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第20話 追跡と囚われの男

イヴァンとの戦いは唐突に終わった。

逃げたのだ、あいつは。

俺の拳を真正面から受け止めることもせず、怯えるようにその場を離れた。


時刻は夕方を過ぎ、街の空は深く沈み始めていた。

紫に染まりかけていた雲が黒の輪郭を帯びてゆき、空気は静まり返り、街灯がひとつ、またひとつと灯りを落としていく。

その中で俺はイヴァンの姿を遠巻きに追っていた。

姿が見えるか見えないかの間合いを保ち、足音を殺し、気配を細くしながら闇の中に紛れるようにして。


何度か角を曲がり、何本か通りを越えるとイヴァンがふと足を止めた。

そして振り返った。

それも一度や二度ではなかった。

まるで背後に何かを感じているかのように断続的に視線を巡らせ始めた。

俺は物陰に隠れ呼吸すら浅く抑えながらその様子をじっと見ていた。


やがてイヴァンは一軒の建物に入っていった。

それは旅館のように大きな造りの屋敷だった。

だが表には誰もいない。

灯りは点っている。

それなのにもかかわらず人の気配がどこにも感じられなかった。


「――でかい屋敷だな。けど、営業してるようには見えねぇな……」


つぶやきながらも俺は迷わず正面の引き戸に手をかけた。

何かが引っかかる。

だがそれ以上に確かめなくてはならないという焦燥の方が強かった。

だから俺は扉を開けて足を踏み入れた。


中は広く、廊下がいくつも伸びていた。

扉をひとつずつ開けて部屋を覗き込みながらイヴァンの姿を探していった。

やがて畳が敷かれた茶室のような広い部屋に辿り着いたとき――そこにイヴァンはいた。


部屋の中央に座り込み、肩で息をしていた。

焦燥と疲労の色が顔に浮かび……だがその目だけは俺を鋭く射抜いていた。


「天空……てめぇ、つけて来やがったな」


「俺から逃げるなんて――そんなの許されると思ったのか?……それよりも教えろ。本物のイヴァンはどこにいる」


「は?何言ってんだ。俺がイヴァンだって言ってんだろうが!」


その一言に俺は目を細めた。

分かっている。

お前が偽物であることなんてもう疑いようがない。

なのになぜ平然と嘘を吐ける?


「――助けてくれ!偽物の天空が現れた!」


突然、イヴァンが叫んだ。

声は必死だった。

だが、それ以上に演技がかっていた。


(俺が偽物?ふざけるな。何を言ってやがる)


すると――


「へぇ~……天空の偽物がここに来たんだ?」


聞き覚えのある声だった。

だがどこか冷ややかで人を弄ぶような調子。

その声が襖の奥から響いた瞬間、俺の胸は凍りついた。


まさか――そんなはずはない。

けれど……。


その気配を追って襖の方を振り返るとゆっくりと音を立ててそれが開いた。

そしてそこから少女がひとり――歩いてきた。


息が止まった。


それはルナだった。


青い瞳。

白い肌。

俺の家で帰りを待ってるはずの少女の姿がそこにあった。


「おい、ルナ……外に出るなって言っただろ。どうして、ここに……」


震える声が自分のものだと気づくまでに数秒かかった。

だが、ルナは不思議そうに首を傾げた。


「どうしてここに、って……キミが自分から来たんじゃない」


「なに?」


「私はね、ずっとここにいたのよ。キミが来る前から」


言葉の意味が頭に入ってこなかった。

「キミ」なんて、そんな呼び方をするルナじゃなかった。

俺の知っているルナは、もっと穏やかで、あたたかくて――優しさを纏ったような子だったはずだ。


まるで人格が塗り替えられたような違和感。

心の中に生まれたざらつきが皮膚の内側を這いずり回る。


けれどその違和感を吹き飛ばすようにもう一人の声が重なった。


「……偽物がここに来たんだって?それは……いけないなぁ」


柔らかく、けれど底が見えないほど冷たい男の声だった。

その声が襖の向こうから響いた瞬間、俺は背筋に氷柱を突き立てられたような衝撃を受けた。


――この声を俺は知っている。

間違えようもなく。


ゆっくりとそこから姿を現した男。

その顔を見た瞬間、俺の喉が乾いた音を立てた。


「あ……あいつ……俺じゃねぇか……」


見間違えるはずもない。

そこに立っていたのは俺と同じ顔を持つ男――まさしく「俺」だった。


◇ ◇ ◇


その頃――屋敷の奥にある人目につかぬ廃室のような空間にひとつだけ錠のかかった扉があった。

そこはまるで物置きの延長のような粗末な資材や埃にまみれたゴミの山が積まれた一角。

だが、その乱雑さに紛れるようにして床の上に袋詰めのまま転がされた人影があった。


イヴァンだった。


手首は背中側に回され、複数重ねて巻かれた粘着テープによってがっちりと固定されている。

両脚もまた容赦なく縛り上げられ、口には頑丈なテープが貼り付けられ、頭には黒い布袋が深々と被せられていた。

もはや人間というより処分待ちの荷物のような扱いだった。


イヴァンの意識は浅く、まどろみの中で断片的に浮かぶ記憶を手繰り寄せていた。


(……ここはどこだ。何も見えない。……くそ……あの野郎、昨日、俺のことを――)


悔しさと混乱に押し潰されそうになりながらもイヴァンは目が覚めた直後の記憶をなぞっていた。


あれは確か詩織ちゃんの家だった。

ケーキを調子に乗って食べ過ぎたせいか急激にまぶたが重くなり、気づいたときにはもう眠っていた――そう思った。

だけど目を開けるとそこは知ってる部屋ではなく、冷たい床に置かれた椅子の上だった。

全身を拘束されて身動きひとつ取れない状態になっていた。

咄嗟に詩織ちゃんの安否を気にして声を上げようとしたが声すら出なかった。


あの時……後ろから誰かが近づいてきた。

視界を覆われ、名前を呼ばれて問い詰められる。


天空とルナエレシア王女――その名前が何度も何度も繰り返された。

とくにルナエレシア王女の現在の居場所、そして天空が住んでいた場所について執拗なほど尋ねられた。

だが、イヴァンは口を割らなかった。

いや、割れなかった。

あのふたりを裏切るようなことは死んでもしたくなかった。


(……やばい。このままじゃ本当に……)


全身を締めつけるテープが汗で皮膚に貼りつき、袋の内側は自分の吐息で蒸れていた。

呼吸が浅くなり、冷静さが薄れていく。

だが何もできないまま朽ちていくわけにはいかなかった。


もぞ……もぞ……


イヴァンは少しずつ身体を揺らし、微かな音すら敵に気づかれぬように慎重に身をよじらせた。

そのときだった――。


(……近い。誰かがいる)


背後ではない。

すぐ横だ。

かすかに空気の揺れる気配、そしてかすれた声。


「うーっ……!うーーー!(……誰か、傍にいるのか?)」


イヴァンは慌てて呼びかける。

袋の中では自分の声さえ反響し、相手に届いているのかもわからなかった。

だが、しばしの沈黙のあと、確かに返ってきた。


「うー……うーっ……!」


高い。

少女のような声だった。


(捕まっているのは俺だけじゃなかったのか?)


反射的に体を横に倒し、声のする方向へと這うように進んだ。

すでに手足は感覚が鈍くなっている。

それでも、かすかに聞こえた誰かの存在は彼に希望の糸を与えていた。


「うーっ!うーーー!うーーー!(大丈夫、俺がそっちに行く!じっとしてて!)」


するとまた返ってくる。


「うーっ……うーっ……!」


声の距離が近づいている。

間違いなく同じように拘束されて袋を被せられた誰かがいる――。


(よし、腕を……探すんだ)


「うーっ!うーーーっ!うーーー!(両手を、こっちに出してくれ!探すから!)」


「うー……うーっ……!うーっ……!」


必死だった。

意味は伝わらなくてもいい。

ただ動きさえあればそれを頼りにすればいい。

そうしてイヴァンは音のする場所に向けて身をずらしながら縛られた手先で空を探るように周囲を探った。


やがて微かに何か柔らかな感触に触れた。

これは――布の感触。

それも服の一部だ。

さらに先をなぞれば、紐、そして――硬い締め付ける何か。


(これだ……テープか。これを剥がせれば……)


手の力は弱く指先も痺れていた。

それでもイヴァンは声も上げずにただ無言のままもがき続けた。

この空間に満ちているのは闇だけではない。

誰かがいる――その事実だけがイヴァンの心に灯る炎を絶やさずにいた。


脱出は不可能ではなかった。

だが、それを可能にするには――時間があまりに足りない。


視界は奪われ、音もわずか。

だがイヴァンは必死に集中した。

頼れるのは指先だけ。

暗闇の中で彼は無言のまま目の前の袋に閉じ込められた少女の存在を辿った。


かすかに触れた布地の奥から柔らかな体温が伝わってくる。

震えていた。

声は出せず、ただ息遣いだけが袋の内側で微かに熱を帯びて揺れている。


――間違いない、女の子だ。


その確信は触れた瞬間に全身を走った。

ふわりとした曲線、包み込むような柔らかさ。

腕ではない、肩でもない。

意図せず指先が滑り込んでしまったのは彼女の骨盤あたりだった。

痩せすぎず、しかし繊細であまりにも無防備だ。


(……違う、今はそんなことを考えてる場合じゃない)


一瞬でも意識が逸れたことに自分自身が驚く。

思わず息を呑んだ。

彼女の体は袋越しとはいえあまりにも生々しく彼の意識を引き込もうとしてくる。

だがイヴァンは頭を振って理性を取り戻し、感覚だけで手首の位置を探った。


この状況にどれほどの時間が残されているかはわからない。

だが一刻も早くこの少女の拘束を解かねばならない。

それだけははっきりしていた。


布越しに慎重に手を這わせる。

まるで触れてはならない場所に触れているかのような罪悪感と、それでも続けなければならないという焦りが彼の心を二重に締めつけていく。


指先が細い手首に触れた。


そこだけが冷たい。

きつく巻かれたテープが彼女の肌を締め上げていた。

イヴァンは小さく息を吐き、テープの端を探す。


「うー……うーっ……!うーーー!(大丈夫、今外す……落ち着け)」


袋の中からくぐもった返答が返ってくる。

彼女も喋れない。

口元も塞がれているようだった。

かすかな声色には恐怖と期待が混じっていた。

彼女は自分を救ってくれると信じようとしている。

……その震え方がどうしようもなく胸を打った。


だが、テープはしつこく絡みついていた。

指の力だけではなかなか剥がれない。

しかも袋を破る作業と並行するために効率が悪い。

焦れば焦るほど息が荒くなる。


それはイヴァンだけではなかった。

少女の呼吸もまた明らかに速くなっていた。


――この距離。

この密着。

見えなくても伝わってしまう熱。


彼女の鼓動が指先にまで響く。

誰かが来るかもしれないという緊張感と触れてはいけないものに触れてしまっているという背徳感。

すべてがイヴァンの理性を少しずつ試していた。


(……今はただ、助けることに集中しろ……!)


彼は自分に言い聞かせるようにそっとテープの端を引っ張った。


「んっ!」


「うー……うーっ……!うー……?(どうした、大丈夫か?……何があった?)」


少女の身体が小さく跳ねた。

敏感になっているのだ。

恐怖か、緊張か、それとも――。


「んっ!んーっ……!んーーっ!」


「うーっ!うーっ……!(大丈夫……もう少し……)」


(お願いだから、誰も来るな……せめて、せめてあと数分……)


手を解けば彼女はきっと自由になる。

そう信じてイヴァンは指先に力を込めた。


◇ ◇ ◇


目の前のの光景を見た瞬間、俺の思考は一瞬停止した。


広く、天井の高い茶室の中央。

そこにいたのはルナとイヴァン――そしてもう一人、見慣れすぎた顔を持つ俺だった。


「どゆこと……?」


言葉にならない息が喉の奥で詰まった。

あれは……俺だ。

間違いない。

声も、雰囲気も、姿もそっくりだ。

まるで鏡の中の自分を第三者として眺めているような不気味な違和感。

目の前に並ぶ三人――ルナ、イヴァン、そして俺に混じるかたちで、その場にもう一人の俺が立っていた。


俺はじり、と数歩進み出た。

自分自身と目を合わせながら皮肉のように口を開いた。


「……なんか、こうやって第三者目線で見る俺って不思議な感じだな。俺って周りからこんなふうに見えてんのかよ」


隣のイヴァンがふっと肩を揺らしながら鼻で笑った。


「俺もな、自分のこともうちょっとイケメンだと思ってたんだけどよ。案外普通だったわ」


「は?何言ってんだよ。てめーより俺のほうがイケメンだっつーの」


「はぁ?鏡みてるのかよ?お前のその目つき、どう見ても通報されるレベルだぞ?」


「うるせぇ!俺の方がイケメンだ!つーか偽物が本物ぶってんじゃねぇぞ!」


突然始まった言い争い。

だが次の瞬間、口を挟んだのは――ルナ。いや、もう一人のルナだった。

声色は冷えきっていて、その目に感情の色はなかった。


「まさに、争いは同じレベルの者同士でしか発生しない、というわけね」


「「ああ!? なんだとコラ!?」」


ぴったりと揃った怒鳴り声が茶室に響く。

ルナが眉をひそめた。


「ちょっと!二人して同時に怒鳴らないでよ!鼓膜が割れるかと思ったわ!」


その瞬間だった。

目の前の俺が動いた。


――バサッ。


学生服のボタンが弾け、シャツが音を立てて脱ぎ捨てられる。

突然の行動に場の空気が一変した。

上半身を露わにした偽物の俺の体には鍛えられた線の浮かぶ筋肉がしっかりと刻まれている。

自信に満ちた目線でこちらを見据えてきた。


「おい、何やってんだお前……急に脱ぎだすなよ……ストリップ見せられてんのかと思ったじゃねーか……」


言葉がうわずった。

何が恥ずかしいって、それが自分の体だということに妙な羞恥心が生まれる。


だが、次の言葉には冷えた緊張が混じっていた。


「ここからは俺たち三人でお前を倒しに行く」


そう言って上半身裸の俺はゆっくりと足を開き、戦闘態勢を取った。


「……お前を狙って間違って俺に攻撃されるなんてのはゴメンだからな。こっちはこっちでややこしくて困ってんだよ」


その言葉に俺のこめかみにピキッと何かが走った。


――何が俺たち三人で倒すだ。

まとめてかかってこいだと?

静かに怒りが腹の底からせり上がってくるのを感じた。


「……あぁ、そうかよ。だったらこっちも遠慮しねぇ」


足元に力を込める。

肩の筋肉がゆっくりと熱を帯びていく。


「かかってこいよ、まとめて――ぶっ・キル・ユー!」


語尾を切り裂くように吐き捨てたその瞬間、空気が音を立てて緊張した。

本物と偽物。

味方と敵。

全員が俺を知っていて、敵が俺であるがゆえに――。

次の一手はほんの数ミリの誤差が命取りになる。

三対一の狂った構図が静かに動き出す。

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