原始の悪夢
1
特設ステージのスポットライトが、舞台に立つ珍妙な男女を照らし出した。今夜のイベントに参加したという、バンドグルーブのようだ。
たまたま最前列にいた未来は我が目を疑った。普段はネットの動画投稿サイトでしか拝めなかった彼らを、生で見ることができたせいか、さっきまでの悲しい気分は吹き飛んでいた。
「あれって、夢じゃないよね?」
中心で金色のマイクを持つ男。長髪で白塗りの細面、ガリガリの上半身をのぞかせる彼は、ボーカルのクリムゾン青木。
エレキーギターを持つ女はメンバーの紅一点、ダークネス朧。ロリータファッションに身を包み、極彩色に塗られたギターの先には日傘が差してある。
青木の隣にいる海パン一丁のメタボ男。ドラムのネイキッド鈴木だ。動画で見るよりも童顔だが、公式サイトでは二十五歳でメンバーの中では最年長だ。
三人の前に立ち、こちらに中指を立てる黒子姿の人物、黒鵜。デビュー当時から黒い布で顔を隠しているため、性別も年齢も不詳。もしかすると、鈴木よりも年上かもしれないが、それはメンバーしか知らないだろう。
とにかく、この四人からなるバンドユニットが『救世魔軍サタマリア』である。再生回数は最多で三千回と多いとは言えない、マイナーバンド。しかし、未来は朝昼晩と、彼らの曲を聞かないと気が済まないほどのファン、サタマリアンだった。
しかし、まさか、普段いる学校のキャンプファイヤーで彼らを拝めるとは思えなかった。
いつもの軽快で音程の外れ気味のメロディが流れ始める。
「えー、今日は兄貴の母校でイベントがあるって聞いて、アポなしで来ました。さっきから、臭いものに蓋って感じの先公どもが、舞台袖から睨みを利かせているが、そんなものは気にしねえ。なぜかって? 予定調和なんざ、クソなんじゃぁぁっ!」
けたたましい音楽に乗るように、クリムゾン青木の美声が歌った。
「お前とオレの愛は偽物だった。この世界と同じく腐っているんだ。ってか、てめえら、オーディエンスのドタマも腐ってんだよ、ゴラァ!」
美声というより、喚き声に近いが、未来にはどうでもいいことだった。音程も外れている。そもそも合わせるほどの歌詞でもない。しかし、青木の奇声と珍妙なリズムが、熱くなる歌詞とメロディに聞こえる未来は、四年生の頃から親しんでおり、友達と遊びに行くという口実で、こっそり、下北沢でのライブを見に行ったこともある。
「今日、縁日の屋台でカレー喰ったけどな、てめえらは俺のクソでも食っとけ、ボケェェッ!」
いたたまれなくなったのか、舞台袖から教員が数人出てきて、青木の歌をやめさせようとする。そこへ、メタボの鈴木が突進させてタックルをかけた。黒鵜が観客に向けて、中指を立て続ける。
さすがに観客からもブーイングが起こった。一人、小躍りした未来は彼らの保護者になったようなに気恥ずかしくなった。
「誰だよ、あんな奴らを呼んだのは?」
真横の男子が耳を塞ぎながらそう言った。哀れなサタマリアのメンバーは屈強な教員らに引っ張られて、舞台から姿を消した。
「国家の使い捨て、公務員の横暴だ!」
後で絶対にサインをもらいに行こうと、未来は思った。
とりあえず、キャンプファイヤーの点火が始まるまで、縁日の屋台を適当に回ってみた。未来の足はお面売りの店先で止まった。今風のアニメキャラのやつはほとんどなくて、昔のものばかりだった。キツネとかヒョットコばかり並んでいる。
古いな……。
提灯の仄かな光と、人の流れを眺める未来は、ふと、綿あめの屋台のそばに立つ誰かの視線を感じた。
おたふくのお面をつけた背の高い子、ウサギのお面をつけた子、七福神の一人の顔をかたどったお面、青いタヌキみたいなお面の男の子。
未来が近づくと、お互いに頷き合いながら、人の波に消えた。ウサギのお面の子が一度振り向いて、こちらに何かを言いたげだった。
「何?」
なぜか、誰かの声が頭に流れてきた。周りの雑音で聞こえづらかったが、それは確かにこう言っているようだった。
『にげて』
未来が彼らを探そうとした矢先、校内放送が流れた。
「夜も更けてまいりました。それではお待ちかね、キャンプファイヤーの点火を始めます。皆さん、十分離れた場所からご覧ください」
雑踏の流れが一気に変わった。屋台から離れて、校庭の中心に設置された薪の塔へと向かっていく。未来もさっきの怪異を忘れたかのように追った。
2
WEBカメラを付けたノートパソコンの液晶がいきなり乱れて、小学六年生の川崎美弥乃は首を傾げた。
「映らないじゃん。どうなっての、せっかくの生放送なのにさ。伯父さん、ねえ、伯父さんたら」
「静かにしてくれよ、美弥乃。何だか周りの様子がおかしい」
カメラを取りまくる伯父の寛和に溜息を吐きながら、美弥乃は何度か復旧を試みたが、カメラの調子は戻らない。故障でも、さっきまで普通に映っていて、コメント欄もまばらに流れていたのに。
もちろん、日本の動画投稿サイトのことだ。美弥乃は去年から、放送を始めたばかりだが、再生回数と登録者数は徐々に増えつつある。
もっとも、中にはヘンタイもいて、『ミヤノンの××××ペロペロしたいお』なんて残されるしまう。意味が分かるとモイキーだが、美弥乃としては、セクハラめいたコメントは有名になった証だと思っている。
もちろん、両親にも秘密で、伯父さんしか知らない。アカウント登録も生放送のやり方も機材も伯父からもらったものばかりだ。美弥乃は寛容で理解のある親戚を持って感謝していた。
「皆が一斉に集まってる。何かが起こるんだ」
「一体何があるの?」
美弥乃はイライラしてノートパソコンを何度か叩いた。すると、奇跡的にWEBカメラの映像が映った。いきなり、赤文字で『みやのん、3S情報公開希望』と出た。舌打ちして受け流す。
「まあ、復活したし、いいかな」
美弥乃はパソコンを持って伯父の後を追った。校庭の中心に積み上げられたキャンプファイヤーの真上に、人影があった。最初は置物かと思ったが、高い場所に置くわけもないし、動いているようだ。カメラをズームさせる。
「やっぱり人がいる。みんな、見てる?」
しかし、また液晶がブラックアウトしたままだった。
「このポンコツ!」
校舎屋上に設置されたスポットライトに照らされ、人影の姿が徐々に見えてくる。一人の少年だった。少し髪の長い少年が、真下にいる客を冷たく睥睨している。
それよりおかしいのは、見物客の方だ。今から点火するというのに、あんなところに人がいて、危ないと叫ぶ者が一人もいないなんておかしい。
「どうしたの、伯父さん」
寛和はまた、眼鏡を外して細い目をこすりながら、驚きの表情を浮かべていた。いつもの飄々とした姿はない。
「そんな、馬鹿な。信じられない……」
「あいつを知ってんの?」
「黒澤くんだ。黒澤翔くんだ」
「誰?」
「二十年前、僕のクラスメイトだった。夏に姿を消して、その時、僕の記憶も消えていた」
「おじさん、大丈夫?」
寛和は頭を抱えながら、吐き出すように言葉をつぶやいた。
「ワタルが来る。早く……逃げろ。そうだ、あの時、黒澤くんはそう言った」
美弥乃は今頃になって、丸太の頂に立つ少年に言い知れぬ不吉なものを感じた。二の腕には鳥肌が浮いていた。
「お集まりの皆さん、まずは自己紹介を。オレは、かつて、黒澤翔という名の子供の姿をしているが、以前はワタルという名だった。今は、この宿主に変わって、ショウと名乗っている。人間の体というのはいいものだな」
ショウの足が丸太から離れた。空に浮かんでいる。きっと、アクション映画の特撮みたいに上からワイヤーで支えているんだろうと思ったが、上空にはそんなものなんてない。
「今、ここにいる皆さんの中には子供の頃、この学校で過ごした数年間に恐ろしい目に遭った者も少なくないはずだ。一人しかいない教室に聞こえる笑い声、トイレで便器の中に引っ張ろうとする手、追いかけてくる理科室の人体模型、ピアノを奏でる音楽室のベートーベン。だが、卒業して、大人になり、結婚して、子供を産み育て、年を取るうちに大半が忘れていく。だが、心から消えたわけではない。自分の都合のいい者しか見えない大人になったことで、不都合で不合理なものを端に追いやっただけだ」
ショウは地上に降り立つと松明を受け取った。
「人が闇を恐れて、やがて、文明の火を求めたように。太古から人は闇の中に恐怖を見出していた。作家、H・P・ラヴクラフトの言によると、人間の一番古い感情は、恐怖だという。人は夜の闇を一掃すべく、ガス灯、電灯、照明などを発明し、今ではどこかしくも真っ暗闇な場所は少なくなった」
松明に火がつけられた。剪定されていない枝葉のように、赤と青の炎が空へ向かって伸びる。気がつくと、校庭の至る所にかがり火が設置されていた。
炎に照らされたショウの顔は、影が差し、一層不気味な笑みを浮かべていた。遠くから見てもそれがはっきりと分かり、美弥乃は背中に怖気を走らせた。
「だが、忘れてはいけない。闇に光が当たれば、影が生まれる。つまりは実態を得る。異形の住人に命が吹き込まれる。この夜こそ、彼らの狩りにふさわしいとは思いませんか。皆さんは生贄になる。空は黄昏のまま、時は封じられる」
「空が……」
空がやや明るくなった。夕焼けに戻ったのだ。赤い夕陽とちぎれた雲が舞い戻ってきた。信じられない情景だった。美弥乃は頭の中の警報音を聞いた。それは呆れるほど早くテンポで響くが、体が骨を抜かれたように動けない。
「時は永遠の器の中で、黄昏にして死ぬ。やがて、影は闇の王となる」
ショウは詩人のように歌い上げると、松明の炎を丸太の塔に突き入れた。
途端、キャンプファイヤーが点火して、頂まで一気呵成に火の手が広がった。周りが明るくなる。
「原始時代に戻れ、虫ケラども」
口から牙をのぞかせ、少年の瞳は赤く輝いた。
3
真下でジョキ、ジョキと裁断する音が聞こえ、一人の女子児童が不審に思って見下ろした。各場所に設置されたランランや、キャンプファイヤーの炎に照らされ、校庭には数百という来訪者の足元には影ができていた。
その女子児童は「ひいッ」と叫んだ。自分の影がバラバラに切り刻まれ、別の影がそれを次々とむしゃむしゃと口に運んでいた。そいつは大きな影で手には大ぶりの枝切りバサミを持っているようだった。
影を盗まれた女子児童は地面に倒れた。小さな子供の異変に気づいた大人が、地面にうごめく影法師を見つけた途端、けたたましい悲鳴を上げた。しかし、同じような影法師は何体も運動場に跋扈していた。
さらに地面が大きく揺れて、砂場から巨大な蛇が頭を出した。黄色と赤のまだら模様をしたそいつは、体長十メートルをゆうに超える。
蛇に続いて、緑色の巨大な虫が前足を上げて飛び出した。体が透き通っており、透けている内臓には、飲み込まれた客の他に無数の虫がうごめいていた。
会場から上がった悲鳴が、一部にはショーの余興と思う者も少なくなかった。不用意に近づいた者もまた、怪物の犠牲となった。
酒缶が片手にほろ酔い気分だった客は、蛇に丸のみにされ、口から飛び出す足をばたつかせた。大半が本物だと気づく頃、一斉に逃げ出した。多くは正門に殺到したせいで、お互いに押し合いへし合いとなった。
もっとも、正門まで到達しても外に出られた者は一人もいなかった。門が勝手に閉じたのだ。
何が起きたのか分からないうちに、今度は空が暗くなる。巨大な翼を広げた極楽鳥が地上に降り立つと、数人をくちばしにつまんでは飲み込んでいった。
会場の奥ではまだ何が起こっているのか、認識していないのがほとんどであったが、突如、地面の砂が陥没して、多くが飲み込まれたことで、やっと悲鳴を上げた。蟻地獄のように底なしの砂へ引きずり込まれていく。
ショウが登場した時、未来はすぐに異変を感じた。そして、空が赤に染まった時には、目の前の少年が、かつての彼ではないと悟った。あいつはワタルだ。どういう経緯でそうなったのか知らない。けれど、翔はワタルに体を乗っ取られたのだ。
「カズ!」
人ごみをかき分けながら、未来は一也を探した。
「どうした?」
いつの間にか後ろにいた。こんな非常時だというのに、まだ、変な状態のままだった。まさか――。未来は一也の言葉を思い出した。確か、翔に会ったと言っていた。もしかして、その時に何かあって……。
「あいつに会った時に何かされたの?」
「何かされたかもな」
「そう、かわいそう……とにかく今は逃げるの」
彼の手を引っ張り、未来は人ごみに紛れた。きっと、外への出入り口は塞がれている。学校に残るのも危険だ。
二人は校舎から遠い場所にある校庭の端、おぼろ屋敷のやや近くにある木々に隠れた。そして、フェンスの下に手をかざした。
すると、地面と網の間がやや広い一角がある。昔から遅刻しそうな生徒がこっそり使っているのを、美穂から聞いたことがあったのだ。
「そうだ! 美穂たちは――」
いや、だめだ。あいつがまだ生きている以上、美穂達はまだ素面だという証拠はない。助けようにも、今なお、悲鳴が上がっている校庭に戻るのは危ない。
未来は先にフェンスの隙間を抜けた。とがった針金で腕を少し切ったが、痛みはない。次に一也を引っ張った。無気力の彼を無理やり連れていくしかない。
「外に出たら、元に戻るよね」
「さあ。分からねえ。でも……」
一也はロボットみたいに抑揚のない声で言った。
「あいつはきっと、前とは違う」
「何と違うの?」
やっと、一也を学校の外に出すことができた。
「あいつ、学校の外でも出られるようになったと思う」
「そんなはずないよ。だって、ワタルは学校から外へは出られないはずだよ」
「それができるんだよ」
「そう、できるんだ」
別の声が後ろから発せられた。
「嘘……」
二人を無数の下級生が囲っていた。先頭には徹と並んで美月もいた。そして、翔がいた。信じられないが、一週間前と同じ姿だった。
「黒澤くん」
「そうだ。オレは黒澤翔になった」
「違う。あんたはワタルだよね」
「その名前は捨てた。いや、そもそも名前などない。人間の発音できる言葉ではないからな。さて、お前らの弟と妹はこっち側にいる。一也も心の半分も預かっている。お前はどうする?」
「まだ、終わってない」
「あいつの真似をしてお友達を助ける気なら、お前には無理だ。言わなくても分かるだろ」
徹も一也も彼の妹も、皆、捕まってしまった。このまま逃げても、人質になった友達がどうなるかも分からない。
そして、こいつはもう外の世界を歩ける。どこにも逃げ場所はない。友達や皆を見捨てることができるなら。
しかし、未来にはできなかった。雛の言葉を思い出してしまう。
「好きにしたらいいじゃない。化け物」
ショウの姿をした怪物は、下品に笑った。
「聞き分けのいい子だ」
手を伸ばした瞬間、ショウを一也が突き飛ばした。
「カズ?」
「にげろ」
一也の声が絞った。
「みく……に、げ、ろ」
無表情の彼の目から涙が流れている。
「カズ……ちくしょう!」
未来は人垣をかき分け、一目散にその場から駆け抜けた。今なら五十メートル走の自己記録を更新できる自信がある。後ろ振り返る余裕などなかった。一也や弟達のために、今、一緒につかまるわけにはいかない。
待ってて、皆。絶対に助け出すから……。
未来の頬を涙が斜めに流れた。
4
窓の向こうに広がる校庭では、恐ろしい化け物達の狩りが行われていた。一方的に捕まる人間しかいないので、狩りに近い。
亘は息を飲んだ。来訪者を一人も残す者かと、丸飲みにしていく大蛇や虫。影を盗んで
奇妙な影法師。そして、夏の夜に輝く赤い夕焼け。すべてがあの世の光景に思えた。
「雛ちゃん?」
雛はその場にへたり込んでいた。膝をついて、顔を覆ったまま動かない。
「行こう。僕らも危ない」
亘は彼女を支えながら立たせた。普段は気丈な雛が相当まいっている。自分が何とかしないといけない。
正門は塞がれているに違いない。表校舎の奥には裏門があるが、そこも同じだろう。亘は壁にある校内地図に目を凝らした。一つだけあるかもしれない。そこも危険がある可能性はゼロではないが、今、襲われている人のほとんどは校庭を逃げ回っている。手薄になっているといいのだが。
それに、一也たちも気になる。二人が無事であるのを祈るしかない。
「どこへ逃げるの?」
「図書館の一般用の入り口から逃げよう」
南小学校に増設された図書館は、一般人でも利用できる仕様になっており、生徒が出入りするのとは別に入り口が設けられている。
二人は廊下を駆けて、外の渡り廊下に出た。悲鳴がさっきよりも少なくなっている。怪物たちがあらかた捕まえてしまったようだ。
「ねえ、あいつらって」
「まだ、奴は消えてなかったんだ。僕らの力で何とかするしかない」
そうは言ったが、亘も心もとなかった。翔がいない今、魔物に太刀打ちする方法があれば……。
「そうだ!」
「うわっ! 何よ、いきなり」
「僕の家に手掛かりがあるんだ」
「何で、あんたの部屋に手掛かりがあるの。結界でも書いてあんの?」
「翔くんが残してくれたものだよ」
図書館の入り口は誰もいない。生徒しか出入りできないように、駅の改札のようなバーがある。生徒専用の図書カードを認証する機械にかざすと、バーが上がる仕掛けになっている。しかし、カウンターに誰もいない。
バーの向こうにある階段を上がり、突き当りに一般人専用の入り口が設けられている。問題は二つある。そこが開いているか、そして、そこにたどり着くまでに何かが待ち受けていないか。
「行こう」
バーの真下をかいくぐり、あとに遅れて、雛も倣う。
「あのさ、亘」
「何?」
「こんな時に聞くのはおかしいんだけどさ、あんたの好きな食べ物は何?」
「急にどうしたの」
「いいから言えよ」
「うーん……目玉焼き」
「はあ? そんなのよりさ、もっと、あるでしょ」
「だって、雛ちゃんが作れそうなので一番簡単そうなものを選んだんだけどな」
雛は亘の背中を叩いた。本気でも冗談でも同じぐらい痛い。
「誰があんたのために作るって言ったの。ただ、参考のため。参考のためだから」
苦しい言い訳だな。亘は笑いを我慢しながら、「スパゲティかな」
「スパゲティね」
「うん。カルボナーラって、チーズのやつ」
「なるほどね。分かった」
雛の家庭科の技術は何となく知っている。鍋から炎が立つのを見たことがあるからだ。家が火事にならないように付き添っていないと危なっかしい。
階段を上がり、目の前に一般用の入り口が見えてきた。人の姿はない。今のうちだ。亘と雛は一直線に向かった。
入り口を抜けた。外に出た二人は、扉の向こうに立つ人影を見た。
「亘」
亘はその声に思わず振り返った。そこに立つ相手に言葉を失った。
「お父さん、お母さん」
里親である篠田夫妻がいた。学校に行く際に笑顔で送り出してくれた。そこにいるのが信じられなかった。
「どうして、そこにいるんですか?」
亘は思わず敬語で質した。
「戻ってきなさい」
「お父さんも私もここにいたいの。あなたも一緒にいましょう」
思考がかすれ、霧が頭の中を追うのを感じた。無意識に戻ろうとするのを、雛が止めた。
「ダメ。きっと、おじさん達、なんかおかしいよ」
「でも――」
「亘」
二人の間を割って、一人の少年が歩み出た。
「そんな――翔くん!」
「久しぶりだな」
あの時、自分を助けてくれた時と同じ姿をした黒澤翔。ワタルと消えた時、彼も消えた情景が浮かんでいた。もう会えないと思っていた彼と出会えた感動は一瞬だった。
「君は……翔くんじゃない」
「なぜ、そう思う?」
「僕は翔くんとは短い間しかいなかった。でも、僕の知っている翔くんはもっと優しい目をしていた」
「優しい目?」
「不器用で尖っていて、でも、どこか悲しげな感じで。今の君にはないものが全部詰まっている」
翔の姿をした少年はゲラゲラ笑いだした。そのさまを見て、亘は確信した。あいつだ。自分と同じ名前を持つ魔物は消えていなくて、こともあろうに翔の体を乗っ取った。
「うっとうしいほどに察しのいいガキだ」
「翔くんを返せ」
「あいつの体はオレが住んでいる。名前もワタルからショウに乗り換えた。奴の魂は成仏できないまま、闇の底で眠っている」
「どうして、そこまでするんだ。お前は翔くんの姿になって、こんな騒ぎをして何を企んでいるんだ?」
「オレの目的は単純だ。お前ら人間が空想の中で望むのと同じだよ。世界征服ってやつ。ただし、オレの場合は、表立ってしない。誰もが知らないうちに取って代わる」
「そんなことはさせない」
「お前は黒澤翔とは違う。奴がここにいても、もうこのオレを止めることもできん。オレは人間の肉体を手に入れた。もうチンケなお守りも呪文も効かないぜ。どうする? いずれつかまる鬼ごっこするか、さっさと白旗を上げるか」
「どっちもしない。もうこんな馬鹿なことは止めたらどう?」
ショウは大げさに呆れたそぶりをすると、篠田夫妻が言った。
「亘、あなたがいい子にしないと、私たちがひどい目にあうの」
「そうだ。お父さんもお母さんも、亘は好きだろ。だから、ショウ様の言う通りにしなさい」
「ひどい! 二人に何をしたの?」
「大人は平気で嘘をつく。だから、分厚いカーテンを取っ払ってやったのさ」
ショウの合図で、二人の顔つきは変わった。
「もっと、聞き分けのいい子だと思っていたのに、教師に手を上げるとは。ああ、こんな子供を里子にするんじゃなかった」
「昔亡くなった息子はもっと立派だった。いつまでも心を開かない、こんな陰気な子じゃなくて。やっぱり、代用は難しいわ」
「嘘だ……」
「かわいそうにな。実の親だけじゃなく、里親にも嫌われていたとは。まあ、気持ちは分からんでもない。翔でさえ、煙たがっていたからな」
「うるさい」
亘は声を漏らした。また、頭の中が赤くなる。ものを考える暇がなくなっていく。
「今度は誰を殴る気だ、篠田亘。お前は一人では何もできない、出来損ないだ。今、俺から逃げおおせたとしても、それ以上はできん」
雛が亘の肩をゆすった。しまいには、正面からげんこつ見舞った。おかげで頭の中の怒りが覚めた。
「こいつの声に耳を傾けないで。おじさん達もあんな人じゃない。亘は出来損ないなんかじゃない」
「ありがとう」
亘と雛は真正面からショウにぶつかった。小太りな彼の体にぶつかって、ショウは地面に倒れた。
そして、二人は図書館の外に出た。
「これからどうするの?」
「僕の家に向かう。対抗できるものがあるんだ」
「よかった。あのさ、亘。おじさん達のことだけど。ごめん。伸二さんって人で、あたしが小さい頃に亡くなったの。あんたには秘密にするように口止めされて。言うべきだったんだよね」
「気にしないよ」
「あんたは代りじゃない。篠田亘はあんたしかいない」
「分かってる」
亘はそれだけ言うと、雛の手を握った。
5
人の声が止んでから少しだけ待つと、佐智子は校長室から廊下を出て、外の景色を眺めた。運動場には無数の人が倒れていた。すべてが終わったようだ。時間は十分くらい。魔物の晩餐としては呆気ない。
智佐子はため息を殺した。また、新しい罪を背負ってしまった、それだけでは済まされない。もう後には引けないのは先刻承知のはずなのに。
廊下に長い影が浮かんだ。黒い人影から顔が出てきた。
「あらかた終わった」
ショウの足が床に立った。いつもの下品な笑いを浮かべないところを見ると、ご満悦というわけではないらしい。
「何か問題でも?」
「数匹の子ネズミが漏れた」
「例の生徒達ね」
五年一組の小宮未来と仲里雛、二組の高橋一也と篠田亘。彼らの件はワタルだった頃から聞かされた。
彼が同じ名前の生徒をつけ狙うのには何か理由があったのかと思ったが、黒澤翔をおびき寄せるための囮だったらしい。
それに、仲里雛は清が悪戯している噂のある女子生徒の一人でもある。
彼らが翔と手を組んだ時には内心焦ったが、所詮は子供に過ぎない。町の外に逃げた彼らに居場所があるはずもなく、誰かに話しても鼻で笑われるのが落ちだろう。
「オレも人間の癖が移ったのかもしれん。よくあるだろ、何かを食う時に好物を最後に残しておくというやつだ」
「捕まえられるの?」
「連中に任せよう」
ショウが指を鳴らした。外に倒れている人がゆっくりと起き始めた。キャンプファイヤーの炎に照らされた顔には、赤い目が光っている。そして、顔の皮がめくれ上がった。誰もが凹凸のある獣の顔に変わった。額からそそり立つ角、口元に広がる牙に、両腕が丸太のように大きくなり、両指の爪が伸びた。
鬼の口元から小さな何かが躍り出る。
「あれは……」
その時、足元を何かがはい回った。そこには小さな虫の群れがうごめいているように見えた。佐智子は小さく叫んだ。それらの正体は、指の第一関節ほどの大きさしかない小人だった。一様に二本の角が生やしている。
「小餓鬼、人鬼。明日の朝までにすべてを捕らえろ。行け」
小餓鬼の群れはきぃきぃと甲高い声で泣きながら、密林の軍隊アリのように、一糸乱れることなく、壁をよじ登り窓から外へ出ていった。
「朝日が上がる頃には、あいつの残した小さな希望が、一つ残らず摘み取られている」
ショウはやっと、邪悪な笑みを出した。




