表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/130

第19話 天空と疑惑のイヴァン

最後の授業が終わると教室の窓から差し込む日差しはすでに低く、床には長い影が伸びていた。

茜色の空が頭上に広がり、校門の外へ続く道を柔らかな夕陽がゆっくりと包み込んでいく。


俺はいつも通りイヴァンと並んで帰り道を歩いた。

口を開けばたわいもない会話が自然と交わされる。

けれどその会話には微かな違和感が混じっていた。


その時だった。

突然イヴァンが話題を切り替えてきた。


「なぁ天空。今日これから天空の家に行ってもいい?」


「ん?……ああ、別にいいけど」


一瞬、問い返しかけた言葉を飲み込んだ。

無理に明るさを作った口調だった。

今朝からずっと続いている違和感がまた一つ形を持って現れたような気がした。


不思議に思いながらも俺たちはまっすぐ家に向かわずに途中のコンビニに立ち寄ることにした。

少し小腹が空いていたし、何か軽くつまんでから帰ろうと思ったからだ。


レジ横のホットスナック売り場で食べやすいサイズのカップチキンを一つ。

それからペットボトルのお茶を一本。

お会計を済ませて店を出ようとした時、ふと気づいた。


――そういえばこいつ、今日一日なにも食ってないんじゃないか?


給食の時間もイヴァンはずっと机に座ったままだった。

トレイの上に並べられた食事に指一本触れようとしなかった。

牛乳も、パンも、メインの皿も。

フォークに手を伸ばすことすらなく、ただ俯いたまま、ぼんやりと時間を潰していた。


そして今も店内を無言で一周しただけで何も買わなかった。


あのイヴァンが――飯を前にして無反応。


あり得ない。

……あいつは、ああ見えて食べ物に関しては正直だった。

気に入ってる菓子パンの話なんて誰も聞いてないのに延々と語ってくるようなやつだった。


――試してみるか。


少し前のイヴァンなら絶対に断らない言葉を選んで俺はわざと軽く言った。


「なあ、イヴァン。お前、このチキン好きだったろ。一つやるよ」


カップ入りの一口チキンをひとつ摘んで目の前に差し出す。

イヴァンは黙ってそれを受け取ると指先に軽く挟んだまま、じっと見つめていた。

それから沈黙を破った。


「天空。……俺さ、今、ものすごく落ち込んでるんだ。こんなの食ってる場合じゃない。早く、お前んち行こうぜ」


そう言って手にしていたチキンを――道路に投げ捨てた。


……投げ捨てやがった。

俺があげたものを目の前で、何のためらいもなくゴミみたいに。


胸が締め付けられた。

怒りでも困惑でもない。

ただ、理解が追いつかなかった。


俺の知ってるイヴァンはそんなことを絶対にしない。

表情も言葉も、仕草も――確かにイヴァンのものだ。

だがその奥にあるもっと根っこの部分が決定的に違っていた。


昨日からずっと胸の奥に刺さっていた不信感がそこで決定的な形を持った。


こいつ……もしかして魔物に乗っ取られてるんじゃないか?


呼吸が速くなる。

このまま家に連れて帰って本当に大丈夫なのか?

問いかけても心が首を縦に振ってくれない。


俺は思い切って進む方角を変えた。

住宅街への分かれ道を無視して、そのまま学校とは逆の方向、あまり人の通らない裏道へと足を向けた。


イヴァンは何も言わなかった。

ただ俺の横を歩きながらいつもの調子で話しかけてくる。

その応対はあまりにも自然で――むしろ不自然だった。


言葉の内容は合っているのに声の奥に体温がない。

まるで台本をなぞるだけの空っぽの演者。


そこで俺はもうひとつ試してみることにした。


「お前さ……今日ずっと暗いけど、本当にミスターブルーになっちまったか?そういやあの赤い宝石。調べたらめちゃくちゃ高かったぞ」


わざと嘘を混ぜた。

イヴァンが机に置いていたのは青い宝石だった。

本物のイヴァンならその違いに気づくはずだ。


すると案の定、反応があった。


「俺が持ってったのは青い宝石だろ。……何言ってんだよ天空。そんなことより――ルナが待ってる。早く家に行って作戦会議をしよう」


その瞬間、背筋が凍りついた。


ルナのことを「ルナちゃん」と呼ぶのはこいつの癖だった。

どんなに疲れていても、怒っていても、その呼び方だけは崩さなかった。

俺たちの間で何度も交わされた変わらない愛称。


それが今、あっさりと切り捨てられた。


違う。

目の前のこいつはイヴァンじゃない。


積み重なっていた違和感のすべてが一気に繋がった。

表情の空白、会話の機微、作られた自然、欠けた感情。

食への無関心、ルナの呼び方――


点と点が線になり、答えにたどり着いた。

俺は静かに息を吐く。

もう迷いはなかった。


――目の前にいるこのイヴァンはイヴァンじゃない。


「……悪いな、イヴァン」


俺は低く呟くと次の瞬間、思いきり踏み込んだ。


「おらぁぁぁーーーっ!」


「ぐわっ!」


乾いた音が空気を裂いた。

拳が頬を捉え、イヴァンの頭が振り飛び、身体がのけぞって地面に倒れ込む。

アスファルトに擦れる鈍い音。

反射的に俺の方を見上げたその顔に刻まれていたのは、まぎれもない驚愕だった。


「て、天空……いきなり、何しやがるんだ……?」


「お前が操られてるのか、偽物とすり替えられてるのか正体は知らねえ。でも今ここで叩き起こしてやるからな。全部――確かめてやる!」


殴った拳がじんじんと痺れる中、イヴァンはゆっくりと地面から身を起こし、俺に正面から向き直った。

その目は相変わらず俺の親友のそれと酷似していたが奥にあるはずの何かが決定的に欠けていた。


「天空……お前こそ、おかしくなってるんじゃないのか?どうして俺がお前と戦わなきゃいけないんだよ」


「おかしいのはお前だろ、イヴァン。なんで道を逸れても何も言わなかった?普段のお前ならそんなの真っ先にツッコんでくるだろが」


「……おかしいと思ったさ。だけどお前がこっちの道に進んだんだろ?」


「進んださ。お前がいつものイヴァンじゃないからだ」


沈黙。

イヴァンは俺の言葉を一瞬だけ呑み込んだかと思うと、ふっと溜め息をついて呆れたような顔で――構えを取った。


「……天空、お前本当にどうかしてるぜ。だったら俺の技で思い出させてやるよ」


その言葉と共にイヴァンの全身に張り詰めた空気が走る。

背筋を伸ばし、深く息を吸い、拳に意識を集中させる――


「くらえ!正拳一閃突き!!」


その瞬間、風を裂くような音と共にイヴァンの拳が一直線に俺へ飛び込んできた。


「なにぃ……!」


避ける暇はなかった。

両腕を交差させてガードする。

だが、まるで鉄塊のような一撃が衝撃波のように全身を貫いた。

足が地を離れ、次の瞬間には背中から地面に倒れ込んでいた。


「ぐっ……まじかよ……。技の記憶、あるじゃねぇかよ……!」


「天空、少しは目が覚めたか?今のは俺のオリジナル、俺にしか出せない技だ」


涼しい顔で立ち尽くすイヴァン。

その様子が余計に不気味だった。


「……もう怒った。お前が本物かどうかなんてもうどうでもいい。とにかく今はケリをつけようぜ」


「――ああ、そうだな。俺は逃げも隠れもしねぇ」


イヴァンが静かに構え直す。

型は空手に似ているが、その動きには柔術のような滑らかさと合気道のような重心の流れが混じっていた。


だが一番厄介なのは――


(あのカウンター……!)


俺のオーラの先読みと呼吸の一致。

それを活かした即時反応の技。

まるで見透かしたように俺の動きを寸分違わず刈り取ってくる――反則級の技。


「どうした天空。来いよ。見せてみろよ、お前の本気を」


「……後悔すんなよ、イヴァン」


あいつのオーラの技は飛んでくるから遠距離じゃ不利。

だったら――一気に詰めるしかねぇ。


地を蹴り、距離を潰す。

踏み込みは迷いなくまっすぐにイヴァンの懐を目指した。


「甘いな天空!それじゃあ自殺行為だ!くらえ――瞬影呼吸投げ!」


踏み込んだ瞬間、足元の感覚が奪われた。

まるで影に足を絡め取られたように――次の瞬間、俺の体は浮かされていた。


「うわっ――!」


視界が一瞬、空に裏返る。


(やられた……!)


そのまま宙に浮かされた俺にイヴァンの足が弧を描くように迫ってくる。


「空斬――旋風脚!!」


高速度の回転蹴り。

狙いは首元――一撃でも食らえば終わる。


「させるかっ!!」


空中で反動的に腰を沈め、全身の軸を捻る。

サッカーのオーバーヘッドキックに近い姿勢でイヴァンの蹴りと交差させ、俺も右脚を振り抜いた。

脚と脚が交差し、金属が捻れるような軋みが空中に響く。

衝突点から放たれた衝撃は夕暮れの風ごと軌道をねじ曲げ、鈍い音が鼓膜を貫いた。


「なっ……俺の空斬旋風脚を……蹴りで止めやがっただと……?」


イヴァンの驚愕が滲んだ声が呼吸に乗って漏れる。

だが俺はそれに構わず今まさに発生した回転の遠心力――その力を逆手に取って身体を大きく旋回させた。

脚の軌道を制御しながらその勢いを最大限に増幅させて――


「喰らえ……!ハリケーン スイング キック!!」


回転しながら放たれる渾身の蹴り。

重力と回転が生んだその一撃――目で追えぬはずの蹴りをイヴァンは読んでいた。

目を細め、まるで時間が止まったかのような精密な間合いで一歩も動かずに片腕を突き出す。

俺の回転蹴りを、その一本の腕で完璧に受け止めやがった。


「……やるじゃねぇか」


「なあ天空……。それが新技ってやつか?お前こんなものかよ」


イヴァンの声は冷たく、挑発的だった。

まるで心底つまらないと言わんばかりの声で俺の胸中を突き刺してきた。


「……なんだと……?」


次の瞬間にはイヴァンが動いた。

踏み込みと同時に深く息を吐き、重心をさらに低く構える。

あの構え――正拳の型。

身体の芯から練り込まれた空手の呼吸。

そして――突進。


「ぐっ……!」


息を整える暇もなく俺の間合いにイヴァンが踏み込んでくる。

精密な正拳突きの連打が襲い掛かってきた。

左、右、下段からの上段、そして再び左。

一撃ごとに殺気をまとい、鋭く、重い。

至近距離で放たれるにはあまりに容赦がなさすぎた。


「てめえ……!」


俺はこみ上げる衝動を抑え、体勢を崩さず守りに入った。

身体を丸め、打撃の軌道を読み切り、腕と肩を使って衝撃を流す。

それでも指先が肩を擦り、脇腹を掠める。

一つひとつの接触が紙一重の攻防だった。


振り抜かれたイヴァンの足が唸りを上げる。


「いくぞ――回し蹴り!」


回転軌道を描きながら飛んできた足を俺は腰を沈めて右腕で受け止めにかかる。

……が、それは囮だった。


「真空かかと落とし……!」


イヴァンの右足が高々と振り上げられる。

さっきより溜めを込めた決定打の構えだ。

俺はすぐさま両腕を前に出しクロスガードをした。


だが――違和感が走る。


(止まった……?)


いや、動いている。

だが軌道が逸れていた。


「フェイント……!!」


読めなかった。


「今度こそ終わりだ――空斬旋風脚!!!」


勢いのある回転蹴り。

風を裂き、俺の顔面へと迫るイヴァンの足――避けきれなかった。


「ぐっ……わあああ!!」


視界が一瞬、白に染まり、次いで闇。

身体が斜めに吹き飛ばされて背中から地面に叩きつけられる。

アスファルトの冷たさが背骨を突き上げてきた。


「どうやら、俺の方が強いみたいだな、天空」


イヴァンの勝ち誇った声が上空から落ちてくる。

顔を上げるとあいつがゆっくりと構えを解いていた。


「……はっ、笑わせんなよ。お前の攻撃なんざ、全然効いてねぇよ」


頭が揺れても口は止まらなかった。


「……なに?」


イヴァンの顔に微かな苛立ちが滲む。


「だったら次で終わらせてやる」


「てめえが次で……終わるんだよ」


そのまま俺は腹筋を一気に収縮させて身体を跳ね上げた。

勢いのまま着地と同時に踏み込む。

イヴァンとの間にあったわずかな距離を一瞬で詰めるために脚の力を限界まで使った。

脚に走る痛みも、肺を焼く疲労も、意識の隅に押し込める。

今の俺に必要なのは感情でも判断でもない。

ただ前へ。

脇目も振らず、ただイヴァンの顔面をめがけて突っ込んだ。


「また直進かよ、天空。単純すぎるぞ!」


イヴァンの声が鋭く響いた。

冷笑とも、呆れとも取れる声。

そのまま奴は動かない。

わずかに膝を折り、腰を沈め、深く息を吸う。

あの構え――あいつの得意とする「待ち」の型だった。


あいつが本気で迎え撃つ時に必ずあの姿勢を取るのを俺は知っていた。

相手を誘い込み、見切りの一瞬に全てを懸ける。

後手を取るように見せかけて、実際には――俺には見えないオーラの流れを読んで牙を研ぎ澄ませている。

それがあいつの戦い方だった。


だが――構わない。

俺の拳でその構えごと砕いてやる。


迷いはない。

狙いは定まっている。

俺の拳が閃光のように突き出る。


しかし――


「……避けられた……!」


紙一重でかわされ、イヴァンの身体が流れるように動く。

次の瞬間、右腹に打突の衝撃が走る。


「終わりだ天空!――疾風一閃二段突き!」


風が裂けた。

視界の端でイヴァンの腕が閃き、次の一撃が滑るように俺の胸元へ走る。

見えてはいた。

だが、反応が追いつかなかった。

拳が腹に食い込み、続けざまに胸を撃ち抜いた。

衝撃が内臓を圧迫し、骨の奥まで震えるような痛みが背中を走った。

それでも俺は倒れなかった。


「イヴァン……お前の攻撃、こんなもんじゃなかったはずだ」


かすれた声が喉の奥から漏れる。

挑発でもなく、見下しでもない。

ただ――疑念だった。

俺が知っているイヴァンの拳は重くて鋭かった。

だが今の一撃は違った。

思い切りの悪さが、そのまま拳に出ていた。


「おらぁ!」


その違和感を吹き飛ばすように俺は反撃の拳を振り抜いた。

感情ではなく、信念の一撃だった。

俺の拳がイヴァンの頬を捉え、骨越しに硬い感触を伝えてくる。

そのまま身体が弾かれて背中から道路に叩きつけられた。


「な、なんだと……俺の必殺技が……」


顔を歪め、膝をついたままイヴァンは掠れた呻きを漏らした。

その姿に俺が知っているイヴァンの面影はなかった。


「イヴァン、そんなパンチじゃ――これから襲ってくる魔物に勝てるわけがない。……お前、本当にイヴァンなのか?」


静かに問いかけたその瞬間。

イヴァンが突然立ち上がり、背を向けて走り出した。

返事はない。

こちらを見ることもなく逃げるように地を蹴った。


「おい、待てこら!」


声を飛ばしても奴は振り返らない。

ただひたすら前だけを見ている。

後ろを振り返ることすら忘れたような、逃げるためだけの走り方だった。

今のあいつなら俺が後をつけていても気づかないだろう。


俺は息を吐いて、ゆっくりと奴の背を追い始めた。


「……やっぱり、あいつはイヴァンじゃないな」


疑念が確信へと変わっていく。

あいつは逃げない。

傷ついても、血を流しても、戦いから目を逸らすことは絶対にない。

何よりあんなに弱々しい背中を見せたりはしなかった。

だからこそあれはイヴァンではない。


「とりあえずつけてみるか……どこにいようが本物のお前は俺が必ず見つけ出す。だから待ってろよ――イヴァン」


夕暮れの舗道を靴音が鳴る。

まっすぐにただ一人を追いかけて。

俺は信じている。

あの先に本当のイヴァンがいることを。

答えを見逃さない。

そのために俺は走る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ