予感
1
一年生のどの教室にも二人の姿はなかった。もうすでにどこかへ連れていたという痕跡はない。むしろ、はじめからいなかったという考えの方が強かった。
「私達、うまいこと騙されたのかもしれないよ」
「でも、俺達はお守りを持ってるぜ」
「そうだけど。でも、おかしいよ。あの電話の声はワタルを知ってたんだよ。あいつは学校の外に力を出せないって、黒澤くんが言ってたし」
「どっちにしても、ここから早く逃げた方がいいかもな」
「そうだね。でも……」
その時、教室のテレビが勝手に点いた。そこにはどこかの廊下が映っている。カメラが動いて廊下を進む。階段をものすごい速度で上がっていく。
未来は気づいた。自分達がついさっき通ったところだった。カメラが何かの視界だとして、そいつはまっすぐ、一年三組の教室に向かっている。
「逃げるか?」
「ダメ。もう間に合わない」
何か一年三組の前で止まった。扉のガラス戸の向こうに誰かが立っている。扉がゆっくりと開かれていき……未来と一也はお守りを握り締めた。
「君達か?」
教室のと口に立つ黒澤翔に、未来は胸を撫で下ろした。それは一也も同様だった。
「翔」
「どうしても、二人はここにいるんだ?」
「徹たちがまた学校に来てしまったの。それで探してたんだけど」
「そうか。とにかく君らが無事でよかった。さあ、行こう」
一也が先に行こうとした時、未来は床にある異変に気づいて、彼の二の腕を掴んだ。
「何すんだよ、未来?」
「ねえ、本物の黒澤くんだよね?」
「何を言ってるんだ」
「なんだかおかしいよ。さっきのカメラの映像は人間の視界じゃなかった。それが私達に近づいてきて、姿を出したのが黒澤くんなのは不自然だよ」
「ワタルの罠だ。君達を撹乱させようとしているんだ。奴の常套手段だよ」
「本物の黒澤くんなら証拠を見せてよ」
「おれを信じられないのか、未来ちゃん。無理はないけど。証明できるものは今のところない」
「お守りは? ワタルとか妖怪が化けているなら持てないはずだよ」
「生憎、お守りは持ってない。さっき、ある人に渡してしまった」
「……二十年前に裕美子さんと一緒に観た映画は?」
「なんだよ、藪から棒に」
「答えて」
「何だったかな……そうだ、『学校の怪談』だったか」
「ねえ、一也」と彼の腕を引いた。
「ああ、分かってるよ。おい、お前は本物の黒澤じゃねえだろ?」
「何を言ってるんだ。ふざけていないで早く行こう」
「映画は『学校の怪談』じゃない」
「そうだったかな……ど忘れしたよ。なんたって、二十年前の話だろ」
その時、「そいつから離れろ!」と声が響いた。そこに立っていたのは、もう一人の黒澤翔だった。目の前にいる彼と同じ格好をしている。
「黒澤が二人いる」
「そいつはニセモノだ。おれが本物だ」
「違う。俺が本物で、こちがニセモノだ」
「うわあ、アニメや漫画のややこしいパターン来たよ。こういう場合の見分け方ってどんなだった?」
未来は頭を悩ませた。どっちは本物なんて分かりようがない。
「未来ちゃん、そいつがニセモノだという証拠はある。足元を見てみろ」
あとから来た翔に言われて、もう一人の足元に目を移した時、「ニセモノは最初に来た方ね」と未来は言った。「あなたには影がないもの」
途端、そいつの顔がドロドロに溶け始めた。目玉が零れ落ちて、歯がぼろぼろと抜けていく。
「ちくしょうめが……小賢しいガキどもめ」
やがて、骨になったそいつは灰に変わって消えていった。
未来達は安心して教室から出た。
「ふう。最初はどうなるかと思ったよ」
「そうそう。ニセモノの方には影がないって分かってよかった」
「よかったじゃないぞ。どうして、二人は学校にいるんだ。今日は土曜日だろ?」
未来は事情を話した。
「それより、黒澤くんもどこへ行ってたの? 篠田くんが探していのに」
「あ、いや、あいつとは途中ではぐれてしまったんだよ」
「はぐれた?」
未来は違和感を覚えた。彼は用事があるといってどこかへ行ったと、亘は言ったはずだが。
「ねえ、黒澤くん、二十年前に裕美子さんと観た映画のタイトルを覚えてる」
「なんだよ、いきなり」
「答えて」
「ちゃんと覚えてるよ。『学校の怪談』ゲロ」
野太い声に変わった翔の顔がみるみるうちに変貌した。
「うわァァッ!」
伸びてきた腕が一也の首を掴んだ。鋭い爪が頬に触れて突き刺してしまいそうだった。
「動くなよ、間抜けな小娘が。正解は両方ニセモノだ」
頭の上に盛り上がった大きな目玉。戻り色の肌に斑点模様、丸い指先。例のガマガエルだった。先日、未来に催涙スプレーを引っ掛けられたせいか、表面の吹き出物の皮膚がややただれていた。
「頭の悪い奴は頭を開いて治療してやるかな」
「クソッ離しやがれ!」
未来は慌ててお守りを取り出そうとした。間髪いれず、ガマガエルの口から飛び出した舌が彼女の手からお守りを叩き落とした。手には粘着質の唾液に混じって、小さな虫の死骸がこびりついていた。続いて吐き出された粘膜が彼女を拘束した。
「えんがちょ……」
「人間の分際でワタル様に歯向かうなど、頭の悪い証拠ゲロ。ロボトミー手術を施してやろう。治療費はいらないぞ」
ガマガエルがメスを構えて、一也の頭部に近づける。彼はじたばた暴れたが、ガマの手が離れることはなかった。
「抵抗するな。女の子の方もあとで手術してやる」
「やめて!」
ガマガエルの顔が急に硬直した。廊下に闇が指す。地響きが校内を揺らした。
「そ、そんなはずはない……あいつがここにいる訳がない!」
前方から何か巨大なものが廊下を這って近づいてくる。まだら模様の長細い体は天井スレスレになるくらい大きく、そして、前方の頭には縦に走る虹彩が睨みつける。
それは巨大な蛇だった。
ガマガエルは一也を離すと、一目散に逃げようとするが追いついてきた蛇が電撃的に襲いかかった。
「いやだぁぁ!」
大蛇はあっという間にガマガエルを丸呑みにしてしまった。その大蛇もやがて、火で炙ったように溶け始めた。廊下に長細いシミだけを残して消えていく。
「大丈夫か、二人共?」
となりの教室の扉が開いて、翔が出てきた。本物かニセモノかの区別はつかない。
「本物の黒澤くんだよね?」
「どうしたんだよ、いきなり」
「二十年前に、裕美子さんとデートした時に観た映画は?」
「なんでそれを知ってるんだ!」
ここに来て初めて恥ずかしがる顔を浮かべた。顔がほんのりと赤いのが、未来には可愛く思えた。
「どうなの?」
「あまり覚えてない。だが、最後に子供同士がキスして終わる、いかがわしい内容だった気がする」
「よかった」
一也は胸を撫で下ろした。
「それより、どうして君達は学校にいる?」
未来が電話があった件を話すと、翔は黙り込んだ。
「それで徹くん達はいなかったんだな」
「うん。それより、篠田くんも学校にいるはずだよ」
「あいつも?」
「黒澤くんがここへ来てるかもしれないからって」
「だが、彼もお守りを持っているはずだ。そう、簡単に学校に入るはずがない」
その時、校内放送が流れた。
(五年五組の黒澤翔くん。篠田亘くんが呼んでいます。至急、職員室へ来てください。……来なかったら、分かるよね?)
女の子の声がそう呼びかけた。
「ご指名みたいだ」
「罠だよ、きっと」
「奴の狙いは彼とおれだ。乗り移りたい人間と、邪魔な人間を同時に手に入れたいわけさ」
「じゃあ、なおさらじゃねえか。俺達と一緒に行けば……」
「君達をこれ以上巻き込みたくない。おれはこの時代の人間じゃない。奴もだ。おそらく、おれが消える時、ワタルも消える」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ。最近になってそう思えてきたんだ。同じなりのまま二十年何事もないなんて虫が良すぎると思ったんだ。さあ、反省会は後にしようや。君達は自分と妹弟の身を案じろ」
翔は何かの呪文を唱えると、二人の持っているお守りが輝きだした。小さな光の糸が現れ、未来と一也を結ぶ。そして、もう一本の糸が別の廊下へと伸びていった。
「お守り同士をつないでいる。あの先には仲間がいるよ」
「黒澤くんのお守りはどうしたの?」
「おれのは、ある人にあげた。だが、もういらないだろうし」
翔は元来た道を走り出した。
「どうする?」
「二人を探そう」
「でも――」
「俺達は足でまといになる。それより、徹達を見つけるのが先決だ。家族なんだぞ」
「そんな! 一也は薄情だよ」
「俺だってあいつと一緒に戦いたい。だけど、守る奴がいるうちはダメなんだ。あいつもそれが分かっているんだ」
一也は光の糸に沿って歩き始めた。
「心配ならあいつといてやれ。徹も一緒に助けとくから」
未来は首を振って、一也のあとに続いた。
「カズ、ごめんね。わたし、頭が混乱してるみたい」
「俺らや黒澤も、きっと、悪い夢の中にいるんだよ。早く終わらせようぜ」
「うん」
一也は心にある迷いを打ち消して、暗い廊下を進んだ。いつの間にか窓を叩くほど土砂降りになっていた。
もう、翔に会えない。なんとなく、そう思えてならなかった。
2
三階のテラスへと続く階段を上がっていた時だった。漂う触手を紙一重で回避しながら、先頭の亘がテラスに到達すると足を止めた。
「どうしたの?」
「ここは……」
そこはいつもならば、ベンチと展望ガラスのある空間だったのだが、今は、どこかの公園の広場に様変わりしていた。暗い天井は青空に変わり、大木の怪物の姿は消えていた。大きな燭台のような石像が鎮座して、周りには芝生や花壇があった。花壇の中にはチューリップらしき花がつぼみのまま、先ほころぶ時期を待っている。
「……あれ? 雛ちゃん? どこにいるの?」
雛の姿は消えていた。さっきまで一緒だったのに、自分以外にここには誰もいない。
そして、自分はこの場所を知っている。
以前、それも遠い昔にここにいた。ここで、自分はおいてけぼりをされた。亘はベンチに座ると、視線が下がっているのを感じた。手足をが小さくなり、幼児のそれに戻った・とても懐かしく悲しい気分になった。
どこからともなく、誰かの会話が乱暴に耳に入ってきた。その声もまた聞き覚えがあった。
「どうして、あなたは無能なのよ!」
「それが夫に対する言葉か。夫を支えるのが妻の役目だろ!」
「会社を倒産させといて、何が家長よ。ふざけないで、私や亘はどうすればいいの。ねえ、明日からどう生活していくつもりよ。ご近所の笑いものだわよ」
耳元で轟く二人の口論。両親だった人たちだ。物心がついてから耳にするようになった夫婦の会話は、まるでナイフの刃先を擦り合わせたような不協和音だった。
最初は自分も釣られて泣いていたが、喧嘩はやまなかった。広い家の中はいつも暗く凍てついていたのを覚えている。
「どうしたの、ママ?」
「お父さんの会社がね、倒産したの。私達は、この家を追い出されちゃうの。みんなパパのせいなのよ」
「よくもぬけぬけとそんなことが言えるな、子供の前で。君は結婚する前からそうだった。傲慢で貪欲で。会社の金をいくら使った。誰かの外車を買うのにどれだけローンを組んだと思ってる? それでよくも、母ヅラができたものだ」
「あなたが外で愛人を作ったからでしょう。私が知らないとでも思っているの」
「お互い様だよ。若い部下をたらしこんでみ着いたのは誰だろうね」
「どうせ、好き合って一緒になったわけじゃない。お互いの親が勝手に決めただけだ」
「そうよ、私は医者の人が好きだった。医者なら会社を潰して自己破産することもないでしょうから」
果てしなく続く夫婦喧嘩。相手を否定しようとする言葉のナイフが辺り一面に突き刺さっているようだ。幼い亘は泣きながら耳を塞いで、忌まわしい一時が終わるのに我慢するしかなかった。
「ふん。じゃあ、この子も僕の子なのか怪しいものだな」
「ちょっと、責任転嫁するつもり。あなたはこの子の父親なのよ。親として載せ金として、養育費を出すのが当たり前じゃないの」
「はは、全部持って行かれて何も残ってないよ。子猛子供の世話なんてする余裕なんてあるわけないだろ。君はお義父さんに泣きついたらいいじゃないか」
「冗談じゃないわよ!」
亘はとうとう耐えられなくなり、冷たいリビングから出た。
外は公園になっていた。まるで映画のワンシーンみたいに場所が切り替わる。ベンチに一人、もうひとりの自分が座っていた。
「いい? ママはお仕事に行ってくるからここで待ってるのよ」
ママにそう言われたのをはっきり覚えている。最後に聞いた母親の声。父親が失踪してから二人で暮らしていた。もともと住んでいた家から出ていき、小さなアパートに移り住んでからまもなくから、知らない男と一緒に母親が帰ってくるのが頻繁になった。
酒の臭い臭が鼻をついた。ある日、母親に連れられて電車に乗った。どこか遠足に行くのだろうと、幼い自分の胸は踊った。もしかすると、パパと仲直りして、あの家に帰るのだろうとも思った。亘は公園のベンチに座りながらずっと待ち続けた。空腹になっても、日が暮れても公園から出な異様に頑張った。
もしも、公園から出たら迷子になってしまう。知らない人にどこかへ連れて行かれてしまう。母はそう言い残したから、いいつけを間もないければいけない。それに、自分がいない間にパパとママが帰ってきて、自分がいなかったら困るだろうし。
だから、亘は誰かが通報した警察官に保護されるまでそこにずっといた。警察に保護された彼に名前を除いては身元を証明するものは何もなかった。もともと住んでいた家も売られており、そこに住んでいた夫婦も雲隠れしてしまった。
結局、親戚中をたらい回しにされた末、ほぼ血縁の遠い篠田家に預けられた。
彼はそのあいだに一首の処世術を見の付けるようになっていた。大人を困らせない子になる。そうすれば、昔の親のように公園で捨てられることはない。
そう、あの頃、自分は親に捨てられたのだと認識すしたのは小学一年だった。その頃から自分の感情を抑えるようになっていた。周りからは頭が悪い奴だと思われていたが、亘は普通に勉強も出来たし、他人の心の機微を読み取るのもたけていた。ただ、それにかかわらないようにしていた。義理の従姉妹にあたる雛だけは遠慮なく関わってきたのだが。
亘は今、その公園で一人ぼっちになっていた。
「誰もいないのさ、お前を迎えに来るやつなんかな」
通りがかった猫が喋った。人間の顔をしたそいつは耳まで裂けた口をしている。自分と同じな目の魔物だった。
「お前は一人だ。このままずっとな。哀れなものだな」
猫の背中が割れて、何本ものツルが這い出て、亘に絡みつき包み込んでいく。
「お前は人間をやめろ。このまま生きていても意味はない」「
僕が?」
「オレがお前の代わりになってやる。お前は一生苦しむ必要なんてないんだよ」
亘は抵抗もせずにじっとしていた。誰も助けてくれない。両親もいないこの世界で生きていくのならいっそのこと――。
「よせ!」
一声が静寂を破り、猫の顔が歪んで、中央から二つに割れた。
「黒澤翔! まさ、貴様か!」
夕焼けの世界に割って出た一人の少年が亘の手を捕まえた。
「お前はここにいてはいけない」
「でも――」
「自分を取り戻せ、篠田亘。お前は一人じゃない。今のおれと一緒さ」
「イヤだ。僕は一人ぼっちだ。パパもママもいつか迎えに来てくれるって信じていたのに来なかった。誰も僕の味方なんかいない」
翔は何かを唱えた。少し顔色が悪そうだった。すると、公園の向こうに二人の大人が歩いてきた。それは、今の育ての親だった。いつも他人行儀に接してきた人達がなんのようなのか。
「さあ、帰ろう、亘」
「でも、パパとママが」
「私達は君の本当の親にはなれない。だが、血の通っていなだけの理由だけで無視したくはない」
「帰ってきて、亘」
二人の後ろには別の少女がいた。雛だった。
「雛ちゃん?」
「雛ちゃんって呼ぶな、バカ! いい? あんたが帰ってこなかったら、シゴキ甲斐のある奴が一人もいなくなるんだから、ストレス解消のために帰ってきなさいよ」
そんな理由はイヤだな。
「アンタは一人じゃないんだから。帰ってこなかったらただじゃあ置かないから」
「さあ、帰ろう、亘」
翔が手を伸ばした。
3
次の瞬間、亘の体は図書館のテラスで横たわっていた。公園の光景も消えていた。雛がつかつか歩み寄ると、なぜか、頬を思いっきり叩いた。
「雛ちゃん……」
彼女の目の下に涙が流れていた。
「勝手にいなくなんな、バカ」
「ゴメン」
「急に倒れて起きなくなったから、死んだのかと思ったんだよ」
「公園にいたんだ。遠い昔に忘れていたんだけど」
きょとんとする雛に、亘は「ありがとう」と言った。
「あんたに感謝される筋合いはないよ」
「夢の中で助けてくれたから」
「そう」
「それより、黒澤くんは? 彼はどこにいるの」
「ここにはいない」
「さっき、助けてくれた。また、何処かへ行ってしまったんだ」
「じゃあ、探さないとね」
その時、吹き抜けを突き破って、ツルの大群が押し寄せてきた。




