最後の勇気
1
未来は一也の手を握り返した。昔から強がりの幼馴染でも、目の前の光景にわずかな震えが伝わってくる。一也も内心怖いのだと思った。けれど、おくびにも出さないように懸命に耐えているのかもしれない。
自分だって同じだった。
階段の真下に行きついた先は、部屋と呼ぶには広大であり過ぎた。コロセアムに似た円形の空間、天井は緑の枝葉で隠れている。その元となるのが、一本の巨木であった。高さは天井にまで届くので、数百メートルはある。幹の太さはきっと、この世にあるすべての木や鉄柱よりもある。ささくれだった樹皮は鱗のよう幾重に重なり合い、その隙間には無数の人の顔が刻まれている。苦悶、怒り、悲しみ、笑い、それらすべてがねじの狂った人のデスマスクを思わせる。
根元は、無数の根っこが地面をえぐって、壁にまで侵蝕している。ツタの生えた壁面には水滴が落ち、それを養分にしているのだろう。
昔、読んだファンタジーの本に出てきた巨木の話を思い出した。古代メソポタミアの時代に存在した首都にあったとされる“キスカヌ”をはじめとして、伝説として残る巨樹は、世界中の神話や歴史に登場する。北欧神話では、世界の地の底に根を下ろした世界樹があったとされている。
しかし、それのほとんどは神聖な存在として描かれているのに対して、目の前の巨樹は全くその印象が異なる。永遠に近い長い年月に、人間を養分として吸収し続けたことで変容した怪奇樹である。そこからあふれるのは、自然崇拝の神々しさというよりも、死臭と陰鬱さでしかない。
「こいつが、奴の本体か」
「燃やせば、いいんじゃないの」
「こんな大きな木じゃ、灯油がいくつあっても足りない。根元を破壊して倒すしかないよ」
亘が古い本を取り出した。
「その本、黒澤くんが捜していたやつだね」
「うん。翔くんが見つけてくれた」
亘の顔つきは真剣そのものだった。一也もそうだ。もう、放課後に遊んでいたあの頃の能天気な頃には戻れない気がした。
「皆、これを見て」
亘が、本の見開きを見せた。魔法陣と周囲には複雑な文様が描かれている。
「これによると、魔物は人の手では倒せない。昔の人は、魔物を他の時空に追い返すことでやっつけることができたんだ」
「あいつを、異次元に連れ出すのか? そんなことができるのかよ」
「あたしは信じるよ。もう、理屈なんてどうだっていい。それであたしらが勝てるなら」
「どうする?」
「俺も信じるぜ。未来は?」
「わたしも」
「よし。僕と雛ちゃんは円を描くから、二人は模様を入れて言って。これを使って」
亘はチョークをポケットから取り出した。旧校舎の教室を探索していた時に、この時に控えて拝借していたという。
「俺はあっちをやるから、頼むぜ」
未来は、古代文字を書き入れていく。隣で雛が通り過ぎた。
「小宮、ごめん」
「何が?」
「昨日、勝手に怒っちゃって」
「気にしないよ、そんなの」
「あんた、いい奴だね」
模様を描き終えようとした時、地面が揺れた。頭上から砂埃が落ちてくる。巨樹に何かが乗り移ったように、全体から息吹を始めた。
四人は作業を中断させて、目の前の魔物と対峙した。
「愚かな子供たちだ。夢の中の死を拒み、苦悶の死を選ぶとは」
幹の真ん中辺りに裂け目が現れ、その上にある二つのくぼみが赤く光った。おとぎ話に出てくる、喋る大木を思わせる。
根っこが地面から吹き上がり、その一本が亘を払った。飛ばされた勢いで、彼の手から本が離れる。
「亘!」
雛が彼の元に駆け寄った。
「人の世が生まれる昔から、私はこの地に根付いていた。君たち人間の命を吸いながら、脈々と。君たちの祖先は私を神と崇め、子供を捧げた。何十、何百、子の苦しみ、悲しみ、憎しみ。親の保身、差別、傲慢。無数の心が私の中に蓄積された。私の分身が人の子を狩り、この世界を手中に収めようとする本能。それらをつくったのは、元々は人間自身なのだよ」
「違う!」
亘は脇腹を抑えながら吠えた。
「お前は、ただ、自分のしたいままにやっているだけだ」
大木の枝葉は騒いだ。そこから一つの実が垂れさがり、二つに割れた。中から現れたのは、黒澤翔だった。いや、翔の姿を魔物という方が正しいかもしれない。
そいつはゆっくりと地面に降り立った。
「人は同じだよ。古来より悪心に支配されてきたからだ。善なる心など所詮は弱者のつくった幻に過ぎない。黒澤翔も例外ではなかった。あの子の心にも憎しみはあった。自分と母親を虐げてきた社会に対して」
「お前がそう仕向けんじゃないか」
「半分外れだよ、亘。私が操ったのは、佐奈田清と数人の子供だけだ。なのに、何の関係のない者まで翔を虐げるようになった。愚かではないか。悪心が勝手に広がり、あの子を追いつめたのだよ。見ていられなかった。愛おしく思うほど健気だった」
「白々しく言うな」
魔物は低い笑いを浮かべた。部屋全体を震わせるほどだった。こちらの勇気を揺さぶろうとする。
「君たちは誰一人、善人にはなり得ない。自分の中の悪を自覚していない。そして、これからも気づかないまま、他人を汚すようになる。醜い大人の背中を見て育つ子は、美しいはずがない。亘も、自分を捨てた両親を恨んでいるはずだ。目の前にいたら殺したいはずだ」
「僕は……」
「亘」
雛の手が握りしめた。爪が食い込むほど強く、沈みかけていた意識が浮上した。
魔物は本を拾い上げた。本が急に燃え上がり、灰となって消えた。
「命を乞いなさい。誰も苦しみたくはない。朋輩を苦しませたくないはずだ。雛、亘をこれ以上苦しませたいか? さあ、翔に会わせてあげるよ。同じように夢の中で再会できる」
「誰がお前なんかに負けるか!」
後ろから羽交い絞めにする一也。しかし、その周りから煙が立ち上り、「うわっあつッ!」と彼を離れさせた。
「一言でいいんだ、一也。たった一言ですべてが終わる」
「誰があんたなんかのために言うもんか!」
未来は声を上げた。心の底からこみ上げる恐れが振るわせる手をこぶしに変える。
「あんたは今日、ここで消えるの。わたし達は絶対に負けない。たとえ、負けても、わたし達みたいな人がいつか出てくる。そして、あんたをやっつける。あんたはずっと怯え続けながら生きていくの」
「力の伴わない勇気など無意味なんだよ、未来」
その手が伸びて、未来の首を締めあげる。
「やめろ!」
一也にタックルされて、翔の姿をした魔物がひるんだ。その時、亘が何かを叫んだ。魔法陣が光り出した。
「お前、呪文を覚えているのか」
「何度も復唱したんだ。小宮さんの言う通り、お前はここからいなくなる」
金色の鎖が地面から現れて、魔物を縛り上げる。翔の顔が崩れていき、中から獣の骸骨がのぞく。
「私は死なん! 私は永遠だ!」
魔物の咆哮が鎖を引きちぎった。
2
一也は未来の首に巻き付いた手を無我夢中に引きはがした。
「大丈夫か?」
「うん。でも……」
未来の言いたいことは分かった。目の前の怪物をやっつける手立てがない。妖怪退治の本も灰にされてしまった。
あいつを封印することも足すこともできないなんて。
突然、入って来たばかりの扉がきしみを立てながら開いた。
「やめなさい!」
聞き覚えのある声が言った。そこにいるはずのない人で、亘の話を聞いた時は、信じがたいことだった。
「金江先生?」
自分の属する五年二組の担任である、金江裕美子が玉座に足を踏み入れた。幽霊先生と生徒の間での呼び名よろしく、授業中もホームルームでもあるかどうかも分からない存在だった。
「生徒達には手を出さないで。狙いは私のはずでしょ」
魔物の口元がほころんだ。
「ああ、待っていたよ、裕美子。また会えて嬉しい」
「先生、来ちゃダメ!」
制止する亘を無視して、裕美子は歩いた。
「この者こそ、エゴの産物だ。彼女はあの夜、翔を見捨てた。自分可愛さに逃げた。翔の母親がいくらすがっても、保身のために傍観者を貫いた」
魔物は、面白い話を披露するように朗々と言った。
「その結果、家庭は崩壊し、明日を生きる希望も見いだせず、挙句の果てに私の前にいる。お前は己の運命から逃れられないのさ。あるはずのない呪いを恐れ、子供を人柱にしてきた村人どもの末裔、御三家はすべて息絶える運命にある。老いぼれだけで跡取りのいない常盤家、母子ともども、私の傀儡に堕ちた佐奈田家、そして、呆けた刀自を見捨てて離散当然の金江家……」
「私の家はダメになったのは、私達の責任よ。呪いやあなたの力は何の関係もない。私がここへ来たのは、あなたを今までの自分と決着をつけるため。あなたを打ち滅ぼすためよ」
「では、これは無駄ではないようだ」
魔物が指を鳴らすと、枝葉に絡まった人が吊り下げられた。金髪の頭、華奢な体、外国人の少年だった。
「お前が来なければ、この子を絞め殺してもよかったのだが」
「コリン――あの子を放しなさい」
「来い」
裕美子は魔物に近づいた。あいつの手が彼女を捕らえる。
「残された抵抗が潰える」
「助ける気もなかったのね」
「私と人間が対等であった瞬間などない。翔はダメだったが、お前の体を借りるとしようか」
「ダメだ。金江先生、逃げて」
また、ドアが開いた。中から、見たことのある中年男が入ってきた。この間の授業でやって来た有名人みたいな奴。
「太助か」
「彼女に乗り移る気か? そんなことはさせないぞ!」
走りこんでくるところを、魔物は手をかざした。見えない風の力が太助を弾き飛ばして、壁にたたきつけた。
「毒にも薬にもならない。さて、闇の世界であいつとあいつの母親に許しを請うがいいさ」
また、扉が開いた。魔物は肩をすくめた。
「智佐子か」
そこには、校長先生がいた。驚きで何が何なのか理解できなかった。
「校長先生はこいつとグルだったんだ。翔くんがそう教えてくれた」
亘がそう叫んだ。ということは、あいつの息子も魔物の仲間かもしれない。
「なぜ、清を殺したの?」
「すまない」
「私達は用済みなのね?」
「悪気はなかった」
魔物は低い笑いを漏らした。
「母子仲良く葬ればよかったかな」
「どうして!」
「お前は、子供の頃、黒く染まった時からこうなる運命だった」
3
自分を拘束する腕の力が弱まった。怪物の腕に、智佐子がナイフを突き立てていた。お守り越しに貫かれ、緑色の鮮血を吹き出す。
「ネズミが」
血みどろの腕が校長を捕まえて、宙高く持ち上げた。そして、そのまま地面にたたきつけた。
「校長先生!」
裕美子は彼女の下に駆け寄った。昨日、早退するように勧めてくれた時の、優しさと憂いを含んだ顔を見せた。口元から血を溢れている。
「金江先生、子供達を連れて……逃げなさい」
「話さない方がいいです。血が――」
智佐子の手が触れた。その顔は少し安心したように緩んだ。
「そうだったのね……金江先生、いいえ、金江さん、あなたはまだ間に合う。まだ、戻れるの」
「どういう意味なんですか?」
「私は手遅れだった。あの池の縁に立って彼らが死んでいくのを眺めていた。でも、違ったいたの。一緒に池の底に沈んでいただけだった。息子もそう。もっと、気づくべきだったのよ。そうすれば、そうすれば、清も……」
言葉が途切れた。血の付いた手を見つめ、こと切れた智佐子の眼を閉じると、裕美子は立ち上がった。
「飼い犬に手を噛まれる。利用された人間の最後の一矢か。叩き殺してやった。もう邪魔者はいない」
「私は、確かに過ちを犯したわ。翔くんを助けるべきだったのに、あの場から逃げた。もう取返しもつかない。それでも……」
こちらが近づくにつれて、魔物の顔に険が広がる。警戒と、ありえないかもしれないが、わずかな恐れが。
「そうよ。私は間違いだらけの道を歩いてきた。周りに合わせて、心から外れたことばかりを選んだ」
その間、一体どれだけのものを落としてきただろうか。今の自分に何が残っている?
「先生!」
亘が何かを投げた。それを受け止めた時、体の中が熱くなる。二十年前、翔からもらったお守りの感触が肌にしみこんでいく。
大丈夫……。彼の声を確かに聞いた。
裕美子には魔物が小さく見えた。
「私に取りつきたいなら、そうすればいい」
「望み通り、善人として死なせてあげる」
三本の指が腕に食い込む。緑色の血が流れ込むのを感じる。
「先生、逃げて」と亘の声。
逃げる必要なんてない。そう、自分がここにいるのは、魔物の言う通り運命なのだ。しかし、それは生贄になるためではない。
「なんだ――」
魔物の顔が初めて歪んだ。汗の玉が浮かび、内奥の苦しみがこみ上げてくるのが分かる。
「お前……お前か! お前達がここにいるわけがない!」
魔物が叫んだ。赤い目に映る裕美子に、別の人間を見ている。裕美子は意識が薄くなるのを感じた。別の人格が前面に現れる。私は多重人格ではないのに。
違う。それは昔から自分の中にいた何かだ。彼は、彼女は、“二人”はこの時をずっと待ち続けてきたのだ。悟った瞬間、裕美子の意識はしばらく暗転した。
5
かつて、ワタルであり、ショウであった魔物は恐慌をきたしていた。
「貴様らがここにいるはずがない!」
「違う。私はあなたをずっと見張っていた。肉体が滅びても、霊魂として何千何百年、現世にとどまってきた」
「お前は人の心を知ったつもりでいた。だが、それは悪の側面に過ぎない。人の善を信じることができないのは相変わらずだな」
金江裕美子の体を借りて喋り出す二人の男女。大昔、自分を封印した呪い師の小娘、そして見守りとして同行してきた、村の若者。封印に成功した後の彼らの記憶が脳裏に浮かんだ。
二人は死と恐怖の森で互いに信じあい、自分を地中に埋めた。苦難を乗り越えた二人は、やがて、男女の仲となり、そして、夫婦となった。
若者は村の代表となり、生贄の因習を清算した。彼らの子孫はやがて、三つの家系に分かれた。空白の歴史が明らかになり、目の前の幻影があらわになった。
美しさの中に強い意志を秘めた少女、彼女を守ることに徹する決意を瞳に移した少年。二人はどことなく、裕美子と翔に似ていた。
魔物は己の過ちを悟った。執着していた黒澤翔と金江裕美子は、その身の内に天敵の血と心を封印していた。既知の外の事実は時をも超越していた。
「あなたは星の果てに倒れるのです」
「人の世に災いを成した報いを受けろ」
5
「一体何が起こっているんだ?」
一也と未来が起き上がると、亘は二人の後ろに落ちていた灰が光るのを見た。あの本の残骸である。七色に輝く灰は膨張して、一文字に割れた。そこから、同じく虹色の蝶が現れ、大きな羽を広げた。
「あれは一体――」
蝶は鱗粉を舞い落とし、やがては縮んでいき、亘の手に止まった。
「これは……」
蝶の形が変わり始めた。それは市間井の紙切れになった。見覚えのある文面だった。
「これ、翔くんのお母さんの手紙だ」
襲撃の夜に机に残してきたはずだった。それがここにある理由など考えるまでもなかった。
「翔くん! まだ残っているんだろ。これ、君のお母さんからの手紙だ」
魔物の前に立ち、亘は手紙を読み始めた。
「『あなたの帰りをいつまでも待っています。あなたは強く優しい子です。あなたの母でいれて本当によかった』、『お父さんは死にました。あなたに辛い思いをさせたでしょう。でも、いつまでもあなたを見守っています。いつか、あなたの思いを受け止めてくれるはずです』。翔くん、これがお母さんの思いなんだ! 目を覚まして! 君の親は夢の中にはいない。君の心に残っているのが本物なんだ!」
亘は腹の底から張り上げて声にすべてを込めた。
魔物の双眸が剝いた。
6
少年の小賢しい戯言のはずだった。なのに、うるさい声が皮膚が焦がした。身の内の臓腑を串刺しにし、神経の糸を断ち切っていく。
死ぬ。このままでは自分は死んでしまう。
我は永遠なのだ。こんなところで朽ちてなるものか。
魔物は黒澤翔の肉体から脱した。形のない霊体が本体の老樹に乗り移る。
「貴様ら、人間に私は殺されんぞぉッ!」
裕美子の周りに少年少女らが囲んだ。彼らの無垢で勇気に染まった瞳が見えない針となって突き刺さる。
「お前の言う通り、僕は両親が憎かった。今もそうだ。でも、その憎しみを忘れさせてくれる大人や友達と、僕はやっと巡り合えたんだ」
亘の口が呪文を唱えている。
よせ。やめろ。魔物は声なき断末魔を絞り出した。
老樹の周りに金色の鎖が縛り付ける。火にあぶられた飴細工のように、鎧の樹皮が溶けて抜け落ちていく。むき出しになった体が焼ける。
その時、全身に火が点いた。青い炎が瞬く間に全身を包み、枝葉に飛び火する。火の粉が舞う。木の奥にある核にも燃え広がった。
目の前に立つ亘の顔に、翔の顔が重なった。決意に満ちた瞳はあまりにも美しく、魔物は魅了された。
『ここにお前はいるべきじゃない。元いた場所に還るんだ』
私が死ぬ……死んでいく……。
肉体を失い、霊体さえ焼かれ、意識の欠片となった魔物の最後に感じたのは、闇。苗床であったはずの黒い世界。すべてを飲み込み、無に戻す零の次元。しかし、そこに安らぎの感慨などなかった。
代わりに浮かんだのは、一つの言葉。
恐怖。恐怖。恐怖。そう、コレは恐怖だ。恐怖。きょうふ。きょう……。
魔物は闇の彼方に還った。




