第17話 理想の女の子と理想のデート
今日は月曜日。
だが、俺は今日から水曜日まで三日間にわたって学校を休むことに決めていた。
理由は単純で身体が満身創痍だったからだ。
まだ癒えきっていない傷が随所に残っているし、それ以上に――久しぶりに全力で戦った影響で全身がひどい筋肉痛に襲われていた。
起き上がるだけでも苦労する有様では授業どころではない。
もっともこれほどの疲労感を覚えるのも無理はない。
新しく思いついた技を初めて実戦で使ってみたのだ。
頭では理屈が分かっていても身体がそれについてこなかった。
動作の一つ一つが重く、軋み、呼吸すらままならないほどだった。
もう少し身体が回復したら今度は本格的に技の練習を積まなければならないだろう。
実戦に応用できるレベルにまで練り上げて初めてあれは技と呼べるものになるはずだ。
そんなことを考えていた矢先、家の玄関から軽快なノック音が響いた。
ドアを開けると青い宝石を手にしたイヴァンが立っていた。
「おお~!こりゃまた、かなり高く売れそうな代物ですなぁ!なぁミスターブルー!お~い、ルナ!見てくれよ!」
「おい、その呼び方やめろって。恥ずかしいだろ……」
俺の茶化すような口調にイヴァンは小さくため息をついた。
だが、ルナはそんなやり取りを楽しむように手にした宝石を覗き込んでからぱっと顔を明るくした。
「これはブルーサファイアだね。私の世界でもすごく価値のある宝石だったから……たぶん、こっちの世界でも高値で取引されると思うわ。ねえ、天空~、またあのリサイクルショップに行こうよ~。ね?お願い、いいでしょ?」
甘えるような声でルナは両手を組んでこちらを見上げてきた。
少しだけ芝居がかった態度だったがその瞳にはどこか無邪気な輝きが宿っていた。
「おいルナ、俺はまだ怪我してて動けないんだぞ。今、無理して外に出て魔物にでも見つかったらどうするんだ。しばらくは外出禁止だ。……それより、お前はまだこの世界に来たばかりなんだから、まずはこの世界のことを少しずつ知るところから始めたほうがいいんじゃないか?」
俺の言葉にルナは「あっ」と小さく声を漏らしてほんの少しだけ眉をひそめた。
「そういえば……そうね。私、自分が置かれてる状況だけで頭がいっぱいで……こっちの世界の事をちゃんと考えたことなかったわ」
やっと気づいたとでも言いたげな顔だった。
それだけ彼女にとっては目の前の現実を受け入れることで精一杯だったのだろう。
その様子を見ていたイヴァンが唐突に口を挟んだ。
「天空、ルナちゃんにスマホ貸してやったらどうだ?」
「……え~、嫌だよ」
「じゃあ、天空の部屋にあるパソコンを貸してやれよ」
「え~……まぁ、そうだな。ずっと家の中で何もしないのも退屈だし……仕方ないか」
「よし、それなら俺は学校に行くわ!じゃ、またな!」
イヴァンはそう言って軽く手を振りながら去っていった。
俺はルナを俺の部屋へ案内して部屋の隅に設置されたノートパソコンの電源を入れるとその用途や操作方法について簡単に説明した。
最初のうちはルナはまるで興味がなさそうだった。
無理もない。
彼女のいた世界にこんな機械は存在しなかったはずだ。
だが、俺が普段見ている動画サイトやニュース、SNSの仕組みを一つひとつ紹介していくうちに――彼女の目の色がはっきりと変わった。
「すごい……こんなにたくさんの情報が一瞬で見られるなんて……」
完全に魅了されたらしい。
初めて見るものばかりのはずなのに彼女の手つきは妙にスムーズで、画面を切り替えるたびに表情がころころと変わった。
俺はその様子を横目に眺めながら背中を壁に預けて深く息を吐いた。
ようやくゆっくりと休めそうだ――そう思えたのはルナが少しだけ日常に触れた気配を見せたからかもしれない。
それからの二日間、目立った事は何も起こらなかった。
驚くほど静かで逆に気味が悪いくらいだった。
水曜日の朝、カーテン越しに差し込む光がぼんやりと部屋を照らし、どこか眠気を誘うような柔らかさを帯びていた。
俺はベッドの上でまだ少し重たい体をゆっくりと起こす。
脚に残っていた鈍い痛みも随分と引いていて、昨日までは違和感のあった肩の関節も今日はもう気にならなかった。
完全に回復したとまでは言えないが少なくとも日常生活に支障はない。
俺がそうして感覚を確かめながらストレッチをしていると向かいの部屋――ルナの部屋からカタカタと軽快なタイピング音が響いてきた。
ルナはというと、もうすっかりパソコンに夢中になっていた。
最初の頃こそ「これ、触っても大丈夫?」なんて恐る恐るだったくせに、今では何のためらいもなく電源を入れて見慣れた手つきでキーボードを叩いている。
文字の入力にも慣れてきたのか日本語と英語を自然に切り替えながら、まるで以前から使っていたかのような手際の良さだった。
最初はゲームでも始めたのかと思っていたがどうやら違ったらしい。
音もBGMも鳴らない静かな操作音だけが続くから何をしているのかとこっそり覗いてみると――ファッションサイトだった。
しかも海外のブランドショップから日本のセレクト通販まで網羅的に開いていた。
その日の午前、ちょうどトーストが焼き上がった頃にルナが居間のドアからひょこっと顔を出した。
「天空~!新しい洋服が欲しいよ。この服、大きすぎて動きづらいんだもん!」
ルナが着ていたのは俺のジャージに母さんの古いパーカーを重ねたいかにも間に合わせの格好だった。
袖は指先どころか手首すら飲み込んでいたし、ズボンの裾も引きずっている。
正直、鏡に映すのも気が引けるほどにはサイズが合っていない。
「たしかに、ずっとそのままってわけにもいかないよな……」
俺は苦笑して頭をかいた。
服のことなんて後回しだったけど、今になってようやく彼女の視線がそこに向いたのは情報に触れたからなんだろう。
ネットの中にはルナが知らない普通が山ほどある。
その中で自分の今の姿が浮いていると気づいたのかもしれない。
「よし、週末に買いに行こう。土曜か日曜のどっちかでイヴァンにも付き合ってもらう。俺とふたりでってのは、まだちょっと怖いからな」
「やったーっ!ありがとう、天空!」
ルナは両手を広げて軽く跳ねた。
声の調子も跳ねていて、その仕草がいちいち可愛らしい。
俺はつられて笑いながらも少しだけ声を落として言った。
「ただし、外に出るのは週末だけだ。平日は絶対ダメ。いくら元気そうでも、魔物に見つかったら終わりだからな」
「はーい!」
返事だけは元気だったがちゃんと伝わっているのかは怪しい。
とはいえ、今のところ外出をねだるような様子もなかったし信じるしかない。
そのままルナはくるりと向きを変えて自分の部屋へ戻っていった。
閉まるドアの音が小さく響いて、それきり、またカタカタというタイピング音だけが壁越しに聞こえてくる。
時々小さな独り言が混じることがあった。
何かと会話しているような、あるいは何かの魔法を唱えているような不思議な響きがしたけれど――俺はあえて耳を澄まさないようにしていた。
ルナが何を考えているのか。
何を見て、何に触れて、何を感じているのか。
そのすべてを理解することは今の俺にはできない。
でも、無理に引き出す必要もないとも思っている。
彼女が自分の意思で何かを選び、何かを探しているならそれでいい。
彼女の世界が少しずつこっちに歩いて来ようとしているのなら――それを急かす理由なんてどこにもないのだから。
◇ ◇ ◇
一方その頃、イヴァンはいつも通り教室にいた。
朝から変わらぬ時間が流れ、気づけば三時間目も終わろうとしていた。
空は明るく、風はゆるやか。
だが教室の中にはどこか物足りなさが残っていた。
理由は一つ。
天空がいない。
周囲の同級生たちも落ち着かない様子で何度もイヴァンに話しかけてきた。
「天空は今日も休み?体調崩したって聞いたけど大丈夫なのか?」
「うん、だいぶ良くなったみたい。明日には登校するってさ」
イヴァンがそう答えると相手はほっとしたように笑った。
「なら良かった!あいつが体調不良ってほんと珍しいよな。なんか……天空がいないと教室がやけに静かに感じるよ」
言われてみればそうだった。
いつも軽口を叩いていたその存在がぽっかり抜け落ちたことで教室の空気には張りがなかった。
誰かが何かを言いかけては言葉を飲み込む。
そんな沈黙が何度も繰り返されていた。
そして昼休みが過ぎ、午後の授業が始まろうとする頃。
「授業……退屈だな。体育も天空がいないと張り合いがないし。……はぁ、早く帰って空手の練習でもするか」
イヴァンが机に頬杖をついたそのときだった。
「イヴァンくん、いる?」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。
声の主は隣のクラスの女の子だった。
少し息を弾ませながら教室の扉のところに立っている。
「あー、いたいた。ちょっと来て!」
「ん?いいけど……何?」
困惑を抱きながらも素直に立ち上がると彼女の後について教室を出た。
廊下を抜けて階段を降りて向かった先は――音楽室だった。
「はい、ここ。いいから中に入って!」
そう言われるがまま、彼女に背中を押されて音楽室の扉を開く。
薄暗い照明に静まり返った空間。
窓辺――午後の光が斜めに差し込むその一角に彼女は立っていた。
イヴァンの足が止まる。
そこに立っていたのは――詩織ちゃんだった。
光に透けるカーテンが揺れ、制服のスカートが風を孕み、まるで時の止まった写真のように彼女は静かにそこにいた。
目が合った。
吸い込まれるような黒曜の瞳に射抜かれた瞬間、イヴァンの喉はきつく塞がれて言葉がうまく出てこなかった。
「し、しおりちゃん……?ど、どうしたの……?」
絞り出すような声だった。
鼓動が耳の奥で暴れている。
酸素が足りない。
詩織ちゃんは一瞬息を吸い込むような仕草をしたあと、小さく一歩を踏み出した。
「……あれから、ずっと考えてたの」
言葉は羽のように軽く、しかしその意味は真っ直ぐに胸に降り立った。
「でもね、もう分かったの。私……イヴァンくんのことが、好き。……もし、まだ彼女いなかったら……私と付き合ってくれる?」
その瞬間時間が停止した。
風の音も校舎のざわめきも、外の鳥の声すらすべてが遠ざかる。
胸の奥で鼓動だけが強く熱を帯びて跳ねていた。
「……え?本当に……いいの?」
言葉にするのがやっとだった。
喜びというにはあまりに唐突で現実感が追いついていない。
ただ、それでも確かに彼女の唇からあの言葉がこぼれたのだ。
何が起きているんだ?
こんな急展開、現実にあるのか?
――願いごと。
思い出したのはあの日のことだった。
先週、天空に連れて行ってもらったあの神社。
あの御神木の前で俺は確かに願った。
(詩織ちゃんと両想いになりますように)
まさか……あれが――叶った?
有り得ない。
そんな都合のいい奇跡なんて存在するわけがない。
でも、今この瞬間のすべてが何よりも鮮やかで、現実そのものだった。
(ありがとう、神様!本気で感謝してる!神様、御神木様、そして……俺の親友、天空様!)
心の中で何度も呟いた。
これほど誰かに感謝したのは生まれて初めてだった。
「詩織ちゃん……俺も、ずっと詩織ちゃんのことが好きだった。だから、どうしても、何度でも伝えたくて……。でも……しつこかった、かな……俺……?」
うまく笑えなかった。
嬉しくて、怖くて、どうしたらいいか分からなかった。
詩織ちゃんはふっと笑った。
頬にかかる髪を耳にかけながら少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「イヴァンくん、そんな真剣な顔で言わないでよ……。こっちまで恥ずかしくなっちゃう。ねえ、放課後……玄関で待っててくれる?一緒に帰りたいの」
「うん……もちろん!」
その言葉が口をついて出るまで迷いは一秒もなかった。
キーン、コーン、カーン、コーン――。
ちょうどその時、始業のチャイムが鳴った。
現実が戻ってくる音のようだった。
「そろそろ行かなきゃ。授業、始まっちゃう」
彼女はそう言って扉の方へ歩き出し、ふと振り返って微笑んだ。
「絶対に一人で帰らないでね?」
「うん……絶対に」
詩織ちゃんの後ろ姿が静かに音楽室から消えていく。
その影が見えなくなるまでイヴァンは動けなかった。
今しがた交わした言葉も握られなかった手の温もりすらも、すべてが幻のようで――けれど確かだった。
胸が高鳴る。
息がうわずる。
心が走り出す。
――踊りたい。
今ならどんな舞踏でも踊れる気がした。
ワルツのように優雅に、タンゴのように情熱的に、ベリーダンスのように艶やかに、そしてフラメンコのように激しく――
いやもうジャンルなんてどうでもよかった。
イヴァンの心の中では誰にも聞こえない壮大なオーケストラが鳴り響いていた。
それは、恋が始まる音だった。
そして――残りの授業がとてつもなく長い。
時計の針は嘲笑うかのようにゆっくりとしか進まない。
もはやこれは拷問だ。
ここは異次元の空間の中なのか?
1分が1時間に感じる。
ただ、焦げたように灼けた意識の一部でずっと同じことだけが繰り返されていた。
だか、詩織ちゃんと放課後に会う。
その約束、それだけがイヴァンをこの牢獄のような時間の中で立たせていた。
「おい、イヴァン。授業聞いてるのか?……駄目だこりゃ」
先生の声がやけに鮮明に聞こえたのは、それがチャイム直前だったからかもしれない。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
その音はまるで運命の鐘だった。
機械的な音なのにまるでどこかの劇場で幕が上がるような高鳴りが胸に起こった。
ようやく、すべてが始まる。
イヴァンは学校の正面玄関でひとり、通用門の向こうを見つめていた。
空がほんのり朱を差し始めた頃、彼女は姿を現した。
その瞬間、イヴァンの胸の奥で何かがきゅっと引き絞られたように痛んだ。
陽に透けた髪は光をまとい、風に撫でられて静かに揺れている。
制服のリボンがそっと胸元に結ばれているだけで彼には完璧な造形に見えた。
細い足、ふわりと動くスカート、その一歩一歩が見る者の呼吸を乱す。
彼はもう限界に近かった。
けれど目を逸らすという選択肢は、はじめから無かった。
「イヴァンくん……待ってた?」
甘く、柔らかく、まるで耳の奥に忍び込んでくるような声だった。
その響きに返事は喉の奥で絡まってしまう。
「いや……俺も今、来たとこ」
情けないほどに上ずった声が自分の耳に返ってくる。
けれど彼女は何も咎めることなく微笑んで、そっと隣へ寄ってきた。
ほんの数十センチ――
それだけの距離にどうしてこんなにも焦がれるような熱と、心地悪いほどの幸福が詰まっているのか。
イヴァンには理解できなかった。
「……よかった。今日はね、絶対に……一緒に帰りたかったの」
その一言が彼の胸のどこか柔らかな場所を跳ねさせた。
「そ、そっか……うん、俺も」
口にした言葉が頼りなくて、情けなくて、それでも彼女はまた笑った。
その笑顔だけですべてが許された気がした。
――こんなに長く彼女と話したのは初めてだった。
彼女の横顔は時折光に濡れたように見えて、笑うたびに長い睫毛が震えた。
指先が口元に触れるたびになぜか息が詰まりそうになる。
可愛すぎて直視できない。
どんな話をしたのか、もう思い出せない。
ただ、笑うたびに彼の鼓動は苦しいほど高鳴っていた。
そして、不意に――
「ねえ、イヴァンくん」
いつもより少し低く、甘やかで誘うような声音。
空気が変わったのがわかった。
「……今日、うち来ない? 夜まで誰もいないの。家族が旅行で」
足が止まる。
心臓も同じように跳ねて止まりかけた。
「え……それって、本当に?」
「うん。ダメ、かな?」
伏せたままちらりと見上げてくる視線に背筋がぞくりと痺れる。
目が合った瞬間、胸の奥が熱い。
「行く。行きたい。詩織ちゃんの家に行きたい」
彼女の唇が嬉しそうに緩んだ。
そっと差し出された手にイヴァンの指が自然と絡まっていく。
その瞬間から皮膚が内側からじわじわと火照っていくようだった。
「じゃあ、こっちだよ。ちょっと歩くけど……ちゃんとついてきてね?」
ただうなずいて彼は彼女の横に並んで歩き出した。
手の温もりを感じながら呼吸を整えようとするけれど、できなかった。
住宅街の先に現れたのは、どこか旅館のような風情のある建物だった。
立ち止まった彼を彼女がくすりと笑って振り返る。
「びっくりした?旅館と繋がってるの。でも私たちが住んでるのは奥のほう。裏口から行こうね」
木戸が開き、彼女の背を追う。
風が抜け、彼女の髪が頬をかすめる――その香りにまた胸が跳ねた。
玄関を抜けて薄暗い廊下を通って辿り着いたのは広めのリビングだった。
和洋が混ざったその空間はどこか彼女そのもののように感じられた。
「ちょっと座ってて。お茶淹れるね」
キッチンに消える姿を見送り、イヴァンはソファに腰を下ろす。
現実感が薄れていく。
これは夢ではないのか――
だが夢なら覚めないでほしかった。
やがて彼女が戻ってきた。
盆の上には湯気の立つ湯呑みと、小さなケーキ皿。
「はい、どうぞ。お茶と……手作りケーキ。食べてくれる?」
「……手作りって、詩織ちゃん……すごいな」
「ふふ、じゃあ……あーん、してくれる?」
その言葉に思考が止まった。
これは冗談?
それとも――本気?
フォークでケーキをすくいながら彼女が微笑む。
まるで少しだけいたずらを仕掛けるような瞳で。
「……いいの?」
「もちろん。口、開けて?」
イヴァンは羞恥と嬉しさに包まれながら言われるままに唇を開いた。
「あーん……」
甘いケーキが舌の上でとろける。
けれどその味よりも彼女の笑顔の方がずっと甘かった。
「おいしー?」
「……うまい。やばいくらい美味しい」
「じゃあ、もうひと口……あーん?」
再び差し出されるケーキ。
再び開く口。
もう言葉など要らなかった。
ただ、彼女が微笑んでいて彼がその隣にいる――
その事だけが全てだった。
彼の願いはただひとつ。
――神様、どうかこの時間を終わらせないでくれ。