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新生 学校の怪談  作者: 周防まひろ
第一章 復活ノ刻
4/58

翔とワタル

 

      6


 揺れが収まってからしばらくして、未来は美穂に急いで電話した。何コール鳴ってから、友人が電話口に出る。

「さっきの地震だよね? 大丈夫だった?」

(あたしは全然平気だよ。未来の方は?)

「大丈夫。ねえ、どうしよう。皆を呼んだ方がいいよね?」

(そうした方がいいみたい。あたしもそっちに行くから待っててね。それとね、一人、小さな子を見つけたの。低学年の子みたいなの)

「怪我でもしたの?」

(捻挫したみたい。泣いたままでどうしようもないの。一緒に連れてくるからね)

「うん。私も亮と賢弥を呼んどくから」

 通話を終えると、未来はとりあえず安堵した。美穂が無事でなによりだ。かくれんぼの時に感じた不安がこんな形で的中してしまうなんて。

 未来は気を取り直して、亮と賢弥に電話してみた。二人ともなかなか出てこない。こんな時に何してんのよとイラつきながら、『下駄箱に集合!』とメールを送信した。そこで何かを忘れているのに気づいた。そうだ、沙耶はどうしよう。彼女の電話番号は知らないから、連絡のしようもない。

 仕方がないので、亮の方に『沙耶も呼んで連れて来て』と追加した。

 未来は一息ついて、下駄箱の鏡の前に立った。この姿見がさっきまで自分が話した『しょうくんの鏡』だろうか。四隅にはライオンとワシのレリーフが刻まれている。所々のメッキははがれているが、以前は金色に近かったはずだ。鏡の右下には、昭和○○年度卒業生寄贈とある。

 髪の乱れを整えると、肩に落ちた埃を払い落した。きっと、さっきの揺れのせいに天井から落ちてきたのだろう。靴下も汚れしまった。やだな、もう。

 足元を払い、もう一度頭を上げた直後、未来の心臓は凍りついた。

 いつからそこにいたのか、背後に誰かがいた。

 背丈が異様に高い女だった。夏に不釣り合いな赤いコードを膝近くまで覆っている。目元から下はマスクを被っているので年齢は定かではないが、長い黒髪からして年寄りには見えない。コートの下の素足は青白く骨ばっている。裸足は赤く腫れあがり、爪先はどす黒く染まっていた。

 右手には紙袋を携え、そこから何か細長い柄が覗いている。紙袋には、点々と赤い染みがこびりついている。

 マスクに覆われた顔から覗く目に血走り、鏡越しに睨まれた未来は金縛りにあったように動けなかった。今、逃げ出しても捕まって何かされてしまう気がした。振り向くどころか、唇さえも動かない。指先は小刻みに震え、鼓動が激しく波打つ。

「あ、あの、なんでしょうか?」

 未来は震える声で問いかける。

「あたし……きれい?」

 くぐもった声で女は問いで返した。マスクの下は美人かもしれないと思わせるが、未来が想像しているきれいな女の人とは何かが違う。いわゆる変質者かもしれない。

 女は手を伸ばして、未来の肩を掴んだ。長いマニキュアの爪が食い込む。逃げたかった。もしくは、悲鳴を上げて美穂や亮が駆け付けるのを期待したかったが、それさえできない苦痛に耐えるしかなかった。

「あたし……きれい?」

 女が壊れた機械みたいに何度も聞いてくる。こちらが答えるまで止めない。声の調子もやや甲高くなる。

 冷静にならないといけない。このままでは危ない。自分に言い聞かせながら、自分は何をすべきか、足りない知恵を最大限に逡巡させた。

「き、きれいです」

 かすれた声を絞り上げ、未来は何とかそう答えた。

 一瞬、女の目が輝いたように見えた。相手の期待していた答えだったのか、怒らせたのか分からない。肩を掴む手が肌に食い込むほど痛かったが、逃げる勇気もなかった。体中が石のように凝り固まっている。

 女は頭を左右に揺らし始めた。

「本当に……そう思う?」

 未来は首だけを精一杯に縦に振った。

 女のマスクが膨らんだ。深く息を吐いたのだろうと思った。

「そう……あたしはきれいなの」

 女は満足したように目を細める。未来は少し余裕を取り戻した。背後にいる変質者の目的は、自分が美人だと言われたいがためなのかもしれない。また、なんの害もなく立ち去ってくれたら、一気に逃げ出そう。

「じゃあ……」

女は顔にかかったマスクに手をかけた。女の顔からマスクが取れて、床にポトリと落ちた。

 未来は鏡越しに映る女の口元を見て、「ひいっ!」と小さく叫んだ。

女の口が頬から耳まで裂けていた。ギザギザの裂け目から、上下の奥歯が見え隠れしている。その口が大きく開いた。

 女は紙袋の中から何かを取り出した。弓状にそれた器具に、ギザギザの鋸が固定されている。それは糸鋸だった。持ち手や刃の部分に血だまりがこびりついていた。

 女が凶器を向けて振り上げて叫んだ。

「これでもきれいかアアァァッッ!」

 未来は咄嗟に横に避けた直後、血染めの糸鋸が鏡に当たった。中心から波紋が走り、欠片が床に飛び散った。

 未来は逃げようとしたが、足に力が入らずに何度もよろめいた。その隙に見逃さず、女の手が彼女の首を鷲掴みにした。

 女の手は容易く未来の体を持ち上げ、割れた鏡に押し付ける。気道を塞がれて、彼女は暴れたが、ビクともしない。

「これでもきれいか?」

 女がけたたましい声で怒鳴り、糸鋸の刃先を未来の口に置いた。

「や、やめて、助けて……誰か」

「お前もきれいにしてやる」

 耳まで裂けた口が三日月に歪んだ。このままだと殺される。未来は泣きながら目をつぶった。

 突然、後ろから光の筋があふれ出た。女の手が若干緩むのを感じて、未来は引っかかっている破片を掴み取る。とっさの判断だった。女の手に力一杯突き刺した。

「ギャアァァッ!」

 女は人間離れした咆哮を上げた直後、首が自由になり、未来は床に着地した。そのままの勢いで女を押し飛ばした。相手が下駄箱にぶつかるのを一瞥すると、廊下に向かって駈け出そうとした。

しかし、足首をいきなり引っ張られ、そのまま床に倒れた。

「逃がすものか。あたしのようにきれいになれ!」

 万力の勢いで暴れる未来を捕まえて、凶器の刃先を再び口元に付けようとした。むせかえるような鉄の臭いが鼻孔に流れ込む。涙と吐き気がこみ上げる。

 もうだめだ。脳裏に家族が浮かぶ。今朝、いつものように自分を送った母、夜遅くに帰って来る父。すべてがかき消され、大きな口の怪物が視界を占める。

「ポマード」

 女の後ろから誰かの声がした。ふと、赤い糸鋸を持つ手が止まる。

「ポマード」

 呪文のような言葉に、明らかに女はひるんでいた。血走る目に怯えがよぎり、裂けた口が小刻みに震えていた。

「ポマード」

 三度目の声が響いた時、女は頭をかきむしりながら、地面に転がっていた。そして、誰かが未来を助け起こした。力強さを感じさせる声が耳朶を打つ。

「早く逃げるぞ」

 未来はボンヤリとその相手を見上げた。自分と同年代ぐらいの子だった。少し長い髪を後ろに束ねていて、最初は女子かと思った。灰色の古着に、色の落ちた半ズボンと粗野な服装、鋭い目つきから男子だと分かった。

「どうした、立てないのか?」

「あなたは誰?」

「自己紹介は後だ。今は逃げる事だけ考えろ」

 少年に支えられた時、服やズボンから独特の臭いがした。まるでずっと戸棚にしまったままにしてあったような感じで、未来は鼻をひくつかせた。早い話が臭い。でも今は文句を言っている暇ではない。

 少年は下足場の扉を開けようとしたが、びくともしない。

「クソ! 反対の下足場まで走れるか?」

 少年は未来の手を引っ張り、下足場から廊下の方へ向かう。口の裂けた女はまだ苦しがって、凶器の糸鋸を空に切っていた。

一直線の廊下には人の気配はなかった。途中の保健室や職員室はなぜか、すべて鍵がかかっている。いくら走っても廊下が長く感じて仕方がない。

逃げてきた角から、さっきの女が顔をのぞかせる。遠目でも、その異常な口から垂れる血が見えた。

「あの人、絶対ヤバいよ。変質者なの?」

「やつは人間じゃない」

「じゃあ、何なの?」

「あれは口裂け女だ」

「口裂け女?」

「大きく口の裂けた女の妖怪だ。問いにどう答えても、さっきみたいにマスクを取って襲いかかって来る化け物だよ」

 少年は冗談を言っているのかと思い、未来は笑いかけた。妖怪? 口裂け女? あまりにも唐突で滑稽だった。

「そんな妖怪なんているわけないじゃない」

 妖怪なんて、何とかウォッチの世界じゃないの。

「目の前で殺されかけただろ?」

「あれはきっと変質者よ。頭がおかしい人なの」

 すぐ後ろから雄叫びが上がる。

「来るぞ」

 二人は廊下の真ん中辺りにいた。下足場まで結構距離が開いた。ここまで逃げれば、さすがに追いつかれる心配はないだろうと、未来は高をくくった。

「このまま逃げても捕まる」

「は、何を言ってんの。そんな訳ないじゃない」

「口裂け女は百メートルを八秒で走る」

 未来は吹き出した。冗談にも程がある。ウサイン・ボルトだって、九秒台だというのに。

「笑っていられるのも今のうちさ。見ろ」

 口裂け女は、こちらの姿を捉えた途端、大きく裂けた口を綻ばせると、廊下の端まで響く雄叫びを上げた。そして、四つん這いで駈け出してきた。

 未来は言葉を失った。

 口裂け女とかいう頭のおかしい女は、あっという間に距離を詰めてきたのだ。しかも、壁や天井の上をかけながら。普通の人間のできる技ではない。

「こっちへ来い」

 少年に引っ張られ、階段の方へ向かう。後ろを振り返ると、さっきまでたっていた場所まで口裂け女がもう立っていた。

「クソガキどもが、二人まとめてきれいに裂いてやる」

 なんでこんなに早いの? 動揺する未来はまた金縛りに遭いそうだった。口裂け女は凶器を振り上げて襲いかかる。

「階段の上だ!」

 少年に引っ張られ、未来が後ろの階段を急いで上がった直後、口裂け女の足が目前で止まった。そして、口裂け女が見る見るうちに崩れ落ちた。その姿を消した。床に落ちた血みどろの糸鋸も、薄くなり消滅した。それでもなお、未来は階段の三段目で固まっていた。

「もう終わったよ」

「どこに消えたの?」

「口裂け女は階段を登れない。あいつにとって、段差は壁と同じなんだ。だから俺達を諦めた」

 少年が上の階に向かうのを追いかけた。

 この子は一体何者なのだろう。

「あたしは小宮未来っていうの。五年一組。あなたはどこのクラス?」

 冷静になった未来はふと考えた。同じ学年では見かけない子だ。いつも同じ格好なら気づくはずだし、からかいの的になっているだろう。

「俺は黒澤翔。教室は五年五組」

「五組?」

「そうだ。佐奈田のクラスだよ。なんかおかしいか?」

 翔も未来と同じようにキョトンとした。

「うちの学校は、四組しかないの。それに佐奈田は一組の担任だよ」

「言ってる意味が分からないな」

 翔は構わず三階に上がった。五年生の教室が四部屋の他に、備品が収められている空き部屋があった。

 翔は順番通りに教室を過ぎて行くが、空き部屋の前で立ち止まった。

「どうなってんだ? 五組の教室はどこに行った?」

「だから言ってるじゃない。うちの学校の五年は四組までしかないの」

 翔はボサボサの頭をかいた。頭を洗ってから久しいのか、フケがたくさん散った。顔をしかめながら、未来は仕方なくスマホを確認した。美穂や亮達と連絡するのをうっかり忘れていた。急いで集合しないといけない。でも場所は反対側の下足場にしよう。また、あの口裂け女とかいうのに出会うかもしれない。

 彼女が慣れた手つきで文字を打つスマホを、翔は不思議そうに眺めていた。

「なんだそれ?」

「スマホに決まってんじゃん。まさか、スマホを知らないの?」

「知らない。流行には興味ないから」

 真顔で答える少年に呆れながら、未来は他の三人にメールを送った。その場で待っていようとすると、翔が先に行ってしまう。

「待ってよ、どこへ行くの?」

「鏡を探す」

「鏡って、下足場にあったもの?」

「あれと似た鏡だ。どこにあるか知らないか?」

 そんなものを知るはずがない。まさか、あれがさっき皆で話していた『しょうくんの鏡』なのか。しょう君とは目の前の翔の事かもしれない。

「俺が元の世界に帰れて、口裂け女が出てきたという事は、もう一つの鏡も割れたわけか」

「どう言う事なの? あなたはどうしてあの鏡から出てきたのよ?」

 翔は深く息を吸うと窓を開けて、風に当たった。彼の黒い髪がそよいでいる。

「話せば長くなるし、証拠だってない」

「それでもいいよ。一体何が起こっているの?」

「俺の知る限り、この学校には魔物がいる」

「魔物?」

「そいつは、この常盤台南小学校を巣にしている。いつからいるのかは知らない。おそらく学校ができるはるか前からかもしれないし、人間が出てくる以前からいるのかもしれない。とにかく、そいつは人間の子供の魂を喰らう。そいつから逃げられたやつはいないだろうな」

 口裂け女とかいう妖怪を目の当たりにした今では、逆に疑う方が難しい。しかし、未来は初耳だったし、あまりにも荒唐無稽だった。とにかく、今は他の三人と合流しないといけない。

「おかしいな。全然連絡がない」

「やられたな」

 翔が校庭を眺めながら嘯いた。

「縁起の悪い事を言わないでよ! 口裂け女とかいう奴だって、さっきのでいなくなったんでしょ?」

「違う。あれは一旦逃げただけだ。時間が経てば、また出てくる。ちなみに口裂け女の弱点は、さっきみたいに階段の上に登るか、ポマードと三回念じるか、ベッコウアメを差し出せばいい」

「なにそれ?」

「とにかく、もう遅いかもしれない。あいつが出せるのは口裂け女ばかりじゃない。俺と同じようにあいつが甦ったなら、この学校は化け物屋敷になってる」

「甦ったってどういう事なの? その魔物ってどんな奴なの?」

 翔が振り返ると、静かに言った。

「魔物の名前は、ワタル」

「ワタル……」

「誰がそう呼んだかは知らない。自然と出てきた名だ。奴の噂が広まるだけ、消える子供の数が増える。恐怖が亘っていくのさ。奴は架空の妖怪を実体化できる。だから、さっきみたいに撃退したところでいくらでも出てくる」

「じゃあ、美穂達は……」

「その手鏡みたいな物から、まだ返事がないんだろ?」

 三階の廊下にも人の姿はなかった。仕方なく階段を下りて、二階の廊下を探す。売店にはなぜか、防火扉が閉まっていた。もちろん、扉の向こうには誰もいなかった。ただ、電話機の受話器が床に落ちて、ツーツーと音を流していた。

「俺は、一度ワタルを封印した。間違いなくできたんだ。二枚の鏡に閉じこめた。それらを割らない限り、俺も奴も出て来られるはずがなかった」

「どうして、黒澤くんも鏡の中にいたの?」

「奴に道連れにされたのさ。上手くいったと思って油断したんだだが、なぜ封印が解けた?」

「きっと、さっきの地震のせいかも」

「地震か。クソ、今年はやたら地震が多いな。一月の時の余震かな」

「一月?」

「阪神の方でデカイ地震があったろ?」

 そんなの初めて聞いた。未来の知っている限り、大きな地震と言えば、数年前に起こった東北の震災だろう。

 その時、廊下から足音がした。未来は警戒したが、直後、「未来? 亮? ……誰かいないの?」と聞き覚えのある声が聞こえて、思わず胸をなで下ろした。廊下の角から美穂が顔を出した。

「友達か?」

 翔が問う前に、未来は頷いて歩き出した。

「美穂!」

「よかった、未来。誰もいないから心配したんだよ」

 まるで長い時間であっていなかったように、友達との再会を嬉しく感じた。駆け寄る美穂の横に小さな男の子が付き添っていた。未来を見ると怯えた顔を美穂の後ろに隠れる。小柄で細い体に対して、頭が少し大きいように見えた。

「大丈夫だよ。この子は私の友達なの」

「お姉ちゃんの?」

「もう大丈夫だからね」

 確か電話で言っていた一年生の子だろう。翔の言葉を信じる訳ではないが、あの地震の後から奇妙な事ばかり起きている。早く、男子の二人と落ち合って、職員室に向かった方が良い。

 未来は友人の元に歩み寄ろうとした時、翔の手を誰かが掴んだ。

「行くな!」

 翔が高い声を張り上げた。

「放してよ。もう大丈夫だって」

「誰なの、その子? まさか、未来のカレシ?」

 美穂が興味深げに聞いてくる。あらぬ噂を立てられる前に誤解を解いておかないといけない。

「違うよ。あのね、なんだかよく分からないんだけど、この人がね――」

「奴だ」

 翔が指を差した。

「そいつがワタルだ」

 雛は言葉を止めた。時間が一瞬止まる。心臓の鼓動も止まった気がした。彼の指さす先には、美穂、そして、小さな低学年の子がいた。

「そこにいるガキがワタルだよ」

 振り返った未来に向かって、翔は重ねて言った。聞き逃しようもないほどはっきりと。

「未来……」

 今まで気づかなかったが、美穂の顔は引きつっていた。口はいつものように笑っているのに、震える瞳から涙を流している。

「美穂?」

「助けて……あたし、捕まっちゃったみたい」

 美穂はゆっくりと片手を上げて、こちらに向かって手招きする。歩き出そうとした未来を、翔が力づくに引き寄せた。

「馬鹿野郎! あの子をよく見ろ」

 いつの間にか廊下に差し込む夕焼けが消え、廊下が薄暗くなっていた。美穂の目が赤く光っていた。そして、口元が冷たくほほ笑んだ。

「あーあー。もうちょっとだったのに」

 美穂の横に立つ少年、ワタルが言った。さっきまでのオドオドした感じはない。顔に合わせたように目と口が異様に大きく広がっている。

 美穂が崩れ始めた。まるで、アイスクリームみたいに頭から溶け始めている。

「いや! 美穂!」

 翔に止められ、未来は後ろに下がった。

「逃げるぞ」

「いや、放して」

「あれはもう友達じゃない。ワタルにとうに喰われたんだよ」

 翔に連れられ、未来は逃げるしかなかった。泣きながら振り向くと、美穂の姿は消えていた。ワタルが片手を上げると、その後ろから、ゾロゾロと大きな影が這い出てきた。黒い塊が群れをなして追いかけてくる。

 階段を下りて、一階まで逃げると、別の声がした。

「小宮、助けてくれよ」

 壁の絵から聞こえた。見ると、彼にそっくりな自画像があった。こちらに向かって手を突き出している。まるで絵の中に閉じ込められたように。

「もう俺達しかいない。学校の外に出るぞ」

 長い廊下を駆けて、二人は低学年専用の下足場に向かった。

走っている間、誰ひとりとして出会わなかったのが奇妙だった。後ろを振り返ると、はるか後方が黒い闇に包まれ、それが徐々に広がっていく。二人を覆い隠そうとしているみたいだった。

 北の下足場は無人だった。扉も大きく開かれている。

「今のうちだ」

「待って、私の友達はどうなるの?」

 引き返したかった。美穂だって、あの時助けられたのかもしれないのに。

「あきらめろ」

 翔はそれしか言わなかった。冗談じゃない。小学一年生の頃から仲のいい友達を、どうしてあっさりと見捨てられるのか。

 下足場から外へ逃げようとすると、入口には、亮、賢弥、沙耶、そして美穂が行く手を塞いだ。

「未来、逃げないでよ」

「小宮、お前も一緒に来い」

「一人では寂しいな」

「皆で仲よくしましょう」

 彼らが口々に言うのを聞き入るうちに、未来は歩み寄ろうとした。そうだ、みんなが学校でも塾でも一緒だった。最高のグループだ、沙耶も入れてあげよう。内気だけど、決して悪い子じゃない。数が多い方が楽しいだろうし。

 私も一緒に行こうかな。

「目を覚ませ」

未来を乱暴に引きとめて、翔が遮った。ポケットから取り出した一枚の紙を持ち、三人に向かって掲げた。

「友達の正体を見せてやる」

 紙に書かれた紋章。三人の顔が崩れ落ちた。中から、牙の生えた骸骨が露出して、断末魔を上げた。三人の骨の残骸が床にたまった。

「今は自分の身を守る事だけを考えろ」


        7


 学校から外に出ると、下足場からまたあの影が追いかけてきた。

「校門まで急げ! 校門を抜けたら安全だ」

 二人は校庭を横切った。黒い影は徐々に大きくなると、竜巻の形に変わってそこら中の物を巻きあげ始めた。誰かの靴の忘れ物、ボール、下級生の植えているヒヤシンスの鉢、自転車、ジャングルジムの遊具、すべてをナギ払っていく。

 黒い竜巻はすぐそこまで接近していた。門まで後数十メートルだけだが、間に合うのか。つい意識するあまり、足元がふらついてしまう。未来は足を絡めて地面に倒れてしまった。黒い竜巻が目と鼻の先まで来ると、体が吸い上げられそうだった。周りには捕まる物は一つもない。

 その時、翔が駆け寄り、またあの紙を突き出した。黒い竜巻が悲鳴を上げながら、二人を包み込んだ。

 だが、絶叫と共に竜巻が露散した。

 未来が倒れていると、翔が助け起こした。遠慮のない無骨さがあった。

「もうこいつは使えない」

 翔の手に握られた紋章の紙は二つに引き裂かれていた。

 二人が正門を出た瞬間、重く錆びた門が勢いよく閉じた。そこに人がいたら、きっと怪我では済まされない。

「ワタルは復活した。してしまった。もう、何もかも終わりだ」

 そう言うと、翔は地面に座り込んだ。未来は振り返り、我が目を疑った。。

 巨人の影が校舎に映っている。時計盤の辺りに顔が浮かんだ。あの少年にそっくりだった。不気味に広がる目が周りを睥睨し、口元がパックリ開いて、ギザギザの歯をのぞかせて、大きく笑った。けたたましい哄笑は、学校の外にいる自分達の耳をも震わせていた。

 正確な時間は分からないが、午後五時を過ぎているだろう。だが、校舎の壁面に掲げられている時計の文字盤は、四時四十四分のまま停止していた。

 未来は自分が泣いているのに気がついた。

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