく。
両腕、両脚が重みで動かなくなり、顔を上げることすらできなかった。
「動いたら喉を裂く。分かったか」
冷たい刃先が喉に押し付けられる。
「……やめろ!離せよ……!」
歯を食いしばっても、叫んでも、抵抗は虚しく潰された。
そして女が俺の右手を掴み、ガラスの破片で手のひらを深く切り裂いた。
「いっ……!」
鈍い痛みと共に手のひらが熱くなり、血がにじみ出すのを感じた。
女はその血をためらいなく舐めた。
そして笑いながら目を細めて言った。
「……美味しいね。こいつはちゃんとした人間の血よ」
「本当か?」
「本当。栄養もたっぷり。これは貴族の子供か、もしくは……王家の血筋かもね」
「そうか。なら……こいつは生きたまま連れていく。縄を。こいつをしっかり縛れ」
俺の両手首に粗く編まれた縄が巻き付けられ、ぎゅっと締め上げられる。
すでに血が滲んでいる手に縄の繊維が容赦なく食い込んだ。
「どうする?こいつ」
一人が呟く。
「決まってんだろ。魔導装甲車の燃料にするんだ。こいつがいりゃ早く帰れる。これ以上寄り道してる暇なんかないんだ」
「っ……何……?」
脳が一瞬で真っ白になった。
魔導装甲車の……燃料……?
「ふざけんなよ……人を……人を燃料にするなんて……!」
「ふざけてんのはお前のほうだ。ここじゃ人間だろうが魔物だろうが捕まったらまずは魔導車の動力源にされる。それが当たり前なんだよ」
男は無感情に言った。
「ほら、歩け」
縄を引かれ、俺は無理やり立たされる。
足元がふらつき、喉の渇きと痛みに朦朧としながらただ引きずられるように歩き出す。
◇ ◇ ◇
しばらく歩いた先にそれはあった。
砂漠に沈むように停車していた一台の巨大な改造車両。
それはまるで戦場を駆け抜けた戦闘要塞のような鉄の塊だった。
外装は厚さ数センチはあろうかという鋼鉄の板で覆われ、激しい衝撃を何度も受けてきたかのように無数の擦り傷や凹みが刻まれている。
タイヤは半分砂に埋もれかけているが、なおも威圧的な存在感を放っていた。
だがそれ以上に目を奪われたのは、その車両の横に繋がれていた二匹の巨大なトカゲだった。
……いや、トカゲというには、あまりに異様すぎた。
体長は三メートルを超え、鱗は黒く光沢のある岩石のように硬質で艶やか。
口元からは鋭く湾曲した牙が覗き、その姿はまるで地中の奥底から這い出したかのような原始的で冷たい殺意を湛えていた。
「ま、魔物が……!」
思わず声が漏れる。
だが、誰も驚かない。
むしろ当然のように扱っている。
……異界樹を越えた先、下の世界。
ここはもう俺の知っていたどんな常識も通じない。
生き延びるか、動力として消費されるか、人間であることすら選ばせてもらえない。
それがこの世界の当たり前だった。
異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。
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