第28話 死ぬか生きるかの決断とまさかの出来事
――『1、0』
その瞬間――
視界が音もなく弾けた。
まるで世界そのものが一斉に白一色に飲み込まれたようだった。
光だけが空間を満たし、音も温度も、感触すらも消えていた。
そこには音も、温度も、感触すらなかった。
全身の感覚が一瞬で霧散し、意識だけが空に放り出される。
落ちるのか浮かぶのかすら分からない。
ただ、自分という存在が何か決定的なものから切り離されていく錯覚だけがあった。
「……俺は、今、死んだのか?」
呟いたはずのその声すらどこにも届かなかった。
――そして、ふっと。
意識が何かに導かれるように滑り戻っていく。
まるで何かに急に引き戻されたように意識が身体へと帰ってくる。
気づけば柔らかい布団の感触が背中にあり、遠くで鳥のさえずりが微かに耳に届いていた。
見慣れた天井。見慣れた部屋。朝の気配。
「……あれ……?ここ……俺の部屋?」
起き上がると現実味の無いほど穏やかな朝が何事もなかったように広がっていた。
けれど、その安心はほんの一瞬で霧散する。
――『0、30』
視界の端に再びあの数字が浮かんでいた。
霧のように揺れながら無慈悲に時間を刻み続けている。
「……まだ、終わってない?」
震えるように呟く。
理解するのに少しだけ時間がかかったが――やがて思い至る。
(そうか……『0』になったんじゃない。『0』の段階に入ったんだ……)
カウントの単位がひとつ下がっただけで何も解決していない。
助かったわけじゃない。
今はただ、最後の――たった30分という猶予が与えられただけ。
「……そうかよ、こんなんで終わるはずがねぇってことか……」
呆れにも似た苦笑が零れた。
けれど、確かに時間はある。
わずかだが希望は残された。
この30分の間に何かを解き明かし、この意味不明なループから抜け出さなければならない。
(まだ……間に合う。まだ終わってない……!)
俺は額を両手で押さえ、呼吸を整える。
(落ち着け。焦るな。思い出せ。今までやった事をひとつずつ――全て思い返せ)
祭りの出来事は考え尽くした。
狐のお面、招き猫、あの奇妙な時計。
それらはすべて試した。
壊しても、駄目だった。
(……じゃあ、他に何がある?俺は何を見落としてる?)
そうだ、ルナにはこの魔法がかかっていない。
ずっと一緒にいたのに彼女には何も起きていない。
ということは俺だけが経験した何かが引き金だった。
それも――昨日、お祭りに行った後だ。
「……俺だけがやったこと……何かを見落としてる……!」
視界の数字は静かに、容赦なく減り続ける。
――『0、29』
――『0、28』
残された時間はあとわずか。
焦燥と絶望が喉元までせり上がる中、俺は必死に昨日の記憶の糸を手繰った。
(あの夜、俺は何をした?お祭りが終わってから……何を考えて、何を触った?どこへ行った?)
思い出せ。
何気ない行動の中に答えは必ずある。
この魔法をかけたのは誰かじゃない――俺自身の中に答えがある。
「……頼む……思い出させてくれ……!」
俺は額を押さえながら頭の奥深くに眠っている記憶に手を突っ込むようにして――
思い出そうとした。
◇ ◇ ◇
さかのぼること昨日の夜――お祭りの帰り道。
あれほど喧噪に包まれていた通りはすでに灯りを落とし、余熱だけを残して静まり返っていた。
提灯の明かりは一つ、また一つと消えていき、俺たちはその余韻のなかを歩いていた。
イヴァンとルナはいつものようにささいな会話をやり取りしながら前を歩き、俺は少し後ろからついていく。
なんとなく宙を漂う夜風の感触を感じたくて、何も考えずにただぼんやりと歩いていた。
――その時だった。
カサッ……。
乾いた音が足元から立ち上る。
(……ん?)
反射的に立ち止まり、視線を落とす。
暗がりのアスファルトに何かが落ちている。
一瞬、それがゴミか紙切れかと思ったが違った。
いや、まさか――。
「……一万円札?」
思わず呟くように声が漏れた。
にわかには信じがたい光景だった。
地面にぺたりと貼りつくようにしてそれはそこに在った。
紙幣独特の重みのある質感。
ほつれのない、ほぼ新品同様の一枚。
誰かがそこに「置いた」としか思えない不気味な整い方だった。
(なんでこんなところに……?)
辺りを見渡してみたが、それらしい人影はどこにもない。
通りの向こうにも誰もいない。
まるでこの一枚だけが取り残されたように――不自然に。
イヴァンもルナも前を向いたまま気づいていない。
(……届ける相手もいない。落とし主もいない。なら――)
ほんのわずかな罪悪感が胸をかすめたが、それ以上に「偶然」という名の誘惑が強かった。
「……ラッキー」
唇の端で小さく笑う。
誰にも見られていないのを確認してから俺はそっと紙幣を拾い上げ、ポケットに滑り込ませた。
「ん?どうした天空?なんかあったのか?」
イヴァンが振り返りざまに声をかける。
「あ、いや……なんか忘れ物したかと思って。勘違いだった」
「ふーん?まあ、さっさと帰ろーぜ、眠ぃし」
「うん、帰ろー!」
ルナも小さく笑いながら続いた。
「おう!」
俺は何食わぬ顔で答えたが、そのポケットの内側で異様に冷たい紙の感触がまだ残っていた。
(よっしゃー!お祭りの最後に最高のご褒美ゲットだぜ!)
◇ ◇ ◇
――『0、25』
(……マジか……嘘だろ?まさか、これ……?)
嫌な汗が額を伝う。
まるで全身が冷たい霧に包まれるような、そんな感覚。
脳内で警鐘が鳴り響くが、否定しようとしても、もう他に心当たりはなかった。
(これしか……もう、ない……!)
あの奇妙な時計でもなければ、屋台でもない。
誰かに呪いをかけられたわけでもない。
犯人は――自分。
引き金を引いたのは、自分の手。
「……くそっ!」
唇を噛み、拳を握る。
情けなさと悔しさが喉の奥で渦巻き、言葉にならない。
拾ったのは俺だ。
誰にも強制されてない。
けど、それでも……これが代償だなんて、あんまりだろ。
「これって……俺のせいなのかよ……?違うだろ……落ちてたんだ……誰でも拾うだろ……!たまたまそこにあって、たまたま俺が……拾っただけのはずだったのに……!なんで、それが――俺だけの罰になるんだよ……!」
叫ぶように吐き出したその言葉は虚しく部屋に跳ね返るだけだった。
「なんで……なんで、俺が……!」
俺は震える手でポケットを探り、財布からその一万円札を取り出した。
薄く、柔らかく、けれどどこか重たい。
紙のくせにありえないほどの存在感がある。
そして、そのど真ん中に刻まれた数字。
それが今は――呪いそのものにしか見えなかった。
(破る……しかないのか?だけど違ったら……)
財布の上で指が止まる。
破くべきだと頭では分かっている。
これが原因なら、これを断ち切らなければならない。
けれど、どうしても指が動かない。
祭りの最後に拾った時は確かに思った。
(ラッキーだ……って)
美味いものを食べよう。
欲しかったゲームを買おう。
少しだけ気持ちが浮かれていた。
――それが、こんな結末を招くなんて。
「……くそ……」
喉の奥が詰まり、息がしづらい。
心臓がバクバクと嫌な音を立てている。
震える指先、汗ばむ手のひら。
紙の感触がまるで皮膚にまで染み込んできそうだった。
――『0、20』
もはや迷っている時間はなかった。
このまま考え込んでいれば、きっと手遅れになる。
この紙を破らなければ取り返しのつかないことになるだろう。
「くそっぉぉぉぉおおお……!」
喉の奥から絞り出すように叫びながら俺は震える両手で一万円札を握りしめた。
強く、思いきり破る。
迷いはあった。
けれど、もう一歩踏み出さなければ何も変わらない。
――ビリッ。
乾いた音がまるで空気を切り裂くように響いた。
霧のように漂っていた数字がピクリと揺れた。
崩れるように形を失い始める。
(……やったのか?)
だがまだ完全には消えていない。
数字はかすかにそこに残っている。
それがまるでこちらの覚悟を試すかのように。
「……縦に破っただけじゃダメなのかよ……!」
舌打ちをしながら俺は怒りと焦りのままにもう一度、そしてもう一度――
今度は細かく徹底的に一万円札を破いた。
バラバラに、原型がなくなるまで。
そして――
――『0、19』
――『0、18』
……という数字はもうなかった。
数字は完全に視界から消えていた。
まるでそれが最初からなかったかのように。
俺は言葉もなく立ち尽くした。
「……終わった?」
呟いた声に誰も答えはしない。
ただ、どこかが音もなく静かになった。
それは空気の流れや音の消失ではなく、何かがほどけたという感覚だった。
魔法が――解けた。
俺はゆっくりとその場に崩れ落ち、ベッドの端に腰を下ろした。
呼吸が乱れ、胸が上下するたびに疲労が全身を襲ってくる。
まるで数日分の神経を使い果たしたような脱力感。
眠っていたはずなのに体は重く、鉛のようだった。
「……マジかよ……」
手のひらを見つめる。
そこにはもうあの紙幣も数字も何もない。
あるのはただ終わったという実感と――
ふと胸の奥に残った拭いきれないざらつきだった。
◇
重い足取りのまま階段を下り、一階のリビングへと向かう。
ようやく歩く気力が戻ってきた頃に懐かしい声が俺を迎えた。
「おはよう、天空!」
明るい声とともにルナがキッチンから顔を出した。
手にはふわりと湯気を立てる皿。
その上に乗っているのはオムレツ――のはずだったが。
「おはよう、ルナ。……お前、それ、オムレツにマヨネーズじゃなくて歯磨き粉かけてるから気をつけろよ」
「あれっ!?……え、なんで分かったの!?えっ、えっ、今まだ何にも言ってないよね!?」
ルナの目がまるくなってしばらくパチパチとまばたきを繰り返していた。
その間に俺は深く息を吸い込み、口を開いた。
「実はさ……」
そして俺は話し始めた。
昨日から今日までに起きたこと。
時計。数字。ループ。
記憶をなぞるように言葉を選びながら一つひとつルナに説明していく。
・霧のように浮かび続ける数字。
・『30』から始まり、数字が『0』に達すると――時間そのものが勝手に巻き戻されていた。
・『5』が『0』になると何かの魔法が発動してしまうこと。
……ただし一つだけ伝えなかったことがある。
一万円札を拾っていた事も、そしてそれが原因だった事も、最後にそれを破った事も――
すべては心の中に留めておいた。
今ここにいる自分があの夜――愚かにも欲に手を伸ばし、呪いの魔法を招いた。
その事だけはどうしても言えなかった。
「え、じゃあ……昨日のお祭りで――何かの魔法にかかっちゃってたってこと!?」
「……まぁ、ざっくり言えばそんな感じ」
ルナは口を開けたままオムレツを持った手を止めていた。
「ってことはさ……」
不意に彼女の表情がわずかに強張る。
「もしかして……魔物に見つかっちゃった?」
その瞬間、ルナの瞳がかすかに揺れた。
冗談とは思えない妙に真剣な響きだった。
あの数字。
あの時間制限。
もし、あれが魔物によって仕掛けられたものだとしたら――
まだ本当に終わったとは言い切れないのかもしれない。
俺は曖昧に笑ってごまかした。
「さぁな。……でも、なんとか逃げ切ったっぽいぞ」
だが内心では拭いきれない違和感が胸の奥にずっと残っていた。
「人混みの中にいれば魔物もそう簡単には近づけないと思ったんだけどな。だから、あんな回りくどいやり方をしたんだろう」
俺の呟きにルナが小さく眉を寄せた。
「……この家、大丈夫かな?バレてない?」
「帰り道はちゃんと遠回りしたし、誰かにつけられてる気配もなかった……はずなんだけどな」
けれど胸の奥にはひとつだけ、どうしても消えないひっかかりがある。
――昨日の夜にお祭りの帰り道で拾ったあの一万円札。
あれが誰かの意図で置かれていたとしたら?
「……一応、警戒しておこう。学校もちょっと遅れそうだし……イヴァンに連絡しておくか」
そう言いながら俺は階段を駆け上がった。
自室のドアを開けてベッドの上に転がっていたスマホを手に取る。
画面を点けたその瞬間、背中に悪寒が走った。
――10件の不在着信。
発信者はすべて、イヴァン。
「……どうして、あいつからこんなに……?」
嫌な予感が背筋を這い上がる。
すぐさま着信履歴から折り返す。
けれど――
……繋がらない。
「まさか……イヴァンに何かあったのか?」
胸がざわつく。
電話が繋がらないこと自体は珍しくもない。
だが、今は違う。
今の状況で繋がらないという事実が何よりも不穏だった。
再び階段を駆け下りながら、ふとループ中の出来事が脳裏をよぎる。
俺が自分の目の前に浮かんでいた数字を指さした時――
あいつはたしかに言った。
「……なんだこれ。数字?よく見たら目の前に何か浮かんでるな」
その時は自分のことを指していると思っていた。
でも――今、改めて考え直せば。
(あれ、本当に俺の数字を見ていたのか……?)
もしイヴァン自身の視界にも同じような数字が浮かんでいたとしたら?
「ルナ!」
朝食の席についたままオムレツをつついているルナに向かって思わず声を上げた。
「なぁ……俺が何か悪い魔法にかかってる時にルナには何の魔法かって、見えるものなのか?」
ルナはフォークを持ったまま少し考える素振りを見せた。
「ん~……魔法の種類によるかなぁ。あと、発動条件とか。私が見えてない時もあるし……」
フォークをくるくると指で回しながら彼女は答えた。
……そういえばループ中でも俺は彼女に数字のことを訊いたことがある。
「なぁルナ!俺の目の前に数字が浮かんでるんだけど、お前には見えるか?」
その時、彼女は首をかしげて言ったのだ。
――『何も見えないよ?』と。
ルナには見えなかった。
だが、イヴァンには――見えていた。
それが意味するのは。
「……やっぱり。イヴァンも俺と同じ魔法にかかってたんだ……!」
俺がそう叫ぶとルナの表情が一気に強張った。
「えっ、本当なの!?」
「たぶん間違いない。イヴァンの目の前にもあの数字が浮かんでたんだ。自覚はなかったみたいだけど……」
言い終えるよりも早く、俺とルナは顔を見合わせて立ち上がった。
着替えを済ませ、鞄も放り投げたまま、ほぼ同時に玄関の戸を開ける。
その瞬間だった。
遠くの通りから制服姿の男がこちらへ向かって全力で走ってくるのが見えた。
「……イヴァン!?」
汗まみれで息を切らし、まるで地獄の底から這い出てきたような形相でイヴァンが駆けてくる。
「……まさか、あいつ……五回目のループでようやく気づいたのか。自分が時間を繰り返していることに――」
俺が呟いたその時――イヴァンの姿が目の前から突然、ふっと消えた。
「……なっ!?」
「今の、転送魔法だわ!」
ルナの声が鋭く響く。
「イヴァン、敵に捕らえられたかもしれないじゃない!すぐに電話に出なかった天空が悪いわ!」
「俺のせいかよ!?……って、おい、イヴァン、またさらわれたのかよ!」
すぐさまスマホを取り出してイヴァンに再度電話をかける。
数秒のコールの後、奇跡的に繋がった。
「あーもしもし、イヴァン?無事なのか!?」
『天空!お前なんで電話に出ねぇんだよ!お前、俺に「何か見えるか?」って聞いただろ!?あれ、なんだったんだよ!』
「お前もかよ……!イヴァン、お前、まさか――俺と同じ時間の中にいたのか!?」
『やっぱりか……俺、同じ朝を何回も繰り返してた。最初は夢かと思ってたけど、やっと気づいたんだ!天空、これ何なんだよ!助けてくれよ!』
「分かった!今すぐ助けに行くからお前の位置をGPSで送ってくれ!」
『送る!すぐ送るから、待って……誰か来る――一旦切る!』
プツッ。
耳元で通話が切れる音。
直後に届いたメール。
GPSの位置情報を確認する。
地図上に示されたのは商店街の裏手――詳細もわからないまま、ぽつりとマークされた建物。
「よし……ルナ、イヴァンを助けに行ってくる!お前は家で待っててくれ!」
だが振り返った先でルナは黙って首を振っていた。
その瞳には鋭い光と確固たる決意が宿っていた。
「ダメよ、天空!時の魔法を使う魔物なんて強力に決まってるわ。魔法の知識もない天空が行ったら、それこそ捕まりにいくようなものよ!」
「……ルナ。そこに敵がいるんだ。本気で危ないぞ」
「分かってる。でも、だからこそ行くの。イヴァンが囚われて、天空までいなくなったら……私、独りじゃどうにもできないと思うの。だから、私も行く」
その言葉は真っ直ぐだった。
俺は少しだけ目を伏せて、そして――ゆっくりと頷いた。
「分かった。仕方ない。一緒に行こう、ルナ」
「うん!」
俺たちは互いに頷き合い、すぐに自転車を取り出した。
ハンドルを握りしめ、ペダルに力を込める。
目指すは――イヴァンのいる商店街の裏手にある謎の建物。
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