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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第一章

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第40話 終わりなき森と魔導士の魔法

俺は暗闇の中をただひたすら走っていた。

枝葉が垂れ下がり、雨に濡れて重みを増した森の奥を行き場のない思いを引きずるように濃密な木立の隙間を縫って進んでいた。

もはや方向なんて分からなかった。

だけどとにかく真っ直ぐ進むしかないと思っていた。


いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。

しとしとと地面を打つ細い雨脚が頬を叩き、濡れた前髪を肌に貼りつける。

足元はぬかるんだ土に滑り、靴底は粘ついた泥に重さを奪われていた。


前にこの森を歩いた時よりも霧が明らかに濃くなっていた。

そう感じたのはただの錯覚ではない。

森全体が呼吸を止め、見えない意志で進路を塞いでいるかのようだった。

敵意というよりも、拒絶――生きている者の存在そのものを拒む、静かで重たい圧力だった。


視界はぼやけ、何を見ても灰色の靄と漆黒の樹皮しかない。

風もない。

鳥も鳴かない。

生き物の気配が消えた森の中で、聞こえるのは自分の荒い息遣いだけだった。


「はぁ、はぁ……イヴァン、ルナ……!今、行くからな……絶対に助けてやる……!」


胸の奥から吐き出した叫びは重たい霧の壁にぶつかって反響すらせずに消えた。

音も、想いも、何もかも吸い込んでいくこの森の深部で俺はひとりだった。

だが、どこまで走っても出口なんて見えやしない。


喉は焼けつくように乾き、肺が裂けるように痛んだ。

それでも足を止めるわけにはいかなくて、だけど体力の限界が目前に迫っていた。


「……ちくしょう、俺はこんなところで……置いてけぼりなのかよ……!」


とうとう足が止まり、俺はその場で膝をついた。

雨は容赦なく降り続け、体温を奪い、心の芯まで濡らしてくる。

悔しさと情けなさで指が勝手に震えた。


何度も魔物に負けた。

何度も罠に嵌まり、そのたびに誰かに助けられた。

それでも結局守れなかった。

ルナだけじゃない。

イヴァンも、オーウェンも、エドワードさんまでも俺の前から姿を消してしまった。


全部……俺が弱いからだ。

俺があの時もっと強ければ。

俺が誰より先に立ち向かう覚悟さえ持っていたら。

そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと締まり、息を呑んだまま言葉を呑み込んだ。


……それでも諦めるわけにはいかない。

走れなくてもいい。

歩けるならそれでいい。

歩けなくなったら立ち止まって、また歩き出せばいい。


雨音だけが森に響いていた。

ぽつぽつと、ぽたぽたと、規則もなく落ちる雨が不思議と荒れた心を鎮めていく。

焦りは薄れ、呼吸がゆっくりと整っていった。


……もう一歩ずつ進もう。

考えるな。

ただ、前へ。


そう思いながら足を出すと急に森の音が変わった気がした。

気のせいか、いや、違う。

足音を包む土の感触。

枝葉のざわめき。

霧の流れる気配。

これまで拒絶するばかりだった森の気配が、わずかに和らいだように感じられた。


歩きながら頭に浮かんだのは、やっぱりルナのことだった。

イヴァンのことも。

オーウェン、エドワードさん、そして……父さんと母さんの顔も。


気づけば、喉の奥から一筋の旋律がこぼれていた。

それは子どもの頃に母が優しく口ずさんでくれたあの子守唄。


『そよ風がそっと葉を揺らし――月の光は眠り誘う……、森の奥の大きな木――不思議な扉が開くよ……』


ただ、声が自然と流れ出ていた。

俺がまだ小さかった頃、眠れない夜に母が聞かせてくれた懐かしい旋律。

その温もりが胸の奥で鮮やかに蘇る。


『木々のささやき静かに響き――優しき風がそっと包む……、精霊たちと夢の国へ……』


理由もわからず口をついて出るその歌は、まるで森の精霊たちが導いてくれているかのようだった。

足元を包んでいた冷たい霧がふわりと薄れていく。


深い闇と霧に惑わされていた足取りがいつしか真っ直ぐに伸びていた。

誰かの手に導かれるかのように、そして気がつくと目の前にはぽっかりと森の出口が広がっていた。


そこは果てしなく続いていた森の終わりだった。

一面を覆っていた霧がすっと消え、草が風に揺れる広い丘陵が眼前に広がる。

中央には空と地を貫くようにそびえ立つ一本の巨大な樹。


異界樹。


「……あれ……?」


ぽつりと漏れた独り言が夜の空気に吸い込まれていった。


気がつくと俺の足元にはもうぬかるんだ土も、霧の渦巻く暗黒の森もなかった。

あれだけ深く出口の見えなかった森。

そのはずの場所はいつの間にか俺の背後へと遠ざかっていた。

自分がどうやってここに辿り着いたのか全く分からない。

気づけば開けた丘陵に立ち、星空の下で風を受けていた。

記憶も感覚も、霧の中に忘れてきたようにぼんやりとしていた。


でもそんな疑問はすぐに霧散した。

――どうでもよかった。

大事なのは今こうして俺がここにいるという事実だけだ。

イヴァンとルナを助けに行ける。

この足でようやく本当に彼らの元へ。


胸の奥で何か熱いものがぱちりと弾けた。

歓喜にはまだ届かないが、ようやく手が届くかもしれない。

そんな微かな希望の灯がともった。

抑えきれない衝動に突き動かされ、俺は駆け出す。

気づけば雨は止み、空には無数の星が広がっていた。


黒い空に溶け込む光の海を背に、異界樹は荘厳な輝きを放っている。

月明かりが降り注ぎ、幹の表皮に淡い銀の光を添えていた。

神聖さのなかに遠い面影すら映すような光。

胸の奥を衝いたその姿に気づけば声が漏れていた。

それは俺自身をこの場に刻みつけるような、強く揺るがぬ叫び。


「おい!森を抜けて異界樹まで来てやったぞ!さっさと俺を下の世界に連れて行け!」


闇が返事をした。

月明かりの影からひとつの人影が現れる。

紫のローブを纏ったあの魔導士だった。


彼は驚きに満ちた目でこちらを凝視していた。

その視線は信じられないものを見たかのように揺れていた。


「……な、なぜ……?人間が精霊の導き無しに、あの森を通り抜けられるなど……それは……不可能なはず……!」


幻を見ているような焦点の定まらない目だった。

魔導士はしばらく言葉を失っていたが、やがて何かに納得するようにゆっくりと頷いた。

そして独りごとのように静かに呟く。


「……なるほど。土の精霊の残滓が導いたか、それとも別の精霊の介入か……。まあ、どちらでも構いません。どう足掻こうと結末に違いはありませんからね」


そして顔を上げる。

その口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいた。


「ほっほっほ……まさか本当にあの森を抜けてこられるとは。奇跡――いや、悪運が強いと言うべきでしょうか」


「いいから王家の血の瓶をよこせ!俺はルナとイヴァンを助けに行くんだよ!」


俺は苛立ちを隠さずに怒鳴った。

だが魔導士はその反応に対して意外にも穏やかだった。

ひとつ、ため息にも似た息を吐き、わずかに考え込むような素振りを見せた。

そしてふっと肩を揺らして言った。


「……それはできませんよ」


「……は?なんだって?」


言葉の意味が理解できずに脳が拒否する。

心が数秒、思考を止めていた。


「私は最初からあなたを下の世界に送るつもりなどありませんでしたので」


「なっ――」


心臓を鷲掴みにされるような衝撃だった。

頭の中が真っ白になった。


だが、魔導士はすでに動いていた。

その手に持った杖を高々と掲げ、月明かりの中で静かに詠唱を始める。


「渦めけ、天焦がす風の咆哮よ――契約によりて我が呪に従え、破滅の核よ現れよ……ストロビ アネモス」


その言葉が終わると同時に空気が轟いた。

俺の周囲で風がうねり、突風が旋回し始めた。

圧縮された風の塊が一気に爆ぜ、渦となって牙を剥く。


あれは、森の入口で土のゴーレムを木っ端微塵にした魔法――!


「てめえ……!絶対に許さねえからな!」


俺は咄嗟に身構え、全身に力を込めた。

飛び交う破片と風圧の中で意識を一点に集中させる。


竜巻が唸りを上げて襲い来る。

地面の草が千切れ、石が弾ける。

鋭利な風の刃が肌を裂き、骨を砕かんと押し寄せるその刹那。


「うおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!!!」


風圧に削がれた意識を俺は喰らいつくように繋ぎ止めた。

渾身の拳に込めたのは悔しさも、怒りも、無力さも、そして希望も俺の全部だ。

こんなところで止まれない――止まってたまるか。


「インフィニット デストラクション パンチ!!」


衝撃が夜を裂いた。


拳から放たれた波動が空間を抉り、疾風《しっぷう》の核を粉砕する。

真空の歪みが弾け、炸裂音と共に竜巻が崩れ落ちた。

爆風が周囲へと吹き荒れ、近くの木々が根元からへし折れて宙を舞う。

土煙が立ち込め、地鳴りのような衝撃が辺りを震わせた。


「なんだと……!」


魔導士の喉から漏れたのは、明らかな驚愕だった。


「てめえの好きにはさせねぇ!」


怒声とともに俺は地を蹴った。

爆風の土煙の向こうにようやく魔導士の姿が浮かび上がった。

だが、その顔には激しい怒りが宿っていた。

明らかに苛立っていた。

俺がここまで来たことも、竜巻を打ち砕いたことも、魔導士にとっては想定外だったのだろう。


「……やはり、少しはお強いようですね。それなら全てを燃やし尽くすまでのこと!」


そう呟いた次の瞬間、魔導士は杖を高く掲げ、鋭く詠唱した。


「ランベリ フローガ!」


シュウウウ――と空気が焼ける音と共に杖の先から迸るように炎が放たれる。

胸がざわつき、心がざわめいた。


(……あれは、まさか、ルナの魔法……!)


頭をよぎったのは彼女の姿。

ルナと初めて出会った日、彼女が炎の魔法を放った時の記憶だ。

けれど感傷に浸っている暇はない。


「ぐっ……!」


俺は反射的に横に跳び、身体を強引に捻って炎を回避した。

灼熱の波がかすめ、背中に焼けるような痛みが走る。

炎はそのまま背後の草地を焼き払い、地面に黒い焼け跡を残した。


「ランベリ フローガ!」


魔導士は畳みかけるように再び詠唱した。

だが、もう見切っている。


「炎の魔法なら知ってる……だけどそんな炎じゃ何度撃とうが意味ねぇんだよ!」


俺は風を裂く勢いで駆け出し、二発目の炎をギリギリでくぐる。

地面に片膝をつくほど低く体勢を落とし、炎の隙間を潜るように前へ――!


「うおおおおおぉぉぉ!!」


怒りと闘志を拳に込め、一気に間合いを詰めて再び拳を振りかぶった。


「今度はてめぇがくらいやがれ――インフィニット デストラクション パンチ!!」


咆哮と共に振り下ろされた拳が空気ごと裂き割るような衝撃波を生み出した。

大地がうねり、月明かりの下で爆ぜるように砂煙が舞った。


だが。


「……!消えた!?」


拳は空を切った。


次の瞬間、魔導士の姿が煙の中に溶けるように掻き消えていった。

霧に紛れるかのように、一瞬にして。


「転移魔法か……!」


俺は息を呑みつつ反射的に背後を振り返った。


案の定、背後に現れていた。

魔導士がその手を高く掲げている。


「デスメフシ クレオス……!」


その声が淡々と終わりを迎えた瞬間、魔力が地を走った。

足元に光が渦巻く。

瞬く間に魔法陣が展開され、冷たい紫の光が辺りを満たす。

複雑な紋章が浮かび上がり、俺の体を包囲しようと広がっていく。


「この魔法陣……!」


思い出すのは映画館の牢獄――あの時イヴァンとルナを捕らえたのと同じ魔法陣。

ならば!


「させるかぁぁぁ!」


俺は完成寸前の魔法陣から跳び退いた。

跳躍し、横に滑り込み、空中で体勢を整え、着地すると同時に再び跳躍する。

地面に残った魔法陣は俺の不在を確認するようにゆっくりと崩れ落ち、儚く消えた。


「やっぱりな。てめぇ!最初から罠を準備してなきゃ何も出来ねぇんじゃねぇかよ!」


そう吐き捨てると、魔導士の眉がぴくりと動いた。


「……まさか、あなたがここまで戦えるとは。少々、侮っていたようですね」


「それだけじゃねぇだろ。俺がここに来る事がそもそも想定外だったんだろ?」


挑発気味に言い返すと魔導士の目が僅かに揺れた。

その沈黙が答えだった。

俺は確信する。


(こいつは俺の到着を計算に入れていなかった。だからこそ攻撃が単調で余裕がない。魔法陣も罠も準備されたものは何ひとつなかった。あの映画館で見せた用意周到さが今はまるで感じられない)


「……どうやら図星みてぇだな。悪いな、俺は諦めが悪くてよ」


そう言いながら俺は足を開いて低く構えた。

次の一手に備える。


「俺だって限界なんだよ。でもな、ここまで来て負ける気はねぇ。倒れるのはてめぇが先だ!」


俺の宣言に魔導士はわずかに眉を寄せ、怒気を隠そうともしない表情でこちらを見据えていた。

しかしその怒りは長くは続かず、ふいに彼の目から火が消え、言葉を紡いだ。


「……どうやらこのままでは私はいずれ負けてしまうようですね。……私の負けです」


その落ち着いた声に、一瞬、俺の動きが止まった。


「分かってるんだったら、さっさと王家の血の瓶をこっちに渡しな」


そう言いながら一歩踏み出す。

だが、どこかおかしい。

魔導士の態度が諦めた者のそれではなかった。


「……わかりました」


静かに頷くとローブの中から銀色に輝く小瓶を取り出した。

薄いガラスの中で赤黒い液体が妖しく揺らめいている。

それは間違いなく王家の血だ。

しかし、その瞬間。


「これをあなたに渡すわけが無いでしょう」


突如として鋭い声が空気を裂いた。


「……なっ――」


言い終える間もなく、魔導士は瓶の蓋を素早く外し、その中身を一滴残さず喉へと流し込んだ。

俺の目の前で王家の血は全て魔導士の体内へと呑み込まれた。


「てめぇ……、何してやがる!!」


怒声と共に駆け出そうとした俺の動きを目の前の異変が阻んだ。

魔導士の身体が異様に膨れ上がり、骨と肉が音を立てて軋む。

ねじれ、歪み、禍々しい生き物の輪郭が形を成していく。

だがその醜悪な変化は刹那で終わった。

次の瞬間には美しさと恐ろしさを同時に孕んだ青年の姿へと収束していた。

美しくも無機質な冷たい白肌。

銀の髪が冷たい風を受けて揺れ、その瞳は鋭く深い青色で氷のように冷たく輝いていた。

その全身から恐ろしいまでに濃密な魔力の波動が放たれている。


「……ああ。理想通りの姿だ」


そう呟きながら魔導士は自らの杖を無造作に放り投げた。

もう支えも媒体も要らないとでも言わんばかりに。


「王家の血を取り込んだことで、私の魔力《マギア》と肉体は完全に融合した。今や私は神の代行者とも言える存在です」


その言葉にぞっとする。

魔法の理から外れた純粋な力の化身――そう言わんばかりの絶対感。

俺の脳裏に思わず疑問が走る。


(王家の血を……全部、飲みやがった。じゃあ、俺はどうやって……下の世界に行けばいいんだ……!?)


焦りが喉を絞めるようにこみ上げる。

だがその思考すら、奴の次の言葉で吹き飛ばされた。


「お遊びはこれで終わりだ」


言い放つや否や、魔導士は滑るように接近し、右拳を振り上げた。

振り下ろされた拳が唸りを上げ、炎の魔力が爆ぜるように弾け飛んだ。


「くっ!」


間一髪、俺は身を捻って回避する。

だが拳が掠めただけで、炎の余波が皮膚にまとわりつき、焼けつくような痛みが走った。

避けた俺に、魔導士は間髪入れず膝を突き上げてきた。

その一撃には風の魔力が乗っていた。

膝の動きに呼応するように空気が渦を巻き、螺旋状の竜巻が発生する。


「なっ……!?足が……動かない……!」


足元に生まれた小さな竜巻が脚へと巻き付き、俺の身体を宙に引きずり上げようとしていた。

バランスを崩した次の瞬間――


「ぐはっ!!」


衝撃が腹を貫き、足元の感覚は消え、天地が逆さまに揺れた。

強烈な蹴りが胴にめり込み、体が宙を舞ったのだ。


そして、全身が地面に叩きつけられる。

肺の中の空気が一気に吐き出され、風の魔力がまとわりつくように体を締め付ける。

痛みと眩暈、息苦しさ――全てが同時に襲いかかる。


視界が滲み、意識が揺らぐ。

だが俺は込み上げる痛みに抗いながら、血が滲む唇で必死に目を見開いた。


(まだ、倒れるわけにはいかない)


そんな俺を魔導士は見下ろしていた。

銀髪がゆっくりと揺れ、その口元に冷たい笑みを浮かべる。


「最後の瞬間まで、お前は私の手のひらの上にいたのだ」


嘲りのように淡々と。

だが、その言葉を聞いても、俺は負けを認めてはいなかった。

異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。

ここから世界一面白いストーリーが展開していきます。


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