コーヒーが飲みたい
「――もう二週間だぞ! そこの看守、そのコーヒーよこせオラァ!!」
鉄格子に蹴りを入れた瞬間、鈍い音が部屋いっぱいに響いた。
普通なら足の方が悲鳴を上げるはずだが――痛みはほとんどない。
むしろ、鉄格子が歪んだ気がして、ユウは自分のつま先を見下ろした。
「なんだこれ、アルミ製か?」
自分の足を軽く叩く。
骨が入っている感触はあるのに、妙に硬い。
筋肉も、力を入れると張り方が明らかに以前と違う。
朝霧ユウ。
年齢は大学卒業直前。
身長は平均より少し高め、無造作に伸びた黒髪に、寝不足気味の目つき。
今は、囚人服代わりのスウェット姿で、床に大の字になっていた。
「娯楽がない。人権がない。コーヒーもない。
ここは人が住む場所じゃない」
廊下の向こうで紙コップを持った看守が、完全に無視する姿勢を貫いている。
ユウは起き上がり、鉄格子に顔を近づけた。
「なあ、聞こえてる? その香りだけでも分けて」
返事はない。
「頼む、嗅ぐだけでいい」
完全に無視。
ユウは大きくため息をつき、壁にもたれた。
「くそ……就活から逃げてた罰がこれか……」
天井の蛍光灯が微妙にちらつく。
白い光が、やけに冷たい。
その時、廊下の奥から足音が近づいてきた。
看守ではない。
ヒールの音だ。
現れたのは白衣の女性研究員だった。
二十代後半くらい。
整った顔立ちに、疲労の色が少しだけ滲んでいる。
彼女は鉄格子の前で腕を組んだ。
「また騒いでますね」
「人権を求めてるだけです」
「ここに人権という概念はありません」
「さらっと怖いこと言うな!」
彼女は小さく息を吐く。
「体調は?」
「絶好調。暇すぎて壁と会話できそう」
「それは結構です」
彼女が端末に何か入力する。
ユウはその様子を見ながら、なぜか背筋を伸ばした。
さっきまで看守には怒鳴っていたのに、声のトーンが自然と落ちる。
「えーと、その……今日の検査とかある感じですか」
「さっきまでの威圧感はどこに行ったんですか」
「いや別に威圧してないですけど!」
「鉄格子を蹴るのは威圧です」
ユウは視線をそらす。
「……すいません」
女性研究員は少しだけ口元を緩めた。
「足、痛くないんですか」
「それが全然」
「本気で?」
「むしろ鉄の方が心配」
彼女の眉がわずかに動く。
「握力測定、もう一度やります」
「え、また?」
「いいから」
彼女がスロットから簡易計測器を差し入れる。
ユウは受け取り、軽く握った。
ぴき、とプラスチックが鳴る。
「軽くでいいです」
「これ軽く」
数値が跳ね上がる。
女性研究員の目がわずかに見開かれた。
「……もう一回」
「今度は本気?」
「軽く」
「了解」
握る。
今度は機械の方が先に悲鳴を上げた。
表示が乱れて止まる。
沈黙。
ユウが恐る恐る聞く。
「壊しました?」
彼女は深く息を吐いた。
「壊しましたね」
「弁償?」
「施設の備品です」
「助かった……」
彼女はしばらくユウを観察していたが、やがて端末を閉じた。
「暴れないでください」
「暴れてないです」
「鉄格子」
「……あれはストレッチ」
女性研究員は呆れたように首を振る。
「あなた、見た目よりずっと危険なんですよ」
「見た目ってそんなに温厚?」
「目つきは悪いです」
「じゃあ見た目通りでは?」
彼女は小さく笑った。
その瞬間、ユウの視線が少し泳ぐ。
(あ、笑った)
なぜか落ち着かない。
「……あの」
「はい?」
「コーヒー」
「ダメです」
即答だった。
「ですよね」
彼女は踵を返す。
ヒールの音が遠ざかる。
ユウはその背中を見送り、床に座り込んだ。
部屋はまた静かになる。
配管の低い音だけが続いている。
ユウは拳を握ってみる。
軽く床を叩く。
どん、と重い音が響いた。
「……ほんと、なんなんだよこれ」
痛みはない。
疲れもしない。
力を入れると、どこまでも出せそうな感覚がある。
天井を見上げる。
蛍光灯の白い光が、ふと揺れた。
その瞬間――
胸の奥が、かすかにざわつく。
理由はわからない。
ただ、どこかで似た光を見た気がする。
思い出そうとして、やめた。
「ま、いいか」
ユウは床に寝転がる。
両手を頭の後ろに組む。
「とりあえずコーヒーだな、次の目標」
誰に言うでもなく呟く。
鉄格子の向こうは静かで、
建物のどこかが小さく軋んだ。
蛍光灯が一度だけ瞬く。
白い光が、ほんの一瞬だけ強くなった。
ユウは気づかないまま、目を閉じる。
物語はまだ、
この小さな独房の中で、ゆっくりと動き始めていた。




