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第13話 空手と水の銃弾

天空が倒れた。

その瞬間戦況のすべてが――ひとりの少年、イヴァンに託された。


少女はそこにいた。

震える手をぎゅっと握りしめながら怯えの色を宿した瞳でこちらを見つめていた。

声も出せず逃げ場もない。

ただ助けを求める気配そのものを全身でイヴァンに向けていた。


見捨てるという選択肢は彼の中に最初からなかった。

だからこそ彼は躊躇わずに一歩を踏み出した。

オーラのすべてを一撃に注ぎ込み、化け物を叩き伏せた――そう思ってしまった。


だがそれは倒れてなどいなかった。


関節の位置を無視するように骨の奥から軋む音を響かせつつ肉体がゆっくりと持ち上がる。

無言のまま男は再び立ち上がった。


その瞬間イヴァンの心臓が強く軋んだ。

目の前の動きに言いようのない違和感が走った。

筋も骨も動かず皮膚だけが音を立てて滑る――そんなもの人間の所作ではない。


戦慄と直感が交差する中でイヴァンの唇が静かに動いた。


「……質問がある。お前は人間じゃないのか?」


沈黙がしばし場を支配した。

そして男はゆっくりと顔を上げた。

凍てつくような瞳がまっすぐイヴァンを見据える。

しばらくして男の口元がようやく微かに動いた。


「俺はかつて水の精霊――アクノートだった。だが……変えられてしまった。今は精霊でも人間でもない、別の存在だ」


その言葉を受けた瞬間、胸の深いところが音もなくひび割れた気がした。

精霊――目の前の男がかつては精霊だった?


だがそれはもはや重要ではなかった。

相手が人間か精霊か――そんな事は戦う理由にも迷う理由にもならない。

ただひとつ確かなのは――この存在が人の理では測れない何かだということだった。


イヴァンはもう一つ問いを重ねた。


「……もう一つだけ聞く。天空を……殺すつもりだったのか?」


男はふと口角を上げた。

だがそこに笑みと呼べるものはなかった。

温度も感情も意味すらも存在しない――ただ唇が歪んだだけの動きだった。


「当然だ。次はお前の番だ」


その瞬間イヴァンの脚は無意識に地面を蹴り出していた。

理性は沈黙し、雑念もすべて掻き消えた。

ただ、胸を満たす冷たい空気と鼓動の高鳴り、全身を駆け巡る熱だけが彼の意識を支配していた。

まるで体が独りでに動いているかのように自然と構えを取る。


男が無音で歩み寄ってくる。

逃げ道をじっくりと塞ぎながら獲物を仕留めにかかる捕食者のように。

冷たく、無感情に、それでいて――致命的なまでの余裕を纏って。


間合いが詰まる。

数歩――それだけの距離が極限の重圧となって肌を締め付ける。


「――くらえ、正拳一閃突き(せいけんいっせんづき)!」


オーラを拳に凝縮し、一点に撃ち込む渾身の一撃。

空気が裂けた。


――バシン!!


拳は確かに腹部を捉えた――そう感じた。

だが男の体には一片の反応すらない。

のけぞりもせず、ひるむこともなくただ静かに何もなかったように歩を進めてくる。


「……当たってない?外した……?」


違う。

拳は届いていた。

反動があった。

空気の重さも骨に伝わる抵抗も全てが揃っていた。


なのに――効いていない。

いや、何かがおかしい。


思考を挟む余地はない。

体が勝手に動いていた。

イヴァンは踏み込み、さらに距離を詰める。

逃がさない、今度こそ仕留める。


「この距離なら……絶対に避けられない。正拳一閃突き(せいけんいっせんづき)!」


――バシン!!

拳が再び肉を貫いた――はずだった。

しかし。


……何もない。

堅さも、柔らかさも、反発すらも。

拳が何かに触れた感覚そのものがごっそりと欠落していた。


次の瞬間、背後で爆音が弾けた。


――ガシャーン!!

作業台が破裂し、備品が宙を舞い、音を立てて砕け散る。


「……こいつの体の中、一体どうなってやがるんだよ……」


言葉が震えと共に漏れた。

確かに拳は届いていた。

なのに――まるで男の身体をすり抜け、後ろの物だけを破壊したような有り様だった。


空洞か?

それとも、そもそも中身など存在しないのか?

あるいはこの男の存在自体がもはや物理の法則から乖離しているというのか――。


男が迫る。

痛みなど存在しないかのような無表情のまま拳と脚を絶え間なく繰り出してくる。

そこに容赦はなく迷いもなかった。

打撃の純度は殺意そのもの――濁りがなさすぎてもはや透明にすら感じられた。


だが――イヴァンは一歩も引かない。


彼には見えていた。

相手のオーラが攻撃の意図を形にするより先に予兆として漂うのが。

打撃の直前、オーラが手先や足先へと濃密に集まる。

その濃度の変化が視界に滲み出る。


右手にオーラが集まる。

来る――フックだ。

肩が動くより早くイヴァンはもう回避の動作に入っていた。


次は右足、回し蹴り――すべてが見える。

読める。

殺到する連撃を一つも触れさせず彼は空気を滑るように回避していく。

反応でも予測でもない。

見る前に視ていた。

それはもはや異能に等しい「視る」という技だった。


そして――隙が生まれた。

イヴァンは即座に跳び退き、着地の反動を利用して跳躍する。


「真空かかと落とし――!」


――バシュッ!!

空気を裂いたかかとが男の頭頂部を正確に撃ち抜いた。

次の瞬間、真空を震わせるような轟音が空間を貫いた。

男の顔に縦の傷が刻まれ、上半身の服は破れ、その裂け目から異様な液体がじわりと滲み出している。


――それでも倒れない。

むしろ男の顔は音もなく液体のように歪み、器に戻る水のようにゆっくりと形を再構成していく。


「……なんだあの身体は……まるで全身が水でできてるみたいだ……」


イヴァンは思わず息を呑んだ。

その瞬間、男がわずかに顔を向けて片方の目だけで鋭く視線を突き刺してくる。


「見たな?」


低く静かだが異様に重い声だった。


首の傷は音もなく閉じ、口元の水の膜が滑るように消えていく。

男は無言のまま横のボイラーに手を伸ばし、鉄パイプを根元から引きちぎった。

扱い慣れた手つきで構え直し、それを即席の武器に変える。


イヴァンは思わず舌打ちしそうになった。


(……そうか。格闘戦を続けてる場合じゃないって言いたいんだな)


男が右手を突き出す。

開いた五指が狙いすましたようにこちらを向いていた。


「――ウォーターマシンガン」


「なっ……!」


――シュゥゥゥン!!


空間が軋む。

青白い弾丸のような何かが複数、轟音もなく迫ってくる。

肉眼で捉えられないわけではない。

だが――重い。


直感が警鐘を鳴らした。

あれはただの水しぶきじゃない。

一発でも喰らえば身体が沈む。

感覚が濁る。

速度が鈍る。

動けなくなる。


避けるだけじゃ足りない――打ち消すしかない。

イヴァンは構えから旋回に移り、軸足を沈めて全身をひねりながら足を高く掲げた。


「――空斬旋風脚くうざんせんぷうきゃく!」


――ドガアァン!!

渾身の旋風脚が放たれる。

裂けた空気の真空が鋭く伸び、水弾を薙ぎ払った。


破裂音が連なる。

青白い弾丸は砕け、霧のように四散して痕跡すら残さない。


だが男の動きは止まらなかった。

むしろその隙を正確に見切っていたかのように――目前に現れる。

引きちぎった鉄パイプを高々と振りかぶり、全力でイヴァンの頭上を狙って振り下ろしてきた。


「しまった!……これは回避できない!」


咄嗟に両腕を交差させて全オーラを手首へ集中させる。

それを盾のように頭上へ翳した。


――ガッ!!!


砕けるような衝撃音。

鉄と鉄がぶつかるような重圧が腕の芯まで貫いた。


「ぐっ……!」


骨の奥でひび割れるような感覚。

鋭い衝撃が意識をかき乱す。


だがそれでも終わらせなかった。

次の瞬間、男の膝が――脇腹に突き刺さる。


――ドンッ!!!


肺が潰れる。

呼吸が消え、体内の空気が一気に押し出された。


「が、あああ……っ!」


弾かれた身体が横へ吹き飛び、壁に叩きつけられる。

そのまま床へ転がり落ちた。


視界が滲み、霞がかかる。


骨が軋む感覚の中でイヴァンは奥歯を噛み締めながら腕を突っ張って――

無理やり体を持ち上げようとした。


だがその刹那――視界の端に男の腕が再び伸びるのが映った。

五指が再び真っ直ぐイヴァンを射抜くように向けられている。


「ウォーターマシンガン!」


――シュゥゥゥン!!!


鋭利な気配が風を裂く。

音速に近い水弾が複数、正面から殺到する。

金属を擦るような不快な軋みが空間ごと引き裂いてくる。


「くそっ!」


痛みに震える脚に無理を強いながらもイヴァンは反射で跳ねた。

本能が告げていた――まだやれる。

まだ終わっていない。

足は動く。


「空斬旋風脚!」


――ドカッ!!!


高く掲げた足が空気を断ち裂く。

回転の遠心が全身を巻き込み、踵が弧を描くと同時に水弾が吹き飛ばされる。

霧のように砕けると跡形もなく消えていった。


だが――耳を貫く鉄の唸り。

男がすでに鉄パイプを振りかぶっていた。


「……何なんだよ、こいつ……!」


イヴァンは息を呑む。

動き自体は重い。

だがなぜかいつも逃げ場がない。

鈍いはずの動きがなぜか攻撃のテンポだけ異常な速さを放っていた。

オーラの流れを読む暇すら与えない。

まるで即興で生まれる旋律を絶え間なく突きつけられているかのようだった。


「速さじゃない……オーラを視る前に、もう次が来る……そんな動きだ……!」


そう呟きイヴァンは覚悟を決める。

再び両手を高く掲げて交差させた。

オーラが渦を巻きすべてが手首に集束する。


次の瞬間――鉄パイプが頭上に落ちた。


――グギィィッ!!!


「ぐあああっ……!」


骨が軋む。

皮膚の奥から不快な音が全身を震わせる。

手首の関節が今にも砕けそうに脈打ち、激痛が視界を白く染めた。


そしてその一瞬の硬直を突くように――

オーラが右脚に集中し、蹴りが飛んできた。

否――左だった。

本命の気配は直前に薄く浮上しただけだった。

濃いオーラに誘導された視線がほんの刹那遅れる。


――ドンッ!!!


「ぐはっ……!」


誤認させてからの反対側。

視線を誘導し、意識を騙し、思考が届く前に肉体を破壊する。

読みを外させる意図された錯覚。

完全に翻弄された。


イヴァンの身体が宙に浮くと、そのまま背中から地面へ叩きつけられた。


背中を貫いた激しい衝撃に肺の空気が一瞬で押し出された。


「……ぐふっ……!」


身体が動かない。

息すらもまともに吸えなかった。

それでも――諦めるわけにはいかなかった。


目の前の男はすでに無言で再びその手をこちらへ向けていた。


「……なっ!?」


「ウォーターマシンガン」


今度ばかりは本当に避けられない。

限界を超えた肉体はもはや微動だにせず、体勢を立て直すどころか顔を上げる力さえ残っていなかった。

しかも距離が近すぎる。

この一撃で終わる――脳がそう告げていた。


「天空……ごめん。こいつは……強すぎる……」


唇が震える。

絶望が胸の奥に冷たい泥のように流れ込む。

だが、その瞬間――


何も飛んでこなかった。


「……え?」


目を開ける。

風を裂くあの耳障りな破裂音もない。

迫りくる水弾の気配も微塵もない。


男の視線が自らの掌に落ちていた。

何かを探るように右手の甲と掌を執拗に繰り返し見つめている――だが微動だにしない。


「……不発……?いや、まさか、弾切れ……?」


呆けたような表情。

その目には虚無しかなかった。

だがそれはイヴァンにとって――唯一にして最後の生存の糸口だった。


軋む脚を地に打ちつけるようにして立ち上がる。

全身の関節が悲鳴を上げる。

だが構わない。

いや、構っている暇などない。

まだ戦える。

否――戦わねばならない。


その瞬間、男が左手をピストルの形に構えた。

その動きには明らかな殺意が宿っていた。


「ウォーターマグナム」


――シュゥゥゥン!!!


空気が裂ける轟音。

次の瞬間、指先に集まった異様な濃度のオーラをイヴァンははっきりと視ていた。

水が刃にも槍にも似た塊となり、殺意を孕んで一直線に解き放たれる。


(来る……!胸を狙って――!)


逃げ場はない。

だからこそ一歩の選択が命を決める。

右足にオーラを凝縮させ、身体の軸を捻るように強引にひねった。

胸の位置をわずか数センチずらすだけ――それで貫通を避けられると信じて。


直後、凄絶な衝撃波が肩をかすめた。

焼けるような痺れが右肩を走り抜け、背後の石壁に水塊が叩きつけられる。


――ズゴォォッ!!


分厚い壁が削り取られ、粉塵と破片が飛び散る。

もし正面から受けていれば、胸ごと吹き飛ばされていた。


(今のは……完全に殺しにきていた……)


痛みはある。

感覚も鈍い。

だが致命傷ではない。

生き延びた――それだけで十分だった。


死地を抜けたというただ一点の事実がイヴァンの中に沈んでいた闘志を引きずり上げる。


(まだ……やれる)


それを見た男が首を僅かに傾けた。

その動作にどこか人間離れした違和感が滲んでいた。


「……もう、この姿のままでは駄目だな」


その声と同時に空気が異質な膜を纏い始めた。

イヴァンの呼吸が止まる。

男の身体が音もなく膨張し始めた。

輪郭がぼやけ、皮膚だったものが流体のように溶け出していく。


筋肉の結び目が崩れ、骨格が――ゆっくりと失われていった。


錯覚ではない。

目の前の存在は確かに現実の理から逸脱していた。


皮膚は粘膜のように垂れ落ち、雫を滴らせながら形を失う。

そしてかつて男だったものは人間の意匠を無機的に模したマネキンのような姿へと変貌を遂げた。


つるりとした表面。

筋肉の緊張もない。

目も、口も――それらしく描かれているだけに過ぎない。


恐怖が胸を締めつけた。

心拍が跳ね上がり、耳の奥で破裂音のような鼓動が響いた。

皮膚が総毛立ち、指先から感覚がすうっと消えていく。


「な……なんだ、あれは……」


イヴァンの呟きはもはや言葉ではなかった。

逃避に近い、絶望の吐息だった。

目に映るすべてが現実の枠から逸脱していく。

だが――否定できない現実が目の前にあった。


異様な光沢を帯びた水分が体液のように滴り落ちるたびに床が濡れ、空気が粘性を持って冷え込んでいく。

錯覚ではなかった。

凍えるような寒気が皮膚を食い破り、骨の奥へと染み込んでいく。

恐怖がイヴァンの身体をむしばみ、動きを封じようとしていた。


だが――その異形が己の身体を見下ろすように視線を落としていることに彼は気づいた。


「……まさか……あいつ、痛みを感じてない……!そのせいで、自分の限界を分かってないんだ!」


理解が火花のように脳を焼いた。

無傷なのではない。

傷を負っているのにそれに気づかないのだ。

限界などとっくに超えている。

この異形への変貌こそがその証拠。


崩れ落ちた筋肉、支離滅裂な輪郭、暴走する力――

制御も理性もとうに吹き飛び、本能だけが剥き出しになって暴れている。

この怪物はもう自分の状態すら把握できない。

肉体は崩壊の寸前。

崖の縁で立ったまま瓦解しようとしている。


勝機は――ある。


「天空……お前の攻撃……ちゃんと届いてたよ……!」


その呟きが沈んでいた意志を引き上げる。

心拍が鼓動となって内側から身体を叩く。

恐怖は消えた。

その代わりに満ちてきたのは覚悟と集中。


研ぎ澄まされた静寂。

感情のすべてが一点へと収束していく。


その時、異形が唇とも呼べぬ口をわずかに開いた。

そして――おぞましいほど濁った音が発せられた。


「人間が……ここまでやるとはな。しかも、まだ子供……。だが、この姿を見てしまった以上――お前に、助かる道は無い」


声帯すら水で構成されたようなその響きは言葉ではなかった。

濁流のような圧が音という形を借りて流れ込む。

それは殺すという衝動だけを伝える意志の断片だった。


冷たく、重く、終焉だけを告げるその声が真正面からイヴァンにぶつかる。

だが、彼は一歩も退かない。


逃げるという選択肢など最初から持ち合わせていなかった。

天空を――あの少女を見捨てるわけにはいかなかった。


ここで倒れればすべてが終わる。

だから倒れるわけにはいかない。


深く、肺の底まで息を吸い込む。

鼓動を制御し、呼吸と同調させる。

視界の中心に異形を捉え、全身にオーラを巡らせる。

神経の一本一本が鋼の糸のように張り詰められ、全身が一点に向かって収束する。


思考を切り捨てる。

理屈も言葉も、もう何もいらない。

ただ――残すべきは本能だけ。


終わりではない――ここからが始まりだ。

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