第133話 囚われた誓いと鎖に縛られた忠義
「……私はまだ信じていたいの。人は間違いもするし、傷つけ合うことだってある。だけど、それでも変わっていけるって……信じたいの。誰かがそう願うなら、下の世界もきっと少しずつ変わるって……私はそう思いたい」
その声は闇の奥から透きとおるように響いた。
それは音ではなく、記憶の底を静かに撫でるような余韻だった。
懐かしい――。
胸の奥をかすめた瞬間、凍りついた過去が溶けるように彼女の名が心に浮かんだ。
――ルナ。
思考よりも先に、喉がその名を叫んでいた。
「ルナ!どこにいるんだ、ルナ!」
闇の中に返事はない。
ただ、光と影がゆらぎながら彼女の声だけが続いた。
「私はもう、誰かの思い通りには動かない。私は私の意思で生きる。信じたいものを信じて、大切な人たちを守る。そのためなら私も戦う。――そう決めたの。だから、あなたも……お願い、希望を捨てないで。暗いことばかり見てたら、本当に大事なものを見失ってしまうから」
その声は涙を堪えるように震えていた。
「ルナ……俺も一緒に戦う。どんなことがあっても俺はお前を絶対に助けるからな」
震える手を掴めるはずのない虚空へ伸ばした。
ただ、願うように。
だが、その瞬間、視界の端で赤い髪が崩れ落ちるのが見えた。
ルナの足元にパンドラが倒れていた。
黒い衣が血に染まり、床を静かに染めていく。
その赤はあまりに現実的で、心臓が締めつけられるような痛みが走った。
「……パンドラ?」
声が震えた。
視線の先でパンドラは目を見開いたまま誰かを見ていた。
焦点の合わない瞳が、かすかに光を追い、唇が動く。
「……たすけて、オーシャン」
血の匂いが満ちる。
そしてルナがその手に握っていたナイフが淡く光を反射した。
刃に映る彼女の瞳には涙と決意が混在していた。
「天空……ごめん。今は、見逃して……」
その声は水の底から響くように遠く、儚く、そして静かに途切れた。
「ルナ……どうして、どうしてなんだよ!ルナ!」
叫んだ瞬間、視界は眩い光に呑み込まれた。
光はすべてを塗りつぶし、音も色も消していく。
――すべてが静まり返った瞬間、目が覚めた。
息を荒げ、上体を跳ね起こした。
冷たい汗が全身を濡らし、布団が肌に張りつく。
胸が焼けるように痛み、心臓の鼓動が耳の奥で暴れている。
夢なのか現実なのか――その境界すら掴めない。
「……ここは?」
「ようやく目を覚ましましたか。ここは療養室です」
振り向くと、パソニアが立っていた。
「俺は……何をしていた?パンドラは、どこにいる?」
自分の声が震えていた。喉がひどく乾いている。
「オーシャン様、あなたは舞踏会の広場で倒れておりました。パンドラ様は――」
その言葉を遮るように鋭い声が響いた。
「パンドラ様が帝国の侵入者に連れていかれた」
タナエルだった。
その眼差しは氷のように冷たく、焦りと怒りが入り混じったような光が瞳の奥に揺れていた。
「貴様は窓の傍で倒れていた。一体、何を見たのだ?」
タナエルの声は低く、どこか圧を滲ませていた。
嘘をつけば、命はない。
彼の力を知っているからこそ、息をすることすら怖かった。
だが、真実など言えるはずがない。
帝国の侵入者の中に俺が探し続けていたルナエレシア王女がいたなどと。
「侵入者は窓を割って逃げようとした。俺はその音を聞いて駆け付けたが、煙を吸ってしまって……それからの記憶がない」
「……そうか」
短い返答の中に、疑念がわずかに混ざっていた。
だが彼はそれ以上追及せず、背を向ける。
「あの煙は体に害はない。……ついて来い」
タナエルは静かに告げ、扉を押し開けた。
俺はふらつく足でその背を追う。
廊下に出ると、空気が異様に重かった。
すれ違う守衛たちは皆、沈黙したまま視線を伏せ、影を落としている。
その沈黙が、何かを失った現実を雄弁に物語っていた。
やがて、遠くの扉の向こうから怒号と衝突音が響いた。
金属が砕け、怒りが暴風のように吹き荒れている。
――ポレモスだ。
部屋の中で怒りに任せて備品を破壊していた。
扉越しでも感じる圧力。中に入れば、命は保証されないだろう。
通路を進むと今度はカティフラクトの姿が見えた。
椅子に座り、顔を伏せ、微かに唇を動かしている。
何を呟いているのかは分からない。
当然だ。
守衛軍最強と謳われる二人を出し抜き、パンドラを奪われたのだ。
その誇りが砕け散ったのも無理はなかった。
――そして、それをやってのけたのはルナだった。
どうやったのかは想像はつく。
彼女はこの世界で上の世界の科学を模倣した。
おそらく煙とともに睡眠ガスのようなものを散布したのだ。
魔法ではなく、科学の力で。
あの夜、俺の部屋で一緒に見たスパイ映画から彼女は何かのヒントを得ていた。
俺たちは魔力の防壁に頼りすぎていた。
魔法に反応しない、魔法に頼らない手法がある――その発想をここの人間は誰一人として想定していなかった。
だが、上の世界も下の世界も、依存するものが途絶えれば脆い。
電気が止まれば都市は沈黙し、魔法が封じられればこの世界も崩れる。
ルナはそれを理解し、迷いなく利用した。
そして彼女は自らの信念を貫くために動いた。
そう考えながら俺はタナエルの背を追って歩いた。
薄暗い廊下を進む足音が、石造りの天井に吸われるように消えていく。
やがて行き止まりに差し掛かると、タナエルはそこで立ち止まり、掌を壁に押し当てた。
その瞬間、石が波紋を描いたように揺らめき、硬質な壁がまるで液体のように形を変えていく。
「この奥だ。ついて来い」
短い言葉に躊躇はなく、彼はためらわずその揺れる面へと歩みを進める。
まるで壁が彼を受け入れるかのように、タナエルはするすると向こう側へ吸い込まれていった。
「……この中に入るのかよ」
自分の口から漏れた声は、半ば呆れ、半ば恐怖に濡れていた。
俺は息を整え、ゆっくりとその揺れる壁へ身を滑り込ませた。
ぬめるような抵抗とともに全身が柔らかな圧力に包まれ――やがて抜けた先には細く長い通路が続いていた。
湿った空気がまとわりつき、石壁の隙間から微かに水滴が垂れている。
まるで城の誰も知らない最深部へ足を踏み入れたかのようで、胸の奥が引き締まる。
やがて視界の先に鉄格子が見えてくる。
近づくほどに、空気が重たく変わっていった。
重ねられた幾つもの鍵。
そして、その奥――鎖に繋がれたひとりの男の姿があった。
(……エピメス)
彼は鋼の鎖に繋がれ、無言のままこちらを見ていた。
タナエルが一歩前に出て低く告げる。
「パンドラ様のご命令だ。この男を殺すなと。ゆえに我らは手を出せぬ。だが、口を閉ざしたままでは何も得られん。……おまえなら何か聞き出せるかもしれぬ。パンドラ様の居場所をこの男から吐かせろ。それが貴様に課す条件だ」
タナエルの制御の利かない苛立ちが、言葉の端々に滲んでいるのが分かる。
牢の中のエピメスを見た。
確かにパンドラをさらった者たちの動きを知るとすれば、他でもないこの男だ。
だが、帝国の側に立つ彼が、この状況で俺に心を開くはずがない。
「さあ、話すがいい。それがお前がパンドラ様の護衛に選ばれた理由だろう」
確かに、俺がパンドラの護衛の任務を受けたのはエピメスと話すためだった。
だが――護衛を失敗し、パンドラを奪われた今、このままでは終われない。
俺が今やるべきことはひとつ。パンドラの居場所を突き止めることだ。
「タナエル……頼みがある。エピメスと二人きりで話をさせてくれ。監視も盗聴も無しだ。その代わり、必ずパンドラの居場所を突き止めてみせる」
短い沈黙。
やがて彼は吐息を漏らすように応じ、看守へと合図を送った。
「……分かった。おい、鍵を開けろ」
金属が軋む音が廊下に響き、鍵が回るたびに空気が張りつめていった。
扉が開き、俺は静かに牢へと足を踏み入れる。
エピメスは両手を魔法の鎖に縛られていた。
だが痩せてもおらず、拷問の跡もない。
「よう、エピメス。……元気だったか」
軽い調子で声を掛けるが、心の奥は緊張で張り詰めている。
「オーシャンさん……どうしてここに?」
低く穏やかな声。
彼の笑みにはわずかな影が差していた。
「時間がない。……パンドラが帝国の連中に連れ去られた」
その一言にエピメスの瞳がわずかに揺れた。
表情はすぐに平静を取り戻したが、その揺らぎを隠しきれたわけではなかった。
「……そうですか。ここの兵たちの慌ただしさで、薄々感じてはいました」
「お前は魔影軍の軍団長なんだろ?パンドラがどこへ運ばれたか知ってるんじゃないのか?」
沈黙。
視線を伏せたまま、彼は動かない。
その静けさが、かえって確信を深めさせた。
「一つだけ聞かせてくれ。……ノマディアで俺たちを救ったのはお前だ。フィトリアの地下でパンドラが流されかけた時もそうだ。――なぜ助けた?帝国の人間ならパンドラを殺すことが目的だったはずだろ」
牢内の空気が張りつめる。
冷たい湿気が肌を這い、呼吸の音すら遠のいていく。
エピメスは目を閉じ、やがて小さく息を吐いた。
「私は……パンドラを殺す気などない。理由は、ここでは話せません。しかし、帝国の他の者たちは違う。彼女を殺せば、この地を再び帝国の支配下に置けると信じている。もし彼らの手に渡ったのなら、パンドラが命を落とすのは時間の問題でしょう」
その言葉に胸の奥で何かがゆっくりと沈んでいった。
パンドラの声、笑み、そしてあの舞踏会の記憶が脳裏で交錯する。
「……もしかしたら、もう手遅れかもしれません。それでも――向かうおつもりですか?」
淡々とした口調の裏に試すような響きがあった。
俺は息を吸い、迷いなく言った。
「当たり前だ。エピメス、協力してくれ。俺は必ずパンドラを取り戻す。あいつは民を力で縛るような人間じゃない。お前だって知ってるはずだろ、あいつがどれほどの覚悟でこの国を背負っていたか!」
長い沈黙の後、エピメスはわずかに目を伏せた。
「オーシャンさん……あなたはパンドラのことを何も分かっていない。彼女が何故、帝国にとって脅威なのかを理解していないのです」
「脅威だと?違う。あいつは危険なんかじゃない。ちゃんと話をすれば分かるはずだ。……なのに、なぜ帝国は話し合おうともしない。どうして殺すことでしか答えを出せないんだ!」
俺の声にエピメスは静かに目を閉じた。
「……それだけの理由があるのです。帝国には彼女を生かしておけない事情が」
その声は底知れぬ静けさを思わせるほど低かった。
俺は言い返すことができなかった。
ここで感情をぶつけても溝は埋まらない。
ただ、時間が無情に過ぎていくのを感じた。
やがて、エピメスがゆっくりと顔を上げた。
その瞳には諦念と、それを覆い隠すようなわずかな決意が交錯していた。
「……もし本気で彼女を取り戻すつもりなら、急ぐべきです。帝国軍も煌月家の軍も、すでに次の段階へと動いているはずです」
「どういうことだ?」
俺が眉を寄せるとエピメスはわずかに目を伏せ、囁くように言葉を継いだ。
「もしパンドラの死が確認されれば、それを引き金に帝国軍と煌月家の全面戦争が始まります。この地は再び血に染まり、多くの命が失われる。あなたが想像するよりも早く、取り返しのつかない事態になるでしょう」
「くっ……」
無意識に握りしめた拳が、わずかに震えた。
そんな俺の様子を見つめながらエピメスは静かに言葉を継いだ。
「もしそれを阻止したいのであれば私を解放してください。私がパンドラをさらった者たちと話をつけに行きます」
「馬鹿なことを言うな。そんな事、煌月守衛軍のあいつ等が許すはずがない。それにお前を逃がしてもパンドラが戻ってくる保証なんてどこにもない。だから――俺が行く。俺が帝国の連中と話をつける。頼む、パンドラが囚われている場所を教えてくれ」
エピメスは目を閉じ、静かに首を振った。
「それは無理です。あなた一人が動いたところで帝国の軍は止まりません。……諦めてください。私は捕らえられた時に全てを諦めています」
「俺は違う。諦められない」
抑えきれない声が冷えた牢の空気を震わせた。
「……あの舞踏会でルナを見たんだ。アルテミスハーストのルナエレシア王女が帝国の侵入者の中にいた」
その名を口にした瞬間、エピメスの瞳が鋭く揺れた。
「……何故、ルナエレシア王女の存在をあなたが知っているのですか?」
「俺はアルテミスハースト城に行くつもりだった。ルナを救うために。あいつは俺の親友を助けるために城に戻ったはずなんだ。だけど――ルナはこの近くにいる。だから確かめなければならない。どうしてあいつがこんな場所にいるのかを」
沈黙が長く続いた。
やがて、エピメスは静かに口を開く。
「……一つだけ約束してくれませんか」
「なんだ」
「今から私の言う場所に向かうのは、あなた一人だけにしてください。煌月家の誰も同行させないと、ここで誓ってください」
その声には覚悟にも似た静かな圧があった。
俺がうなずくのを確認すると、エピメスは静かな声でパンドラの居場所を告げた。
長いあいだ、俺は黙ってその言葉を聞いていた。
声を挟むことすらできなかった。
それほどまでに彼の言葉は重く、逃れようのない現実を帯びていた。
やがて立ち上がり、牢を出た。
背後で鍵がかかり、鎖が擦れる乾いた音が響く。
その響きが、やけに遠く感じられた。
通路を抜けると入り口でタナエルが待っていた。
壁にもたれた姿勢のまま、鋭い眼差しでこちらを見ている。
「……聞き出せたのか」
「……ああ、全部話すよ」
二人で長い石造りの廊下を進む。
足音だけが響き、どちらも口を開かなかった。
揺れる壁の向こうから抜け出し、再び階段を上がっていく。
作戦室の扉を開くと、煌月守衛軍の兵士たちが詰めており、地図や書簡が机いっぱいに広げられていた。
その中をまっすぐ進み、タナエルが席につくと、低く言い放つ。
「話せ」
短い一言。
だが、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。
俺は深く息を吸い、指で地図の一点を示した。
「エピメスから聞いた話だと――ここから南にある『魂光の湿原』。そこに帝国の隠れアジトがある。……急がなければパンドラの命が危ない」
地図の南に描かれた湿地帯。
霧が立ち込め、常に光が揺らめくというその地の名を俺は告げた。
だがタナエルは俺の言葉に即座に反応しなかった。
代わりに、ゆっくりと立ち上がり、左手を静かに持ち上げた。
「……待て」
その声に背筋が固まる。
「おい、何をしてる。今はそんなことしてる場合じゃないだろ!」
「念のためだ。これ以上の失態は許されん」
タナエルの左手が宙をゆっくりと掴むように動いた。
指先が微かに震え、空気が重く変わる。
――あの手の動き。
ケノリアを、そして老司祭を殺したときと同じ。
ただ指を閉じるだけで、命を奪うあの不可視の力。
それが今、再び自分に向けられている。
喉が乾き、呼吸が詰まる。
目の前の男は何も言わずに俺の真偽を測っていた。
「詳しく言え。『魂光の湿原』のどこにパンドラ様がいるのか」
「……行ったこともない俺に分かるわけがないだろ。エピメスの言葉をそのまま伝えただけだ」
声がかすかに震えた。
左手の指先に全神経が集中する。
もしその指がほんの少しでも動いたら、次の瞬間には全てが終わる。
部屋の誰もが息を殺した。
そして――タナエルの指がゆっくりと下ろされた。
「……分かった」
その一言に全身の力が抜けた。
一瞬、思考が止まる。――生きている。
その実感が戻ったとき、背中を汗が伝っていた。
タナエルは振り返り、背後の兵へ命じた。
「お前たち、準備を整えろ。これより『魂光の湿原』へ向かう。パンドラ様の救出が最優先だ」
「了解!」
鋭い声が重なり、作戦室が一気に動き出す。
誰もが急ぎ、焦りを隠す余裕すらなかった。
空気が変わり、まるで出陣前の夜のような緊張が満ちた。
俺はただ、静かに息を吐いた。
この先に待つものを思うと胸の奥が重く沈んでいく。
だが、退く理由はどこにもなかった。
◇ ◇ ◇
朝靄を切り裂きながら、魔導車の列がゆっくりと煌月城を後にした。
無数の車輪が石畳を打ち、やがて街並みを抜けて緩やかな坂道へと差しかかる。
遠ざかっていく城の尖塔が霧の中に溶け、代わりに見えてきたのは広がる丘陵と荒野。
どこまでも淡い光が地平を覆い、その先に――南方の地、『魂光の湿原』が霞んでいた。
俺は車内の振動に身を揺らしながら、その光景を黙って見つめていた。
あの向こうに、パンドラがいる。
そして――ルナも。
二人の名を胸の奥で静かに繰り返し、俺はそっと目を閉じた。
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