第2話 学校と家族
俺は神社の境内を背にして静かに石段を下り始めた。
朝の空気はまだわずかに冷たく、そのひんやりとした感触が肌を撫でていくたびに頭の奥に張り詰めていた御神木の違和感が少しずつ解けていくような気がした。
どこか張りつめた静寂に包まれていた心に淡く透明な清涼が染み込んでいく――そんな朝だった。
「なぁ天空……自転車で学校に行くとマズいかもしれないし、うちに停めてそっから歩いて行こうぜ」
イヴァンが俺の隣で自転車のペダルに足をかけながら言った。
確かに学校では自転車通学が禁止されているからそのまま自転車で登校するわけにはいかない。
俺たちはイヴァンの家まで自転車を走らせて、そこで停めることにした。
――その時だった。
視界の端、ほんの一瞬、何かが信じられないほどの速度で横切った。
風でもなく、意志を持った何かが通り過ぎたような、そんな錯覚――いや、気配がした。
「……なあ、イヴァン。今、すごい速さで何かが通り過ぎたような気がしなかったか?」
イヴァンは眉をひそめながら少しだけ肩を傾ける。
「ん?いや……別に何も。気のせいじゃないのか?風でゴミでも飛んだんだろ」
「そうかもしれないけど……一瞬だけど明らかに何かが動いた……そんな感じがして」
「そうか?……俺には何も見えなかったし、気配も感じなかったけどな」
そう言ってイヴァンは自転車のハンドルを握り直し、前を向いた。
「気にしすぎるなよ。それにもうこんな時間だ。急がないと遅刻するぞ」
「……そうだな。行こう」
自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
だがどこか胸の奥に引っかかる違和感を拭いきれなかった。
あの一瞬の気配はただの錯覚じゃない気がした。
それでも俺は言葉にしなかった。
こんな些細なことに振り回されている場合じゃないと思ったからだ。
イヴァンの家に到着すると俺たちは自転車を降り、端にある自転車置き場へと押し込んだ。
そしてそのまま徒歩で学校へ向かった。
新学期が始まってしばらくが経つ。
今年から俺たちは中学二年生になった。
そしてありがたいことに、イヴァンとは同じクラスになった。
イヴァンは男子の中でも目立つ存在だった。
誰とでも分け隔てなく話せて常に輪の中心にいて特に女子からの人気はかなり高い。
だけどそんな彼が一途に想いを寄せているのは隣のクラスにいる詩織ちゃんただ一人だった。
とにかく純情でしかもめげない。
何度振られてもそのたびにしょんぼり落ち込んでは、また笑顔で立ち直って告白を続ける
――ある意味メンタルが強いと言うべきか……。
明るくて顔も整っていて成績もそこそこ優秀。
そういう総合得点の高い男に対して嫉妬する奴もいないではないが、イヴァンはそんな気配すら寄せつけない不思議な魅力がある。
一方の俺はと言えば――ごく普通の特に取り柄のない学生だ。
授業に真面目に出席して先生の話を聞き、昼休みには友達と何となく話をしてスマホをいじったりする。
目立ちもせず、かといって完全に地味でもない。
自分で言うのもなんだけどそういう中くらいのポジションにいるんだと思う……多分ね。
けれどそんな俺にも楽しみにしていることはあった。
今日は五時間目に体育がある。
しかも百メートル走の記録測定日――これは俺にとってちょっとした勝負の日だ。
小学生の頃からイヴァンと俺は何かと競い合ってきた。
鬼ごっこに始まり校庭での短距離走や逆上がり、跳び箱の高さ競争にまで発展したこともある。
持久走では互いに抜きつ抜かれつで張り合い、体育の測定では柔軟性や反復横跳びの回数まで本気で勝負していた。
教室に入ると周囲の視線が何となく俺たちに集まっているのに気づく。
ひそひそと交わされる声が耳に入ってきた。
「今日の天空とイヴァン、朝から気合い入ってるよな……」
「あの二人、小学校の時からずっと勝負してきたんだってさ」
「ほら、確か格闘技の大会にも出てたよね?あの有名な対決……あのふたりだったんだ」
「うそ、知らなかった。天空くんとイヴァンくんだったの……?」
俺は昔から聴力がいい。
こういう噂話は意識しなくても自然と耳に入ってきてしまう。
無視すればいいだけの話なんだけど、正直少しだけ恥ずかしい。
やがて体育の時間がやってきた。
グラウンドに並ぶと体育の先生がこちらに近づき、何かを確認するように俺たちの顔を交互に見たあと、わざわざ俺とイヴァンを最後の組に振り分けた。
――つまり、先生も俺たちの勝負を見たがっているということだろう。
イヴァンが笑みを浮かべながら俺に言った。
「天空、俺はお前だけには絶対に負けねぇ。これはガチだからな!」
俺も自然と口元が熱を帯びるのを感じながら応えた。
「当たり前だ、イヴァン。お前にだけは絶対負けない。絶対に俺が勝つ!」
スタートラインに立つ。
呼吸を整え、視界の端にイヴァンの姿を捉える。
グラウンドに射し込む午後の光が俺たちの姿を照らし出していた。
「位置について——よーい、スタート!」
号令とともに地面を蹴り、全力で走り出した。
耳元で風がうねるような音を立て、足裏から伝わる地面の反発が全身を突き抜けていく。
考える暇などなかった。
ただイヴァンと並んでゴールの先にある勝ちを目指して一直線に突き進む。
ゴールラインを駆け抜けた時は自分でも確信が持てなかった。
差は、ほんのわずか――ほとんど同時だった気がする。
「イヴァン君、10秒51」
「天空君、10秒50」
その一瞬、時間が止まったような静寂の中で俺は息を切らしながら叫んだ。
「……よっしゃああっ!!勝ったぁぁ!!」
イヴァンは信じられないという顔で俺を見ていた。
「はぁ?うそだろ!?コンマ一秒差!?俺が天空に負けるわけないだろ……」
悔しそうにうなだれる彼の背中を俺は軽く叩いた。
ほんのコンマ一秒――されど、その差が勝敗を決めた。
その後すぐに陸上部やサッカー部、野球部からの勧誘が次々にやってきた。
でもどれほど熱心に誘われても俺はすべての勧誘を丁寧に断った。
俺にとって走るという行為――それはイヴァンと肩を並べて走り、互いの限界を試し合う、その瞬間のために存在していたからだ。
「じゃあね、イヴァン君、天空君、また来週!」
校門の前でクラスメイトに手を振り、俺たちは歩き出した。
その足は自然とイヴァンの家へと向かっていた。
というのも実は俺は学校が終わるとほぼ毎日のようにイヴァンの家に寄って夕飯をごちそうになっている。
「お邪魔します!」
玄関の引き戸を開けると明るい声が迎えてくれた。
「おう、天空。今日はすき焼きだ!たくさん食べていけよ!」
イヴァンの父さんは屈強な体格に似合わず、人を包み込むような笑顔を見せる。
オーウェンさん――それがイヴァンの父さんの名前だ。
俺の父さんの友人で元イギリス軍の軍人だったと聞いている。
俺が小学生の頃、同じ格闘技の大会に出場するために来日した。
大会が終わってもオーウェンさんはイギリスに帰らず、そのまま家族とここで暮らし続けている。
「天ちゃん!いっぱいおかわりしていってね!」
イヴァンのお母さんもどこかおっとりとしていて、まるで実の母親のような優しさで俺を迎えてくれる。
リビングに通されると香ばしく煮える割下の香りが食欲を刺激する。
鍋の中では牛肉や白滝や春菊がぐつぐつと音を立てていた。
食卓に着いた俺にイヴァンの父さんがいつものように学校の話を振ってくる。
「天空、最近の英語の勉強はどうだ?」
「まあまあって感じかなぁ。単語は頑張って覚えてるけど、文章を作るのがまだちょっと苦手で……」
「なるほどな。分からないことがあったら、いつでも俺に聞いてくれていいからな」
「うん!ありがとう!」
イギリス出身のイヴァンの父さんは英語の発音も文法も完璧だ。
だからネイティブから直接英語を教えてもらえるというのは俺にとって本当にありがたいことだった。
そしてイヴァンの父さんから教わっているのは英語だけじゃない。
当然、格闘技も教えて貰っている。
柔道や空手の構えなど、イヴァンの父さんはいろんな武道に精通していて型の重要性をよく説いてくれる。
だけど俺はその型にどうしても馴染めなかった。
自分の体に自然に馴染む動きを信じたいと思っていたからだ。
それでもイヴァンの父さんは無理に型を押しつけるようなことはせず、俺の「俺流」を尊重しながら時に的確な助言をくれる。
本物の強さとは押しつけられた形ではなく、自分自身の中から鍛え上げていくものなのだとそう気づかせてくれる大人だった。
「兄貴はまだ帰って来てないの?」
ふとイヴァンが尋ねるとイヴァンの父さんが箸を止めて答えた。
「オーウェンなら補習が長引いてるみたいだ。夕飯、遅くなるってさ」
オーウェン――それがイヴァンの兄の名前だ。
高校生でありながら数々の格闘技大会で何度も優勝してきた猛者で、イヴァンよりも遥かに体格に恵まれている。
イヴァンはよく言っていた。
「兄貴のオーラは底が見えないんだ。強いとかそういう次元じゃなくて……なんか、やばい」
俺にはオーウェンのオーラなんて見えないけれど、それでも戦いの時にその場の空気が変わるのははっきりとわかる。
ただ試合を見るだけで目に見えないはずの圧が空間を満たしていくような――肌がひりつくほどの気配を感じていた。
そして俺にとってイヴァンの兄貴はただの頼れる年上の男じゃない。
血の繋がりはなくても兄のように慕っている存在だった。
楽しい食卓を囲み、笑い声と湯気が満ちる時間はあっという間に過ぎていった。
時計の針が夜を指し始めたころ、そろそろ帰ろうと立ち上がった俺にイヴァンの父さんが声をかける。
「天空、泊まっていってもいいんだぞ?布団もあるし、気にするなよ」
その優しさが胸に染みるが俺は笑って首を振った。
「うん!でも……今日も家に帰るよ」
「そうか、じゃあまた今度な」
朝にイヴァンの家に自転車を置いたままだったので、玄関で靴を履き、冷えた夜気に包まれながらサドルにまたがった。
街灯の光が途切れ途切れに地面を照らし、車のエンジン音だけが遠くに響いていた。
ペダルを踏みながら今日一日を静かに振り返る。
――早朝、思い出した子どもの頃の夢。
――初めてイヴァンを連れて行った、あの秘密の場所の御神木。
――100メートル走での勝利。
そして、いつものように迎えてくれたイヴァンの家族との時間。
「今日は……なんだか、すごく充実してたな」
誰に聞かせるでもない呟きが、風にかき消される。
だけど胸の奥にぽっと灯るような温かさが滲み出ていた。
家にたどり着くと靴を脱いでそのまま奥の和室へと向かった。
部屋の隅にはいつものように仏壇が静かに佇んでいる。
その前に置かれた写真立てには若き日の両親と幼い俺の姿が映っていた。
「ただいま……お父さん、お母さん」
手を合わせ、深く頭を下げ、静かに目を閉じた。
この日が無事に終わった事を誰よりも大切な人たちに報告する。
それが俺の日課だった。