第1話 幼馴染と御神木
「食われたくなければ……今見たことをすべて忘れろ」
地の底から響くような声だった。
目の前にいるのは成人男性の倍はあろうかという巨躯を持つ黒い怪物。
ぎらりと赤く光る眼が、暗闇の中で俺の心臓を直接掴んでいるかのような錯覚を起こさせる。
その怪物の腕の中には月明かりを吸い込んだような金色の髪を持つ少女がいた。
引き裂かれたドレス、涙に濡れた瞳。
「お願い……助けて……!」
震えるその声が俺の脳を激しく揺さぶる。
足が震え、本能が「逃げろ」と叫んでいる。
だが、俺の意識は別の場所にあった。
――どうしてこうなった。
数時間前まで、俺の日常は退屈なほど普通だったはずなんだ。
◇ ◇ ◇
昨夜、俺はひどく寝付けなかった。
熱があるわけじゃない。
ただ、自分の身体が自分のものではないような奇妙な重量感に支配されていた。
(……なんだ、これ。腕が、重い……)
あまりに寝苦しくて窓を開けると、外は異様に静かだった。
本来なら聞こえるはずの風の音も、遠くを走る車の音すら消えていた。
深夜の住宅街とは思えないほど不自然に静まり返っている。
耳の奥で、ドクン、ドクンと重い鼓動だけが響いている。
自分の鼓動にしてはあまりに重く、周期が長い。
「……あいつに、明日見せなきゃな」
鳴り止まない不気味な鼓動に追い立てられるように、俺はベッドを抜け出した。
音を立てないように階段を降り、暗がりの奥に佇む仏壇の前に置かれた写真立てにそっと手を合わせる。
こうして写真を見ている間だけは、あの重苦しい鼓動が少しだけ遠のくような気がした。
「……おやすみ」
答えのない静寂に呟き、俺は再び二階の自室へ戻った。
そして深い泥に沈むように意識を手放した。
◇
「……助けて、ここから出して……誰か……」
か細く震える声が暗闇の奥からかすかに響いた。
女の子の声……だろうか。
「……だれだ?誰かいるのか?」
声をかけながらも身体は動かない。
足は地面に縫いつけられたように重く、視界がぼんやりとしている。
助けなければという焦りだけが胸の奥に溜まっていった。
だが、その想いも次の瞬間には眩い光と熱に呑み込まれていく。
気づくと、闘技場の中央にあどけなさの残る二人の少年がこちらに歩み出ていた。
ひとりは銀色の髪をなびかせ、白い空手着を着て自信に満ちた笑みを浮かべている。
対する黒髪の少年は色褪せたTシャツにくたびれたズボン、ポケットに手を突っ込んだまま、戦いへの興味どころか不快そうな表情が漂っていた。
胸の奥で何も知らず世界を少し斜めから見ていた頃の俺の感覚がふっと蘇る。
銀髪の少年が挑発するように口元を歪めて言う。
「ようやく決勝で戦えると思ったのに何だよそのやる気のなさは。……お前、本当に戦う気あるのか?怖くなったなら棄権してもいいんだぜ!」
何だよ急に……と反射的に思ったが、そもそもなんで俺はこんな場所にいるんだ――?
黒髪の少年は面倒くさそうにポケットから手を出し、素人丸出しの構えを取った。
「……いいからさっさとかかってこい。時間が無いから早く終わらせたいんだよ」
銀髪の少年は見ていて耐えきれなかったように吹き出した。
「なんだその構え……おまえ、格闘技初心者か?そんな事だからいつまで経っても成長しないんだぜ、天空!」
――天空?
「……天空?なんでこいつ俺の名前を知ってるんだ?しかも、呼び捨てで……?」
「天空~!天空~!」
しつこい声が、頭の中で何度も反響する。
「天空~!」
ジリジリジリジリ――!ピンポーン――!
目覚まし時計のアラームと玄関のインターホンの電子音が重なって耳を貫いた。
意識がぐらりと揺れ、夢の感覚が一気に遠ざかっていくようだった。
「天空~!いつまで寝てるんだよ!?」
ぼんやりとした意識の中でまぶたをこじ開けるようにして俺はゆっくりと目を開ける。
「あれ……夢、か……?」
寝起きの頭は重く、夢の内容は思い出そうとしても曖昧で、すぐに忘れそうだった。
眠気を振り切って意識をはっきりさせながら俺は寝返りを打つ。
「……あ、やばっ!今日って、あいつに三十分前に迎えに来てもらうよう言ってたんだった……!」
慌てて手を伸ばし、枕元の目覚まし時計に目をやった瞬間、時間が視界にすっと入ってきた。
「やっべ!」
掛け布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りる。
二階の自室を飛び出し、階段を駆け下りる。
玄関のすりガラス越しに人影がぼんやりと浮かんでいた。
「天空~!」
声が扉越しに響き、慣れ親しんだどこか呆れの混じったトーンが耳に届いた。
「わりぃ、あと5分だけ待って!」
「……でたよ、いつものパターン」
洗面所へと駆け込み、鏡の中の自分と向き合う。
黒髪は寝癖で乱れ、まぶたの奥には夢の記憶がまだ頭に残っている。
俺の名前は狭間天空、中学二年生。
今日は学校に行く前にあいつにどうしても見せたい場所があった。
だからわざわざ30分も早く迎えに来るよう頼んだのに、まさかの寝坊。
歯ブラシをくわえながら夢の断片を思い出す。
久しぶりに見る顔だった。
小学生の頃、どうにも苦手だったあいつの――あの、妙に自信満々な顔を。
最初に出会ったときの印象は最悪だった。
いつも堂々としていて、誰に対しても物怖じしない。
面倒ごとを持ち込みそうな奴だと思って、自然と距離を置いていた。
けれど、いつの間にか、そばにいるのが当たり前になっていた。
今では俺にとって、あいつはかけがえのない親友だ。
顔を洗い、寝癖を手早く整え、タオルで拭きながら玄関へ向かう。
そして扉を開けたその瞬間、玄関の前に立っていたのは夢に出てきたあいつだった。
ただし、成長した姿で。
「……よぉ、天空」
名前はイヴァン。
かつての生意気な雰囲気はすっかり影を潜め、欧州人らしい端正な顔立ちは年齢とともにさらに洗練されていた。
ムカつくガキだったあの頃から比べればまるで別人だ。
「うぃーす、イヴァン。ちょっと靴紐だけ締めさせて」
声をかけるとイヴァンは小さくため息をついて口元に苦笑を浮かべた。
「別にいいけど……今日はどこ行くんだ?しかも、こんな朝から自転車で」
自転車を引き出し、彼も無言でサドルにまたがる。
ペダルを踏み込み、朝の風を受けながら二人は並んで走り出す。
「あと5分くらいで着く。俺がよく行ってた神社なんだ」
「はぁ?神社?」
困惑したように聞き返すイヴァンに俺はにやりと笑う。
「細かい事はいいから黙ってついてこいよ!」
そうして風に背中を押されるように俺たちは朝の街を駆け抜けた。
やがて鳥居の前に到着する。
「着いたぜ」
「へえ……こんな所に神社があるなんてな」
イヴァンは少し感心したように赤く塗られた鳥居を見上げた。
「お前は神頼みとかあんまりしなさそうだな」
「神頼み?……まぁ、教会で祈る人もいるけど、俺はこういうのは初めてだな」
口ではそう言いながらもどこか興味深そうな表情だった。
石段を登ると小ぢんまりとした社が姿を現す。
木々に囲まれた境内には冷たい澄んだ空気が漂っていた。
「せっかく来たんだから、とりあえず手を合わせとこう」
そう言って俺は賽銭箱の前に立ち、静かに目を閉じて手を合わせる。
隣に立ったイヴァンも戸惑いつつも俺の動きを真似て手を合わせた。
ぎこちない手つき。
でも、その仕草にはどこか誠実な思いが滲み出ていた。
お参りを終えるとイヴァンはあっさりと引き返そうとした。
「すぐに帰ろうとするなよ。まだ見せたいもんがあるんだって、こっちこっち」
俺がそう言って手招きするとイヴァンは面倒くさそうに眉をひそめた。
「え~、その細い道に入っていくのかよ……」
拝殿の脇から延びる道は雑草に覆われ、昼間でも足元が薄暗い。
木々が光を遮り、先は見えなかった。
それでもイヴァンは渋々、俺の後に続く。
「……うわっ、マジで汚い。この道、草だらけじゃん。制服にくっついたら最悪だな」
「もうちょいだって。いいからついて来いよ」
俺は慣れた足取りで道を進む。
何度も来ているこの道は俺にとっては秘密の抜け道みたいなものだった。
やがて視界がふっと開ける。
そこにあったのは一際大きな御神木だった。
幹は太く、いくつもの時代をくぐり抜けてきた事を感じさせる深い皺が木肌を覆っている。
枝葉が大きく広がっていて、風が吹くと葉同士が擦れて静かな音が鳴った。
「……おお」
イヴァンが思わず声を漏らす。
その目が驚きに見開かれているのを見て俺は少し嬉しくなった。
「すごいな、これ……。こんなに自然のオーラを放ってる木、見たことない」
イヴァンは昔からオーラや気の流れみたいなものに妙に敏感だった。
空手や合気道をやっているせいらしいが、俺にはさっぱり分からない。
昔見かたを教わったこともあるが、結局ただの空気にしか見えなかった。
ただ、気配を感じ取るのは俺の方が得意だった。
イヴァンが「見る」ことが得意なら、俺は「感じる」ことに自信があった。
「ここは……俺しか知らない秘密の場所なんだ」
「まじで?こんな立派な御神木を誰も知らないなんて信じられねえよ」
「普通の人はあの神社の奥までは入ってこないからな。それにこの木に触れて願いごとをすると願いが叶うんだぜ」
そう言うとイヴァンは鼻で軽く笑いをこぼした。
「うわ……嘘くせぇ」
そう言いながらもイヴァンは幹から目を離さなかった。
半信半疑といった様子だったが、どこか気になるものを感じているようだった。
「そういえば、俺、小学生の頃に出たあの大会の前にもここに来たんだ」
「は?なんだそれ……。てか、それ今言うか?あの大会、俺の中では完全に黒歴史なんだけど……」
笑いながらもイヴァンは御神木に近づき、ゆっくりと手をかざした。
真剣な目で木の反応を探るように、じっと静かに見つめている。
「うん、凄く立派な木だな……。こんな場所にひっそりと存在していること自体が不思議に思えるくらいだ……」
そう言いながらイヴァンは少し間をおき、俺を見つめながら静かに問いかける。
「で、どうして俺をここに連れてきたんだ?」
俺は少し顔を背けて呟いた。
「イヴァン……お前、隣のクラスの詩織ちゃんに振られただろ」
その言葉を聞いたイヴァンは表情を曇らせて目を伏せた。
何も言わず肩を落とす様子から動揺しているのが伝わってきた。
平然を装おうとするもその動きはかえって痛々しい。
「天空ぅ……」
しばらく言葉を交わしながら時間を忘れて話し込んでいたが、気づけばもう学校に向かわなければならない時間になっていた。
俺は最後にもう一度、御神木に手を合わせてお参りをしようと思い、その大きな幹にそっと手を伸ばした。
その瞬間、手に奇妙な感触が走った。
ぐにゃり――
「……んっ!?」
指先にありえない感触が伝わった。
硬いはずの幹が、わずかに波打つように沈み込み、触れているのか触れられているのか分からなくなる。
「おわっ!」
驚いて手を引っ込めた途端、心臓がドクンと跳ね、嫌な汗が背中を流れた。
慌てて様子を確認するが、目の前の幹には傷一つなく、見た目には何の異変もない。
「…………」
無音。
風も、鳥の声も、隣にいたはずのイヴァンの気配も、すべてが遠ざかる。
ただ、右手のひらに残った感触だけがそこにある。
(……なんだ、今のは。吸い込まれるような……)
「……天空?」
その瞬間、遠くから震えるような声が聞こえた気がした。
「……おい、聞いてんのか?天空?」
遠くにあった声が次第にはっきりと聞こえてきた。
「……天空!」
「えっ!?」
肩を叩かれ、意識が弾かれたように現実へ引き戻された。
目の前には心配そうな顔で俺を覗き込むイヴァンの顔があった。
「どうしたんだよ。急に黙り込んで……」
「いや……なんでもない」
だが、胸の奥には違和感が残っていた。
「そろそろ学校に行こうぜ!天空。遅刻しちまう」
イヴァンが時計を気にしているのがわかる。
遅刻するし、もうこの場所に長居する理由なんてどこにもない。
だが、あの感触がまだ右手に残っていた。
俺は首を振った。
「……もう一回だけ」
自分でも驚くほど声は静かだった。
イヴァンが一瞬だけ目を細める。
「はぁ?じゃあ、一秒だけな」
その言葉を合図にしたみたいに、俺は御神木へと手を伸ばした。
何も起きない。
だが、さっき触れた感触だけが指先に残っていた。
(……さっきのは、なんだったんだ)
「もういいだろ、早く行こうぜ!」
「ああ、そうだな」
俺はその場を後にし、来た細い道を戻り始めた。
最後に振り返って御神木を見た。
そこには、いつもと変わらず一本の御神木が立っている。
だが、風もないはずなのに枝葉だけがゆっくりと揺れていた。
葉の擦れる音が、いつまでも背後に残っている。
その瞬間、右手のひらの奥で、ドクン、と昨夜と同じ鼓動が鳴っていた。
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