第26話 登校前の日常とループ
――『5、30』
ベッドの中で目を覚ました俺の頭上に白い数字が揺れていた。
霧のようなもやの中に、『5』と『30』という数字が白くぼんやりと漂っている。
「……なんだこれ?」
まだ眠気の残る頭で俺は手を伸ばしてみた。
もちろん触れることはできない。
夢にしてはリアルすぎるし、現実にしては不自然すぎる。
幻覚か?あーでも昨日の夜にスマホの変なゲームやって寝落ちしたし、そのせいか?
とりあえず寝起きに数字を見せられても意味が分からない。
俺は布団から這い出して階段を下り、一階のリビングへ向かった。
キッチンからはなにやらジュウジュウという音と香ばしい匂いが漂っている。
「おはよう、天空!」
「お、おう……おはよう、ルナ!……って、お前、朝飯作ってんの?」
「うん!一度も料理したことなかったから、ネットで調べて作ってみたの!」
俺の家に居候中の王女さまがパソコンでレシピ調べて朝飯を作っている。
シュールすぎる光景だけど出てきたふわふわのオムレツを見た瞬間、ちょっと感動した。
「おぉ、めっちゃ見た目いいじゃん!いい匂いもするし!」
「でしょ!でもケチャップがなかったから、代わりにマヨネーズにしたわ」
「……あ、そうなんだ。まあ、それもアリだよ、全然イケる」
期待しながら俺は一口ぱくりといった。
――が、その瞬間、口の中に広がるのは想像を超えた爽やかなミントの風味。
「おぇぇぇぇぇぇ!!」
口の中でミントが暴れまくり、卵の甘さと奇怪なハーモニーを奏でる地獄の交響曲が始まっていた。
「お前これぇぇぇっ!!……マヨネーズじゃなくて歯磨き粉じゃねぇか!!!」
喉の奥がヒリヒリする。
ミントが暴れてるどころか喧嘩売ってきてる。
「え?あ、本当だ!間違えちゃった!」
「ごほっ!ごほっ!間違えた!……じゃねーよ。間違えるならせめて調味料を間違えろよ!!」
咳き込みながら涙目で文句を言った俺を見て、ルナは「てへっ」とでも言いたげに笑っている。
「もういい。着替えて学校行くわ……」
胃の中にミントの風が渦巻くのを感じながら俺は階段を上がった。
ふと視界の隅に浮かぶ数字を見た。
――『5、10』
……数字が減ってる?いや、気のせいか。
最初は『5、30』だったはず――まあいい。
ルナの新しい魔法か何かかもな。
むしろこれはこれで時計代わりになって便利かも。
数字は相変わらず霧のように揺れて浮かんでいた。
俺はそれをチラと見やり、制服に袖を通す。
――『5、0』
また数字が変わった。
説明できないまま胸の奥がひやりとする。
だけどそれ以上は気にせず、いつも通りドアノブに手をかける。
――その瞬間。
「うわっ……!」
視界が真っ白に染まった。
真昼の太陽を直視でもしたかのような強烈な光。
思わず顔を覆ったが意味はなかった。
何も見えない。
何も聞こえない。
そのまま意識が引き込まれるようにゆっくりと沈んでいった――
気づけば俺はまたベッドの上にいた。
――『4、30』
天井の白い天板をぼんやり見つめながら、浮かんでいる霧のような数字を見上げる。
『4』と『30』。
数字が――減ってる?
「ん……なんだか妙にリアルな夢を見た気がする……。いや、夢じゃなかったかもな。あの朝飯で人生終わるところだったし、あれが現実だったらもう地獄確定だぞ」
額を押さえながらベッドから起き上がる。
頭はまだぼんやりしていたけど夢の続きを見ている感覚じゃない。
現実の手触り。
温度、音、匂い。
どれもはっきりとしている。
階段を下りて1階の居間へ。
キッチンには――またエプロン姿のルナが立っていた。
俺を見つけて、ぱっと笑顔を向ける。
「おはよう、天空!」
「……え?また、朝ごはん作ってるのか?」
思わず口からこぼれた疑問にルナはエプロン姿のまま首をかしげた。
本気で初めての料理だと思い込んでいるようで、その顔にはこれっぽっちの疑問もなかった。
「またって……何のこと?一度も料理したことなかったから、ネットで調べて作ってみたの!」
その言葉を聞いた瞬間、背中にじわりと汗が滲む。
……さっき見た夢とまったく同じ展開だ。
「それで……何を作ったんだ?」
恐る恐る問いかける俺にルナは誇らしげに笑った。
「オムレツよ!でもケチャップがなかったから、代わりにマヨネーズにしたわ」
――その言葉で思考が一瞬止まる。
……あれ?今の、どこかで……いや、ついさっき聞いた気がする。
「なぁ、ルナ。マヨネーズのパッケージ、ちょっと見せてくれないか?」
「え?うん、はい、これ……あれ?これマヨネーズじゃないかも……」
……やっぱり。
ラベルにはしっかり歯のマークがあって、『フレッシュミント』の文字もあった。
見覚えのある光景に少しだけ背筋が寒くなる。
でもまあ……あるよな、こういう偶然。
(きっとそうだ。昨日の夢がリアルすぎたせいで、現実の出来事が似て見えただけ……そう、これはただの正夢だ)
……そう思っておきたかった。
「ルナ……お前どういう間違え方してんだよ……もういいや、着替えて学校行くわ」
俺は半分あきれつつも、いつも通りに制服に袖を通し、カバンを肩にかけた。
視界には例の霧のような数字がまだふわふわと漂っている。
――『4、15』
さっきより数字が減っている。
でも時間っぽく見えなくもない……。
目覚めのせいで見えた、ただの幻……そういうことにしておいた。
靴を履いて玄関を開ける。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃーい!」
ルナの元気な声を背に受けて俺は家を出た。
早朝の空気は澄んでいてほんの少し肌寒いくらいだった。
数分歩いて角を曲がると、前方からイヴァンが現れた。
制服姿でいつもより眠たげな顔だ。
「あれ?天空、今日朝早いんだな?」
「おう、イヴァン!」
俺は彼に駆け寄ると、指を空に向けて突き出す。
「なぁ、お前、これ見えるか?」
「ん?……うわ、なんだこれ。数字?よく見たら目の前に何か浮かんでるな」
「見えるのか……やっぱり……」
安心と同時により深い不安が胸を締めつける。
イヴァンにも見えるということは、これは俺だけの幻覚じゃない。
現実のどこかに作用してる現象ってことだ。
「なあ天空、これって……なにかのタイマー?」
イヴァンが眉をしかめた、その瞬間。
――『4、0』
数字が切り替わると同時に俺の視界が真っ白に染まる。
「うおっ……!」
目の奥が焼けるような閃光。
瞬時にすべてが白に飲まれ、音も重力も消えた。
……そして――ふわりと背中に感じる柔らかな感触。
布団の匂い。
自分の体温。
ゆっくりと目を開ける――
また、ベッドの上だった。
――『3、30』
「また、戻ってる……?なんなんだよ、これ……」
一瞬で血の気が引く。
今のは夢じゃない。
絶対に現実だった。
イヴァンの反応だって演技でも幻でもない。
だけど俺はまた最初に戻ってる。
慌ててベッドを飛び出し、階段を駆け下りると――
「おはよう、天空!」
待ってましたと言わんばかりにまたもやルナが笑顔で迎えてくる。
「ルナ!マヨネーズと歯磨き粉、間違えてないか!?」
「え?……あれ?本当だ!どうして分かったの?」
「……もういい……もう、勘弁してくれ……」
頭を抱える俺。
――間違いなく、繰り返している。
しかも今度は『3、25』。
(この『25』って、多分分単位のカウントダウンだ……。てことは、左の『3』は……回数……?)
冷たい汗が背筋をつたっていく。
これはただの悪い夢じゃない。
回数が減ってる……つまり、終わりが迫ってるってことだ。
もしかして――これが『0』になったら、俺、死ぬんじゃ……?
頭が真っ白になった。
視界の端に浮かぶ『3、25』の数字が静かに減っていく。
その異様な光景に俺は言葉を失いながらも目の前のルナの顔を見つめた。
「なぁルナ! 俺の目の前に数字が浮かんでるんだけど、お前には見えるか?」
「え? 天空の前に? ううん、何も見えないよ」
彼女は俺をまっすぐに見返していた。
表情に戸惑いはあっても怯えも驚きも見えなかった。
少なくとも俺が経験しているこの奇妙な現象を共有していないことは、彼女の瞳を見ればすぐにわかった。
つまり――これは、ルナの魔法じゃない。
「ルナ、聞いてくれ!」
焦りに喉が焼けそうだった。
それでも伝えなければならなかった。
「俺の目の前に数字が浮かんでるんだ!カウントダウンみたいなやつが!しかもさっきから何度も……時間が戻ってるんだよ!今は『3』って数字だけど、『0』になったら俺は――死ぬかもしれない!」
ルナは驚いたように瞬きを数度繰り返し、それから少し眉を寄せて思案するような顔をした。
「それは……何かの魔法にかかってるんじゃないかしら?もしかすると、カウントが『0』になった瞬間に効果が発動する時限式の魔法とか」
「……ってことは、死ぬのか!?やっぱ死ぬのか俺!?」
「天空、落ち着いて。たとえ魔法でも時間が巻き戻るようなものなら……それだけで命を奪う魔法じゃないと思うわ。そういうのはもっと直接的な影響があるし、そもそも死の魔法はかなり高度な魔法よ。普通の精霊や魔物に扱えるようなものじゃないの」
彼女の言葉がかろうじて理性を保たせてくれた。
確かに、今の俺に起きているのは死そのものではない。
気がつけばベッドに戻っているだけだ。
繰り返してはいるが命を取られたわけじゃない。
「……じゃあ、なんなんだ?俺は何に巻き込まれてるんだ……?」
「危険な魔法であることは間違いないわ。でも、ひとつだけ言えるのは――原因がどこかにあるってこと」
ルナは真剣な表情で俺の目を見据えた。
「魔法っていうのは必ず起点があるの。誰かの術式か……道具か、呪いか……何にしても始まりがあるから終わりがあるのよ。ループが起きてるならその原因を突き止めれば抜け出せるかもしれないわ」
――『3、15』
カウントは止まらず進んでいる。
残された時間は思ったより少ないのかもしれない。
「……原因……昨日の夜か?昨日俺たちは何をしてた……?」
思考がぐるぐると回り始めた。
焦燥を押しのけて、ぼんやりしていた記憶をたぐり寄せる。
◇ ◇ ◇
さかのぼること昨日の夜――
空には無数の提灯が浮かび、薄紅色の光が夜の街に揺らめいていた。
道沿いには色とりどりの屋台が立ち並び、人の波がゆっくりと蠢いている。
太鼓の音が遠くから響き、笑い声と混じりながら祭りならではの賑わいを作り出していた。
俺とイヴァン、そしてルナ――三人で並んで歩いていたこの夜は平穏だった。
まるで夢の中にいるような、そんな心地よい騒がしさがそこにはあった。
「うわぁ……!」
ルナが目を輝かせて立ち止まり、浴衣の袖を軽く揺らしながら周囲を見回していた。
下の世界から来た彼女にとってこうした祭りの光景はすべてが新鮮だったらしい。
「すごい……!これが上の世界のお祭りなんだね!人がいっぱいで、屋台も……全部キラキラしてる!」
その声は本当に嬉しそうで、子どもが初めて遊園地に来た時のような無垢な驚きがこもっていた。
「下の世界にも、こんな祭りってあるのか?」
何気なく問いかけた俺に、ルナは少し得意げに胸を張って答えた。
「あるに決まってるでしょ!ちゃんと人も住んでるんだから、そういう文化もあるよ!」
「へぇ~、そうなんだな」
俺とイヴァンが顔を見合わせて笑った時にはルナはもう屋台の方へ夢中になっていた。
「ねぇ、見て!あのお店、おいしそう!」
ルナがはしゃいだ様子でイヴァンの袖を引っ張った。
「ルナちゃん、すぐ食い物に釣られるんだから……」
イヴァンが呆れたように笑いつつも、目元はどこか優しかった。
「まあ、せっかくだし何か食べてくか」
俺がそう言うと、ルナは満面の笑みでぴょんと跳ねて屋台を指差した。
「私、あの赤いやつが食べたい!」
「あれはりんご飴だな」
指さした先には色とりどりのりんご飴が鮮やかに並んでいた。
赤、青、緑、さらには金色まで――屋台の上に美しく並べられていた。
「りんご飴って、こんなに種類あったっけ……」
俺が思わずそう呟くと、ルナは真剣な眼差しで一つ一つをじっくり眺め、やがて王道の赤いものを手に取った。
「やっぱり、最初はこれがいい!」
その顔は本当に嬉しそうで俺もイヴァンもつられて笑ってしまった。
三人並んで歩きながらりんご飴を少しずつ舐めていると、ふとルナの足が止まった。
「……あれ」
彼女が見つめていたのはお面屋の店先に吊るされた無数の狐面だった。
白地に赤の模様、黒地に金の細工、どれも独特の風格を漂わせている。
「狐のお面か……見てるとなんだか気味が悪い気がする。でもまあ、確かに祭りっぽいな」
その中でルナは白地に赤の細やかな模様が入った一枚を手に取った。
「これ……なんだか、不思議と惹かれるの」
そう呟いた時の表情がどこか引っかかった。
まるで引き寄せられるように、それを手に取ったルナに屋台の店主と思しき老人が目を細めて言った。
「おっ、お嬢ちゃん、目が利くねぇ。そいつぁ、稲荷の加護が宿ってる特別なお面だ」
「……稲荷の加護?」
俺の背筋をうすら寒いものが這い上がっていく。
「……おい、それって大丈夫なやつか?呪いとか、そういうのじゃないよな?」
「へっ、縁起もんさ。悪いもんじゃねぇよ。たぶん、な」
店主の曖昧な笑みに不安が募る。
だがルナはそれを気にも留めず、お面を顔に当ててこちらを振り返った。
「どう?似合ってる?」
「……まあ、悪くはないと思うぞ。お前にしてはな」
「天空っ!もうちょっと素直に褒めてくれてもいいのに!」
ルナがぷくっと頬を膨らませ、俺は思わず笑ってしまった。
――その時まではほんの些細な記憶のひとつだったんだ。
だが今は確信している。
あのお面が――何かおかしい。
◇ ◇ ◇
俺はバッと顔を上げ、ルナに詰め寄った。
「なぁ、ルナ。昨日買った狐のお面、どこにある?」
「え?ソファの横に置いてあるよ。どうしたの、急に?」
言われた方に視線を向けると、そこに――あった。
昨日のものだ。
白地に赤い模様が描かれた、どこか妖しげで精巧な狐のお面が静かに横たわっていた。
手に取った瞬間、冷たい感触が掌を刺すように伝わってきた。
……やっぱり、これだ。
あの時から俺の周りの時間が狂い始めた気がする。
「これだ……!このお面が、何かの魔法の媒体になってるんだ!これを壊せば、きっとループも終わる!」
俺はためらうことなく両手でお面を掴み、全力でひねった。
パキィンッ!
甲高い音を立てて狐のお面は真っ二つに割れた。
「よし……これで終わるはずだ……!」
――『3、0』
その瞬間、視界が爆発するように白一色に塗りつぶされた。
そして、気づけば俺は――
ベッドの上だった。
「まじかよ……」
霞む視界の中でぼんやりと――『2、30』が浮かび上がった。
終わってない。
何も終わっていなかった。
(……『0』でまたリセットされた。でも次は『2』……カウントがひとつ減ったってことか?)
時計の針は止まらない。
残された時間は確実に削られていく。
俺は起き上がれずに布団の中でじっと息をひそめた。
額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
――次の手を考えないと。