第148話 奪われた当主と黒き王の降臨
最後の呪符が音もなく剥がれ落ちる。
その瞬間、壺の口から形を持たぬ気配が溢れ出した。
空気が底へ沈むように重くなる。
「おい、パンドラ、ここは危険だ。お前だけでも転移魔法で逃げるんだ!」
叫んだ声は自分でも驚くほど掠れていた。
だが、パンドラは動かない。
逃げるどころか、一歩も退かず、その場に立ち尽くしている。
「パンドラ……?」
俺は彼女の横顔を確かめるように見た。
その瞬間、理解する。
彼女の瞳は壺そのものを見ていない。
その奥にある何かを真っ直ぐに見据えていた。
「天空……わたくし……怖いですわ」
それは誇り高い煌月家当主の声ではなかった。
いつもの凛とした響きはどこにもない、頼りない声。
肩に触れると、その震えがはっきりと伝わってくる。
「大丈夫だ。俺たちがいる。恐怖なんかに負けるな。ここは俺に任せて、お前は早く逃げろ!」
無理やり声を押し出す。
だが彼女の視界には、すでに別の光景が広がっていた。
壺から溢れるのは、ただの魔力ではない。
圧倒的な威圧と、息を奪うほどの憎悪が溢れ出していた。
――兄。
処刑台の上で見た、不敵な笑み。
最後までパンドラを恐怖に縛り続けた、あの眼差し。
「天空……助けて下さいまし……」
次の瞬間、パンドラの体から黒い闇が爆ぜるように噴き上がった。
「うわっ!」
衝撃波のような圧力が空間を裂き、俺の身体は横へ弾き飛ばされる。
「ああ……あ……ぁ……」
祭壇の上でパンドラの体がゆっくりと反り返る。
両腕が垂れ、顔は天井を向いた。
その姿はまるで、天から降りる何かを迎え入れているかのようだった。
「……ん……く……」
闇は渦を巻きながら彼女を包み込み、やがて逆流するように体内へ吸い込まれていく。
闇が収まると、すべての音が断ち切られたように消えた。
パンドラはその場で崩れ落ちる。
「おい、パンドラ!大丈夫か!パンドラ!」
痛みを堪えて立ち上がり、駆け寄る。
肩を掴み、揺さぶろうとした――その瞬間。
彼女の長い赤髪が根元からゆっくりと色を失っていく。
薔薇のように鮮烈だった赤が、夜へ溶け込むような漆黒へと染まっていく。
「……パンドラ?」
やがて彼女は何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がる。
そして、振り向く。
だが、その瞳に宿るのは、もはや紅ではない。
そこにあったのは底の見えぬ漆黒と凍りついた理性だった。
「パンドラ……?」
名を呼んだ瞬間、口元がわずかに歪む。
「私に気安く触るな」
低く、冷たい声。
同時に見えない衝撃が空間を圧し潰す。
次の瞬間、俺の身体は弾丸のように吹き飛ばされ、祭壇から転げ落ちる。
背中を強打し、視界が白く揺れた。
「ぐわっ!」
「天空!」
ルナの叫びが響く。
だが俺は痛みよりも別の衝撃に息を呑んでいた。
似ている。
あの顔。あの目。
パンドラの兄の部屋で見た肖像画。
漆黒の髪の青年が傲然とこちらを見下ろしていたあの絵。
まさか――
祭壇の上では漆黒の髪へと変わったパンドラが静かに歩みを進めていた。
壺を抱えたまま膝をつくジェラントスの前に進み、ゆっくりと見下ろす。
ジェラントスは歓喜に震えながら、額を床へ擦りつける。
「……お帰りなさいませ。ネクロス様」
黒い瞳が、ゆっくりと細められる。
唇が静かに弧を描いた。
「ジェラントスよ。そなたはよくぞ我の命令に応えた。実に忠実であった。褒めて遣わす」
低く、静かに落ちる声。
だがその響きには抗いようのない威圧が宿っていた。
「はっ……ありがたき幸せにございます」
その時、背後の扉が軋む音とともにゆっくりと開く。
振り返った俺の視界に入ったのはタナエル――そして全身に火傷を負ったパソニアだった。
「なっ……お前ら……」
思わず声が漏れる。
だが二人は俺とルナを一瞥すらしない。
まるでそこに存在していないかのように静かに祭壇を横切る。
そしてネクロスの前へ進み出ると、迷いなく深く膝を折った。
さらに扉の向こうから足音が続く。
現れたのはフィトリアで追放されたはずのリモルナ。
そして魔法船で俺を陥れようとしたプセウリナ。
「な、なんでお前らまでここに……」
声は虚しく空気に吸い込まれる。
彼女たちもまた俺たちを無視して進み、ネクロスの前で頭を垂れた。
その光景が答えだった。
俺たちは完全に蚊帳の外だ。
ネクロスの黒い瞳が、ゆっくりとパソニアを捉える。
「酷くやられたようだな……パソニア」
その声には愉悦が滲んでいた。
「私のことは問題ございません。あなた様が再びこの地に立たれたことこそ、何よりの喜びでございます」
焼け爛れた肌のまま彼女は微笑む。
ネクロスの唇が、わずかに緩んだ。
「パソニア、ジェラントス。近う寄れ」
「……え?」
二人は顔を上げ、恐る恐る歩み寄る。
そして、再び深く頭を垂れる。
ネクロスはゆっくりと両手を伸ばした。
その指先が二人の頭に触れる。
その瞬間、黒い光が溢れ出した。
空間が軋む。
闇が脈打つ。
「あいつら……何をしてやがる……?」
隣でルナが息を呑む。
「あの二人……もしかして……」
その言葉と同時にルナの瞳が見開かれる。
――禁呪を使った結果、煌月家の親族や客人の老化が急速に進んだ。
そしてネクロスの、あの冷酷な言葉。
「忠誠を誓う者のみ、呪いを解く」
まさか――
黒い光が消えた瞬間、そこに立っていたのは、もはや老人ではなかった。
皺だらけだったジェラントスの顔は滑らかになり、白髪は艶やかな黒へ。
背を曲げていたパソニアの体は若々しい張りを取り戻している。
ジェラントスが自らの手を見つめる。
「おお……これは……」
パソニアが頬に触れる。
火傷の痕すら消えている。
「ネクロス様……これは……」
ネクロスは静かに告げる。
「私に忠誠を示した褒美だ。お前たちに若さを与えよう」
「あ、ありがたき幸せ……!」
二人は再び膝をつく。
「全員、頭を上げよ」
命令。
従者たちは一斉に立ち上がる。
その動きは、もはや人間の意思ではない。
王に仕える者たちだ。
ネクロスの視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
黒い瞳が俺を射抜く。
「それで?あの者たちは何者だ」
まるで虫の存在を確認するかのような声。
ジェラントスが一歩進み出る。
「ネクロス様の復活を阻止せんと、愚かにも抵抗していた者たちにございます」
黒い瞳が、わずかに細められる。
そして、唇がゆっくりと弧を描いた。
その笑みは慈悲ではない。
処刑を前にした王の愉悦だった。
祭壇の前に並ぶ連中の視線が俺に集まる。
俺は睨み返す。
「てめぇらがパンドラを裏切っていたやつらか。揃いも揃って胸糞悪い面してやがるぜ。見事なくらい腐ってんな」
だが、誰一人として反論はしない。
代わりにタナエルが静かに一歩前へ出る。
「この私がすぐに処刑いたします」
断じる声だった。だが――
「待て」
低く落ちた一言で場の空気が変わる。
ネクロスがゆっくりと視線を上げる。
「せっかくこの世に戻ることができたのだ。私が直々に相手をしよう」
「ネクロス様、しかし……」
言いかけた言葉は視線ひとつで封じられる。
「……はっ。申し訳ありません、ネクロス様」
あのタナエルが、ただ睨まれただけで黙った。
ネクロスはゆっくりと祭壇から降り、俺の前まで歩み寄る。
「さて。この後どうするつもりだ?」
余裕の笑みを浮かべながら問いかけてくる。
「パンドラの体を返してもらう」
即座に言い返すと、ネクロスは小さく笑った。
「返す?勘違いするな。この体には煌月家の血が流れている。今はもう私の体だ」
当然のように告げられ、怒りがこみ上げる。
「てめぇ……」
だが、こいつは一人で降りてきた。それは確かな好機だ。
俺の精霊力でネクロスの魂を追い出す。
理屈も確証もないが、パンドラの体からこいつの魂を引き剥がせるかもしれない。
成功する保証はない。だが、やるしかない。
両手を前に構えると、内側から白い光が滲み出した。
「ほう……面白い力を持っているようだな」
ネクロスの口元が歪む。
黒い魔力がゆらりと立ち上る。
「少しは楽しめそうだ。来い」
パンドラ。少し痛むかもしれないけど、必ず取り戻すからな。
祭壇の床を蹴って前へ跳ぶ。
「うおおおらぁぁぁ!」
両手に白光をまとい、俺は真正面から踏み込む。
「くらえ!インフィニット デストラクション パンチ!」
空気が爆ぜ、白光が尾を引く。
だが――その拳は届かなかった。
ネクロスが片手を軽く差し出しただけで、俺の拳はネクロスの掌の中でぴたりと止まる。
「なっ……」
衝撃が腕を逆流する。
まるで鉄塊を殴ったような感触。
「どうした?それで終わりか?」
余裕の声。
歯を食いしばりながら即座に体を捻る。
回し蹴りを放ち、掴まれた右腕を解く。
だが、蹴りは空を切る。
ネクロスは半歩、ほんのわずかに体をずらしただけだった。
「おらぁ!」
拳を連打する。
左、右、左。
肘を叩き込み、膝を突き上げる。
だが――当たらない。
ネクロスはその場から動かず、最小限の動きで全てを外している。
拳が迫れば首を傾けるだけ。
蹴りが走れば足首を軽く払うだけ。
肘が届く寸前で指先ひとつで軌道を逸らされる。
「くそっ!これならどうだ!ハリケーン スイング キック!」
一度距離を取り、全身を回転させる。
遠心力を乗せた渾身の一撃。
だが――またしてもネクロスは片手で受け止めた。
回転の勢いが完全に止められる。
「なっ……嘘だろ……」
「どうした。もっと本気でかかって来い」
冷笑。
次の瞬間、ネクロスの右手から黒い炎が噴き上がる。
「くらうがいい。これがパンドラの炎だ」
その言葉に胸が軋む。
近い。
だけど、この炎は何度も見てきた。
「うおおおおぉぉぉ!センソーラ!」
意識を指先へ集中させる。
両手を揃え、黒炎へ突き入れる。
「ぐっ……!」
体が焼ける。
皮膚が裂け、骨まで焦がされる感覚。
だが、退かない。
両手が白く輝き、黒炎を押し広げる。
まるで布を裂くように炎が左右へ割れる。
「ほう……やるではないか」
ネクロスは余裕の笑みを見せていた。
「さっさとパンドラの体を返しやがれ!」
叫びとともに再び踏み込む。
さらに間合いを詰め、至近距離での連撃。
拳を打ち込む。
だが、ネクロスは手首をわずかに回すだけで拳の軌道を外へ流す。
反対の拳を放つと、肘で軽く受け止められる。
腹へ膝を突き上げる。
だが膝が届く前に腰を引かれ、空を切る。
肘打ちを叩き込む。
ネクロスは体を傾け、すれ違いざまに肩を押すだけで俺の体勢を崩す。
回し蹴り。
足首を指先で払われ、軌道が逸れる。
連撃、連撃、連撃。
だがそのすべてが、あと数センチのところで届かない。
まるで俺のセンソーラで行動の先を見ているかのように。
いや――動きの始まりから終わりまで完全に読まれている。
ネクロスはほとんど反撃すらしない。
ただ立ち、ただ受け、ただ逸らし、ただ流す。
俺の全力が、まるで意味を持たない。
息が荒くなる。
汗が頬を伝う。
「どうした、その程度か?ならばもう一度パンドラの炎をくらうがいい。今度は直接な」
「しまった!」
ネクロスは俺の腹に触れると、そのまま炎を流し込んできた。
全身が黒炎に呑まれる。
「うわああああぁぁぁぁ」
熱い。体の芯まで焼ける。
俺は黒炎に包まれたまま、祭壇から吹き飛ばされた。
「満ちる水よ、慈しむ抱擁となりて、その身を包め――ヒュドロス ペリボレー」
床に叩きつけられる寸前、水の塊が俺を包み込む。
黒い炎は消え去った。
「ぐっ……ルナ、ありがとう」
「ええ、でもあいつは強すぎるわ。ここは一度退くべきよ!」
「くそっ!」
そのとき――
背後の扉が重々しく軋んだ。
石が擦れる低い音が広間に響き、全員の視線が一斉にそちらへ向く。
現れたのは、カティフラクト。
そして、その隣に立つのは拘束具を外されたエピメスだった。
「オーシャンさん!」
エピメスの声が響く。
「お、お前ら……」
思わず息が漏れる。
カティフラクトは状況を一瞬で見渡し、祭壇の上に立つパンドラへと目を向けた。
「パンドラ様?」
その声には、まだ迷いがあった。
「……違う」
俺は叫ぶ。
「あいつはもうパンドラじゃない。……体をネクロスに乗っ取られた」
その場の空気が張り詰める。
「なんだと……?」
カティフラクトとエピメスの目が、同時に見開かれた。
その背後でタナエルが静かに口を開く。
「カティフラクト。何故、魔影軍のエピメスと一緒にいる」
冷たい声音。
「これは、パンドラ様の命令です」
「パンドラ様は、もはや煌月家の当主ではない」
タナエルの声が低く沈む。
「今の当主はネクロス様だ。……これからは煌月守衛軍はネクロス様の命令で動く」
それは裏切りの宣言だった。
カティフラクトの拳がわずかに震える。
「パンドラ様に同行していたはずの煌月守衛軍の兵士たちが、入口で全員殺されていた」
静かな声。
だが、その奥には怒りが滲んでいる。
「あれは……貴方の仕業か?」
「そうだ」
タナエルは一切の躊躇なく答えた。
「彼らは煌月家の秩序を乱そうとした。よって処分したまでだ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が張り詰める。
カティフラクトの瞳に明確な怒気が宿る。
「彼らは皆、パンドラ様に忠誠を誓った私の部下だ。そして――私もまた、パンドラ様を裏切らぬと誓った」
重い宣言。
だがタナエルは冷笑する。
「何を勘違いしている、カティフラクト。煌月守衛軍は煌月家を守るために作られた軍だ。パンドラ様を守るための軍ではない」
正論。
だが、魂の通わぬ正論。
カティフラクトは視線を巡らせる。
祭壇の上――
その左右にはタナエルとパソニア。
さらに、ジェラントス、リモルナ、プセウリナまでもが並び立つ。
満ちるネクロスの魔力。
そして、満身創痍の俺。
カティフラクトの声が低く落ちた。
「……ここは一旦引くぞ。出口は確保してある」
背後でタナエルが薄く笑う。
「やはり、お前は冷静だな」
だが――
「待てよ」
自分でも驚くほど、低い声だった。
逃げる?
このまま?
パンドラを置いて?
「何をしている」
カティフラクトが振り返る。
「あの魔力を前に貴様の勝てる相手ではない」
確かにそうだ。
理屈ではわかっている。
だが――
「いや、まだだ」
俺は拳を握る。
「俺は目の前にいるパンドラの姿を見て、迷っていた。本気で殴れていなかった。だから……次は最初から全力で行く」
パンドラの顔を意識から外す。
俺は再び祭壇へ駆け上がった。
「懲りないやつだ」
ネクロスが嗤う。
「そんな体で、まだ私に逆らうと言うのか」
焼かれた体が悲鳴を上げる。
痛みで指先まで震える。
それでも俺は睨み返す。
パンドラ。
もしかしたら――俺はお前に取り返しのつかない傷を負わせるかもしれない。
だが。
それでも。
このまま奪われたままにしておくほうが、ずっと残酷だ。
「いくぞ!うおおおおおぉぉぉ!」
踏み込んだ瞬間、全身からオーラが噴き上がる。
血流が一気に加速し、鼓動が胸の奥で爆音のように鳴り響く。
全身全霊を賭ける。魂ごと、あいつに叩きつける。
俺は迷いを捨て、一直線にネクロスへと突っ込んだ。
「片手で受け止められるなら受けてみろよ――エタニティ スピリット エクスプロージョン!!」
拳から白光が爆ぜる。
次の瞬間、幻想の森が広がった。
空間を埋め尽くすほどの樹々が芽吹き、深緑の枝葉がざわめく。
やがて森は収束し、一羽の巨大な孔雀へと姿を変える。
羽は瑠璃、深緑、金、紫、橙――
無数の色彩が重なり合い、光が羽搏くように煌めく。
その孔雀が一直線にネクロスへと突き進む。
だが――
ネクロスは片手を上げただけだった。
幻想の森も、孔雀の羽も、光の奔流も――その掌の前で止まる。
「そんな……」
喉がひりつく。
「それが貴様の最大の技のようだな」
黒い瞳が冷ややかに細められる。
「だが、どうやらこの私には効かぬらしい」
嘲る声が耳を打つ。
それでも――俺は引かない。
歯を食いしばり、拳にさらに力を込める。
白光がいっそう濃くなり、圧縮された光が空間を軋ませた。
押し込め。貫け。砕け。
その瞬間だった。
ネクロスの掌から伝わる黒い魔力が、俺の拳へと流れ込んでくる。
「なに……?」
ネクロスの眉が、わずかに動く。
黒い魔力が白光へと呑み込まれていく。
「うおおおおおおお!」
さらに力を込める。
拳が限界を超えて輝く。
「馬鹿な……私の魔力を、吸収している……?」
ネクロスはもう片方の手をかざし、両手で俺の拳を挟み込む。
圧力が倍増する。
だが、俺は止まらない。
「くっ……この男、私の魔力を己の力に変え、威力を増幅させている……」
ネクロスの目に初めて警戒が宿る。
そして、黒い瞳が大きく見開かれた。
「なっ、貴様、返せ」
低い命令。
「てめぇがパンドラを返せぇぇぇ!!」
叫びとともに限界まで圧縮された白光が弾けた。
爆音。
衝撃波が広間を揺らす。
次の瞬間、ネクロスの身体が宙を舞った。
祭壇の石柱を砕きながら吹き飛び、煙が立ちこめる。
「はぁ……はぁ……どうだ……」
膝が震える。
だが――
瓦礫の中から静かに立ち上がる影。
黒い髪はそのまま。
瞳も漆黒のまま。
「くそ……今の俺の力じゃ、パンドラの体からあいつを追い払えない……」
ネクロスは俺を睨みつける。
そして、ゆっくりと右手を掲げる。
その時、背後でカティフラクトの詠唱が響いた。
「マゲイオン アイギス!」
瞬時に俺の前へ巨大な光の壁が展開された。
幾何学的な紋様が輝き、重厚な防御結界が張られる。
「早くこの場から退くぞ!」
「ちくしょう……!」
俺は歯噛みしながらルナと共に出口へ向かう。
その背後でネクロスの空気が変わる。
愉悦は消えていた。
「逃がしはせぬ」
次の瞬間――寒気が走った。
視界の端に黒い塵のようなものが舞い落ちる。
「……冷たい……何だ、これは」
黒い。
光を吸い込む、闇の粒子。
次の瞬間、マゲイオン アイギスが凍りつく。
そして――
砕け散った。
「なっ!?」
「私から逃げられると思ったか?」
ネクロスがもう片方の手を掲げる。
黒い雪が激しく降り注ぐ。
触れた床が凍結し、石が軋む。
「やばい、この黒い雪……あいつの魔法だ!あれをくらったら凍らされるぞ!」
ルナの声が響く。
「私に任せて!」
彼女は両手を広げ、詠唱する。
「ヒュドロス ペリボレー!」
出口を塞ぐように大きな水塊が出現する。
透明な壁が広がり、次の瞬間、黒雪がそれに触れ、瞬時に凍結。
水の壁は黒い氷へと変わり、侵食を食い止めた。
「やったわ。これで少しは時間を稼げる。早く、この城から脱出しましょう!」
俺たちは走る。
だが、背後では黒雪が氷壁を侵食していく音が響く。
祭壇の上でネクロスが一歩踏み出す。
その足が、わずかに震えた。
思うように動かない。
――パンドラの体……何という弱々しい体。
この体に慣れるには、まだ時を要するか。
「何をしている!逃がすな、タナエル!あの男を――生きたまま捕らえよ!」
「はっ!」
次の瞬間、城の奥で空気がわずかに揺れる。
追撃は静かに――確実に迫っていた。




