第154話 試される技量と森に響く二つの衝撃
ルナとパソニアは森の奥で一定の間合いを保ちながら微動だにせず向かい合っていた。
木々の隙間を抜けた風は葉を揺らすが、二人の周囲だけが不自然なほど静まり返っている。
アムネシアの森では魔法は使えない――
それでも、どうしてあの細い腕がスタマティスの拳を止められたのか、その理由が分からなかった。
ルナは視線を逸らさず、パソニアの全身に漂うオーラの気配を追い続ける。
呼吸の微かな揺れ、肩の動き、重心の変化――そして力の流れまでも目で追う。
だが、攻撃の直前に現れるはずの変化は一切なかった。
肩も呼吸も、オーラの収束も、力の高まりも見えない。
ただ立っているだけで、あの圧倒的な強度が成立している――その事実がルナの脳をざわつかせる。
作戦会議で聞いたカティフラクトの言葉が脳裏に浮かんだ。
「煌月守衛軍は防御を最優先し、魔力を無駄なく通すよう制御する」
もしそれが極限まで研ぎ澄まされているのだとしたら――。
その考えに行き着いた瞬間、ルナは迷いを捨てるように重心をわずかに下げた。
そして、ためらわず一歩を踏み出す。
次の瞬間、視界からパソニアの姿は消えていた。
しかし驚きはなかった。
ルナの目が追ったオーラの流れに合わせ、身体はすでに自然と動いていた。
右から迫るオーラに合わせて軸を左へ滑らせる。
頬の脇を拳が掠めた瞬間、入れ替わるように間を詰め、すれ違いざまに捻りを乗せた左拳を脇腹へ叩き込む。
確かな手応え――だが沈まない。
その感触を確かめるより先に地を蹴って後方へ跳び、二歩分の距離を一気に引き離す。
振り返った瞬間、パソニアの拳が空を裂いた。
ルナはわずかに下がり、間合いを保つ。
「攻撃が軽いですわよ」
「当たれば十分よ」
言い返した瞬間、すでに次の踏み込みが来ていた。
今度は正面から一直線。
ルナは退かず、わずかに前へ出て間合いを潰す。
伸びてきた手に腕を掴まれる。
それでも動きは止まらない。
手首を内側へ捻り込み、肘を引きながら身体ごと回転させて力の向きをずらし、拘束を外す。
そのまま密着距離へ潜り込み、鎖骨へ短く左拳を打ち込む。
追撃には移らず、即座に離脱して再び距離を取り直した。
攻撃は当たるが、まるで効いていない。
さらに――パソニアは避ける素振りもない。
最初からその選択を捨てている。
わずかに乱れた呼吸を見て、ルナの中で確信が一段深まった。
低く身を落とし、膝へ蹴りを差し込む。
受けられた瞬間、間合いを詰め、そのまま体を押し込む。
肩から体重を預けて軸をずらし、わずかに浮いた重心を逃さず詰める。
そのまま側頭部に回転を乗せた蹴りを振り抜いた。
「はああああぁぁ!胡蝶脚」
側頭部に直撃。
衝撃で皮膚が赤く染まり、わずかに血が滲む。
それでもなお、パソニアは避けない。
伸びてくる手を視界に捉えた瞬間、ルナは掴まれる前に打ち抜くと決め、動きを止めずに顎へ左拳を叩き込む。
硬い反動が拳に返る。
その反動を利用し、即座に後方へ跳び退いて距離を取り直す。
荒くなる呼吸を抑えながらも構えは崩さない。
対するパソニアは、わずかに口元を緩めた。
「……面白い戦い方ですわね。ですが、その程度の攻撃では、わたくしを倒すことはかないませんわよ」
ルナは視線を外さず、ゆっくりと息を整える。
そして確信へと至った思考を静かに口にした。
「あなたの強さの秘密――分かった気がするわ。私の拳を当てた時、あなたは一度も避けなかった。全部、正面から受け止めている」
わずかに間を置く。
「天空がポレモスと戦った時も同じだった。あの時もポレモスは避けようともしなかった」
呼吸を整えつつ続ける。
「でも、あれは魔法で肉体を強化していたから成立していた動き。避ける必要がなかっただけ」
一歩、踏み替える。
「この森では魔法は使えない……正確には魔力を封じられて体の外に出せない。それなのに、あなたはポレモスと同じことをしている」
そこで言葉を切る。
ほんの一瞬の沈黙。
「――あなたは身体強化の魔法を外に出さず、体の内側で魔力を巡らせて強化しているようね」
パソニアの目がゆっくりと細まる。
「へぇ……やるじゃないの。そこまで見抜くなんて、なかなかですわね」
一歩も動かず、ただ見下ろすように続ける。
「それで?見抜いたところで、どうしますの?あなたの攻撃は――わたくしには通用しませんわよ」
ルナは答えない。
わずかに呼吸を落とし、次の一手を探る。
天空はポレモスの魔力が尽きるまでかわし続けた。
だが――
(この女は違う)
魔力は尽きない。
待つだけでは終わる。
(このままじゃ、押し切られる)
「では――そろそろ終わりにしましょうか」
その言葉と同時に風を裂き、視界が追いつかない速度でパソニアが迫る。
だがルナは動じない。
全身にまとわりつくわずかなオーラの流れを捉え、その変化から動きを読む。
身体を半歩滑らせるようにずらして直撃を外し、すれ違いざまに蹴りを放つと、そのまま距離を取る。
だが、離れきれない。
体勢を立て直した瞬間、すでにパソニアは間合いの中にいた。
「いつまで逃げながら戦うつもりですの?時間稼ぎはおやめなさい」
低く抑えた声の奥に揺るがぬ自信があった。
(この人は……自分の守りに絶対の自信を持っている)
だから避けない。
受け切れると分かっているから、回避という選択を捨てている。
(そして、魔法で強化されているのは筋肉じゃない)
拳を当てた箇所から確かに血は出ていた。
完全に防いでいるわけではない。
それでも崩れないのは、もっと内側――骨格そのものを強化している。
(なら……通すべき場所は一つ)
ルナはこれまで、あえて左だけで攻め続けていた。
右拳を見せない。
左拳を意識させて警戒をそちらに寄せる。
一歩踏み込む。
次の瞬間、ルナの右手に白いオーラが収束した。
凝縮された光が拳の周囲で渦を巻き、空気を押し潰すような圧が周囲に広がる。
(オーウェン――あなたから教わった技で……決める)
迷いなく体を前に進める。
パソニアの瞳が、わずかに細まった。
「もう逃げる気はないようですわね」
その声と同時にパソニアの腕が大きく振りかぶられる。
「では――死になさい」
突き出される手刀。
心臓を貫く一直線の軌道。
(見える――)
ルナは身体をずらす。
致命の軌道を外し、そのまま前へ体を押し出して攻撃を続けた。
「……残念、終わるのはあなたよ!天崩滅砕拳!」
白光が弾けた。
拳が腹部へ届く――そのはずだった。
(避けた――?)
視界の中で、わずかに軌道が逸れる。
パソニアが初めて避けた。
次の瞬間、すでに間合いの内側。
パソニアの左手が首元へ突き込まれる。
ルナは反射的に左腕を差し込んだ。
左腕に直撃。
骨に響く衝撃。
そのまま手刀が拳に変わり、内側から弾き飛ばすような一撃が叩き込まれる。
視界がぐらりと揺れた。
「ああああぁぁぁっ!」
背中から叩きつけられ、息が強制的に押し出される。
パソニアは静かに息を吐いた。
「残念ですけれど、狙いが分かりやすすぎますわよ」
一歩も動かず、ルナを見下ろす。
「言ったはずですわ。わたくしとあなたでは、積み重ねてきたものが違うと」
ルナはゆっくりと立ち上がり、呼吸を整える。
「……あなたがお城で鍵を持っていた手は右でしたわね。つまり利き手は右。なのに、戦闘ではほとんど使わない。だったら――警戒するのは当然でしょ」
パソニアの視線が、わずかにルナの左腕へ落ちる。
押さえ込んだその腕から、血が滴っていた。
「その腕……折れていますわね。これ以上、続けても意味はありませんわ」
言い切ると同時に背を向けた。
一切の迷いもなく視線すら向けず、ルナをただの障害物のように扱った。
そのまま森の出口へ向かって駆け出す。
(……違う)
ルナの中で引っかかる。
(目的は、玄冥魔軍の殲滅じゃない)
あの余裕。
あの切り替え方。
戦うこと自体に意味がないかのような動き。
(他に目的がある……?)
「ま、待ちなさい!」
ルナは叫び、足を踏み出す。
痛みを無視して走り、森の出口へと駆け抜ける。
森を抜けた瞬間、視界が開ける。
空は夕闇に沈みかけていた。
同時に、内側に押し込められていた重みがふっと抜け、息が一気に通る。
――魔力が、戻った。
その瞬間、上空で光が弾け、そのまま雷が一直線に落ちてくる。
反射的に身体を投げ出し、地面を転がる。
背後で雷が炸裂し、土が爆ぜ、空気が震える。
ルナは息を荒げながら体勢を立て直す。
空を見上げた瞬間、ルナの視界にパソニアの姿が映った。
木々の上空で風に髪を揺らしながら静かに浮かんでいる。
「どうやら、あなたは空を飛べないようですわね」
その声には、すでにルナへの関心はなかった。
(……まさか)
胸の奥で嫌な予感が膨らむ。
(狙いは……深淵封鎖の間――)
そう思い至った瞬間、パソニアの口元がわずかに歪んだ。
「その顔……気づいたようですわね」
わずかに身体の向きを変え、視線はすでにルナから外れていた。
「ですが、もう遅いですわよ」
冷たく言い切る。
「向こうに、あなたが逃がした兵士たちの魔力を感じますわね。彼らがアジトへ入った瞬間――中にいる者たちもろとも葬り去って差し上げますわ」
一気に血の気が引く。
(だめ――深淵封鎖の間を破壊されたらパンドラを元に戻せなくなる)
声を出そうとするが喉が動かない。
息だけが漏れる。
(誰か……止めて……)
その瞬間――
空気を裂く鋭い音。
木々の間から一直線に何かが突っ込んでくる。
「――ルナエレシア!」
怒鳴り声と同時に影が跳ね上がる――ラザロだ。
「お前の心の声、ちゃんと届いてるぜぇぇぇ!」
そのまま速度を落とさず、パソニアへ一直線に突っ込む。
――ゴンッ!
次の瞬間、空中で激突した。
鈍い衝突音が森に響く。
だが――
弾かれたのはラザロだった。
そのまま回転しながら落下し、地面へ叩きつけられる。
衝撃で土が跳ねた。
「ラザロ!」
ルナは迷わず駆け寄った。
血に濡れた身体が地面に倒れ込む。
「ラザロ、大丈夫なの!?」
「ああ……くそ……」
ラザロは顔を歪めながらも、かすかに笑う。
「頭がくらくらしやがる……なんだ、あの女……まるで鋼鉄の壁に突っ込んだ気分だぜ」
全身から血が滲み出ている。
それでも意識はある。
「どうしてここに……」
「へっ……」
荒い呼吸の中で言葉を絞り出す。
「ティモーリスのおっさんに……謝ろうと思ってな……何て言うか考えてたらよ……」
視線を上に向ける。
「ちょうど煌月守衛軍のやつらが森の出口から出てきやがったんでな……様子を見に来たのさ」
そして、ルナを見る。
「それより……お前の腕、やべぇだろ」
ルナはわずかに顔をしかめる。
「折れてるけど問題ないわ。私よりあなたの方が重症よ。どう見ても全身骨折してるわよ、それ」
ラザロは、かすかに笑った。
「そうか……なら……一番重症なのはあの女だな。俺はちゃんとやったぜ……」
その言葉にルナは眉をひそめた。
「えっ?」
反射的に視線を上へ向ける。
パソニアが、ゆっくりと降下してくる。
腹部に深々と短剣が突き立ち、そこから血が流れていた。
「そんな……」
パソニアの声が初めて揺れる。
「わたくしが……あんな男に……」
信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
ルナはゆっくりと立ち上がる。
「あんな男?」
静かに言い放つ。
「分かってないわね。ラザロは魔影軍の軍隊長。そして――」
一歩、前へ出る。
「私は魔影軍のルナエレシアよ」
右手に炎が灯る。
紅が揺らめき、静かに燃え上がった。
パソニアは、わずかに目を細めた。
「炎……ですか。ですが、片手では威力が落ちますわよ。パンドラ様のようにはいきませんわ」
ルナは小さく息を吐く。
「残念だけど……あなたを倒すには――片手でも十分よ」
詠唱が始まる。
「天地焦がすは古の炎、全てを焼き尽くす紅蓮となりて――」
途中でパソニアの唇も動いた。
「――我が手に宿りて烈焔となれ」
同時に言葉が重なる――同じ魔法。
「ファラグス フローガ!!」
二つの奔流が放たれ、正面からぶつかり合った。
轟音が響き、衝撃で空気が震える。
炎がせめぎ合う中、ルナは一歩も引かない。
しかし押し切るには至らない。
パソニアの眉がわずかに動く。
「……わたくしの魔力と互角?」
ルナは静かに口を開く。
「私が溜められるのは、オーラだけじゃない」
一歩踏み込み、揺らがない視線のまま続ける。
「魔法も――同じよ」
パソニアの瞳が炎の向こうでわずかに細まる。
「わたくしが……こんな所で負けるわけがありませんわ」
声には確かな執念がこもる。
「ネクロス坊ちゃんから授かったこの若さ……すべては使命のため。命に代えてでも遂げてみせますわ」
炎の熱と勢いが身体を押し返し、足元がわずかに沈む。
奔流の光で視界が焼きつくように明るくなり、ルナは目を細める。
「私も――守らなきゃいけないものがあるのよ」
黒影軍の町を壊された光景が脳裏に浮かぶ。
倒れていった仲間たちの姿が次々と蘇る。
「……あんなこと、もう二度と繰り返させない。みんなを絶対に――守る」
――その時だった。
地面に倒れていたラザロが、かすれた声を絞り出す。
「……いけ、ルナエレシア。お前は……ここで終わる女じゃねぇだろ……」
息が途切れそうになりながらも、言葉を繋ぐ。
「守るんだろ……?――お前が選んだ男を」
その声が胸の奥に沈み込み、周囲の音が遠のく。
天空との記憶が押し寄せる。
ルナの瞳が静かに見開かれる。
次の瞬間――ルナの魔力が跳ね上がった。
押し込まれていた炎が膨れ上がる。
「――そんなっ!?」
パソニアの表情が初めて崩れる。
均衡が砕ける。
重心を前に移して押し込む。
溜め込んでいたすべてを――解放する。
炎が爆ぜ、轟音とともに膨れ上がった熱がパソニアをそのまま覆い尽くす。
「ああぁぁ……」
震える声のまま、炎の中で立ち尽くす。
「ネクロス様……坊ちゃん……」
焦点の合わない視線が空の一点を見つめる。
伸ばした両手は何も掴めないまま、宙を探るように震え、やがて力なく崩れ落ちた。
炎が収まり、残ったのは焦げた匂いと動かない影だけ。
ルナは立ったまま、ゆっくり息を吐き、抜けそうな力を足で支えた。
その背後で、ラザロがかすかに笑う。
「……惚れ直すぜ……それでこそ、ルナエレシアだ……」
森に、ゆっくりと静けさが戻っていった。
それでも胸の奥の高鳴りは、まだ消えなかった。




