長い休み時間の終わり
1
翔は懐かしい扉を開けると、そこは懐かしい玄関と廊下が続いていた。アパートに移り住む前のマンションの少し広い部屋。僅かな記憶しかないが、玄関から上がって廊下を抜けた先には、広いリビングがあったのは覚えている。翔はその通りに進んだ。柱にはあんよを覚えた頃の自分がつけたであろう、落書きの跡があった。
リビングには母がいた。そして、その隣には……。
「どうした、翔。遅かったじゃないか」
一人の男がいた。写真でしか思い出せない父の幹雄だった。
「父さん……どうして、ここに」
父がここにいるはずがない。だって昔、おれが幼稚園を卒園する頃に火事で死んだ。学校の端に立つ廃屋、あのおぼろ屋敷で。
「そんなところでボーとしてどうした?」父らしき人が微笑んだ。「今日はお前の誕生日じゃないか」今日ぐらいは火事は起きないさ。
翔は壁にかかったカレンダーを見た。そうだと納得した。今日は自分の誕生日だった。いつも母と二人で祝っていた、寂しい誕生日。でも今日は違う。
「さあ、座って。ケーキは出来ているのよ」
母に促され、翔はリビングの椅子に座った。とたん、骨の形をした鎖が全身に巻き付いた。
「とうとう捕まえたぞ、黒澤翔」
お父さんだった人の顔が歪み、口に邪悪な笑みを浮かべた。
「本当に他愛もない」
お母さんもそうだった。しかし、翔に驚きはなかった。伊達に化物と渡り合っていない。ワタルのやり口を一番よく知る人間だ思っている。
「これがお前の狙いってわけか、ワタル」
「そうだ。オレの狙いは最初からお前だった。お前の体を取り込んで、オレは生身の人間になる。篠田亘とお前を引き合わせたのも、奴を人質にすればお前はやって来ると踏んだ」
「おれを乗っ取ってから、どうするつもりだ?」
「お前が知る必要はない」
緑色の粘膜が足から浸していく。つま先の感覚が軽くなり、それが五感を徐々に侵していく。手足も動かず、思考もままならない。思考と感情も弛緩していく。夢心地に似た快感と、自分という意思が消えていく不安が融合して溶け合っていく。
「おれはどうなってもいい。篠田を助けろ」
「お前も甘いな。あの名前が同じだけのデブは、お前を釣るための餌に過ぎん。だが、その役目もお前を手に入れたから終わった。これからはオレの餌になる」
「あいつは関係ない」
「あの学校にいるガキは、皆、オレの獲物さ。大昔からそうしてきたし、これからも変わらない。ただ、これからは外の獲物も釣っていくつもりだがな」
ワタルは、クククと笑いを漏らした。
スライムが胸にまで達した。心臓の鼓動が遅くなり、頭を支える力が弱まる。頭を下げかけた。ワタルは、翔の顎を無理やり持ち上げた。
「まだ消えるな。意識があるうちに面白い話を聞かせてやる。さっき、オレはお前を狙っていたといっていた。いつからだと思う?」
「さあな」
「お前が幼稚園児のハナタレ小僧の頃から。もっと、正しく言うならば、お前の親父を殺した時かな。あのおぼろ屋敷でな」
ワタルの声はとうとうと語りだした。
「オレは、そこに迷い込んできたガキどもを捕まえようとした。奴らの一人が抵抗して、家に火を放ちやがった。そこへお前の親父ががやってきたという訳さ」
頭の中にワタルの記憶が流入してくる。消防士が一人、燃え盛る火事場から子供を背負っている。一人が助かり、他の子供達も助けていく。そこへ、二階の窓から助けを呼ぶ声。その正体はワタルだった。
「ガキ共を逃がした腹いせに、呼び寄せて柱の下敷きにしてやった。なかなかいい断末魔だったぞ」
ワタルがケラケラ笑った。
「ふふっお前のわずかに残っている怒りが騒いでいる。オレに伝わるぞ。オレを殺したいほど憎いか」
周りの世界は懐かしい部屋のままだった。偽物でも本物がないのだから関係ない。確かに自分が住みたいと思っていた過去の世界だった。自分の中で時間が止まったままだった。
「あの男の記憶にお前が出てきた。その時からオレはお前を取り込むことを考えていた。そのために他のガキどもの心を操った」
……操った?
声は出なかったが、ワタルには通じたようだ。すでに侵蝕が始まり、一心同体になりつつあった。こちらの精神が徐々に消えていくのを感じる。
「学校に上がったお前を仲間外れさせ、孤立させるように仕向けたのさ。そして、嫌でも誰にも頼らなくさせる。よくよく考えてみろ。片親で家が貧しいというだけの理由で五年間もいじめにあっているなんておかしいと思わなかったか」
……お前がそうさせたのか?
「予想外なのが、お前はしぶとくオレに反抗したことだ。おまけにあんな本まで手に入れてしまった。長年育てた獲物が息の根を止める天敵になるなんてな」
……おれは獲物じゃない。
「人間はみんな獲物だ。時間がかかったが、やっとオレの願いが追いついてくれた。今ここで黒澤翔は消える。お前の体にオレの霊体が取って代わり、オレは人間の体を手に入れる。オレはお前になる。言っておくが、互いに結合して一つになるわけじゃない。オレがお前を一方的に侵していくのさ。お前の親父が死んだ時から、お前のすべてはオレのものだったんだよ、黒澤翔。お前は今まで、父親の敵の依代になるために生かされてきたに過ぎん」
そうか。薄れつつある意識の海に漂いながら、翔はワタルの目的を悟った。
……学校を抜け出すつもりか?
「そうだ。オレの記憶を見せてやる」
ワタルの記憶の海が広がっていく。数多くの子供の悲鳴が幾重にも響き、黒い恐怖の闇が覆っている。それよりももっと深い底に一つの光景があった。
「かつて、地上のあらゆる場所にオレはいたのさ。森の奥、村、家。お前達人間はオレを崇めていた。やがて、無関係な災害を祟りと勘違いして、オレに子供を生贄として差し出すようになった」
鬱蒼と茂る森の中、旅人の家族がか細く萌える松明一本を頼りに進んでいる。昼間だというのに、木漏れ日がなく、影が明るさもない。
「オレの中に生き埋めにされた子供の感情が入ってきた。どうして、自分がこんな目に会わないといけない。もっと、生きたかった。死にたくない、怖い。悔しい。憎い。暗い心がオレを満たした。そして、オレは神を捨てた」
その時、何かが家族を襲った。大木が沼が家族を飲み込んでいく。巨大な獣は一つ目で人間のように甲高い笑いを上げて、小さな子供を付け狙う。それらは人々が森の外で恐れているものだった。人間の恐怖を具現化させる魔物。まさにワタルそのものだった。
……やはり、お前は土着神だったのか?
「何とでも呼べ。オレを災いに駆り立てたのは、お前達人間だ。自分らだけは助かりたい。他の誰かが生贄にさえなればいい。弱くて抵抗のできない子供を。人間のエゴによって、オレは生まれたのさ」
闇の森に一人の旅人がやってきた。今までと明らかに違う佇まいをしている。大人と子供の中間ぐらいの少女だ。凛とした顔立ちに恐怖はない。優しさと強さを同居させている。魔物を知って、ここへやって来たのだ。
「だが、少しおイタが過ぎてしまった。呪い師の小娘がオレのところにやって来た。やつに騙されたオレは石の中に封じ込められちまった」
ワタルが封印された地は鎮守の森とされ、足を踏み入れることはもちろん、伐採は時の権力者に引き継がれなががら禁忌とされてきた。歴史の教科書に乗るまでの古い時代である。しかし、数百年前、その森はなくなり、ひと棟の建てられた。
「それがこの学校のある場所だった。オレはここを狩場にしてガキ共を喰らってきた。だが、ここから出ることも許されない。あの忌々しい呪い師どものおかげでな」
奴を封印した呪術師たちは、禁忌の森が後の世まで残らないことを見越して、周辺一帯に強力な結界を張った。その磁場が破られることなく、今もなお魔物を外に出さないようにしている。常盤台南小学校は、弥の狩場でもあり、同時に檻でもあった。
「オレは朽ち果てるまでここに根付くつもりはさらさらない。方法がひとつだけ。それはに人間の体を手に入れることだ」
普通の人間ではダメなのだ。そうならばとっくに奴は外に出ている。臓器の移植と同じなのかもしれない。自分の魂に適応した生身の人間。それがまさか、自分だったとは思わなかった。
……おれの体を手に入れて、学校の外に出たあと、お前はどうするつもりだ。
「今まで通りさ。オレが喰らい、貴様ら人間のガキは怯え恐怖する。この世界は、オレの恐怖で満たされる。大人は気づきもしないだろう。そして、オレの存在は永遠となる」
……そんな事が――うまくいくわけない。
「どうかな。残念ながらお前はそれを見届けるしかない。今まで以上に暗く深い闇の底でな。朽ちていけ、黒澤翔。お前との鬼ごっこは終わりだ。パパとママと一緒にママゴトでもしていろ。お前は人間のガキとしてはよく足掻いてくれた。好敵手として、オレからのせめてもの慈悲だ」
「翔、さあ、吹き消して」
母さんがバースデーケーキを向ける。ロウソクには青い火が揺らめいている。それが消えたとき、すべてが終わるに違いない。
「父さんも母さんも、お前のそばから離れないからな」
たとえ、幻でも幼い記憶から消えた父親には懐かしさがこみ上げる。本当のこの桃でいいような気がしてくるほどだった。
「ハッピーバースデー、翔」
父さんが小さな箱を差し出した。それが勝手に開くと、中には昔のおもちゃが入っている。合体するロボットだ。自動車や戦闘機が超合金のロボットになり、地球を脅かす悪者と戦うアニメを思い出した。CMが流れるたびに、そのおもちゃが欲しいと思いながら我慢してきた。あの頃、心から欲しいと思っていたのだ。ここはワタルの世界でもある。やつの思うものならすぐに形になるように、自分も同じようにできる。
翔は、ケーキの上に乗るロウソクを見つめた。ロウソクの先に伸びる糸が長く感じる。母さんが悲しげな瞳を向ける。
……そうだよな、母さん。おれは負けたわけじゃないんだよな
「何を言っている、黒澤翔」
……お前が人間になったお祝いに、、おれからもプレゼントをくれてやる。
頭に残った僅かな思考を総動員して、一つの形を思い浮かべた。具現化するには時間がかからなかった。
一体化しつつあるだけあって、彼の思惑が脳裏をよぎったのか、ワタルの不安が二人の両親の表情と重なった。
「お前、何をする気だ?」
……ここはお前の世界でもあり、おれの世界でもある。だから、こんな事もできるんだよな。
「なにっ!」
ワタルが叫んだのも無理はない。餌であり、自分よりも劣っている人間であるが、連中は時々予想だにしない言動をする場合がある。消えつつあった翔の意識がなしたのは、手に持った細長い筒だった。蛇のとぐろの飾りのついたその先には、短い糸が垂れ、火花が散り糸を焼きながら、筒の先端に向かいつつあった。それがダイナマイトであると分かった矢先、ワタルの余裕は嘘のように消えた。
「黒澤翔! 貴様、オレを殺すつもりか」
……普通のダイナマイトじゃない。この世界をきれいに吹き飛ばしてくれる。
「よせ! 早く消せ! お前も死ぬぞ!」
……おれ達は確かに鬼ごっこをしていた。最後は俺が鬼に回って、お前をタッチした。長い休み時間は終わりだよ。
「嫌だ! オレは死にたくない!」
翔の意識により、声を小さく漏れた。
「さよなら」
それはワタルに対してではない。もうひとりの亘少年に対してだった。
……約束を守れずに、ゴメン――。
刹那、まやかしの空間は熱と光に包まれた。魔物の断末魔を確かめる暇もなく、爆音がかれの意識を完全にかき消した。
2
突然、体が浮いた気がした。続いて膨らんだ空気の塊が破裂して、自分の背中を中に浮かせるくらいの力で出しされ、亘は床に倒れた。
「いたたた……」
なんとか起き上がり、背後を振り返る間もなく、枝葉や本棚の本が飛来した。さっきまで自分を追いかけていた木の触手は無残にも引きちぎられていた。そして、吹き抜けに鎮座していたお化けの樹木は幹の辺りに大穴があいて、向こうの壁が写っていた。
何が起こったんだろう。
その時、亘の脳裏に前触れもなく、一人の少年の横顔がよぎった。
「翔くん?」
爆風によって舞い上がるホコリにむせながら、亘は自分を助けてくれたかもしれない親友の姿を探そうとした。
代わりに床に倒れている雛を見つけた。助け起こすと、彼女は目を見開いて、彼を抱き寄せた。泣いているのが分かり、亘は幾分動揺した。
「バカ、クソ、デブ、死ね」
「大丈夫だった?」
「なんとか。ねえ、あんたも強くなったね」
「翔くんが助けてくれた。あいつは多分、いなくなったと思う。でも、翔くんが」
「私も聞いたかもしれない」
雛は遠慮しがちに答えた。
「さよならって」
信じたくなかったけれど、自分も聞いたのだ。彼の声はそれっきり聞こえなくなっていた。亘はさめざめと泣き出した。「泣くな、弱虫。あいつに笑われるよ」そう言ったきり黙っていた。
「君達?」
誰かが二人のそばに来た。雛は亘の腕にしがみついた。
「大きな音がしたよね? 何かしたのか?」
一組の担任でもあり、先ほど自分を突き飛ばした佐奈田清に亘は無言のまま突進した。
「亘?」
雛の声を聞き流し、教師に飛びかかるとその重さで清を押し倒した。そして、拳を顔面に向かって振り下ろした。「ギャっ!」と足で踏まれた猫みたいな声を漏らした清の顔を、亘は無言で殴り続けた。
「ダメ、亘!」雛が後ろから彼を抑えた。「そんなクズを殴ったって、黒澤は――」
「お前なんて教師じゃない。黒澤くんが消えて、どうして、お前なんかがいるんだ。お前なんかいなくなってしまえばいいんだ!」
亘は吠えた。自分でも信じられないどす黒い心が暴走している。昔、自分を捨てた両親のように。なんだかんだ言っても、血は受け継いでいるわけだ。彼はもう一度拳を構えた時だった。その手を雛が受け止めて胸に包んだ。小さな柔らかい感触が手の甲に当たった。
「もういいの……亘、もう止めようよ。あんたがそんなになるなんて、間違ってるよ……」
雛の瞳は濡れていた。亘の中で暴れる塊が徐々にしぼんでいく気がした。そして、血のついた自分の拳を見た途端、足の力が抜けた。
その隙に振りほどいた清が「ママ」とつぶやきながら逃げていった。
3
「さっきの?」
一也と未来は同時に目を開けた。迫っていた妖怪の姿は消えていた。廊下は閑散としていたが、さっきみたいに不穏な気配は消えていた。
「私も聞いた。黒澤くんが」
確かに、さよならと聞こえた。
「あいつは大丈夫だよな?」
「大丈夫なら、私達に別れなんか言うわけないよ」
「冗談じゃねえよ。あいつが消えていなくなるわけがないよ」
しかし、彼の声が途絶えた直後、近くで大きな音が響いた。そして、空間を覆っていた不穏な気配が嘘のように消えたのだ。今、自分たちのいる場所に、ワタルはいない。この世界から消えていなくなったのだ。
「翔があの化け物を道連れにしたんだ」
一也は図書館の方へ向かった。未来が後からついていくと、入口に立つ二人、亘と雛と出会った。
「ついて来て」
亘に案内されて、図書館の中に入った。そして、吹き抜けの空間にそびえる人工の大木に大きな風穴が空いているのを見て、誰もが言葉を失った。
飾りの枝葉は無残にも折れて、床に散らばり、果実をかたどったガラス玉の破片になって散らばっている。
「ねえ、あれを見て!」
木の根元、地下一階にたくさんの人影がああった。見間違うはずもなかった。はやる気持ちを抑えながら、未来は階段を駆け降りた。蔵書の棚を抜けた先にある噴水に、何人かの児童が倒れていた。その中に、美穂もいた。
「美穂、起きて」
友人を助け起こすと、彼女はゆっくりと目を開けた。
「未来? あれ、あたし、一体何をしていたの? というより、ここどこ?」
未来は答える代わりに彼女に抱きついた。もう二度と会えないものだと思っていた。美穂は訳も分からず狼狽するしかなかった。
4
佐奈田校長は息子が生徒から暴力を受けた連絡にこめかみを抑えた。本当にあいつが目覚めてからはストレスが絶えない。
「オレがストレスになるんですか?」
懐かしい声で思わず振り返いた彼女は、小さく声を漏らした。
「あなたは……」
「どうしたんですか? まるで死んだ人間に出会ったみたいですよ、先生。あ、そうか、今は校長先生だったな」
粗末な服に半ズボン、ボサボサの長い髪を後ろに束ねている。勝気そうな小生意気な顔立ち。忘れるはずもなかった。その少年の存在を、彼女はこの二十年間思い出すたびに忌み嫌ってきた。
「僕の名が分かりますか?」
「黒澤翔。あなたは二十年前、五年五組の生徒だった。そして、担任は私だった」
「そうだ。あなたの子供やクラスメイトに散々いじめられた。あなたからもさんざん嫌がらせをさせられた。母にまで侮辱した。そんな記憶が残っている」
「あなたは幽霊なの? どうして今頃になって私の目の前に……」
少年は低い笑いを漏らした。
「オレの姿は黒澤翔に見えるのだな」
声が変わった。語調も。それは彼女は長年耳元で聞いてきた声であった。
「あなたは、ワタル」
「そう、さっきまでワタルだった者だ。だが、今はコイツの肉体を完全に乗っ取った。奴め、最後の悪あがき自分ごと、オレを吹き飛ばそうとしやがった。あと一秒でも早かったら、オレの魂は完全に消え失せていた。奇跡だよ。天はオレに味方した」
佐奈田校長は、目の前の少年――忌々しい記憶しかない翔の姿をした魔物の言葉を理解しようとした。
「つまり、今のあなたは人間に?」
「そうだ。見た目はコイツのまま、魔力を持ったまま生まれ変わった。生身の姿でいて、今までのように恐怖を与えられる。だから、あんたも良くないことは考えないようにな、え?」
ぎょろりと睨みつける先には、校長の手だった。そこには本人が心なしかハサミが握られていた。彼女はハッとしたようにそれを投げ捨てた。
「何も考えてはいないわ。誤解しないで」
「そうだ。それでいい。人間の大人は薄汚くて食えたものじゃないが、悪知恵が働くのは助かる。いいか、オレが人間の身体を手に入れても、あんたとの関係は消えない。あんたの息子もな。昔から今も、これからずっとな」
校長は震える片手を握り締めながら、何度も頷いた。目の前の怪物は息子には手出ししない。自分が生徒を生贄として差し出している限り。この関係は自分は死ぬまで終わらないだろうと、悲愴な気分になって久しかった。しかし、抵抗する気にもなれなかった。それだけの見返りを得て、息子と共にそれらを失う勇気など、毛頭なかった。ここまでくれば軌道修正など出来やしない。毒を食らわば皿まで、である。
「十分承知しているわ」
「よろしい。ところで、もうすぐ、夏休みだな。確か、この学校には夏休み前の週末にキャンプファイヤーと花火大会をしていたよな。ガキどもが大勢集まる」
常盤台南小学校では、毎年のこの時期になると、校庭で恒例のキャンプファイヤーがある。近隣住民や自治会と児童の親睦を深める目的で二十年前から行われてきた。しかし、二〇〇一年、関西である重大な事件(刃物を持った男が学校に押し入り、児童数人を殺傷した。当時は衝撃的に注目された。犯人はその一年後に死刑判決を受けて、早々と執行された記憶がある)が起こって以来、社会的事を考慮してから、多くの学校で警備が強化された。門がオートロックになったり、警備員が配置されたり。当校も例外ではなく、キャンプファイヤーを廃止してから、一度もやっていない。
その件を説明すると、翔の姿をしたワタルは言った。
「また再開しろ。爺や婆はいらん。ガキどもをできるだけ多く校庭にかき集めろ。そこで、オレに歯向かった小宮未来、高橋一也、二人の弟と妹、仲里雛、そして篠田亘を一網打尽にしてやる」
ワタルはソファーに腰掛けて、テーブルに乱暴に脚を置いた。
「全てを決めるのはあんただ。オレを空きっ腹にさせない限り、あんたの地位も息子の安全も死ぬまで安泰だ。なあ、校長先生」
「分かったわ。ことを進めます」
「よし。それとオレはもうワタルじゃない。名前を変えようか。これからは、ショウに改名だ。分かったか。俺の名はショウ。返事をしろ!」
「はい、あなたの命じるままに、ショウ」
昔から同じく、選択の余地などなかった。彼女は腹をくくると、思い当たる関係者に連絡を取るために受話器を取った。「ケッケッケ」と不気味な笑いが校長室の中で残したまま、魔物の姿は消えた。




