第39話 ルナの手紙と家族の絆
放課後のチャイムが鳴り終わると同時に俺は教室を飛び出していた。
オーウェンに言われた通り、ルナが羽織れる服を取りに18時にイヴァンの家へ向かう――
気が急くのを押さえながら自宅の玄関を開け、急いで靴を脱いで中へ入った。
そしてまっすぐにルナの部屋へと向かった。
――彼女の部屋に入る事はこれまであまりなかった。
ルナの生活空間に踏み込むことにどこかためらいがあった。
彼女の雰囲気に俺は無意識のうちに一線を引いていたのかもしれない。
けれど今はそんな遠慮をしている場合じゃなかった。
俺はそっとノブに手をかけ、中へと足を踏み入れた。
そこは驚くほど整っていた。
まるで何かをきちんと整頓してから出ていったような痕跡があった。
棚に並ぶいくつかの本、小さなぬいぐるみ、カーテン越しの柔らかな光。
少女らしい可憐さがほんのりと香り立つその空間には何かを断ち切ったような気配が漂っていた。
彼女がこの場所にいたという事実さえ、どこか遠いものに感じられた。
「……服、服……上から羽織れるやつ、だよな……」
呟きながらクローゼットへと手を伸ばす。
引き戸を開けると中にはさまざまな色のワンピースやドレスが並んでいた。
中でも淡いベージュのロングカーディガンが目についたので、それを取り出しかけたその時――
ふと、机の上に置かれたノートが目に入った。
一冊の薄い、けれど使い込まれた痕のあるノート。
「……あれ?何だろう、このノート」
気になってそっと手に取ってみると表紙には名前も書かれていなかった。
ただ、中を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは見慣れない図形や記号、詠唱のような文がびっしりと綴られていた――それは魔法に関する記録だった。
「……嘘だろ。こっちの世界に来てから、こんなに……?」
ルナが魔法にそこまで熱心だったなんて正直思いもしなかった。
彼女はもともと魔法に興味がないと言っていて、むしろこっちの世界に来る前は諦めかけていたはずだった。
けれどそのノートには数式のような精密な記述と試行錯誤の跡がびっしりと残されていた。
「知らなかった。……ルナがここまで魔法に本気だったなんて。あいつ、こんなに努力してたんだな」
俺は喉の奥が詰まるような感覚を覚えながらそっとノートを閉じて元の場所に戻した。
そして改めて服を手に取って部屋を出た。
玄関の時計を見ると針はまもなく18時を指そうとしていた。
「……そろそろ行かないと」
魔導士がイヴァンをさらってから俺たちの暮らしが再び崩れ始めようとしていた。
あの時の戦いで俺たちは確かに勝ったはずだったのに―― 何一つ終わっていなかった。
次に何が起きるか分からない。
だからこそ動くしかなかった。
俺は家を出てイヴァンの家へと足を急がせた。
やがて到着したその家の前で俺はひとつ息をつき、静かにドアを開けた。
――次の瞬間、胸を突くような違和感が襲った。
中にはイヴァンの両親がいた。
リビングのソファに並んで座っていたが、その姿はいつもの穏やかな雰囲気とはかけ離れていた。
イヴァンの母は顔を両手で覆い、肩を震わせていた。
父は拳を握りしめ、俯いたまま、まるで動かない石像のように座っていた。
……何か、ただ事ではない。
「――イヴァン……まさか……」
喉の奥から言葉が漏れかけた、その時だった。
イヴァンの父がゆっくりと立ち上がった。
そして無言のまま俺の方へと歩み寄ってきた。
目は赤く、どこか遠くを見ているようだった。
そして――
一通の手紙を差し出された。
封筒は淡い桜色。
そこには丁寧な字でこう書かれていた。
――『天空へ』
差出人の名はなかったが、それを見た瞬間俺には分かった。
ルナからの手紙――それ以外には考えられなかった。
――――
天空へ
あなたがこの手紙を読んでいる頃には私はもうオーウェンと一緒に下の世界にいるはずです。
何も言わずにいなくなって本当にごめんなさい。
でも、どうしても伝えたくてこの手紙を書いています。
私はあなたに会えて本当に良かった。
初めて会った日のことを覚えてる?
あなたはとても勇敢で、私には到底できない事を次々と成し遂げていた。
初めて見る魔物に立ち向かい、どんな状況でも決して諦めない。
そんな姿を見て私は驚いてばかりだった。
そしてあなたに憧れたんだよ。
こんなにも強くて、まっすぐな人がいるんだって。
そんなあなたのそばにいられた私は、本当に幸せだった。
こっちの世界に来てから、たくさんの初めてに出会ったよ。
初めてショッピングモールに入った時はあまりの広さに驚いて、どこを見たらいいのかわからなかった。
リサイクルショップでは誰かが大切にしていたものが、まるで私を待っている感じがして、なんだか心が温かくなったんだよ。
美味しいものもたくさん食べたよ。
初めて飲んだジュースの甘さに驚いたし、下の世界では見た事もない料理の見た目にビックリしたけど凄く美味くて感動したよ。
屋台で食べた焼きそば、あの時の事もずっと覚えてるよ。
天空は食べなかったけど、あの味は絶対に食べなきゃもったいないよ。
これからも、笑って、おしゃべりしながら、もっと美味しい物を一緒に食べられたらって。
どれだけ楽しかっただろうって、ずっと思ってる。
でも、イヴァンが下の世界にいる私の父に囚われてしまいました。
そしてその原因は私がこの世界に来たことにあるんです。
本来なら何の関わりもなかったはずの場所に、イヴァンは巻き込まれてしまった。
もし、あの夜……私がこの世界に来ていなければ、彼はきっとこんな目に遭うことはなかった。
これは私の責任です。私の過ちです。
だから、私は戻らなくてはなりません。
オーウェンと一緒に必ずイヴァンを助け出します。
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、私は絶対に諦めない。
この手でイヴァンを連れて帰ります。約束します。
どうか信じていてほしい。
私が必ず彼を取り戻すという事を。
ねえ、天空。
あなたと過ごした時間は私の人生の中で一番温かくて一番輝いていたよ。
私の心にずっと残り続ける大切な宝物。
あなたが傍にいてくれたから、私はここまで歩いてこられた。
どんなに不安でも、どんなに怖くても、あなたの言葉が私を前に進ませてくれた。
あなたの優しさが、あなたの強さが、あなたのまっすぐな瞳が私を救ってくれた。
だから本当にありがとう。
本当はね、下の世界に戻りたくなかったんだよ。
あなたともっと一緒にいたかった。
もっとたくさん話したかったし、もっとたくさん笑いたかった。
でも、私は行かなければいけない。
天空の大切な人を取り戻すために、前に進まなきゃいけない。
だから、お願い。
私を探さないで。
そして絶対に下の世界には来ないでください。
私はきっとイヴァンと一緒に戻ります。
その時は、何も言わずにまたいつものように笑ってくれたら嬉しいな。
天空、あなたに出会えて本当に良かった。
あなたがいてくれたから私はここまで来られた。
どれだけ時間が経っても、どれだけ離れていても、私はずっとあなたの事を忘れないよ。
どうか、あなたも私の事を忘れないでいてくれたら嬉しいです。
ありがとう、天空。
心から、あなたに出会えた事に感謝しています。
ルナより
――――
手紙を読み終えても俺はその場から動けなかった。
ルナの文字は確かに目の前にあるのに、その言葉が現実として胸に降りてこない。
感情だけが深くどん底に沈んでいくようだった。
時間が止まったような感覚の中で俺はただ紙を見つめたまま、何も考えられずに立ち尽くしていた。
やがて、わずかに震える指先で手紙を握りしめる。
涙が頬を伝い、紙面を静かに滲ませていく。
「……ルナ……どうして……どうして俺に何も言わないで行っちゃったんだよ……」
言葉が唇からこぼれ落ちた時、俺の体はゆっくりと力を失い、イヴァンの家の床に座り込んでいた。
握った手紙はくしゃりと形を歪め、涙で濡れた指先がやけに冷たく感じられた。
胸の奥を締めつけるような痛みに耐えきれず、思わず顔を覆う。
こらえようとしても嗚咽が喉の奥から漏れ出し、肩が小刻みに震えた。
「ルナ……バカ野郎……!」
呼吸は乱れ、胸の奥でせき止められた感情が噴き出してくるようだった。
静かだった部屋が涙と嗚咽の音で満たされていく。
何故、何も言わずに……どうして、手紙なんかで……。
そんな俺の目の前から押し殺したような低い声が落ちてきた。
「……イヴァンには王家の血が流れていた。だから――あいつは下の世界へ連れて行かれた」
その声に思わず顔を上げる。
そこにはイヴァンの父が立っていた。
険しく沈んだ表情。
目の奥に失われたものへの痛みが滲んでいた。
けれど、その言葉の意味がすぐには掴めなかった。
「……そんな……どうして……?」
俺のかすれた問いにイヴァンの父は手にした一通の手紙を差し出すように見せた。
「――オーウェンは昨日の午後と今日、どちらもイヴァンに検査があると言って、俺たち家族の面会を断ってきた――そう、俺たちに嘘をついていたんだ。だが……」
イヴァンの父は手にした手紙をそっと持ち上げ、目を伏せたまま語り始めた。
「……この手紙によれば……イヴァンは昨日のうちにすでに連れて行かれていたらしい」
重い沈黙が落ちた。
胸の内に波紋のように広がっていく言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
「それだけじゃない」
イヴァンの父は一度言葉を切り、目を細めた。
「オーウェン自身も王家の血を引いているようだ……イヴァンを下の世界に連れて行った魔導士は王家の血を使って調合した薬を下の世界の王から褒美として受け取った。それを最後の取引とし、以後我々には一切関与しないと約束した――そう手紙には書かれていた」
声の奥に言葉にしようのない憤りがわずかに滲んでいた。
数秒の沈黙の後、彼は手紙の末尾に触れるように視線を落とした。
「……だが、オーウェンはまだそれだけでは終わらせなかった」
そう言って彼は目を細め、手紙の末尾を指先で軽くなぞった。
「――あいつはルナちゃんを下の世界に連れて行くという条件で魔導士に頼み込み、この世界と下の世界を繋ぐ異界樹の門……その閉鎖を一日延ばしてもらったと書かれている」
彼は書かれた文字をしばし見つめ、ひと息ついてから目を閉じた。
「……オーウェンとルナちゃんは――今日の夕方まではこの家にいたようだ。母さんが見かけたらしい。つまり、あいつらが向こうの世界に渡ったのは今日。門が閉じる前のギリギリの時間まで準備して動いたということになる」
ゆっくりと視線を上げた彼の目は、静かに決意をたたえていた。
「その延ばしてもらった一日が今日のうちという意味なら――まだ間に合う。向こう側へ渡る道は、まだ閉じてはいないはずだ」
彼の声には迷いがなかった。
既に決意が固まっているのが分かった。
その覚悟を裏づけるように彼は戦闘用の軍服に身を包み、ベルトに装備を整え、拳銃の弾倉を丁寧に確認している。
その手の動きに父親としての想いと兵士としての冷静さが滲んでいた。
彼の装備はもはやただの父親のものではなかった。
次の瞬間、俺の口から言葉がこぼれた。
「まさか……まさかエドワードさんも……行くつもりなのか……?」
胸が締めつけられる。
言葉にならない焦燥が、息を詰まらせるほどに込み上げてきた。
「天空……そうやって俺を名で呼んでくれるとはな……だが、俺にも王家の血が流れている可能性が高い。だから父親として二人を助けに行く。それが親の責任だ」
「嫌だ……!そんなの、俺が許すわけないだろ……!」
叫んだ瞬間、手が震えた。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
両親だけじゃない。ルナも、イヴァンも、そして今度はエドワードさんまでも――。
大切な人たちが自分の目の前から次々と消えていく。
つい昨日まで交わしていた言葉や、他愛もないやり取り、笑い合った時間――あれはすべて幻だったのかと錯覚するほど遠く感じられた。
「どうして……どうしてみんな俺を置いていくんだよ……!」
掠れた声は押し殺した悲鳴のようだった。
それでもエドワードは穏やかなまなざしで俺を見ていた。
「天空……お前はここに残るべきだ。お前には王家の血が流れていない。だからお前が下の世界に行く事はできない。これは……俺の家族の運命なのかもしれないんだ」
「何が運命だ……そんな運命、ふざけるなよ……!」
悔しさが喉を焼いた。
拳を握ってもどうすることもできない無力感だけが残った。
それでも彼の眼差しは微動だにしなかった。
父としてすべてを受け止め、すべてを理解している者のまなざしだった。
「天空……信じて待っていてくれ。俺は父親として――必ず家族を連れて帰る。ルナちゃんも……イヴァンも、必ずだ」
「駄目だ!絶対に行かせない!あんたは……あんたは俺の父親でもあるんだぞ!」
言葉にならない叫びだった。
胸の奥からこみ上げる感情が抑えきれず、気づけば俺はエドワードにしがみついていた。
「行かないで……お願い……!」
絞り出すような声。
震える指先。
だが、彼はゆっくりと息を吐き、優しく、それでいて決然とした力強さで俺の肩を掴んだ。
「……すまんな、天空」
次の瞬間エドワードが俺の首元に重い手刀を振り下ろした。
鋭い衝撃が首筋に走り、視界がぐにゃりと歪み、意識が急速に遠のいていく――。
「許してくれ……」
最後に聞こえたのは、彼の静かな声だった。
◇
「あなた……なんて事を……」
イヴァンの母の震える声が響く。
その眼は驚愕と、そして母としての痛みに満ちていた。
「……うちの息子たちが危険な場所へ連れて行かれたというのに、天空までも失うわけにはいかない。だから頼む……俺たちが戻るまで、天空を見ていてくれ」
エドワードの瞳には兵士としての冷静さと、父としての切実な想いが宿っていた。
「……分かりました。あなた、必ず息子たちと……ルナちゃんを連れて帰ってくださいね……」
その声は震えていたが、確かに信じていた。
信じるしかなかった。
彼が、必ず子どもたちを取り戻して帰ってくると。
「待っていてくれ。必ずみんなを連れて帰る」
そう言い残し、エドワードは玄関の扉を開き、夜の闇へと消えていった。
◇
どれほどの時間が経ったのか分からない。
ゆっくりとまぶたを開けると薄暗い天井が滲むように視界に浮かんだ。
重たい頭を横に傾けると、ぼやけていた視界が少しずつ形を取り戻していく。
「……ここは……」
イヴァンの家の一室――あのまま気を失っていたらしい。
「そうだ……エドワードさんは……?」
起き上がった俺の前にイヴァンの母がいた。
その顔には安堵と困惑、そして心配が入り混じった表情が浮かんでいた。
「もう……出ていきましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸に鈍い痛みが走った。
駄目だ……。止めたかったのに、あの人まで行かせてしまった――!
間に合うはずだったのに、俺は……!
「今何時だ……!」
見回した視線が机の上の時計に留まる。
秒針が無情にも動き続けるその盤面に、針は――九時を指していた。
まだ間に合う。
異界樹の門が閉じるのが今日いっぱいなら――まだ、あと数時間はあるはずだ。
急げ!今すぐ異界樹へ――!
「天ちゃん……どうするつもりなの?」
イヴァンの母の問いかけに返事はしなかった。
思考はただ一点に集中していた。
家に戻って、自転車を出す。
異界樹がある妖霧の山までは飛ばせば三十分で行ける――!
俺は家に戻り、躊躇なく自転車を引き出した。
ペダルを踏み込む。
この速度でも足りない。もっと、もっと速く――!
夜風が容赦なく頬を打つ。
けれど、頭の中はそれよりもっと騒がしかった。
イヴァンのこと。
ルナのこと。
俺だけが持たなかった王家の血の意味――
ぐちゃぐちゃになった思考が頭を満たし、息をするのも忘れそうだった。
だが、そのすべてを押し込めて俺は走る。
怖い?迷ってる?……違う。
そんなもの、あいつらのいない明日よりはずっとマシだ。
だからここで足を止めるわけにはいかない。
必ず間に合う。
あの扉が閉ざされる前に――。
◇ ◇ ◇
周囲の景色が少しずつその表情を変え始めていた。
街灯が消えた暗がりの道。
次第にアスファルトは土に変わり、舗装のない山道が足元に伸びていく。
夜の静けさが支配する山肌を風が這うように吹き抜け、木々をざわめかせる。
そのざわめきすらまるで何かを警告するような不吉な響きに聞こえた。
やがて俺は山の中腹――妖霧の山の入り口へと辿り着いた。
「おい……出てこい!土のゴーレム!俺を異界樹まで案内しろ、早く……!」
息を切らしながら声を張り上げる。
すると微かに地鳴りが響き、地面がずんと鈍く揺れた。
その振動の中で大地が盛り上がり、重々しい音を立てて巨大な影が姿を現わす。
全身を岩の甲殻で覆ったような巨大な影――土のゴーレムだった。
だがその瞬間――
不意に霧の奥からぞわりとした空気が這い寄ってきた。
ぬるりとした悪意を孕んだ気配。
そして冷たい声が夜闇に滑り出す。
「おやおや……誰かと思えば、死にぞこないの子供ではありませんか」
声に混じる嘲笑は薄暗い霧よりも濁っていた。
言葉は軽いが、その奥には――確かな殺意が潜んでいた。
「……エドワードさんをどうした?」
俺は思わず息を詰め、目の前の霧の中を睨みつける。
やがてその声の主――あの魔導士が靄の帳を裂いて姿を現わした。
紫のローブに身を包み、長くねじれた杖を手にした男は口元に冷笑を浮かべながら言った。
「エドワード?ああ、あの偽りの王のことですか。彼ならすでに下の世界へ行かれましたよ。ええ、しっかりと異界樹の門を越えて」
「てめぇ……!」
怒りが沸騰し、拳が震える。
だけど魔導士はまるでそれを楽しむかのようにゆっくりと話を続けた。
「ですが……いやあ、これは面白い展開になりましたね。偽りの王と偽りの王子が揃って下の世界に行った。ほっほっほ……お城は今頃どれほど騒がしいことでしょう」
怒りが喉元を灼き、叫びが漏れ出そうになる。
「だったら……だったら俺も連れて行け!俺も、ルナたちを迎えに行かなきゃなんねぇんだよ!」
だが魔導士は鼻で笑い、冷たく言い捨てた。
「あなたは王家の血を引いていないでしょう。それは不可能です」
そう言うと彼はゆっくりと懐から一本の小瓶を取り出した。
透明なガラスの内側で赤黒く濁った液体が鈍く光り、ゆらりと揺れている。
「……ですが」
その言葉のあと彼は瓶を指先で弄びながら、にやりと笑った。
「この中に入っているのは王家の血を使って作られた薬です。もしあなたがこれを飲めば、下の世界へと足を踏み入れる資格を得られるかもしれません」
目を見開いた。
それさえあれば……それを飲めば、俺も――!
「おい、それをよこせ!」
思わず一歩踏み出した瞬間だった。
魔導士は僅かに首を傾げ、あっさりとした声で言った。
「……いいでしょう」
「……な、なに……?」
あまりにもあっけない返答に、踏み出しかけた足が凍りついたように止まった。
だが――
「ストロビ アネモス」
その呟きと同時に辺りが風で引き裂かれた。
轟音。
暴風。
地面を這うように吹き荒れた突風が目の前の土のゴーレムを一瞬で飲み込み――
巨体は無惨にも宙に巻き上げられ、土の塊が砕け散り、大地に叩きつけられる。
「な……何をするつもりだ!?」
声を張り上げた俺の前で魔導士は余裕たっぷりに笑んだ。
「これで妖霧の山を案内する者はいなくなりました」
風が止み、森に再び静けさが戻る。
だがその静寂は死を予感させる底冷えのようだった。
「あなたがこの霧の森を抜けて自力で異界樹に辿り着いたなら――その時は、この血を差し上げましょう。そして下の世界へ送って差し上げます」
霧の向こうへと身を翻す魔導士の背中が最後に振り返る。
「さあ、もがいてごらんなさい。絶望という霧の中で、入ることすら罪になるその道を……あなたは本当に、進めるのですか?」
挑発的な微笑を浮かべながら魔導士は深い霧の奥へと溶けていった。
「……くそっ!!」
土のゴーレムも消えた。
道案内はもういない。
目の前に広がるのは、深く、濃く、沈黙を孕んだ霧の海。
この先どこに道があるのか分からない。
一歩踏み出せば命を失うかもしれない。
だけど。
――イヴァン、ルナ、待ってろよ。
俺は足元を踏みしめた。
引き返すことなんてできるわけがない。
何があっても絶対に迎えに行く。
目を閉じて深く呼吸をひとつ。
そして俺は恐れも迷いもすべて飲み込んだまま、濁流のような霧の中へと踏み込んだ。
異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。
ここから世界一面白いストーリーが展開していきます。
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