エピローグ
荀彧様が自ら命を絶った後、遺命を受けて許の荀彧様の執務室と邸宅に行ってこれまでの荀彧様が保管していた様々な書簡を集めて焼き払った。
荀彧様は久々に殿の遠征に同行して南の寿春まで来たのであるが、殿は前線からいつも殿と荀彧様で書簡のやり取りをしている箱を送ってきた。しかし箱の中身は空であった。箱を開けた荀彧様が微笑むような、哀しむような、なんとも言えない表情で「もう策は必要ありませんね」とつぶやいたのが、いまでも脳裏に残っている。
官渡の戦いから十数年、赤壁で敗れた後は曹氏の勢力の伸長は止まった。涼州で馬超・韓遂という大物を破ったが、遠方の涼州の領地を地元の豪族から取り上げることは治安上も経費上も得策でなく、群臣に封土は与えられなかった。代わりに群臣たちは爵位とそれに伴う名誉・実利を求めて殿に公の位を受けるよう迫った。殿の爵位が上がらないと、群臣の爵位も上がらないのである。
殿と荀彧様はどうにか魏公への就任を回避する方法を最初は模索していたようで、荀彧様があえて大げさに反対し殿の代わりに群臣を押さえつけていたのであった。校事 1) の働きにより荀彧様を暗殺する動きが察知されると、殿は荀彧様を守るために朝廷での尚書令の役割を解き、丞相である殿の補佐役として遠征に同行させたのであった。ここからは荀彧様と話したり、殿とのやりとりの書簡を読んではいないので想像ではあるが、おそらく荀彧様は殿を守るために最後は自分の理想をあきらめ、自らの死によって魏公就任への道を解放したのであろう。殿がいつも荀彧様に策を求めるために送る箱が空だったということは、もうどうしようもないということだったのか。結局、荀彧様は殿に反対して死を賜ったのだと群臣は理解し、殿は魏公国を設立して公となったのであった。
書簡が焼けたのを荀攸さまと見届け、一通り荀彧様の執務室を掃除した。
「ずっと荀家の家僕として、よく仕えてきてくれて感謝する。そなたのこれまでの働きは皆に充分知れ渡っておる。正式に士官してみてはどうか?陛下に上奏して軍師に徴召させようではないか」
中華の外で生まれた身としては中央での士官は通常は不可能であり、皇帝の詔により例外的に仕官できるのは異例でありこの上ない名誉である。
「ありがとうございます。望外の喜びではありますが、荀彧さま亡き今は、おいとまを頂いて見聞を広めてみようかと思います。政治と儒と黄老についてはある程度学ぶことができましたので、浮図 2) の教えについても少し学んでみようかなと思っております。そしていずれは戦乱が続く故郷へ帰ってこの国で学んだことを役立てようかと」
「そうか、残念だ。だがそれもよかろう。困ったときはまた遠慮なく荀家の門を叩くがよい。そしていつか故郷で宰相となり、朝貢の使者を殿に送ってくるように。文を待っておるぞ」
荀攸さまにお礼を言って二十年近く住み込んだ荀家を後にした。まずは洛陽の白馬寺にお世話になろうか。あの伽藍や仏塔のある風景はなぜか落ち着くものであった。もしくは江南の浮図の一派を頼ってもよいかもしれない。あの殿を見事に赤壁で破った孫権という男は浮図の信者と教えを保護し、東の夷州や檀州 3) に興味を持っているという。自分の出自を生かす好機かもしれない。
すすきの穂を秋風がたなびかせ、雲を東の故郷の方角へと吹き流していた。
完
1) 校事は「典校」「典校事」とも呼ばれる官吏を監察する官職。つまり役人の不正を暴く、役人にとっては怖い人。探偵や獄吏みたいなこともするのかな。法の番人として君主の手足となり、名士たちには反感を抱かれがち。満寵がこの役に就いていたのはドラマ「大軍師司馬懿・軍師連盟」で知られるようになりましたかね。
2) 儒は言うまでもなく儒教。黄老は後に道教となった教えのこと。太平道、五斗米道という呼び名は当時からあっただろうけど、道教という言葉はあったのだろうか。浮図は仏教のこと。三国志を読んでいるだけだとあまりわからないですがこの時代から中国に広まっていきます。洛陽にある白馬寺は最も早い寺院のひとつとされる。特に呉で広まり孫権に仕えた仏教信者もいた。
3) 夷州は台湾とされる。檀州は琉球とか種子島とか倭とか色々な説がある。




