第155話 守るための決断と終わりをもたらす者
俺はベッドの上で脚を組み、背筋を伸ばし、ゆっくりと呼吸を整えていた。
吸って、吐く――その呼吸に意識を落としていく。
余計な思考が薄れていき、代わりに身体の内側を巡る感覚がはっきりしてくる。
血の流れ、熱の移動、わずかな緊張と弛緩。
それらが一つに繋がり、やがて外の気配との境目すら曖昧になっていく。
――その中で、ひとつだけ足りないものがある。
いつも頭の奥にあったはずの声。
パンドラの気配が今は完全に消えている。
常に繋がっているわけじゃないらしい。
今この瞬間――俺は一人だ。
部屋の隅ではエピメスとルージェがこちらを見ていた。
二人とも、わずかに表情が硬い。
「天空さんが目の前にいるはずなのに……存在が薄れていく。まるで――そこにいないみたいだ」
エピメスの低い声にルージェが小さく頷く。
「だが消えているわけではない。むしろ逆だ……見えないのに圧だけが強くなる。魔力とも違う……押し返されるような感覚。これが彼らの言うオーラというものなのか」
俺は何も返さない。
ただ一度、深く息を吐いた。
――その瞬間。
扉が勢いよく開かれた。
「大変だ!」
荒い足音とともに、虚空樹将コンスタンティヌが飛び込んでくる。
その顔には隠しきれない焦りが出ていた。
「煌月守衛軍のタナエルとパソニアが、アムネシアの森の前まで攻めて来た!」
一瞬、思考が止まる。
「……なんだって?」
間の抜けた声が出た。
だがすぐに思考が追いつき、胸の奥に嫌な感覚が広がる。
「なんでだよ……焦る必要なんて向こうにはないはずだろ……なのに、なんでこのタイミングで来る……話が違うじゃねぇか」
コンスタンティヌは首を振る。
「……読まれていたのだ。こちらの動きをな」
先手を取られている。
「森の入り口はどうなっている?ルナは?」
間を置かずに聞く。
「入り口で待機していた煌月守衛軍はほぼ壊滅。戻って来た兵士の報告ではカティフラクトとルナがそれぞれ応戦している」
心臓が一拍遅れて強く打つ。
考えるより先に身体が動いていた。
「……くそっ」
ベッドから降り、そのままコンスタンティヌに詰め寄る。
「俺を連れて行ってくれ。アムネシアの森の前まで――今すぐだ」
「待て」
ルージェが割って入る。
「それは危険すぎる。ネクロスと戦う前に消耗するのは――」
「関係ねぇ。このまま何もしなかったら……ルナが死ぬかもしれない」
一瞬だけ視線を落とす。
「……そうなったら、俺はもうネクロスと戦えない」
空気が張り詰める。
エピメスが静かに口を開いた。
「ですが、タナエルとはどう戦うつもりですか?彼は……手を向けるだけで人を殺す不可解な技を使う。原理が分からない以上、対処は困難です」
「分からないなら、なおさら考える時間はねぇだろ」
短く言い切る。
「俺はあいつの質問には答えない。手を伸ばしてきた瞬間に殴りかかりに行くさ」
無茶だと分かっているのは全員の顔を見れば明らかだった。
それでも――
「……分かりました」
エピメスが息を吐く。
「私も同行します。回復魔法が必要になる可能性が高い」
「私も行く。ルナを助ける」
ルージェが続く。
コンスタンティヌが頷いた。
「決まりだ。すぐに出るぞ」
◇ ◇ ◇
部屋を出て広間へ向かうと、空気が一変していた。
煌月守衛軍の兵士のうめき声、治療師の詠唱、慌ただしく行き交う足音。
静けさとは程遠い、張り詰めた空気が広がっている。
その中心にティモーリスが立ち、全身に傷を負った兵士から報告を受けていた。
こちらに気づくと視線だけを向けてくる。
「天空、行くのか」
「ああ、今すぐ行く。絶対にルナたちを助ける」
間を置かずに答えるとティモーリスは小さく息を吐いた。
「なら聞け、重要な話だ。タナエルはカルポロスをカティフラクトの部下に投与したようだ」
「……何?」
「解毒剤はフィトリアの町へ取りに行かせている。だが、カティフラクトは重傷のまま、タナエルと対峙している」
嫌な予感が一気に現実になる。
「ルナは無事なのか?」
「彼らを逃がすために、森の中でパソニアと交戦したようだ」
その言葉で迷いは完全に消えた。
「もたもたしている時間はねぇ。俺はルナを助けに行く。他は全部任せる」
ティモーリスはわずかに口元を歪める。
「自ら敵の中に飛び込むか。だが時間が無い……行け。後は我々に任せろ」
広間を抜け、アジトの入口へ向かう。
そこに立っていたのは、すでに準備を終えたイオアンヌだった。
「俺も行く。予定が前倒しになっただけだ。問題ない。むしろ好都合だ」
「……ありがとう、助かる」
短く返し、そのまま外へ出る。
森の空気が一気に肌を打つ。
次の瞬間、コンスタンティヌとイオアンヌが同時に詠唱を始めた。
足元に光が走り、空気がねじれるように歪む。
重力が揺らぐ感覚とともに、身体が地面から切り離される。
浮き上がる視界の中で俺はただ前だけを見ていた。
(頼む……間に合ってくれ、ルナ)
◇ ◇ ◇
空はすでに沈みきっていた。
森の奥は輪郭すら曖昧で、わずかな月明かりだけが地面をかすかに照らしている。
風を切る音が耳の奥で鳴り続ける中、視界の先に違和感のある影が引っかかった。
アムネシアの森の出口付近――焼け焦げた地面の上に人影が二つ。
距離が縮まるにつれて輪郭がはっきりしていく。
「……あれは……」
思わず身を乗り出す。
「ルナだ!ルナがいる……もう一人誰かいる」
ルージェもすぐにそれを捉え、声を強めた。
「早く、あそこに降ろせ!」
コンスタンティヌとイオアンヌが軌道を落とすと、風の流れが一気に変わる。
浮遊していた身体が重さを取り戻し、次の瞬間、地面が足裏に戻ってきた。
着地と同時に焼けた匂いが鼻を突く。
黒く焦げた木々と抉れた地面が、戦いの激しさをそのまま残している。
その中心にルナがいた。
両膝をつき、肩で息をしている。
そのすぐ傍らには仰向けに倒れたラザロの姿があった。
「ルナ!」
駆け寄ると、ルナは一瞬だけ安堵を見せたが、すぐに首を振る。
「ええ……私は大丈夫よ。腕をやられただけ。でも、それより――」
視線が隣へ落ちる。
「ラザロが……」
地面に横たわるラザロは、ひと目で分かるほど消耗していた。
呼吸は荒く、それでも意識だけは辛うじて繋がっている。
「……ラザロ」
名を呼ぶと片目だけを開けてこちらを見る。
「へっ……やっと助けが来やがったか」
「お前が……ルナを助けてくれたのか?」
問いかけると、ラザロは小さく鼻で笑う。
「クソ野郎……来やがったか。てめぇのせいで、俺の立場はめちゃくちゃだ」
吐き捨てるように言いながらも、そのまま続ける。
「……まあ、いいさ。てめぇを空から突き落としたバチが当たったんだろうよ。全身いてぇが……おかげで頭が冷えたぜ。今はすがすがしい気分だ」
その言葉に俺は何も返せなかった。
その様子を見てエピメスが一歩前に出た。
「ラザロはこの場で治療を行います。アジトへ戻るより早いでしょう」
すでに回復魔法の詠唱に入る気配がある。
俺は頷き、すぐに判断を下す。
「エピメス、ルナとラザロを頼む」
視線をルージェとコンスタンティヌに向ける。
「二人はここで護衛をしてくれないか。まだ何が来るか分からない」
そして、ルナを見る。
「あと残ってるのはタナエルだけなんだろ」
「……ええ」
「それなら行くのは俺一人でいい。今あいつを止められるのは俺しかいないからな」
その言葉にラザロが小さく笑った。
「……気ぃつけろよ」
ラザロは視線だけをこちらへ向ける。
「どんな形だろうが、裏切ったやつってのはな……冷静じゃいられねぇんだ。追い詰められりゃ、何でもやるぜ」
かすかに息を吐く。
「俺みたいにな」
軽く受け流せる言葉じゃなかった。
俺は短く頷く。
「……分かってる」
イオアンヌが前に出る。
「俺に捕まってくれ。アムネシアの森の前まで連れて行く」
差し出された腕を掴む。
その時だった。
「天空……」
振り返るとルナがこちらを見ていた。
痛みを堪えながらも、その目は逸れなかった。
「気を付けて」
短い言葉。
だが、その奥にあるものは痛いほど伝わってくる。
俺は一瞬だけ視線を合わせる。
「任せとけ」
次の瞬間、イオアンヌが詠唱を終えると、身体がふわりと浮き上がった。
地面が遠ざかる。
焼け跡に残された四人を横目に俺は前を向いた。
◇ ◇ ◇
アムネシアの森の入り口は不気味なほど静まり返っていた。
その中心にタナエルがいた。
倒れたカティフラクトのすぐ前に腰を下ろし、まるで結果を見届ける観察者のように、その様子を眺めている。
そこへ、俺とイオアンヌが空から降り立つ。
着地の衝撃で地面がわずかに揺れても、タナエルはすぐには動かず、ほんの一瞬の間を置いてから、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「タナエル!」
名を呼ぶと、その口元がかすかに歪む。
「遅かったな」
まるで待っていたかのような声で言い、顎で示した先には動かないカティフラクトの姿がある。
「見ての通りだ」
その言葉に含まれる意味を確かめるように、一歩踏み出しながら問い返す。
「……まさか、殺したのか」
だがタナエルは首を横に振り、わずかに視線を落とした。
「死んではいない。だが――」
その言葉の続きは視界に入ったそれで理解した。
カティフラクトの手に注射器が握られている。
緑色に濁った液体がわずかに残ったそれを見た瞬間、嫌な予感が確信へと変わった。
「……おい、てめぇ……まさか、カルポロスを打ったのか」
「カティフラクトの力を失うのは惜しい。ならば」
言葉を選ぶ様子もなく続ける。
「従順な部下として使える形にすればいい。再び煌月守衛軍の兵士として、私が支配する」
その冷え切った理屈に胸の奥で何かが軋む。
「……てめぇ」
吐き出しかけた言葉は、しかし途中で止まった。
違和感が視界の端に引っかかったからだ。
タナエルのすぐ横、ほんのわずかに距離を取った位置に誰かが立っている。
黒いドレスに身を包み、深く被ったフードの奥から青みを帯びた銀の長い髪が流れている。
その姿ははっきり見えているのに周囲の空気とはどこか噛み合っていない。
まるで、この場に重なっているだけの存在だった。
「……おい、誰だ、そいつは」
ゆっくりと言葉を置く。
「もう一人いるじゃねぇか」
その瞬間、タナエルの表情が明らかに揺れた。
「……何?」
困惑を隠せないまま、こちらを見た。
後ろからイオアンヌの声が入る。
「誰のことだ。俺には何も見えない」
(見えていない……?)
この女は実体を持たない、ノソファエルと同じ――魂だけの存在か。
その考えが浮かんだ瞬間、視界の端にいた女が音もなく一歩前へ出た。
そこにいるはずなのに地面と接している感覚が希薄で、現実からわずかに浮いているようだった。
「はじめまして」
柔らかな声。
だが、その響きには温度がほとんど感じられない。
「あなた、お城から逃げていた時も、私のことを見ていましたわね。視線だけは、ずっと感じていましたもの」
その言葉に背筋の奥へじわりと違和感が広がる。
「……誰だ、てめえ」
「私はリリシス。終焉の精霊と呼ばれています」
その名を頭の中でなぞりながら、状況を整理する。
目の前にはタナエル、そしてこの女。
「精霊……」
小さく息を吐き、視線を崩さないまま言葉を続ける。
「ってことは、二対二ってことになるのか」
そう言うとリリシスは軽く首を横に振った。
「あら、やだ。私は戦わないわよ。そういうの、得意じゃないもの」
軽い調子の返答。
だが、その奥にある意図はまったく読めない。
「……ならいい。邪魔だけはすんなよ。イオアンヌも下がっててくれ」
「わかった」
短い応答とともにイオアンヌの気配が後方へ引く。
それを確認したかのようにタナエルがゆっくりと立ち上がった。
間合いを詰めるでもなく、その場からわずかに一歩前へ出るだけで場の圧が変わる。
「貴様、質問に答えろ」
静かに持ち上がる左手。
無駄のない動き――それだけで空気が一段階重くなる。
「なぜリリシスの姿が見える」
射抜くような視線が突き刺さる。
だが、俺は間を置かずに返した。
「知らねぇよ」
一切のためらいなく言い切る。
「言っとくが、俺はてめぇに嘘をつく理由がねぇんだよ」
一歩、前へ。
「その技は俺には通じねぇ」
タナエルの口元がわずかに歪む。
「……どうやら何か勘違いしているようだな」
低く、抑えた声。
そのまま左手の指先が、わずかに動く。
「私の力は終わりをもたらすためにある。真偽を見抜くためのものではない」
指が、ゆっくりと閉じていく。
「真偽の判別など、付加価値にすぎん」
その言葉と同時に胸の奥で異変が起きた。
――ドクン。
鼓動が一拍、遅れる。
次の瞬間、内側から押し潰されるような圧がかかる。
見えない何かに心臓そのものを掴まれているような感覚。
「死の与え方にもいくつか方法があってな」
タナエルの手が、さらに握り込まれていく。
それに呼応するように圧が強まる。
呼吸が浅くなり、視界がわずかに歪み始める。
「質問などせずとも、こうして少しずつ締めていけば――」
淡々とした声だった。
感情の揺れは一切ない。
「やがて止まる」
心臓が確実に潰されていく。
このままでは間に合わない――そう理解した瞬間には、もう踏み込んでいた。
「貴様が死ぬことに変わりはない」
「……死んでたまるか。俺は絶対に、生きて戻る」
圧迫も、息苦しさも、すべて無視する。
地面を蹴る。
「うおおおおおぉぉぉ!!」
一気に距離を詰める。
握り潰されるより先に――その手ごと、叩き壊す。




