怪異
3
小さな揺れがやっと止まると、亮は個室のドアをゆっくりと開けた。そして、男子便所の入口から顔だけ突き出して廊下を覗いた。鬼役である美穂の姿はない。また個室の中に戻り、三回目の着信音を鳴らしてから、どこかに隠れているはずの賢弥にメールを送信した。
『さっきのヤバくね? 大丈夫か?』
亮にとって、地震の揺れは初めての体験だった。コンクリの壁や床が左右に動いて見えた。興奮はまだ覚めていない。怖いかどうかは別だった。
五分経った。場所確認の着信を二回も鳴らしたが、美穂が探しに来る気配もなく、賢弥からのメールも音沙汰なしである。待てども待てども返事はない。女子の間ではメールの返事は三分以内とはバカバカしいルールがあるらしく、大ざっぱな性格の亮にとっては、いつ返そうが勝手だった。
しかし、賢弥から返事がないのはおかしい。几帳面なあいつなら三分は無理でも、そろそろ何か言ってきてもいいはずなのに。
まさか……他の皆は、あの揺れでどこかに避難してしまったのかもしれない。自分は忘れられたまま、バカみたいに隠れているのかもしれない。
「もうそろそろいいよな」
かくれんぼが続行しているなら、そろそろ誰か見つかっているはずだ。亮は見つかる覚悟で個室を出ようとした。
「赤い紙はいらんかね?」
誰かの声がした。個室の外からではない。中からだ。当然、美穂でもないし、賢弥や未来でもなかった。子供とも大人ともつかない、かすれたような声だった。
……空耳か?
そう思った矢先――。
「青い紙はいらんかね?」
今度は上から聞こえた。
「誰だよ? 賢弥か?」
ここに隠れているのをさっきメールで報告したのは賢弥だけだ。だが、学校でも塾でも、時間さえあれば勉強ばっかりやっているあいつが、こんないたずらなどするキャラとは思えない。
「隠れているなら出て来いよ」
亮は虚勢を張った。本当は薄暗い便所の中で聞こえる低い声に、脈拍が上がり気味だった。だが、誰かの悪戯なら許すわけにはいかない。きっと、ドアの向こうか、隣の個室に隠れているに違いない。
亮は個室から出ようとしたが、鍵がかかっているわけでもないのに、ドアがなぜか開かない。
「何だよ……開けろよ!」
何度もドアを蹴るがビクともしない。
「どっちがいい?」
声が繰り返して問いかけてくる。
「どっちがいい?」
亮は勇気を振り絞って、隣の個室を叩いた。
「うるせぇ! 赤を出せ!」
部屋の中が静かになった。やっぱり、こけ脅しだったのか。亮が安心した直後、便器の蓋が吹き飛んだ。そこから勢いよく何かが吹き出した。血だ。大量の血が間欠泉のように噴出して、亮の頭上に降りかかったのだ。
「わぁぁっ!」
悲鳴を出しながら、亮は個室から出ようとするが、何度押してもドアは開かない。血の雨が髪や顔を濡らす。粘着質があり、糊のように顔や服に張り付いた。
血の噴水は瞬く間に水位を増して、個室を赤く満たしていく。亮の体が底に沈む。息ができずに慌てながら、亮は必死にドアの取手を引いたり、押したりしてみた。その時、ドアが簡単に開いた。
血の洪水に流されて、亮は便所の床に倒れた。起き上がり、体中の血を洗おうとしたが、服には血はおろか濡れてもいなかった。鏡に映るのは何の変哲もない自分の姿だった。
……さっきは一体何だったんだ?
安心ていると、天井から鈴の音が聞こえた。そして、女の子の笑い声を確かに聞いた。
「次は青い紙をあげるよ」
「え?」
思わず天井を仰いだ瞬間、亮のスマホが手から滑り落ちた。
亮の姿は血と一緒に跡形もなくトイレから消えた。
4
亮からのメッセージを受け取り、賢弥はすぐさま返事をよこした。だが、いくら待っても返事はない。
……おかしいな?
亮は確か、二階の男子便所に隠れているはずだ。三回目の着信を鳴らしたが、同じ二階で流れた音は自分だけであった。
賢弥は図工室にいた。放課後でも扉が開けたままにされているのが多く、他の彫像や置物を障害物にして隠れる事ができた。
壁には、古い絵画のレプリカが飾られ、窓辺には胸像が何体か置かれている。夕日に照らされた図工室は静かで、リアルな彫像は生首に見えなくもない。
背中を震わせながら、亮からの返事を待った。きっと、さっきの話のせいだ。小宮がおかしな話をしたから、余計に隠れ場所が不気味に見えて仕方がない。
……それにしても、さっきの揺れは何だったんだろう?
図工室に隠れている時に感じた揺れ。あの時、賢弥は咄嗟に壁の時計を見た時、自分の目を疑った。あまりにもでき過ぎていると思った。
「四時四十四分か」
長身と短針は四のゾロ目を指していたのだ。勘違いだってあり得る。短針はともかく、長針は四十三分かもしれなかったし、四十五分だったかもしれない。
……亮の奴はどうしてるだろうか?
揺れの直後、彼からメールが来た。鬼ごっこ止めた方がいいのではというものだった。賢弥も賛成だった。一旦、切り上げて全員で集まって安全を確認した方がいい気がする。
気になるのはその後だった。亮に送ったメールの返事が来ないのだ。ためしに電話もかけたが、留守電だった。何かあったのか?
そろそろ限界だろうと、賢弥はテーブルの下から立ち上がろうとした時、廊下の曇り窓の向こうに人影が見えた。
「亮か?」
呼びかけると、人影が止まった。動きがやけに遅い。亮じゃない。それどころ、美穂でもないと分かったのは、人影が天井近くに頭があるからだ。
咄嗟に違う机の下に隠れた直後、扉があけ放たれる音を聞いた。乱暴な音が耳を叩き、身の危険を感じた。ぺた……ぺた……ぺた……。誰かが裸足で歩いている。水たまりの上を歩く音がする。足音はゆっくりと、図工室の隅々をさまよいながら、確実に賢弥の隠れる机に近づいてくる。
賢弥はテーブルの棚の隙間から覗くと、近づいてくる誰かの足元だけが見える。裸足だ。だが何かがおかしかった。足の形がどこか角ばっていて、作り物のようだ。
なんだ、あれ……?
何だが分からないが、身の危険だけは感じた。あれに見つかってはいけない気がした。賢弥は音を立てないように、身を屈んで慎重に動いた。机の陰に隠れ、近づいてくる足音をやり過ごそうとした。
そいつはさっきまで隠れていた場所に立ち止った。腐臭が漂ってきて、賢弥は吐き気に襲われる。理科室にありそうな薬品に似た匂いだった。
そいつが踵を返し、図工室から出ていこうとする。賢弥は机から頭を出して、そいつの背中を見た。作り物めいた背中が見える。黒い髪の後頭部も平面に見える。
あれって、もしかして……。
その時、賢弥のポケットの中に眠るスマホに着信音が鳴り響き、彼の心臓をと飛び上がらせた。そして、そいつを振り向かせた。
「ひえっ!」
そいつを正面から見てしまい、賢弥は思わず悲鳴を上げた。
そいつの正体は、人体模型だった。理科室に置いてあるマモル君だ。マモル君というのが人体模型の愛称で、ある時は理科室のシンボルとして、生徒の悪戯の対象にされていた。授業で使われる事はなかった。今、そのマモルは命を持ったように動いていた。
ただ一つだけ違うのは、腹部から胸部にかけて露出する内蔵はプラスチックではなく、本物だった。腸が床まで垂れ下がっている。心臓が離れた場所からでも分かるぐらい、激しい鼓動で波打っていた。
人体模型が手を突き出して近づいてくる。賢弥は思わず走り出した。机を迂回して、入口に向かおうとすると、ドアが独りでに閉まった。
「開けてよ!」
外から誰かが閉めたのか? とにかく逃げないと! 人体模型がゆっくりと歩き出す。腸を引きずらせ、腐臭をまき散らす。
マモルくんの顔は左右が非対称で、眉毛の太い無表情な男の右側と、筋肉と骨できたグロテスクな左側で別れている。ジキルとハイドだ。互いの目だけが同じ方向を回転して、賢弥の背中を追っている。
賢弥は図工室の準備室のドアに向かった。ノブを回そうとしたが、やはり明かない。こうなったら、やけだった。近くに転がっている椅子を持ち上げ、ドア窓に向かって投げた。ガラスが砕け、準備室が丸見えになる。そこへ手を差し込んで、ノブの鍵を外した。
開いたドアから転がり込むように入り、賢弥は鍵をかけた。無我夢中だった。マモル君がこちらに来れば、同じように鍵を外してしまうのは馬鹿でも分かる。
そうだ。廊下につながるドアから出ればいい。振り向いた賢弥は絶望した。壁の棚が傾いて、廊下へのドアを塞いでいた。あのドアから廊下へは出られない。そばにある机を引きずり、図工室へのドアを塞いだ。
ちょうどそこへ、マモル君が手を差し込んできた。
髪を掴まれそうになり、間一髪で後ろに下がった。
「寄るな!」
誰かの悪戯どころじゃない。目の前の人体模型の人形は、勝手に動いている。着ぐるみにしてはあまりにも精巧過ぎる。ましてや、ロボットの訳がない。
マモル君は両手を振りまわしながら、ドアを抑える机をどかそうとする。なかなか動かないと分かると、机をバンバン叩く。ガラス玉の両目だけがこちらを射抜いている。
賢弥は準備室の奥で丸くなると、一心不乱で呪文めいた言葉をささやいた。彼の好きなゲームの攻略本だ。主人公が使用する属性呪文や、ネット上の出ているチートコードを手当たり次第に思い出す。賢弥はそれらを最初から無心に読み続けた。
爆破の呪文、氷撃の呪文、灼熱の呪文、復活の呪文、敵を一撃死させるコード、全回復、レベルアップ、属性無効……これはダメだ! 賢弥は目の前のマモル君が火の玉に包まれるなり、氷漬けになるのを願ったが、そいつは今まさにドアを破壊しようとする。
グロテスクな二面相がこちらを向いた時、賢弥は足元に転がるパレットや筆具を投げつけた。その中で彫刻刀が、左側のむき出しになった脳みそに突き刺さったのは、奇跡に近かっただろう。
マモル君は声も上げる事なく、頭を抱えながら、その場に倒れた。
賢弥はしばらくじっとしていたが、起き上がる様子はない。恐る恐るドアに近づき、床に突っ伏している人体模型を見た。
「うへえ……」
腹部からはみ出る内臓は、プラスチックの作り物ではない。ヌメヌメしていそうな物体は、理科の教科書に出てきた五臓六腑そのものだった。吐き気を催しそうな臭気に鼻を塞ぎながら、賢弥は窓に手をかけて図工室の方へ移ろうとした。
……いきなり起き上がるなよ。そう願いながら、賢弥は倒れているマモル君を跨ぐと、ドアまで駆けて廊下に飛び出した。
図工室を後にすると、スマホを取り出して亮に電話した。何か分からないけど、恐ろしい事が起きている。彼にどう話せばいいか迷った。人体模型に襲われたなどと言えば、笑い者にされるのは目に見えている。
コール音が鳴ったが、亮はなかなか出ない。一体、こんな時にどうして出てくれないのだろうか。
その時、賢弥は立ち止った。何かが聞こえたのだ。耳をすませると、着信音だ。アニメの効果音なんて幼稚な着信は、きっと亮だ。トイレからは聞こえない。
急いで着信の鳴る方へ向かった。留守電が流れると、またリダイヤルした。着信のなっている場所らしき廊下に着いたが、亮の姿はどこにもなかった。着信音だけがけたたましくなっている。
そこは二階の踊り場だった。目の前には、昔の絵画の模写が壁に掛けられている。泡の舞う海底を背景に魚やプラントンが泳いでいる絵だった。タイトルは『青い世界』。二〇〇一年に校舎の改築を記念して、当時の卒業生が寄贈したものである。
亮の着信は自分のいる渡り廊下でなっている。なのに、スマホも亮の姿も見当たらない。
「一体どうなってんさ?」
ヤバい何かが起きているのは間違いない。早く亮や美穂達と合流しないと――。賢弥の焦りは頂点を突き抜け、手に持ったスマホは震えていた。
亮の着信音はまるで自分のポケットに入っているかのように、間近に聞こえる。そう、まるで、後ろになっているように。
ふと、ある事に気づいた。自分の後ろを振り返る。そこには絵があるだけだった。それに顔を付けて耳を傾けた。
着信は絵の中から聞こえる。そんな馬鹿な。そう思っていると、海の絵が揺らいだ。魚や亀が動いているのだ。
自分の目が信じられなかった。だが、今さっき、理科室の人体模型に襲われたばかりだ。さっきからおかしな事ばかり起きている。
再び、ポケットから着信音が響いた。亮からだった。賢弥は恐る恐る通話をタッチする。
「もしもし、亮?」
(賢弥も、こっちへ来いよ)
「亮は一体どこにいるの?」
(お前のうしろ)
賢弥は振り向いた。海の絵の中に一人の少年がいた。リアルに描かれた少年は顔にスマホを付けながら、こちらを見つめながら笑った。見覚えのある顔だった。
賢弥は耐え切れずに泣いた。
「亮……マジじゃないよね……」
(おまえも来いよ)
その途端、絵から勢いよく飛び出した手が賢弥の首を掴んだ。
5
未来のいる高学年用の下足場、そのちょうど真上の二階には売店が設置されていた。文房具等や参考書の販売をしている。昔は、常盤台南小学校の向かいには古くからある文房具店があったのだが、店主が高齢を理由に閉店して以来、改築を機に新たに設けられたのである。
もっとも、営業時間はとっくに過ぎているので、店先はシャッターが下りていた。店の横に置かれた緑色の電話機の陰で、沙耶はじっと誰かが来てくれるのを待っていた。さきほどの小さな揺れで動こうと思ったが、誰からもメールが来ていないので、出て行こうとどうか考えあぐねていた。
引っ込み思案で友達の少ない沙耶が、時々放課後に未来達のグループの輪に入りたくて仕方がなかった。でも、通っている塾は違うし、厳格な親の方針でゲームは持っていない。共通の話題がないのは厳しい。
それだけに、さっき美穂から誘われたのは嬉しい反面、嫌われてしまう不安でいっぱいだった。
やっぱり、わたしは美穂のグループには合わないのかもしれない。深く考えすぎるのは沙耶の悪いくせだった。友達は選ばないと道を間違える。幼稚園に行く前から親にそう言われて育ったものの、これといった友達もできずに今日まで過ごしてきた。今更、肌に合わない彼らの仲間に溶け込んでいける自信がなかった。
それにしても、沙耶は窓から外を眺める。夕焼けに染まるグランドには人の姿はない。そろそろ、塾に行かないといけない。彼女の通う塾は、美穂達よりも一時間早く始まる有名な進学塾だった。急げば十分もかからない。そろそろ、行かないと時間が間に合わない。でも、彼らと遊べる時間がなくなるのは、とても惜しかった。
その時、頭上でベルが鳴り響いた。あまりに突然過ぎて、沙耶は思わず頭を上げて電話機に打ちつけた。
「いたた……」
頭を抑えている間も、電話機は鳴り続ける。どこからの電話だろうか? 多くの生徒が携帯やスマホを持っている事を考えれば、一体どんな層が使っているのかは定かではない。こっちからならともかく、向こうからかかるなんてあるのか、沙耶には分からなかった。
ベルはまだ鳴り止む様子はなかった。フロア全体にかき鳴らすほど、神経を逆なでする音に、沙耶はなんとなく不安になった。
もしかすると、誰かが売店に用があって電話してきているのかもしれない。もしくは間違い電話か。沙耶はゆっくりと立ち上がり、恐る恐る受話器を上げた。そして、耳元につけた。
「もしもし」
無言だった。だけど、呼吸する音がかすかに聞こえる。
「もしもし?」
すると、受話器の向こうから小さな子供の笑い声が聞こえた。女の子のようだ。
沙耶は幾分冷静さを取り戻しつつあった。そうか、小さな子供が電話をかけているのだと、そう思った。
「あなたは誰? 大人の人は近くにいるの?」
(わたし、メリーさん)
「メリーさん」
初めは外国の子供かと思ったが、それにしては普通の日本語。そういう渾名なのだろう。
(今、正門の前にいるの)
「校門の前?」
そこで電話が途切れた。
沙耶のいる所からは校門は、反対側の一番遠い位置にあるので見えない。
すると、また電話が鳴った。さっきのメリーさんって子からだろう。沙耶は受話器を取った。
「もしもし?」
(わたし、メリーさん)
「メリーさん? 学校の売店に用事があるの? でも、今はもう閉まってるよ」
(今、校庭にいるの)
そう告げると、また電話が切れた。メリーさんと名乗る子は、何度も電話して自分の位置を教えるのだろうか? いたずらかもしれない。しかし、沙耶の中で釈然としないものがこみ上げてくる。一人しかいないせいもあったが、奇妙な電話を薄気味悪く感じた。
またベルが鳴った。取ってはいけない気がした。早くここから離れないと。ここではそう思っていたが、なぜか、足が震えて動かなかった。手が自分の意志に逆らって、受話器を握り、耳元に寄せさせた。
「も、もしもし?」
(わたし、メリーさん)女の子の声が続けて言った。(今、下駄箱の近くにいるの)
そして、やはり電話が切れた。
沙耶は慌てた。メリーさんはもう建物の中にいる。ちょうど真下に。逃げないと。なんだかよく分からないけど、心だけが焦った。何かがおかしい。早く、未来や美穂達と合流して、外へ――。
沙耶がランドセルをひったくって立ち上がったその時、間髪入れずに電話が鳴った。彼女は叫んで壁にぶつかった。さっきまでの間隔が短くなっている。
ふと、何かを思い出した。メリーさんと言う名前といい、電話がかかる度にこちらに近づいてくるといい。これって、もしかして――。
電話はなおも鳴り続いている。今度こそ出るもんか。沙耶は自分の手で耳を抑えた。けれども、つんざく音が隙間から耳へはいって来るようだった。その音がインターネットで読んだ怪談話を思い出させた。
ああ、そうだ。間違いないわ。これは、『メリーさんからの電話』。何度もかかって来る電話を取ると、女の子の声が告げる。「わたし、メリーさん。今、○×にいるの」と言い残す。そして、何度も着信がかかる。その度に同じメッセージが流れて、メリーさんがこちらに近づいてくる。そして、最後に言うのだ。
『あたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』
一昔流行った怪談話の定番である。怖いものが苦手な沙耶でも、読んだ覚えのある話だったが、今まですっかり忘れていた。
もしも、これが『メリーさんからの電話』なら、こっちが取らなければいいだけだ。そう、こっちが受話器を取らなければ……。
突然、受話器がひとりでに飛び跳ねる。床に転がると、スピカ―とマイクのある側がこちらに向かうようにして止まり――。
(あたし、メリーさん。今、二階の廊下にいるの)最後にこう言い残した。(もう、どこにも逃げられないからね)
「いやっ!」
沙耶は思わず受話器を壁に投げつけた。構わずにそれを拾うと、何度も床に叩きつける。プラスチックの表面にひびが入った。
このままでは何かに捕まってしまう。怖い。沙耶は電話機の電話線を抜いた。そして、そばの防火扉を引いて、廊下へ続く通路を塞いだ。売店のある一角に閉じこもる。これで逃げられないが、向こうだって入って来られるはずがない。
沙耶は隅の壁にもたれ、じっと目を閉じていた。悪い夢を見ているのだと自分に言い聞かす。きっと、鬼役の美穂が呆れた顔で起こしてくれる。自分がきっと最初かもしれない。そうれでもよかった。
ジリリリリッ――ベルの音が鳴り響き、目を思わず開いた。線を抜いたはずなのに電話機が鳴っているのだ。どうして? 耳を塞ぎながら、この怪異が早く終わる事を祈った。それでもベルの音は一向に鳴り止まない。
ある事を思いつき、沙耶はランドセルから自分のスマホを取り出した。先月の誕生日に買ってもらったものだ。少ないアドレス帳から『自宅』を選んだ。しばらく呼び出し音が続いた後、(はい、もしもし)と出た時、体中の呪縛が解けた気がした。
「ママ! 私」
(沙耶、どうしたの?こんな時間に電話なんかして。塾は行ったの?)
塾どころではない。沙耶は震える声で訴えた。
「ママ、助けて! 学校まで迎えに来て!」
(落ち着いて。一体何があったの?)
「何だか変なの。お願いだから学校へ来て」
クスクスとママが笑った。いたずらだと勘違いしているのかもしれなった。
「真剣に聞いてよ、ママ」
(ママじゃないわ)
「え?」
(わたし、メリーさん)
母親の声が楽しげに言った。そんな……沙耶は壁に張り付いた。後ろにはいません。メリーさんなんかいません。いるはずがないの。
スマホの液晶には通話が終わっていた。助かったのだと最初は思った。
「今、あなたの隣にいるの」
今度は電話からではなかった。右側の耳元にささやきかける声がそう告げる。
沙耶は咄嗟にそちらに向いた直後、心臓が破裂するほどの声を張り上げた。言葉では決して説明できない。きっと、この世で一番恐ろしい何かを見たためだった。