第18話 体調不良と絶不調男
俺とルナはいつものように居間でテレビをつけっぱなしにしたまま、ソファにだらりと腰を沈めてイヴァンの到着を待っていた。
画面の中では実況の興奮した声と観客の歓声が交互に鳴り響いている。
ルナは例によってサッカーという競技のルールを完全には理解していない様子だったが、俺の隣で黙ってテレビを眺めていた。
けれど俺たちの意識はテレビとは別のところに向いていた。
「……あ~、お腹すいた~」
俺はソファの背に体を預けながら気の抜けた声でうめいた。
腹の奥からぐう、と抗議のような音が鳴って、それに紛れるように言葉を続ける。
「それにしても、イヴァン遅いな。いつになったら夜飯持ってくんだよ……」
「はいはい、文句はそこまで」
ルナがすかさず突っ込んでくる。
彼女は俺の隣に座って足を組みながら冷ややかな目を向けてくる。
「さっき、カップラーメン食べたばっかじゃない。少しは我慢しなさいよね」
「う……」
何も言い返せなかった。
たしかに昼過ぎに我慢できず手を出したカップ麺の残骸がまだ台所のゴミ箱に残ってる。
三日前から学校を休んでいる俺は表向きには「体調不良」ってことになっていた。
そのあいだ、毎晩イヴァンの家で食わせてもらっていた夕飯は当然お預け。
その代わりにイヴァンがこっちに食事を持ってきてくれるようになっていた。
それなのに今日はやけに遅い。
約束の時間はとっくに過ぎているし、連絡もない。
「……それにしても返事もねぇし。イヴァンのやつ、まさかどっかで魔物にでもやられてんじゃねーの?」
冗談のつもりだった。
だがルナは顔をしかめて、すぐに言い返してきた。
「やめてよ、そういう縁起でもないこと言うの。……冗談でも不安になるわよ」
ルナの表情を見て、さすがに少しだけ反省した。
けれど、それほどに珍しいことだった。
イヴァンがこんなに遅れるなんて滅多にない。
むしろあいつの事だから連絡無しで一時間遅れるより、五分遅れる方が本人にとって罪悪感が強そうなくらいだ。
その時、不意にスマホが震えた。
画面に表示されたのは「イヴァンの父さん」の文字。
俺は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、天空です」
『おお天空、体調はどうだ?少しは良くなったか?』
「うん、もうだいぶ良くなりました。明日から学校にも行けそうです」
電話越しに聞こえるのはいつもの優しい声だった。
だけどその次の言葉で空気が一変した。
『そうか、それなら良かった。……ただな、今度はイヴァンの方が体調を崩してしまったみたいなんだ』
「え……?」
『今日、家に戻ってきたと思ったら、すぐに自室にこもってしまってな。夕飯もいらないって言って、顔色もかなり悪かった。……なにか学校であったのかもしれん』
スマホを握る手に思わず力がこもる。
「マジかよ……イヴァンが体調不良なんて珍しすぎる……」
イヴァンは俺の知ってる限りじゃ病気一つしない健康体だった。
だからこそ妙な不安が胸をよぎる。
それでも少なくとも魔物絡みではなさそうで、それがせめてもの救いだった。
あいつが怪我もせずに家に帰ってきたなら大丈夫だろう。
『天空、お腹すいてるんだろう?よかったら今から俺が持っていってやろうか?』
「あ、いや……今日はコンビニで買ってきた弁当で済ませるから大丈夫!」
『そうか、それなら安心だ。明日はまた家に食べにおいで』
「うん、いつも本当にありがとうございます」
通話を切ると俺はルナの方を向いた。
彼女はじっとこちらを見ていて、その目にはわずかな陰りがあった。
「イヴァン、具合悪いらしいよ。だから今日は来れないってさ」
「……そう。それなら、よかった」
そう言ったルナの声にはどこかホッとしたような響きがあった。
けれど俺にはまだ一つ大きな問題が残っていた。
「……とはいえ、家に食べ物が何も無いんだよな。結局、本当にコンビニ行くしかねぇな」
「私は夜は外に出ないわよ」
「分かってるって。俺が行ってくるよ」
そう言って立ち上がり、財布と鍵を手に取って玄関に向かった。
夜の空気に包まれながら俺は自転車にまたがって近くのコンビニへとペダルを踏み出した。
十分ほどして戻るとルナはちゃっかりテーブルの前に座って、俺の買ってきた袋を物珍しそうに見つめていた。
「これはなに?この丸いのと、こっちの……細長いやつ」
「おにぎりとフランクフルト。あと、これはコーラ」
「コーラ?それ、おいしいの?」
「まあ、とりあえず飲んでみ?」
俺が渡したペットボトルをルナは慎重そうに手に取った。
蓋を開けた瞬間、しゅわっと小さな音がして彼女の顔が一瞬だけこわばる。
「……いただきます」
ちびっと口に含んだ直後、ルナの目が一気に見開かれた。
「なにこれっ!?甘っ!喉が爆発する~!おえ~っ!」
「ぎゃははははっ!!」
俺は腹を抱えて笑った。
ルナは口を押さえながら本気で驚いた顔をしていたけれど、その瞳の奥はどこか楽しげだった。
最近こうやってルナにこっちの世界の食べ物を味見させるのが俺の密かな楽しみになっている。
彼女が驚いて、戸惑って、そして少し笑ってくれる。
たったそれだけのことが妙に嬉しくて、心のどこかを温めてくれた。
そんなこんなで一日はあっという間に過ぎていった。
結局、昨日の夜もイヴァンからの連絡は来なかった。
そして、迎えた翌朝。
窓の隙間から差し込む日差しがまだ少し寝ぼけている俺の肩をやわらかく照らしていた。
久しぶりに制服に袖を通し、鏡の前でネクタイを締め直すとようやく少しだけ現実に戻ってきた気がした。
階段の下から寝ぼけ声が聞こえてくる。
「おはよう天空。今日は朝早いね」
「ああ。今日から学校だ。三日も休んじまったからな」
ルナはゆっくりと居間に入ってきてソファに腰を下ろした。
ふわふわの寝間着姿で髪も少し跳ねている。
その様子がどこか子どもっぽくて俺は少し笑ってしまう。
「今日はルナ、一人でお留守番な。もし何かあったらあのパソコンから俺にメールしてくれ。あと、絶対に一人で外に出るなよ」
「はーい、わかってまーす!」
軽く片手を上げて敬礼の真似事をするルナ。
ふざけた調子だけど、こいつがバカじゃないことは分かってる。
むしろ俺よりはるかに慎重で頭もいい。
ただ、こんなふうに楽しそうに笑っていると時々忘れそうになる。
この子が下の世界から来て、魔物に追われているという事実を。
本当に王女なんだよな。
この部屋でお菓子をつまんで、サッカーを見て、コーラにむせてるこの子が。
「……ん?どうかしたの?天空」
「あ、いや……なんでもない。ちょっと考えごとしてただけ。それより……イヴァンから、やっぱりまだ連絡ないんだよな」
「体調崩してたんでしょ?無理しないで休んでるだけじゃない?」
「……そう、かもな」
確かにそうかもしれない。
けど、いつものイヴァンならどんなに熱があっても一言くらいはメールを返すはずだ。
それに今日みたいな日なら絶対に「迎えに行く」と言って家の前に立ってるはずだ。
あいつはそういう奴だった。
違和感。
小さくても消えずに胸の奥で息を潜めていた。
とにかく学校に行って確かめよう。
イヴァンが来ているかどうか。
◇
教室の扉を開けた瞬間、すぐに目に飛び込んできた。
「あれ……もう来てる?」
俺は足を止めた。
イヴァンが自分の席に座っていた。
姿勢よく、じっと前を見ている。
普段通りの制服。
髪も乱れていないし、特に怪我をしている様子もない。
ただ、何かが違った。
言葉にはできないけど、あいつの中にぽっかりと空洞ができているような、そんな感じ。
俺は歩み寄り、できるだけ普段通りのテンションで声をかけた。
「ういっす!イヴァン。昨日は大丈夫だったか?体調悪かったって聞いたけど」
「おう、おはよう天空。……昨日は悪かったな、飯、届けに行けなくてさ。マジで、なんていうか……急に全身に疲労がきて動けなかったんだ」
「いや、全然いいって。……それよりも本当に何もなかったか?」
俺は視線を外しながら遠回しに聞いた。
魔物に遭遇したのか、それとも別の何かがあったのか。
「大丈夫さ。……何も起こってないよ」
妙に静かな言い方だったが俺はそれ以上踏み込まなかった。
イヴァンの顔に傷はない。
見たところ何も事件らしき痕跡は見えない。
「そっか。なら、いいんだけどさ」
俺はそう言いながら内心では別の想像をしていた。
イヴァンの目は時折、妙に遠くを見ていた。
授業が始まってもいつものような余裕や冗談が消えていた。
そして、給食の時間になった。
俺は給食のパンをかじりながら、チラチラとイヴァンの様子を見ていた。
あいつ、箸ひとつ動かしていない。
まるで食べるという行為そのものを忘れてしまったかのように、ただ机の上の給食を見つめている。
……まさか、昨日の夜から何も口にしてないのか?
たしかイヴァンの父さんは「帰ってきたあと部屋に閉じこもって、食事もいらないと言った」って。
そのまま何も食わずにここに来たってことか?
俺は無意識に給食のパンを握りしめていた。
胸の奥がざらつくような不安で満たされていく。
昨日の違和感は気のせいなんかじゃない。
イヴァンの中で確実に何かが変わった。
問題はそれが何なのか。
(……イヴァン、お前、ほんとに……大丈夫か?)
俺は給食を片付けながら、ふと決めた。
イヴァンの様子がおかしい理由を今日のうちに突き止める。
その一心で給食の雑音が残る教室の片隅、ちょうどイヴァンの視線が届かない位置にいた同級生の吉田――通称ヨッシーの机へと身体を寄せた。
「おい、ヨッシー。俺が休んでる間にさ……イヴァンに何か変なこと、あった?」
ひそめた声が届いたのか、ヨッシーは箸を止めると口をモグモグさせたまま軽く首をかしげる。
「あー、あいつ?……ああ、あったあった。また隣のクラスの詩織ちゃんに告ってフラれたらしいぞ」
「は?また?マジかよ。ついこの前、玉砕したばっかだろ」
「うん、でもな……最初はうまくいってたらしい。手つないで一緒に詩織ちゃんの家まで帰ったんだってさ」
「……はあ!?まさかの告白成功ってやつか?」
「まあ、そこから悲劇の逆転劇だったらしいけどな。家から追い出されて終わったとか……」
思わず俺は息を呑んだ。
何をどうしたらそんな展開になるんだ。
水の魔物と命がけの戦いを終えたばかりだってのに、あいつ、何やってんだよ。
すると隣の席から声が飛んできた。
「ていうかさ、イヴァンから告ったんじゃないんだろ?呼び出したの詩織ちゃんの方だったらしいぜ」
口を挟んできたのは伊藤だった。
無遠慮な言い方だけど悪気はない。
「え?」
思わず振り向くと伊藤は何食わぬ顔で続けた。
「昨日さ、俺、校門の近くで見たんだよ。詩織ちゃんがイヴァンの腕の袖んとこ引っぱっててさ。そのまま二人でどっか行ってたよ」
隣でヨッシーがスプーンを止める。
「それ、マジかよ。……やっぱ最初はうまくいってたんだな。そりゃ調子にも乗るわ」
話を聞くにつれて俺の中にあった不安の霧が少しずつ晴れていくのを感じた。
魔物やら命の危機やらじゃない。
少なくともそういう種類の事件ではなさそうだ。
――けど、これはこれで問題だろ。
「……はあ」
俺は昼休みに詩織ちゃん本人に聞いてみることにした。
イヴァンのやつ、どうやらまた盛大にやらかしてる気配がある。
真相は本人に聞かなきゃわからない。
昼休みになると俺はさっそく隣のクラスへ向かった。
――だが。
「……詩織ちゃん、いないな」
教室をざっと見渡しても彼女の姿はどこにもなかった。
ちょうど近くに彼女といつもつるんでいる女子がいたので声をかける。
「なあ、詩織ちゃんって今日どうしたか知ってる?」
「詩織ちゃん?今日休んでるわよ」
「マジかよ……」
このタイミングで詩織ちゃんが学校を休むなんておかしい。
ということは、やっぱり昨日何かあったんだな。
俺は決意を固めて教室に戻り、相変わらず席でうつむいているイヴァンに声をかけた。
「イヴァン、ちょっとトイレ行こうぜ」
「ん……ああ、いいよ」
俺たちはトイレに寄った後、そのまま人気のない隣の空き教室に移動した。
誰にも邪魔されず落ち着いて話せる場所がほしかった。
教室の扉を静かに閉めてイヴァンと向かい合う。
「……でさ、イヴァン。お前また詩織ちゃんに振られたって聞いたけど、あれほんと?手、つないで家まで行ったとか……何があったんだよ」
イヴァンは少しだけ視線を逸らし、ほんの僅かに唇を噛んだ。
そして、絞り出すように語り始めた。
「……手を繋いでさ。詩織ちゃんの家に入って、手作りのケーキくれて……すごく優しくて、あったかくてさ。なんていうか、完全に浮かれてた」
「お、おう……」
「それで……ケーキ食べ終わったあと、また手を繋いで……詩織ちゃんの顔がすっごく近くに来たんだ。もう、目の前にあってさ……それで……」
「……まさかとは思うけど……」
「……キス、しようとしちゃった」
「……」
「そしたら――全力で拒否られて、叩かれて、叫ばれて、家から追い出された……」
イヴァンは絞るような声で言った。
「天空……俺の人生、もう終わりだ……」
あまりに間抜けで呆れ果てた。
イヴァンの顔には、さすがに同情したくなるほどの落胆が浮かんでいた。
無理もない。
こいつは真剣だったんだ。
命を賭して魔物と戦ったあとに、好きな子にも全力で挑んで盛大に玉砕。
そりゃ落ち込みもするだろ。
けど。
「イヴァン……お前、馬鹿なのか?」
「……うぅ……天空、もうやめてくれ……俺にはもう人権なんてないんだ……」
俺はため息をついて、そっと肩を叩いた。
「お前に人権は無くても、俺が友達だろ?」
「……うぅ……」
イヴァンの顔が俯いたまま少しだけほころんだ。
しょうがないやつだ。
けど、これが俺の親友だ。
……それでも。
あいつの中には、まだ言葉にしていない何かが残っている。
昨日本当は何があったのか。
その答えはまだ、イヴァンの奥深くに沈んだままだった。
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