第134話 魂光の湿原の霧と煌月守衛軍からの逃亡
霧の奥で魂が灯のようにゆらめいていた――そこが魂光の湿原と呼ばれる場所だった。
霞んだ空気の底から霧が絶えず立ちのぼり、足元の水面に光の粒が浮かんでは消えていった。
タナエルの話によれば、この湿原は死と生の境にある魂の回廊とされ、近づく者は命を蝕まれるという。
だからこそ誰ひとりとして軽々しく足を踏み入れる者はいなかった。
「着いたぞ」
魔導車の扉を開け、カティフラクトが低く言い放つ。
足を下ろした瞬間、泥が靴底を包み、霧が頬を撫でていった。
朝日が昇っているはずなのに光は白く濁り、影というものがほとんど見えなかった。
ほんの数刻前までは青空が広がり、水面が陽を反射していた。
だが今は、その光景すべてが霧に塗り潰されている。
視界の先にあるのは淡く光る霧の揺らめきだけ。
この先へ進めば何が潜んでいるのかさえ分からない。
一歩進むたびに背後の明るみが遠のき、周囲の輪郭が霧の中へと溶けていくようだった。
「気をつけろ」
カティフラクトが腰に手を添え、低く言った。
「多くの魔力を感じる。尋常じゃない密度だ」
俺は周囲を見渡した。
背後には煌月守衛軍の精鋭二十名。パンドラを奪還するために編成された特別部隊だ。
タナエルは「今は城を離れるわけにはいかない」と言って残った。
その判断に異を唱える者はいなかった――そして、俺自身も奇妙な安堵を覚えていた。
「さあ行くぞ。ぐずぐずしている暇はないんだ」
先頭のポレモスの声が響く。
その背中からは凄まじい気迫が滲んでいた。
それは怒りではなく、純粋な殺意に近いものだった。
近くにいるだけで肌がひりつくような感覚を覚える。
俺たちはポレモスを先頭に湿原を進んだ。
だが霧の奥に続く道は見えぬ波に揺らぐように歪んでいた。
光の粒が濃くなったり薄れたりし、歩く者の心を試すかのように変化していた。
その中でカティフラクトの視線だけが絶えず俺に注がれている気配があった。
(まずはカティフラクト、そしてポレモス。この二人をどうにかしなければいけない。パンドラを取り戻すためには――)
霧の中、胸の奥でその言葉だけが繰り返された。
◇ ◇ ◇
「今から私の言う場所に向かうのは、あなた一人だけにしてください。煌月家の誰も同行させないと、ここで誓ってください」
「俺だって出来れば一人で行きたいさ。だけど、タナエルやポレモスが俺を一人にするわけがない。それに……もしタナエルに嘘を言ったら俺はあいつの力で殺されてしまう!」
エピメスはひと呼吸おいて静かに言葉を継いだ。
「あなたは嘘をつく必要はありません。私の言うことをそのまま伝えればいいのです。真実を語る限り、タナエルの力で命を奪われることはないでしょう」
「……真実を語る?」
「帝国の隠しアジトが魂光の湿原の奥にあります。そこにパンドラが囚われているはずです」
その言葉が真実かどうかを確かめる術はなかった。
だが、俺はエピメスの次の言葉を待った。
「魂光の湿原に着いたら道なりに真っすぐ進んでください。途中で強力な魔物が現れます。そこを抜けてさらに奥へ進めば、霧が濃くなり視界が閉ざされます。……その時に動くのです」
(動く……?煌月守衛軍を霧で撒けということか?)
「魂光の湿原の何処かに必ずアジトはあります。正確な場所は言えませんので探してください。その場所にたどり着いたとき、周囲の空気が変わる瞬間があるはずです。その変化が目印です」
(目印?到着じゃないのか?)
「……その場所は必ず一人で見つけてください。とても危険な場所ですが……私はあなたの実力を見越して話しています、オーシャンさん」
◇ ◇ ◇
エピメスのいた牢を出て作戦室へ戻った時、タナエルは予想通り、俺に左手を向けてきた。
俺の言葉が真実でなければ、その場で殺される。
だから俺はエピメスから聞いたことを一語一句違えずに告げた。
魂光の湿原の構造、魔物の存在、霧の性質、そしてパンドラが囚われているという情報。
それが「真実」として通るかどうか、試されているのが分かっていた。
すべてを語り終えた時、タナエルは無言のまま手を下ろした。
命を断たれることはなかった。
だが、胸の奥には重く冷たいものが残ったままだった。
エピメスが語った「真実」がどこまで信じられるかは分からない。
――それでもエピメスの言葉に賭けるしかない。
何が待っていようと、彼の言う目印を誰よりも早くこの目で確かめなければならない。
「おい、このまま真っすぐ歩いてていいんだろうな?」
霧の向こうからポレモスの低い声が飛んだ。
その声には疑念というより苛立ちが混じっていた。
「……ああ」
短く答えながらも、心の奥では別の不安が膨らんでいく。
どれほど歩いても霧は晴れず、ただ光がゆらゆらと漂う。
(本当に、この先で合っているのか……?)
霧の向こうには沈黙しかなかった。
だが、その静寂の奥で何かが蠢いている。
長い眠りについていた何かが湿原の底で静かに身を起こしていた。
その異変に最初に反応したのはカティフラクトだった。
彼は短く息を吸い込み、後ろを振り返る。
「……おかしい。後ろにいた部下の数が減っている。列の途中で何人かが消えた」
その直後、遠くから悲鳴が上がった。
「ぎゃあああ!」
「後ろから来たぞ!こっちに加勢しろ!」
俺は反射的に振り向き、カティフラクトも、ポレモスも同じ動作を取った。
しかし霧の奥には何も見えない。
音の方向すら掴めず、霧そのものが叫びを飲み込んでいるようだった。
「はぐれた兵士達が誰かと戦っている……?」
「構うな」
低く、揺るぎのない声でカティフラクトが言う。
「この湿原には人の声を真似る白翼の湿鳥が棲むという。あの叫びが本物かは分かりませんが、我々の兵が、そんなものに惑うはずがない」
その言葉に誰も異を唱えなかった。
確かにこの部隊の兵士たちは並ではない。
動作の一つ一つが統制され、息づかいさえ無駄がない。
それは訓練や忠誠の域を超え、幾度も生死の狭間を渡ってきた者だけが持つ静かな強度だった。
「私たちの目的はパンドラ様の救出だ。足を止めるな。このまま進むぞ」
カティフラクトの声が濃霧に吸い込まれ、やがて足音だけが遠くへと消えていった。
だが、その数歩先で金属が泥を擦るような鈍く湿った音がした。
何かが、こちらへ近づいてくる。
「……何かいやがるな」
先頭を進むポレモスが低く呟いた。
霧の奥から鎖を引きずる音が幾重にも重なり、湿原の空気を震わせた。
やがて、霧の裂け目の向こうにそれが姿を現した。
朽ち果てた鎧をまとい、黒く干からびた腕で鎖を握る者たち――
皮膚というより、灰の残滓を寄せ集めたような身体。
その奥で濁った瞳が鈍く光っていた。
鎖の先には無数の金属輪が繋がり、泥を引きずりながら円を描いて蠢いていた。
それはまさに、この地を永遠に離れられぬ亡者の警備兵だった。
「……あれが、断罪の鎖霊ってやつか」
ポレモスの呟きにカティフラクトが応じる。
「そのようですね。この地で死んだ兵士の魂を鎖で縛り、死してなお湿原を彷徨うとされる死霊」
囲まれていた。
霧のせいで正確な数はわからないが、その気配だけで十や二十ではきかないほどだった。
息を潜める兵士たちの間に冷たい緊張が走った。
エピメスの言っていた強力な魔物というのは、どうやらこいつらのことらしい。
俺が構えを取るとポレモスが一歩前へ出た。
その背に言葉より先に気迫が満ちる。
「ちょうどいい。ストレスが溜まっていたところだ。こいつらの相手は俺にやらせろ」
その声に迷いがなかった。
無数の断罪の鎖霊を前にしても彼の足取りは緩まない。
むしろ、霧を押しのけるように一歩、また一歩と進む。
断罪の鎖霊たちが動いた。
金属が震える音が波紋のように広がり、数十の鎖がいっせいに持ち上がった。
空気を切り裂く唸りとともに金属輪が飛来し、ポレモスの身体へと絡みつく。
鎖が腕に、胴に、脚に巻きつく。
しかし――
「俺を侮るなよ……愚かにも絡みつく鎖の先に待つのは絶望のみだ」
低く吐き出す声が静寂を裂いた。
ポレモスの身体が沈むようにわずかに傾いたが、次の刹那、全身の筋が膨れ上がり、鎖が悲鳴のように鳴動した。
それは抵抗ではなく逆流だった。
巻きついた鎖が引き寄せられ、断罪の鎖霊たちの身体を無理やり引き倒す。
「うおおおおおおおおっ!!」
雄叫びとともにポレモスの身体が爆発的に動いた。
地を蹴り、霧を割り、拳を振るう。
絡みついた鎖をそのまま掴み、引き寄せ、殴りつける。
霧の中で灰色の腕が砕け、頭蓋が割れる音が鈍く湿原にこだました。
だが、断罪の鎖霊たちはなおも群がる。
ポレモスは回し蹴りで一体を弾き飛ばし、続けざまに拳を叩き込む。
鈍い衝突音が連なり、砕けた破片が泥に沈んでいった。
背後から鎖が迫る。
だが彼は反転し、それを掴み取ると肩越しに拳を放った。
衝撃が鎖を伝い、断罪の鎖霊の胸部を粉砕する。
「どうしたあぁぁ!まだまだ憂さ晴らしには足りねぇな!」
叫びながらポレモスは前へ踏み込む。
踏み鳴らす音が空気を震わせるほどに響き渡った。
断罪の鎖霊たちの鎖が空を切るたびに細かな金属音が霧の中に散っていった。
殴るたびに霧が震え、蹴るたびに地がうねる。
拳も膝も蹴りも、彼の意志と肉体のすべてが一点に凝縮され、破壊の連鎖を生んだ。
断罪の鎖霊たちは形を保てず、砕け散り、灰となって消えていった。
絡みつく鎖すら彼の腕の動きに耐えきれず千切れていく。
「うおおおおおおっ!――ネクサス ブラスト」
再び咆哮。
ポレモスが跳び上がり、両腕で鎖を束ねたまま地面へ叩きつけた。
――ゴオオオオッ!!
地を割るような衝撃が走り、霧の中に灰の飛沫が舞い上がった。
残っていた断罪の鎖霊の半数が、その一撃で粉砕された。
「強えぇ……なんてスピードと馬鹿力だ……」
あまりの光景に息を呑む。
まだ全力を出し切っていないはずなのに、この圧倒的な力。
他の兵士たちも言葉を失っていた。
「ポレモス様……なんという素晴らしいお力」
それは戦闘というより、圧倒的な破壊だった。
力と技の境界を見失うほど無慈悲で鮮烈。
一体、また一体、断罪の鎖霊が霧の中で粉砕されていく。
それでもなお数体がよろめきながら立ち上がった。
ポレモスは息を吐き、拳を握り直す。
動きに一片の淀みもない。
霧を押しのけ、立ち上がった断罪の鎖霊たちに向かって踏み出した。
「終わりだ!ディメンション クラッシュ」
右拳が突き出される。
一瞬の閃光。
ドゴォォォォンッ!
灰が爆ぜるように散り、爆音とともに断罪の鎖霊たちが吹き飛ぶ。
衝撃波が霧を裂き、周囲の残骸を巻き上げながら消し飛ばした。
霧がわずかに晴れる。
その中心に、ただ一人、ポレモスが立っていた。
鎖はすべて断たれ、音も残らない。
カティフラクトが静かに頷く。
「……お見事です」
俺は息を呑んだまま、その背を見つめていた。
圧倒的という言葉が安っぽく思えるほどの存在感だった。
――これが、ポレモス。
煌月守衛軍の指揮官から放たれる危険な気配の理由をようやく理解した。
あの男は戦場の理すら己の意志でねじ曲げる存在だった。
「先に進みましょう」
カティフラクトの声が響くと、兵士たちが足並みを揃える。
霧は一層深まり、音が吸い込まれるように遠のいていった。
ここから先は霧が深まり、何も見えなくなる――そうエピメスは言っていた。
だが、この濃霧こそが俺に与えられた唯一のチャンスだ。
逃げるなら、その時しかない。
歩を進めるたびに霧が濃さを増し、兵士たちの輪郭を曖昧にしていく。
湿原の空気は重く、息を吸うたびに湿った冷気が肺の奥に張り付く。
「霧が……濃くなってきたな」
カティフラクトが呟き、立ち止まる。
その手が胸の前で組まれた瞬間、空気が一変した。
「渦巻く浄化の嵐よ、我が意志の下、その暴威を吹き荒らせ――カタリシス アネモス!」
詠唱の瞬間、突風が湿原全体を駆け抜けた。
風が霧を裂き、湿原を覆っていた白い幕が渦を巻いて消えていった。
その威力に俺は思わず足を止めた。
(……なんて範囲だ。あの男、まるで霧そのものを操っているみたいじゃねぇかよ)
数秒のうちに霧が晴れ、視界が一気に開ける。
濁った水面、歪んだ枯木、そして奥へと続くぬかるんだ地形が現れた。
「……くっ」
思わず声が漏れた俺へ、カティフラクトが振り向く。
冷徹な視線の奥に、わずかな探りの色が見えた。
「何をうろたえているのです?先に進みましょう」
「お、おう……」
舌打ちしたい気分だった。
この男、城でパンドラが連れ去られたことを教訓としてやがる。
霧を使って逃げる算段は完全に潰された。
(まずい。このままでは……エピメスの言う目印がある場所まで、こいつらを連れて行くことになる)
周囲の空気が変わる――それが目印だとエピメスは言っていた。
そして、彼ははっきりと言っていた。
「必ず一人で行け」と。
タナエルはいない。つまり、今ならまだ誤魔化せる。
俺は足を止め、わざと焦ったように声を上げた。
「待ってくれ!ここを真っすぐ進んでも帝国の隠しアジトには着かない!そこの分かれ道を左だ!左に行くんだ!」
俺の声にポレモスが眉をひそめた。
「あ?どうして左だ?お前、作戦室じゃそんな話してなかっただろ」
冷たい疑念。ひとつの言葉が命取りになりかねない。
「タナエルに左手を向けられて……緊張してたんだ。言い忘れたんだよ!今さら適当なことを言うわけないだろ!俺だってパンドラを助けたいんだ!」
喉の奥でかすれる声を、それでも無理に吐き出した。
焦燥を演じることにもう迷いはなかった。
カティフラクトがわずかに目を細め、何かを計るように視線を向けた。
短い沈黙が場を支配する。
やがて彼は小さく息を吐き、静かに頷いた。
「この男はパンドラ様が信頼を寄せた人物です。それに、帝国のスパイでないことはタナエルの魔法で確認済み。ここは彼の言葉に従おう」
ポレモスは不満げな表情を見せたが、反論はしなかった。
その沈黙が空気をゆっくりと押し潰すように広がっていった。
こうして俺たちは真っすぐの道を外れ、ぬかるんだ左の道へと足を踏み入れた。
◇
進むほどに湿原の空気は濃く、肌にまとわりついてくる。
霧が再び立ち込め、遠くの影を曖昧にする。
足元の水面は黒く淀み、底の見えない深さを思わせた。
その時、かすかな声が霧の向こうから響いた。
「カティフラクト様!どちらにいらっしゃいますか!」
カティフラクトは立ち止まり、右腕を押さえながら即座に応じた。
「ここにいる。早く合流しろ!」
その声と同時に白い閃光が天へ放たれた。
光は霧を貫き、空が割れたように輝く。
だが、その輝きも束の間、すぐに霧へ呑まれた。
「もう少しで合流できるはずだ、気を抜くな!」
また声が響く。
近い。確実に近づいている。
(この霧の中で……どうして俺たちの位置がわかる?)
すぐに理解した。
彼らは「視覚」ではなく「魔力」を感じ取っている。
だから魔力を持たない俺の存在は彼らには感知しづらい。
だがそれは同時に――カティフラクトが俺を常に警戒していた理由でもある。
(……そういうことか。俺から魔力を感じられないから、ずっと目で追ってるんだな)
あの視線は、ただの疑念ではない。
戦場の指揮官が、わずかな異変を察知しようとするときの目だ。
(どうする……このままじゃ、本当に逃げられない)
霧がまた濃くなりつつあった。
足元の泥がぬめり、踏み出すたびに小さな音を立てて沈む。
そういえば魔力の反応を追えるはずの兵士たちが、湿原に入ってから霧に呑まれるように姿を消していた。
なぜだ。この霧の中に何がある?
焦りと混乱の中で、ふと――前方に淡い光が浮かび上がった。
それは心臓の鼓動のようにゆっくりと脈打ち、湿原の空気を淡く染めている。
「ん?なんだこれ?」
近づいた瞬間、カティフラクトの声が鋭く響いた。
「触るな!」
だが、声よりも早く俺の指先は反射的にその光へ伸びていた。
指が触れた瞬間、光が弾ける。
「まぶしっ……」
閃光の中から何かが飛び出した。
霧を裂いて姿を現したそれは、羽ばたきながら俺の肩に爪を立てた――白翼の湿鳥。
こいつが……兵士たちを消した原因か。
翼を広げるたびに霧が渦を巻き、耳の奥に声が響いた。
それは俺自身の声だった。
「助けてくれ!」
「おい!誰か!」
湿鳥は俺の声を真似て叫んでいた。
遠くで兵士たちの足音がざわめく。声に反応している。
白翼の湿鳥は爪を深く食い込ませ、俺の身体を引きずろうとした。
泥が跳ね、水面が波打ち、泡が不気味な音を立てて弾けた。
「離せ!」
俺はもがき、肩をひねって羽根を蹴り飛ばした。
だが白翼の湿鳥の力は異様に強い。
腕が引き裂かれそうになるほどの力で霧の奥へと引きずられていく。
――だが、その瞬間、ふと脳裏をよぎった。
(このまま引きずられれば、あいつらから離れられる……)
その瞬間だった。
「邪魔だ!スピリ アクティス」
カティフラクトの詠唱が響く。
次の瞬間、一直線の閃光が霧を貫き、湿鳥の身体を貫通した。
白い羽根が光の中で弾け、焦げた匂いとともに散る。
俺はその衝撃で地面に転がり、息を詰めた。
「くそっ……もう少しで撒けたのに……!」
この状況は逆に利用できる。
俺は息を荒げ、霧の奥を見渡した。
俺の声を真似る鳥がいるなら煌月守衛軍の耳を攪乱できる。
俺は息を整え、わざと声を張り上げた。
「うわああ!助けてくれ!みんな、どこに行ったんだ!」
霧の中に俺の声が何重にも反響した。
「うわああ!」
「助けてくれ!」
「みんな、どこに行ったんだ!」
白翼の湿鳥たちが俺の声を真似て鳴き交わし、湿原全体が混乱の声で満たされた。
どれが本物で、どれが偽りか――誰にも判別できない。
「まさか、あの男……逃げたのか!」
カティフラクトの声が霧の奥から響く。
ポレモスの怒声がすぐに重なった。
「追え!あの男を逃がすな!」
だがもう遅い。
俺は濃い霧の方角を選び、感覚だけを頼りに駆け出した。
足が沈むたびに泥が跳ね、視界の白が濃くなっていく。
白翼の湿鳥の鳴き声と兵士たちの叫びが混ざり、音の方向すら分からなくなる。
息が焼けるように苦しい。
それでも足を止めるわけにはいかない。
「はぁ、はぁ……よし、よっしゃ……よっしゃ!逃げ切った!」
俺はポケットからコンパスを取り出した。
それはゼリオクスから渡され、ずっとバッグに入れていたコンパスだった。
「南だ……エピメスの言っていた目印は、この先のはずだ」
◇
霧に包まれた湿原を慎重に進み、足元の泥と暗い水面の感触を確かめながら、呼吸を整えつつ周囲に目を光らせた。
どこまでも濃い霧が広がり、目の前の景色はほとんど判別できなかった。
しばらく歩き続けると、わずかに空気の感触が変わった。
冷たい湿気が消え、肌に温かな日差しが差し込む。
霧から太陽が顔を出し、湿原の水面に光が反射して青く輝く。
――ここだ。間違いない。
だが、辺りを見渡してもエピメスの言っていた隠しアジトは見当たらなかった。
鳥の声も風の音もない。
まるでこの場所だけが時間から切り離されたように異様な静けさに包まれている。
(……どこだ?帝国のアジトは何処にあるんだ?)
その瞬間、背後の空気がわずかに震えた。
反射的に身をひねると、白い光線が頬を掠め、目の前の岩を穿つ。
閃光魔法――あの、見覚えのある光。
「よく避ける事ができたな」
低く響いた声に息が止まった。
霧の奥から、その影が一歩ずつ現れる。
淡い光を纏った青い髪が揺れ、深い湖のような青い瞳に冷たい輝きが走る。
カティフラクト――。
すべてを見透かすような眼差し。
「それで――どこへ行こうというのだ?」
背後は湖。
風が止まり、水面は鏡のように静まった。
逃げ場は、もうない。
(……最悪だ。よりによって、こいつだけには見つかりたくなかった)




