気になる匂いの正体は<前編1>
「……なんか、ヘンな匂いしない?」
俺の鼻をかすめる、甘い香り。思わず作業の手を止めて、部室の開け放たれていた窓に目を向けた。十月に入ったはずなのに未だに衰えていないうだるような暑さを乗せた風が絶えず吹き抜けていた。
「ヘンって。恵茉的に言わせればその発言が変なんですよ」
視線の先、というわけでは無いけれど、窓の近くには恨めしそうな目で俺を見つめ返す女の子が一人。
スカートの下に学校指定のジャージを着て、ワイシャツの袖は肘よりも高い位置にまくられている。焼
けた古半紙を大量に抱えているせいか、多少息が上がっているようにも見受けられた。
イメージする女子高生とはかけ離れているダッサイ格好をしているのは、今日は文科系の部室が集っている旧校舎の一斉清掃日であることに端を発することが挙げられていて、俺の在籍する文芸部も例にもれずお片付けの真っ最中なのであった。
「なんというか、堂々たるサボタージュですか?それともストライキに入るんですかね?部長の恵茉がこんなにも必死で掃除しているんですから、休むことなく働くのが部員の務めだと思うんですけど」
そう言って再び乱雑に積み重なっているプリント類をせっせと整理していく。小さくまとめられた髪の毛が子気味よく揺れて、暑さからか少しだけ火照っているようにも感じられた。
「いや、なんか甘い匂いがした気がして」
恵茉はこっちを振り返ることなく、形だけ鼻を鳴らすように身振りをした。
「……します?恵茉はあんまりそういうの敏感じゃないんですけど。もしそれが女の子より鼻が良いアピールだったら、良くないと思いますよ。メンズはもっと鈍感であるべきだってネットにも書いてありました」
「なにそれ」
「恵茉もよくわかりません」
微かに表情を崩して俺の足元に縛られた古紙を積み上げる。
「昔の文集は流石に保存ですけど、無意味なものはこのぐらいで処理しちゃいましょ。恵茉はペンより重いものは持たない主義なので、そのゴミと一緒に指定の場所まで運んで行って下さい」
手に持っていたゴミ袋だってそれなりに重いんだけどな。
「……ジェンダー的な役割分担はこのご時世に合ってない気がするけど」
「このお願いはジェンダー論関係ないですから。それともなんですか?恵茉に運ばせる気ですか?やりますか?ファイティングポーズですよ」
腰の入ったシャドーを繰り返す恵茉にはこれ以上何も言う気はない。ほら、だって戦ったら負けちゃうし。
「ついでにやった模様替えでだいぶすっきりした感じも出ましたね。どうです?文芸部ですし、電気ケトルとかカセットコンロとか持ち込んでみます?恵茉的には冷蔵庫なんてのも考え物だと思いますけど」
ぐるっと部室を見回す。本棚と机、椅子ぐらいしかない部室は殺風景にも見えた。確かにケトルがあればコーヒーぐらい飲めるかもしれない。温かい飲み物を携えて読書なんて贅沢極まりないだろう。
「これから寒くなるかもしれないしな、考えても悪くないな」
「あ、そう言えば明日からは一気に冷え込むかもしれないって言ってましたよ、なんだか大変ですね。そうすると冷蔵庫より先にコンロかケトルですね。須藤先生だったら見逃してくれそうな気はします」
顧問でもあり担任でもある須藤なら、逆に使いにくる画の方が思い浮かびやすい。
「その話もまた後で、ですね。残ってるコトを終わらせなきゃいけませんから」
恵茉が話を打ち切るように手を叩いて、俺も同調するように古紙の束を抱えて、コレが思ったよりも負荷が強かったんだけど、またふわりと甘い香りを感じた気がしたけれど。
緊張感を含んだ、それでもどこか間の抜けたような警告音が聞こえた。
ピピピッと微かな電子音と「火事です」といった無機質な電子音。初めて聞いた、ってワケじゃないけれど、正直この音じゃパニックに拍車がかかってしまうような気もしてしまった。
「うぇぁ!びっくりしました!え、ちょっとなんですか。え、ココじゃないですよね……。外から?」
「どこからだろ、旧校舎じゃないとは思うけど」
俺は恵茉と並ぶような格好で窓から外を眺める。旧校舎は高校の敷地内でも一番北側にあるから、高校のおおよそは確認できるはずだ。同じことを考えている生徒も多いようでざわざわとした声と共に多くのやじ馬が窓から身を乗り出しているのも確認できてしまった。
いたずらに不安を煽る音が数回繰り返されて、いきなり止まった。まるで最初から鳴ってなんていなかったかのように静けさが包む。
それでも少しだけ鼓動が早くなったのはしょうがないというほかない。だってそりゃ怖いし。でももしかしたらそれだけじゃないかもしれない、なんてのんきなことを考えるぐらいには余裕があったみたいだった。心配しているのは分かるけど、恵茉が力を込めて俺の腕をつかむ。ちょっと痛い。
「あ、高瀬君見てください」
恵茉の指さした先には黒く燃え上がる煙が!なんてことは無くて、ダラダラと笑いながら外に歩いてくる生徒の集団。自体が深刻でないことを物語っているようだった。
「クラスの人です。ということはバレー部のみなさんと、あとは誰でしょう。あー、登山部の人たちですかね。この様子だと報知機の音は運動部の部室棟から聞こえてきたんじゃないでしょうか」
「そんな感じするな」
あとはサッカー部と弓道部だろう。それ以上は集まってくる様子もないからあとは教師からの連絡待ちになるのだろうか。
校庭のすぐ横にある部室棟を見下ろす。コンクリの壁で造られている部室棟はお世辞にも新しいとは言えないが、かといって燃えている様子もない。
「……単純な故障だったんですかね」
恵茉がほっとした声を出した。ともかく良かったです、と安堵の笑顔。
「報知器が故障なんて全然笑えないけど」
この一言は非常に良くなかったみたいだ。何かひらめいたように、恵茉が掴んでいた腕を離して俺に向き直る。括られた艶やかな髪の毛が恵茉の伸長を押し上げていたが、それでもまだまだ同じぐらいとは言い難い。
「そうですよ!故障なんてありえないじゃないですか!となると絶対裏があるに違いないんですよ。これってつまりミステリ?じゃぁミステリ研の出番ってことになりますね。ふふっ、久しぶりすぎて恵茉ちょっとドキドキですね」
キラキラした笑顔を振り向けて幸せの押し売りをしてきている。クーリングオフは受け付けてないみたいだ。
ふ、とため息にも近い声が漏れた。
「全然。なんでもないだろ。それに……ほら」
示し合わせたように校内放送が鳴った。恵茉の顔が一瞬で曇ったように見える。多分教頭の面倒くさそうな声が響く。
『あー、先ほど部室棟にて火災報知器の誤作動が確認されました。えー、火事は起こっていませんので安心してください。それでも、十分に注意するようにしてください。繰り返します……』
わかったろ?という思いで恵茉に合図する。それでも不服のような恵茉は眉間に力を入れたまま「考えてます」のように腕を組んで口元に手を当てている。
旧校舎も既に元の状態に戻ったみたいだった。さっきまでの喧騒は微塵も感じられなくなっていた。校庭に集まっていた集団も三三五五に散って行っている。少しのアクシデントもあるけれど、コレが普通の高校生活だろう。
何回も言うけれど、謎なんてないのだから。
それでも、恵茉が口を開くまで少しだけ俺も思考を働かせてみる。ちょっとだけ雲がかかってきたみたいでさっきまでの暑さは引いて行っているように感じられた。