これからどうするべきか?
8
未来は走っていた。自分でも分からないぐらいの距離を稼いだ。できるだけ学校から遠く離れたかった。
「止まれ」
後ろを追いかける翔が叫んだ。徐々に追いついて、彼女の肩を持つと、今度は強い調子で言った。
「もう大丈夫だ」
未来は足を止め、はるか向こうに映る校舎の端を見た。
「美穂はどうなったの?」
翔は黙ったまま答えない。未来は今来たばかりの道を歩き出す。
「今度はどこへ行く気だ?」
「学校に戻るの。美穂を探さないと」
「もう遅い。諦めろ」
そう言われて、彼女はその場にしゃがみ込んだ。肩が震えている。顔をうずめる彼女を正視出来ず、翔は近くの電柱に背中を預ける。
「ランドセル、忘れて来ちゃった」
「明日にしろ。放課後の学校は危険だ。大人の数が減ると、ワタルと遭遇しやすくなる。夜はもっと危険だ。用務員のじいさんしかいないからな」
「じいさん……?」
翔の言葉に引っかかるものを感じた。うちの学校にいる用務員は、磯崎という五十代前半の男だ。丸坊主に近い頭から大工に見えなくもないが、じいさんと呼ばれるぐらい年を取っているようには見えない。
思えば、翔の言葉は時々矛盾している。彼のいる五組など存在しない。いくら家が貧しくても、スマホ自体を知らないのはおかしい。
「ところで、今日は何日だ」
「七月十七日」
「いつの間に、二日も経ったのか」
翔は急に思い出したように立ち上がると、フラフラと歩き出した。
「どこへ行くの?」
「家に帰る。母さんが心配してる」
走り出した翔の後ろを、今度は後を追った。古い商店街から住宅街に入っていく。近くに自分の家もあるのでちょうどよかった。ランドセルがない理由を考えていると、翔がいきなり立ち止った。そのせいで彼の背中にまともに当たった。
「なあ、この辺にアパートがなかったっけ」
二人の目の前には、簡素なコインパーキングが広がっているばかりであった。看板の隣に自販機があるせいか、空き缶やたばこの吸い殻が目立つ。
「私が知っているのは、ここから二番目の角にあるアパートだけだけど」
「そこは違う。確かに、俺の住んでたアパートはここにあったはずなんだ。ゆうがお荘って名前のアパートだけど、知らないか?」
「聞いたことないよ。ていうか、あっても知らないかも。場所間違えてんじゃないの?」
翔は駐車場手前にある側溝を覗きこんだ。
「あれを見ろ。ビー玉があるだろ?」
彼に言われた通り覗くと、確かに雑草の生える側溝に古い少し大きな赤いビー玉が落ちていた。表面の艶はなくなって、変色して汚れている。
「一年生の頃、ここに落としたんだ。いつか板を外して拾うと思って忘れていた」
翔の事が嘘のようには思えない。未来はある事に気づいた。駐車場ができたのが二〇一一年の三月とある。
その時、一台のワゴンが止まった。降りてきた小太りの中年男性が箱を下ろして、自販機の缶を補充し始めた。
「あの、すみません。ここの駐車場の人ですか?」
男は面倒くさそうな顔を上げた。
「そうだけど」
「ここの駐車場の前は何があったんですか?」
「学校の授業な何かなの?」
未来は咄嗟に嘘をついた。
「はい。社会科の宿題で、街の歴史を勉強するように言われて」
「あっそう。ここは、前はアパートだったんだ。俺の親父が大家だったけど、四年前に亡くなったから、ここを駐車場にしたんだよ」
「どうしてですか?」
「住む奴がなかなかいなかったんだよ。今時、風呂なしのアパートなんて住む奴なんかいない。お譲ちゃんも住みたくないだろ、そんなボロアパート」
「あの、そのアパートに黒澤って人住んでませんでしたか?」
「黒澤……? 黒澤ね。ああ、そう言えば、そんな名前の親子がいたかな。母親と息子だったかな。昔、子供が行方不明になったきり帰ってこなかったとか」
男の名は鈴木という。大学生の頃に父親のアパートに下宿していた時期があった。その時に他の住人と顔を合わす機会もあったらしい。
「母親が礼儀正しくて親切な人だったんだ。子供の方がいつも礼儀正しいけど、なんか不愛想と言うか剣呑な感じでさ。妙に印象に残っていたんだよね。その子供がいなくなって、母親の方は色々探し回ったんだ。何度も何度も警察に足を運んだり、息子のクラスメイトに聞きに行ったりして。なんていうか、言いにくいんだけど、おかしくなってしまったんだよ」
「あの――」今まで黙っていた翔が口を開いた。「その人は今でもここに住んでるんですか?」
「俺はすぐに就職してアパートを離れたから、それ以降は知らないけど、後で親父から聞いた話では、母親の方は亡くなったと聞いたよ」
「そんな!」
翔の顔に動揺が浮かぶ。
「もしかして、君ら、黒澤さんと知り合いか何か?」
「実は、うちの親の従弟が黒澤さんなんです」
咄嗟に未来は嘘を口に出した。
「そうだったのか……」
「あの、黒澤さんの御墓がどこにあるか分りますか?」
「それなら、この町の草縁寺にあるよ。親父が墓参りしてたのは知ってたから」
2
町はずれに昔からある小さな寺《草縁寺》の裏手にある墓地、案内された先に翔は足を止めた。小さな墓石は意外と汚れはなく、墓前には花が添えられていた。職員によると、定期的に手入れをする人がいるらしいが、名前とかは教えてもられなかった。
翔は力なく肩を落とした。その背中を見つめながら、未来は言葉もかけられずにただ待つしかなかった。
「君、名前なんて言ったけ?」
「私は、小宮未来」
「今、何年の七月十七日?」
未来は小さな声で言った。
「……二〇一五年」
「そっか。おれは二十年も閉じ込められてたわけか。道理で学校や街がおかしいと思った」
墓石の横には二人の名前が彫られていた。黒澤恵介、享年二十九歳。絵里子、享年三十六歳。きっと、翔の両親だろう。
「お父さんは二十九歳で亡くなったんだね」
「おれが五歳の頃だ。覚えてるよ。暑い夏だった。おれの父さんは消防士だった。火事場に逃げ遅れた女の子を助けるために」
「その女の子は助かったの?」
「そこまでは覚えてない。記憶にあるのは、小さな俺を肩車してくれた力強い腕、カッコよく家出を出ていく大きな背中……その後は、葬式のお経だ。父さんの写真が飾られて、母さんや周りの連中は、黒い服を着てまじめな顔をしてたかな」
「それからずっと、お母さんと二人で暮したの?」
「そこからはきっちり覚えてる。嫌な思い出ばかりさ」
翔は思い出したかのように頭をかきむしった。
「嫌な事を思い出しちまった」
「何を?」
「最後に母さんといた日。あの時、俺は喧嘩したんだ」
「どんな理由で喧嘩したんですか?」
「悪いのはおれ。理由も、今になったらもつまんないよ」
翔はしゃがみこんで墓石や供え物の花を何度もさすった。
「でも、あの時の俺は悔しさで一杯で、何も見えていなかった。母さんの気持も、父さんの事も……それが分かったのが今頃になってだ。遅すぎだよな、ホント」
9
一九九五年六七月十五日の夕方。
翔は公園の砂場にしゃがみこんでいた。何もする事もなく、砂からはみ出るスコップのおもちゃをただ眺めているだけだった。夕日の輝きが小さな公園を黄金色に染める。
もうすぐ母が家に帰って来る。いつもならば、まっすぐ家に帰っているというのに、今日はそれができないでいた。
翔はランドセルから一枚の紙を取り出した。四〇〇字詰めの原稿用紙の最初の行に書いてある忌々しい文章がある。
『お父さん』
その学校から出された宿題こそが、翔の家に帰り辛い理由だった。
今日は七月の中旬で夏休み目前。父の日でも何でもないというのに。しかもタイミングの悪い事に、七月十五日は、亡くなった父の誕生日でもあった。
このタイミングに嫌がらせのような宿題を出したのは、折り合いのすこぶる悪い担任だった。横柄な女教師で、自分や母を差別しているのは、ある“騒動”で十分思い知らされた。子供を差別する大人がいる事、そいつが自分の担任であったのは普段からして意外とは思わなかった。今に始まった事ではない。大方、あの時の仕返しの意味を込めているのだろう。
「今日の宿題は、皆のお父さんの事を書いて下さいね。四〇〇字じゃあ足りないかもしれないけど、毎日会っている人だものね」
プリントを配り終えてから、担任はこう付け加えた。
「お父さんがいない場合は、理想のお父さんを空想して書いて下さい」
五年五組に、片親の生徒は一人しかいない。
翔はプリントを握りつぶそうとして止めた。怒りで暴れでもしたら、同じ轍を踏むのが目に見えている。あいつもそれを望んでいるはずだ。
もうすぐ暗くなる。彼は諦めて家に帰った。古びたアパート『ゆうがお荘』の一〇二号室に「ただいま」と入ると、母はすでに帰って来ていた。三十代前半だが、もっと若く見える。化粧が薄いのにそう見えるのは、きれいな証拠だ。自分も大人になったら、こういう女性を好きになりたいと幼い頃から思っていた。
「お帰り、翔ちゃん。今日は遅かったのね」
「うん……」
父の仏壇の上には、バースデーケーキが置かれていた。父が亡くなってから、毎年に誕生日をしている。もうこの世にいないというのに。今生きている家族をもっと考えるべきだと思った。自分はこんなに耐えているのに。翔は生まれて初めて、母親に苛立ちを感じた。
「またやるの?」
「何を?」
「父さんの誕生日だよ」
「毎年してるじゃない」
「意味ないと思うけど」
「そんな事を言ったら、お父さんかわいそうよ。意味のない事ではないの」
絵里子は仏前に供えてあるケーキの蝋燭に火を点けた。
「お父さんは今でもね、翔やお母さんを見守ってるのよ。亡くなると消えていなくなるって訳じゃないのよ」
「非科学的だよ、そんなの。幽霊じゃあるまいし」
幽霊どころか、恐ろしい体験をしているのに、心にもない事を口に出してしまう。ワタルは魔物だし、口裂け女や動く人体模型は妖怪だ。でも、死んだ人が見守っているはずがない。それなら、自分たちの暮らしは、どうして、こうみすぼらしいままなんだ。
もう止めておけばいいのに。次から次へと不満が募る。あの宿題のせいだろう。普段我慢していた感情が壁を壊して出てきそうだ。
「どうしたの、翔ちゃん? 学校で嫌な事でもあったの?」
「別に。母さんには関係ない」
「関係あるわ。何か辛い事でもあったのね」
「ない」
「無理をしないで、お母さんの目を見て言って」
「学校なんか関係ない。幽霊の誕生日を祝うなんておかしいって思っただけだ」
心にもない言葉が口から出て、翔は後悔した。いや、もしかすると、本当は以前からそう思っていたのかもしれない。
「翔、お父さんに謝りなさい」
いつもの母とは思えない真剣な眼差しに翔は戸惑ったが、言葉の濁流は止められなかった。今にして思えば、ここは最後の分岐点だったのかもしれない。
「どうして謝んないといけないんだよ? 母さんやおれをほったらかして、とっくの大昔に死んだ奴の事なんかどうでもいいだろ!」
その時、絵里子の手が翔の頬を叩いた。生まれてから一度も母に叩かれた事がなかった。母を困らせないように、今まで気を使って頑張って来たのに。
翔は何も言えず、そのまま顔をそむけて、玄関まで向かうと靴を履いて出て行った。もう、すべてがどうでもよくなっていた。母やもう亡くなった父、学校や今、自分の身に降りかかっている恐ろしい現象も全部。どこか遠くに放り込みたかった。
翔の自転車に乗った時、夕方の空はいつの間にか暗くなり、雨の兆しを感じさせた。
10
翔は一旦話し終えると、小さく笑った。
夏は夕方から夜になるまでが長い。空は黄金色の夕明かりを保ったままだった。墓地の中は静けさを保っている。
「あの頃さ、俺は父親しかいないっていう理由で、学校でいじめられていたんだ。家も貧しかった。でも、母さんのために頑張って耐えようと思ったんだ。大人になったら、きっと楽をさせてやろうと思って。なのに、あの時、変に頑固になっちゃって……」
「私は親が両方いるから分かんない。けど、何だか、黒澤くんの気持ちが分かる気がする。仕方なかったと思う」
「でも、時間が元には戻らない。あれから二十年も経ったんだぜ。この世界には、母さんも父さんもいない。復活したワタルに、浦島太郎の俺だけが残った。笑えない話だ」
未来は何も言えずに立ち尽くすしかなかった。二十年ぶりに現実の世界に戻った代償が、親との死に別れなんて、翔があまりにもかわいそうだった。これからどうしていくつもりなのだろうか。いや、それよりも重大な問題が残っている。ワタルに連れ去られた美穂達を助けなくてはいけない。
それには翔の力が必要だと分かっていた。
どれぐらい時間が経っただろうか。翔がふらりと立ち上がる。
「どこへ行くの?」
「どこだっていい。もう、この町に未練もない。適当に足の向くままに、だ」
「一人で生きていくつもり?」
「両親もいないんだ。俺の覚えている限り、親戚はろくな連中がいなかった気がするし、一人で生きていくしか他にない」
「そんな……学校の事はどうするの? ワタルが復活したばかりなのに」
「おれの役目は二十年前に済ませたんだ。その見返りがこれだ。もう関わりたくもない」
「私の友達とはどうなるの? 親だって心配するだろうし」
「心配するな。君の友達は死んではいない。親も心配しないだろうさ」
「訳の分かんないよ、そんなの……」
「いくつかアドバイスをやる。夕方と夜の学校へは近づくな。校門より外にいれば、奴も手は出せないから安全だ。昼間でも絶対に一人になるな。常に三人以上で行動しろ。教室の移動や便所も」
「女子のトイレは個室なんですけど」
「外でやればいい」
「それ、冗談?」
「じゃあ、頼りになりそうな男子に付いててもらえ」
「黒澤くんは、女子トイレに入る男子ってどう思う?」
「変態だと思う」
「じゃあ、黒澤くんは変態だね」
「変な理屈だ。ついていけない。とにかく、おれはこの件から手を引かせてもらう」
「待って」
未来は翔の手を掴んだ。あまりにも無茶な考えだが、今の状況で彼は必要だった。
「行くあてがないんでしょ? しばらく、私の家にいたらどう?」
「君の? 心遣いは嬉しいけどお断りする」
「なんで?」
「おれはロリコンじゃない」
「何言ってんのよ」と、未来は呆れた。「だいたい、食べ物とかどうするんの? 野宿でもする気?」
「君には関係ない」
「関係あるよ! 消されたみんなは、わたしの友達なの。みんなを助けたいの。黒澤くんの話が正しければ、あたしも狙われるんでしょ。それに、あたしには弟がいるの。このままほっとく訳にはいかないよ」
未来は翔の手を掴んだまま放さない。
「嫌でも一緒に来てもらうから」
「強情だな。裕美子みたいだ」
「だれ、その子?」
「教えない。君に少し似てる」
「じゃあ、諦めて一緒に来るの」
未来の真剣に顔に、翔は苦笑した。
「分かったよ。一晩だけだぞ。明日には出ていくからな。絶対だぞ」
11
未来が翔を連れて、家の前まで帰ってきた時には、時間は六時半を過ぎていた。夕日は落ちて、周りは夜の帳が落ちていた。
「黒澤くんは木のぼりとか得意だった?」
「まあ、そこそこは。それがどうかした?」
未来はまず一人で入ると、夕食の支度をしていた母親の鈴奈の声が響いた。
「どうしたの、未来? 今日はやけに早いじゃない。塾はどうしたの?」
心臓が止まりそうだった。自分が塾に通っている事をすっかり忘れていた。ここで機転よく、言い訳を思いついたのは奇跡に違いない。
「気分が悪くなったから、途中で帰っちゃった」
「そう。お風呂はどうする?」
「もちろん入る」
「気分が悪いのに?」
「それとこれとは別だよ」
「後がつかえてるから、早くお風呂入っちゃいなさいよ」
未来は「はーい」といつものように冷静を装いながら、階段を上がって二階にある自分の部屋に辿り着くと、勉強机のそばにある窓を開けた。目の前には庭にそびえる木から伸びる枝葉がかかった。
「いいよ」
未来が相図をすると、下にいた翔が軽やかに木を登った。やや小柄だが、身軽な印象そのままの動きだった。
間もなく、翔が靴を脱いで未来の部屋に降り立った。
「面白い入り方だな」
「私も時々使うの。これなら玄関を通らずに済むでしょ」
明るい場所で、彼の服を改めて眺めると、確かに兄弟のお古のような感じだった。所々に毛玉が浮いて、ほつれ、ツギハギが目立つ。先入観のせいかもしれないが、確かに一九九五年当時の姿のままなのだろう。おかしな言い方だが、二〇一五年の人間としては違和感があった。
「今から、あたしはお風呂に入るから、その間ここにいて。人が来たら、ここに隠れてね」
と、ベッドの下を指差した。男の子を部屋に入れているのが親に知られたら大変だ。
未来はカラスの行水を済ませから――いうもだったら、家族の中で一番長く時間がかかり、弟に文句を言われるのだが――一度、ダイニングキッチンに入った。母の鈴奈は背中を向けて、まな板と包丁を洗っている。
部屋の手前にある冷蔵庫をゆっくりと開けて、ハムや総菜の残りを取り出す。テレビの音で気づかないようだ。こっそりと部屋を出ようとした時、「どうしたの、未来」と母の声に足を止めた。いち早く後ろに食料を隠した。
「あ、お母さん。今日の晩御飯は何?」
「今日はカレーよ。朝にも言ったでしょ」
「ああ、そうだった、そうだった」
「ところで、今日はやけに遅かったわね。宿題でも忘れたの?」
「そんなわけないでしょ」
「本当?」と意地悪く聞いてくる。
「ほんとだよ。美穂達も一緒に遊んでたの」
「美穂? 新しい友達でもできたの」
「何言っての、お母さん。同じクラスの美穂だよ。止めてその年でアルツハイマーなんて」
「そう? そんな友達いたかな……」
母親が怪訝な顔をしたまま、未来は背中の悪寒を抑えようとした。母が美穂を忘れるはずがない。毎日、家の前で彼女と待ち合わせした時、いつも挨拶を交わしたはずだ。現に今朝だって……。
未来は流行る気持を抑えて、自室に戻った。その光景に目を見張る。
窓辺に座る翔は口に何をくわえ、煙を空に吐き出していた。それがタバコと分かった時、「ちょっと!」と歩み寄ると、慌てて彼の口からフィルターをひったくった。
「何やってんのよ」
「見れば分かるだろ、タバコだ」
「そんなの分かるって、何で吸ってんの?」
「一度タバコを吸ってみたかったからだ。よくよく考えてみるとさ、おれはあの頃の年齢に二十年プラスされたんだ。だから現実のこの世界では、実年齢は三十歳。いい年した大人だ。確か、タバコは二十歳からだろ。だからセーフ」
未来は翔の前に手鏡を向けた。
「自分の姿を見てから言ってよ! それに大人でも、普通女の子の部屋でタバコなんか吸わないの!」
「窓に向かって吸ったんだが……すまん」
翔は窓を閉めた。その時、開けっぱなしだった部屋の戸口に誰かが立っていたのを、今更ながら気がついた。
「姉ちゃん、その人誰?」
弟の徹だった。今年で小学一年生になったばかりである。
「徹……いつからいたの?」
「おにいちゃんが、タバコをスパスパしてた時から」
つまり、最初からいたという訳か。
「お母さん! 姉ちゃんが男を連れ込んで」
大声で叫ぼうとした徹の口を塞いだ。ここで告げ口されたら、あとあと面倒になる。何とか今のうちに説得しておかないといけない。未来はそう思い、財布から百円玉を取り出して、弟に手渡した。
「これあげるから今晩だけ黙ってて」
不審の眼差しを向けながら、二本指を立てる。
「これぐらいじゃあ、ぼくは折れないぞ」
何て奴。小さい頃から生意気だが、小学校に上がってからさらにずる賢くなった。
「二人とも、御飯よ!」
一階から母の声がした。翔には夕食分を残して、タバコを吸わないように取り上げてから二人で一階へ降りた。
「姉ちゃん、あの兄ちゃんとどこまで進んだの?」
「どこでそんなの覚えたの?」
「学校で友達が言ってた」
ろくな友達じゃないな。
「とにかく、あの人の事は黙っててね」
「うん、分かった」
徹はお調子者で口が軽いから、翔の事をつい漏らしてしまうのではと心配していたが、夕食の間、露見する心配はなく平穏に終わった。いつもの夕餉、会話は数時間まで体験した恐怖が嘘のようだった。けれど、明日にはまた学校へ行かないといけない。
翔は学校へ行かなければ安全だと言っていたが、実際そういうわけにはいかない。親にどう説得すればいい? ワタルという妖怪がいて怖いから休む、なんて言える訳がない。
明日、美穂達がどうなったのか分かるはずだ。
12
「今から二十年前の夏、俺が知る限り、常盤台南小学校にはワタルがいた。奴の犠牲になって消えた子供は多くいたが、俺は普通に日常を送っていた。六月二十七日のあの時まで」
「黒澤くんのクラスでも、ワタルに連れて行かれた人がいたんでしょ? どうして分からなかったの」
翔は頭を抱えながら、当時を思い出すように言った。一階では父が帰って来て、テレビの音が聞こえてくる。
「気づこうにも気づけなかった。他のクラスメイトも同じだったろうな。親しい友人が突然消えても、まるで最初からいなかったように振舞う。その様を見ても、それが当たり前のようにしか思えなかった。親に友人の事は確認したんだろ?」
「うん……新しい友達ができたのって言われた。毎朝出会って挨拶していたのに」
「あいつの魔力が影響している。記憶を改ざんされてしまう。学校ほどではないがな」
未来はパソコンのネットを開いて、一九九五年と自分の学校名を検索にかけた。
「ある時、俺はあいつに狙われた。だが、奇跡的に難を逃れた。次の日になって、俺は恐ろしい現実を目の当たりにした」
数百件がヒットする。翔に関するニュースもあった。
一九九五年七月十五日深夜、H県常盤台市に住む小学五年生、黒澤翔くん(10)が家を飛び出したきり、行方知れずのまま一週間が経過しましたが、発見に至る手掛かりは今のところ見つからず、捜査は難航――。
顔写真の映像は荒いが、目の前にいる少年と同じだった。未来はおかしな感覚になる
「あの時、俺はワタルの封印に成功した。だが、ドジを踏んであいつと一緒に闇の世界に引きずり込まれた。そして、数時間前にやっと出てこられたというわけさ」
「闇の世界でどんな所だったの?」
翔はまた頭を抱えた。さすがに一回のお風呂を使わせると見つかってしまうので、お金を上げて先頭に行かせた。わずかな臭いは消えて、艶のある黒髪を束ねる彼の顔は整っていた。当時は女子に持てたに違いないと、未来は勝手に想像した。
「冷たい場所だ。外の世界と同じ街並みが広がっている。だが、誰もいない。母もクラスメイトもワタルも……俺は一人で無人の世界をさまよった。誰もいないという孤独、誰かがいるかもしれないという恐怖にいつも苛まれていた。あそこは、俺が思うに死者の国だったのかもしれない」
「死者の国……」
「あそこは天国も地獄もない。苦もなければ楽もない。ただ一人、誰もいない世界でさ迷い続ける。ある意味では地獄かな。気がおかしくなりそうな事も何度かあった」
「もう一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「どんなきっかけでワタルを知ったんですか?」
翔は苦笑した。
「そうか。肝心なところをまだ話していなかったよな」
彼は頭を軽く叩きながら天井を仰いだ。必死に昔の記憶を引き出そうとしている。
「あれは一九九五年、六月の下旬、二十七日……そう、火曜日だった。思えば、あの日の夕方から、すべてが始まった」
翔はめくるめく回想を始めた。