鏡の町
1
車が常盤台市に入った時、裕美子は言いようのない胸騒ぎを覚えた。何の前触れもなく、少しの昔のことを思い出した。高校を卒業して、逃げるようにアメリカへ留学した記憶は、それ以前よりもより鮮明に覚えている。慣れない言語や習慣が、心機一転するのにちょうどよかった。崩壊していく家庭や母親から逃げて、今までの自分と決別できると思った。
裕美子は、コロラド州の大学を卒業してから、知己の友人を頼って市民権を取得した後、同州で小さな町にある学校の教員となった。その間、十年くらいが、彼女にとって心の休まる日々だった。
去年、兄達に母の介護を押し付けられる形で、急きょ帰国を余儀なくされた。そして、かつての母校に帰ってきた。自分は暗い運命から逃げられなかった。
どうして、今頃になって思い出したのだろう。
「どうしたの、先生?」
「ごめんなさい。少し、考え事をしていたの」
「もうすぐ、学校の近くに着きますけど、鏡の方はどうなんですか?」
運転席の萌がミラー越しに聞いた。神崎小から無断で借りてきた、曰くつきの鏡だが、今のところ変化はない。
相変わらず、町の中には人の姿はない。交差点には他の車も走っていないし、店はどこも無人だった。世界から人間が忽然といなくなったら、そんな怪現象を再現した光景は目の前にあった。
「もっと、近づいてみてください。きっと、近づけば近づくほど、この鏡に何かが起こるはずなんです」
「だが、それは噂だろ。実際に何かが起こるのかね」
「起きます。あの学校の近くでは現実ではないことが起こる。それだけの力があるはずなんです。噂を本当にしてしまう力が。だから、きっと、今に――」
突然、車内が大きく揺れた。後ろから何かがぶつかった衝撃だった。
「トラックだ! 振り切れ!」
後方から大型トラックが向かってくる。運転席に座る男はへらへら笑った顔をしている。どう見ても普通じゃない。
「萌ちゃん、もう少しスピードは出ないか?」
「これが限界ですよぉ!」
トラックはまた突っ込んできた。間一髪、左に曲がって回避したが、電柱に側面をこすり、サイドミラーが吹き飛んだ。
道幅が狭くなる。今度来られたら、結構まずいことになる。
亘は鏡に向かって、何かを訴える。そのひざ元には例の本があった。
「ちょっとぉ! 前方行き止まりですよ!」
目の前には道がなくて、高い塀がそびえていた。壁面には、まるで射的の的のように二重丸の落書きがしてある。
ショウの仕業だ。ここまで誘導されてしまったのか。
トラックがクラクションとタイヤの唸りを上げながら、猛スピードで迫ってきた。
「危ない!」
裕美子は咄嗟に亘をかばうようにした。その時、誰かの手に引っ張られた。
2
「おい、大丈夫か?」
肩を乱暴にゆすられ、亘は目を覚ました。前の前には太助がいた。
「あれ、僕達は……トラックが突っ込んできて――」
「助かったみたいだぞ」
亘は起き上がると、車内を眺めた。後方を確認すると、「わあッ」と声を上げた。バックガラスいっぱいに大型トラックのヘッドライトとボンネットが密着していたせいだった。慌てて外に出ると、さらに奇妙な光景があった。トラックが車の尻に辺り、数メートル地面から浮き上がったまま停まっている。このまま何も起きなかったら、全員、トラックに押しつぶされていたに違いない。
「助かった……時間が止まったみたい」
「いいえ。時間が止まったんじゃない」裕美子が言った。「あれを見て」
亘は地面の標識を凝視した。一時停止を示す『とまれ』の標識。なんだかいつもと違う気がする。最初は分からなかったが、数秒して「そうか」と答えた。
「この文字は左右逆になってる」
「これもそうね」
電柱に貼られた迷い犬のポスターも、すべて、反転して、左右が反対になっている。いわゆる、鏡文字の状態だった。
「来てしまったんだな。鏡の世界に。早く向かおうか」
太助は我先に歩いていく後ろで、萌が辺りをキョロキョロ興味深そうに観察している。反対になっているのは文字だけではなかった。道のつくりも、現実世界とは反対にねじ曲がっている。
その事実が分かったのは、太助の先導のおかげで道が分からなくなってしまった後だった。
「すまん」
四人は公園の前にいた。一週間前には、よくここで、翔や雛と作戦を立てていたのが、昔の出来事のように思えた。
公園の向かいには交番があった。
「おまわりに道を聞くのが一番だな」
「佐藤さん、この世界に私達以外の人はいないんじゃないですか?」
「そうでもない。ほら、いたみたいだぞ」
確かに、交番の中に警察官の背中が見えた。亘は言い知れぬ不安を覚えた。鏡の世界に普通の人間が住んでいるのは、あまりに不自然だ。
しかし、それを指摘するよりも早く、太助がドアを開けて、「すいません」と警官に声をかけていた。
「常盤台南小学校の場所を教えてほしいんですが……」
「何かね?」
「実は、学校の……」
こちらに振り向いた警官に、太助は言葉を詰まらせた。
警官の白い顔には、目と鼻と口がなかった。それらしい凹凸はあるのだが、眼球もなく、鼻の穴もなく、唇の形がうっすらと浮き出ている程度だった。デパートのマネキンにも似ているが、こちらはよりリアルで不気味だった。
「おやぁ、君達は顔があるのかね?」
のっぺらぼうの警官の手が震えながら、太助に伸びた。彼は思わず飛びのいた。
「あの、学校の場所を……アハハ、みんな、どうやら走る準備をしといた方がいいみたい」
太助の耳打ちは正しかった。
「本官は職務怠慢で顔を取られてしまったのだよ! ああ、顔が欲しい……顔が欲しいよぉ……君達、君達の顔がぜひとも欲しい」
警官は机のわきに立てかけてある。棒を手に取った。棒の先は、三日月に伸びた大きな鎌になっている。
「顔をおくれ。本官に顔を」
「逃げるぞ!」
太助の号令で一斉に交番から駆けだした。公園に入り、もう一方の出口に向かう途中、交番から警官が鎌を振り上げながら出てきた。
「どうする? このままだとヤバいぞ」
「分かってますよ。あ、先生!」
後ろで走っていた裕美子が足を挫いた。亘は駆け寄り、彼女を助け起こす。
「私に構わないで、早く逃げて」
警官が近づいてくる。薄い唇を歪ませて、鎌の刃先をこちらに向けながら。
亘は隠しておいた本のページを読み上げた。
「善なる精霊よ、我を仇為す魔を払い、導き給え!」
たまたま見開きになっていたページの呪文を読んだに過ぎない。警官の鎌が振り下ろされる寸前であった。その動きが急に止まる。そして、のっぺらぼうは向きを変えると、どこかへ去っていった。
「ありがとう、篠田くん」
「僕は呪文を言っただけです。それがたまたま効いただけです」
駆け寄ってきた太助に助け起こされた亘は、二人の後ろに立つ人影に気づいた。
「あれは」
それは体操服を着た少年だった。小柄で痩せた体をしている。顔立ちは青白いが、恐ろしい印象はしない。つぶらな瞳は優しい感じを受ける。
「君……」
少年が手招きをしながら、角の向こうへ来た。亘は反射的に彼の後を追った。
「どうしたの?」
裕美子に呼びかけられたが、亘は少年の消えた角を曲がった。前方の交差点に少年が立っている。また、歩き出した。どこかへ案内しているような感じだ。また、あののっぺらぼうが出てくるかもしれないし、もっと、恐ろしい何かが待っているかもしれない。
しかし、亘にはあの少年が悪い何かとは思えなかった。理由は別に見当たらないのだが、とても懐かしい感じがしたのだ。
「篠田くん、一人で歩くのは危険よ」
「先生、ついて来て。もしかすると、学校に着くかもしれない」
「本当に?」
「確証はないですけど」
亘は交差点を過ぎると、住宅街の中を進んだ。空は夕方のまま、暗くなる様子はない。しかし、夜になれば、ショウ達は隣町への侵略を開始する。そうなる前に、何とかしないといけない。
何番目かの角を曲がった時、亘の目の前に正門があった。校庭の向こうにおぼろ屋敷が建っている。
門をくぐったところに、少年が立っていた。
「ありがとう。君の名前はなんていうの?」
少年は唇を動かすだけで、少し悲しげな笑顔を残したまま、門から出ていった。入れ替わるようにして、裕美子たちが駆け付ける。
「よく分かったわね」
「道案内をしてくれたんです。会いませんでした」
「いいや」
太助が首を振る。大人には見えない幽霊だったのか。亘はおぼろ屋敷へ急いだ。
3
ショウは車のドアをこじ開けた。つい先刻まで奴らが載っていたはずだが、忽然と姿を消したのだ。それと同時に、町から彼らの気配が消えた。
やがて、車内にその理由があるのを知った。
後部座席に置かれた大きな鏡。縁には龍の頭が彫られ、鋭い爪が左右を掴んでいる。表面の鏡に触れた瞬間、獲物の思惑が頭に浮かんだ。
「そうか、鏡面世界か。亘め、考えたな。小賢しい奴」
こちらの世界から、おぼろ屋敷に入ってくることはすぐに分かった。学校までおびき寄せて、一網打尽にするつもりだったが、ここまで抵抗するとは思わなかった。
こちらにも手はある。金江裕美子の教え子だった異人の小僧を捕まえてある。それに、小宮未来や他の人間達もまだこちらの側にいる。
焦る必要などない。それなのに、頭の底に燻る不快感はぬぐえなかった。裕美子の存在を忘れていた失態だけではない。まだ、何か見落としているような気がする。
ショウは鏡の上に手を置いた。そこに自分の姿が映る。いつの間にか、目の下にクマの浮いた目、青白さを通り越して緑に近い肌に、カサカサにひび割れた唇。髪の毛の白いものも一気に増えた。これではまるで老人だ。
突然、もう一人の顔が重なった。どうやら、鏡の世界の住人のようだ。
「通せ」
しかし、少年は首を横に振った。ショウは力を込めて、鏡の黒い血を垂らした。
「幽霊ごときが、オレに歯向かうな」
こざかしい幽霊の気配が消えた。ショウはニヤリと唇を歪めながら、鏡の割れ目に侵蝕した。連中を“旧校舎”に入れないために妨害したが、一つ、余興として彼らを招きよせるのも面白いかもしれない。
ショウは、自分にしぶとく抵抗する人間の末路に思いをはせた。
4
太助は怖気を感じた。トイレで襲われた時と同じ感覚だ。二度も味わえばさすがに覚えてしまう。
「急いだ方がいいかもしれない」
空が急に曇りだした。止まっていた世界が強い力で無理やり動き始める。なにか、どす黒い力だ。間違いなく、あいつがやって来たんだと、太助は確信した。
亘と裕美子に遅れて、彼は校庭を走った。一度振り返ると、さっきまで自分達のいた正門が黒い影に覆われていた。
「佐藤さん、なんですか、あれは?」
「聞かなくても分かるだろ。あれに捕まるとヤバいってことだ」
ショウが黒い影を引き連れている。赤い目が光った。
「佐藤さん、危ないです!」
彼女の声が耳元に流れた瞬間、視界の端から飛んできた何かに体ごとぶつかって、弾き飛ばされた襲撃で地面に倒れた。
「いたた……なんだよ」
自分のいた場所に大きな赤玉が転がっていた。運動会で見るような大きな玉だ。それが真ん中から一文字にぱっくり開いた、まるで大きな口のようで、上下にはびっしりと牙が並んでいる。口だけで表情が分かる。獲物を見つけた肉食獣みたいに満面の笑みを浮かべる。
赤玉がとびかかった瞬間、誰かに突き飛ばされた。太助が慌てて起き上がると、赤玉の口から手が伸びていた。急いで、その手を引っ張る。
「萌ちゃん、何すんだよ!」
「佐藤さん、急いで逃げてください。あたしはいいから」
「バカ! ほっとけるわけないだろ!」
彼女はだんだん怪物の口に飲み込まれていく。太助の横に亘や裕美子も引っ張るが、怪物の飲み込む力が強い。
「佐藤さん、早く向かって下さい。あたしのことはいいですから」
「何言ってんだよ。映画じゃあるまいし、助かるだろうが、ここでも」
「佐藤さんはダメじゃないですよ」
萌がそう言った途端、手が離れた。怪物の食道の闇へと落ちていった。
「クソ……クソッタレが、マネージャーを返しやがれ!」
太助は煙草の一本に火をつけると、それを怪物の口に放り入れた。
「そんなに喰いたきゃ、ニコチンでも食ってろ、化け物」
赤玉の怪物は苦しげに暴れ始めた。そして、太助達を弾き飛ばすと、校舎の方へ転がって逃げていった。
「あの人は捕まったんだ」
「まだだ。まだ、三人いる。行くぞ。こんな子供だましはたくさんだ」
太助はおぼろ屋敷に着くと、そばにあった石を持ち上げて、ドアにかかった鎖と南京錠を破壊した。昔、子供の頃に見た映画では、結構時間がかかったようなシーンがあったが、あっけなく、ドアの根元から外れた。
「この中に旧校舎があると信じるぞ」
三人はおぼろ屋敷に踏み込んだ。
5
ショウはおぼろ屋敷の前にいた。校庭には、降ってわいたように顔のない連中が包丁や大鎌を携えていたが、こちらの素性が分かった途端、大名行列にひざまずく貧農みたいに道を開けた。
一人が脱落したようだ。残るは、三人。特に、篠田亘と金江裕美子は生かしておくわけにはいかない。魂を奪い取って、肉体も塵に変えなくては、いつ、こちらに弓を引くか分かったものではない。
現実世界では、もうすぐ夜になる。傀儡達には隣町に繰り出すように命じてある。佐奈田智佐子の態度もやや気がかりだ。二十年もほっとおいたら、心変わりの一つもするだろう。あの女なら裏切る可能性はないと思っていたが、もう、この辺が潮時だろう。
所詮、人間など信頼できないのだ。
おぼろ屋敷に入った時、足元ががくんと崩れた。予期せぬことに、ショウは人間に近い困惑という感情を漏らした。
ショウはまた我が目を疑った。床に着いた両手の甲に異変が起きていた。紫色の血管が浮き出て、肌は脱色したようにくすんだ白に変わり、しわが寄っている。これではまるで、老人の手だ。
だが、この体は十一歳の黒澤翔だ。初めて生身の体に乗り移ったとはいえ、こんなことが起こるはずがない。奴と自分は適応しているはずだ。
壁の手すりに手をかけながら立ち上がると、壁の姿見を見て、ショウは身構えた。そこに映っているのは、亡霊だった。
「貴様……黒澤翔か」
確かにそこには、あいつがいた。自分と同じ姿をしながら、あの、小生意気な顔を浮かべている。
「死にぞこないめ。まだ、この世に未練があるのか?」
鏡の中の黒澤翔は、憎たらしいほどに生き生きしている。まるで、勝者の余裕を見せているのかのようだ。
愚かな。お前はオレに負けた。ショウは思念を向けた。お前の肉体は、今や、オレのものとなった。ちっぽけな魂は、深淵の底で幻の家族と幻の思い出を永遠に送り続ける。そう、貴様は二度と、この世に現れて、あの三人に肩入れする機会などない。なのに、なぜ、そんなに勝ち誇ったツラができる?
鏡の黒澤翔が手の甲をかざした。透き通るような肌色に、黒いシミに広がり、皮が溶けていき、やがては骨が現れた。足や体もそうだ。なのに、当人は平気な顔をしている。
『まだ、気づかないのか?』
ふと、黒澤翔の声が聞こえたような気がした。
「まさか」
ショウは髪の毛を数本抜いた。簡単に抜けたそれはすべて白髪だった。
「クソ!」
鏡の黒澤翔を殴りつけた。飛び散った破片が手と顔を切る。熱の痛みが全身を切り刻むような激痛に変わる。血が止まらない。破片に映るあいつが、ケタケタ笑った。
「だましやがったな。こうなると知っていて、貴様は……」
すべてが奴は最初から分かっていた。いや、少なくとも、体を乗っ取られる前から自分の肉体が崩れ始めていたことを。
二十年間も闇の世界に慣れ親しんだ奴の体は、急速に経年した現実世界の負荷に耐えられなかった。封印から解かれた生身の体は、少しずつ崩壊していった。
黒澤翔はそれに気づいた。自分の命が永くないことを。こちらが自分の肉体の宿主になろうと狙っているのを。
だから、奴はわざと捕まってみせた。もちろん、その過程で刺し違えてもよかったから、最後に大それた自爆を試みた。
このままでは、この肉体もろとも無になってしまう。築き上げてきたものにほころびが生じていくのを感じ、ショウは驚きと怒りに震えた。すべてを歪めたはずの時の流れが急速に元に戻ろうとしている。金江裕美子や佐藤太助、篠田亘の登場はその一部に過ぎない。
このままでは、自分は消えてしまう。何か得体の知れない、大きな存在が生産しようとしている気がしてならない。
そうはならない。自分は恐怖そのものであり、永遠なのだ。消えるはずがない。
ショウはおぼろ屋敷の最上階を目指した。彼らが“旧校舎”に向かうならば、それも結構。自らも偽りの肉体を捨てて、本体の姿で手厚く歓迎しよう。
彼らに思い知らせてやる。人は己の恐怖に勝つことなどできないのだと。




