恐怖の時間
37
終礼の後、未来が教室から出ると、すぐに翔と落ち合った。
「早く家に帰れ。放課後はワタルが暴れ出す時間だ」
「黒澤くんはどうするつもり?」
「奴の封印されていた鏡を探す。きっと、校内のどこかにあるはずだから。未来は、本を探してくれ。インターネットとかいうので探した方が早いだろ」
「ダメ。別々にいるのは危ないと思うよ。それに、今、黒澤くんに何かあったら、私一人じゃあ何もできないし」
「心配すんな。これでも、修羅場はくぐってるんだ。一度はあいつを封印したんだぜ。もう一度できるかもしれない」
「でも――」
「おい、未来!」
見覚えのある少年が二人に呼びかけた。未来の幼馴染の高橋一也だった。サッカークラブに所属して、活躍しているようだが、クラスが違ってからは疎遠になっていた。
「一也」
「さっき、徹に会って、お前に伝えてほしい事があるんだって……ところで、知り合い?」
彼は翔の方を見て不審がる。
「ええと、六年の黒澤くん。ちょっと、事情を話すと長くて、複雑で、面倒くさい事になるから、また今度話すね」
「もしかして、未来と付き合ってんの?」
「何言ってんのよ。それより徹がなんて?」
「今日は家に帰るの少し遅くなるって、ママに行っといてだって。うちの美月もそうだったな。なんか、クラスの友達と冒険するんだってよ」
一也には一年生の妹、美月がいて、弟の徹とは同じクラスだった。最近では家で一緒に遊ぶ光景を目にする。この子達も自分や一也みたいに会わなくなる日が来るんだろうと、未来は思っていた。
「友達?」
しかし、妙な話だった。一年生は五年よりも終礼が早いはずだ。四時近くになっても家に帰るのが遅くなるなんて、どこで遊ぶつもりなのだろうか。
「その友達って、誰だ?」
翔が聞くと、一也はなぜか言いにくそうだった。言いたくないような感じがした。未来は業を煮やした。
「教えて、カズ。徹と美月ちゃんは誰と遊ぶって言ったの?」
呆気なく答えてくれた一也は言葉は、未来と翔の心胆を寒がらしめるには十分だった。
「確か……ワタルくんとかいったかな」
未来は一也の肩を掴んだ。
「な、なんだよ」
「二人はどこで遊ぶって言ってたの!」
「落ちつけよ、未来。苦しいって」
未来が彼の襟を話した。乱暴になっていたが、事態は急を要していた。休み時間から聞いた翔の話。彼の考えが正しければ、ワタルが狙うのは、兄弟姉妹のいる子達だ。美穂や亮にもそれぞれ、弟と妹がいる。そして、自分や一也にも……。
「学校の外にあるお化け屋敷。あそこだよ」
「おぼろ屋敷か?」
翔の問いに、一也は苦しげに頷いた。
未来はそれを知ると、内心胸をなで下ろした。南小学校の校庭の端、新図書館から少し離れた場所に建つ一軒の廃屋がある。ある事情で取り壊される事もなく残っているのだが、その不気味な佇まいから、おぼろ屋敷と呼ばれていた。
でも、大丈夫。校舎の外ならワタルは手を出せないはずだった。
「学校の外だから、二人は大丈夫だよね」
「そうでもない」
翔は首を振った。
「ワタルの巣は学校全体だ。つまり、校庭も含まれる。校門から一歩入れば、奴の口の中にいるのと同じ事になる。当然、あのおぼろ屋敷も奴は出る」
翔は言葉を続けた。
「おそらく、奴の隠れ家でもある。かなりまずい状況だ」
「そんな……でも、どうして徹達を?」
「本当の狙いは、おれや君だ。直接狙うチャンスがないから、家族を餌にしてるのさ」
「二人とも、さっきから何話してんだよ? 俺には何を言ってんのか、訳分かんねえんだけど」
「ごめん、カズ。でも、今は緊急事態なの。徹と美月ちゃんを早く探し出さないといけないと、大変な事になっちゃう」
「大変な事って何だ? まさかあいつら、かけ落ちでもするのか?」
……バカ、単細胞。どうして、この状況で言えるのか分からない。事情を知らないから仕方ないのだけれど。
「奴が動き出したな」
翔の言葉で、廊下には誰も残っていないのに未来は気づいた。教室も無人だったし、廊下に誰ひとり残っていない。窓を眺めると、他の生徒達が行進の行列みたいに一人もはみ出る事もなく校門へ向かっていくのが見えた。中には教師まで混ざっている。
まるで、何かに操られているみたい。
「奴の魔力だ。この学校にはもう、おれ達しか残っていないはずだ。それとワタルもな」
「おい、ワタルって誰だよ。おれのクラスにいる篠田って奴も亘だけどさ」
「とにかく、おぼろ屋敷に向かうが、大丈夫か?」
「昨日みたいに怖いけど、徹は私の弟だし、美月ちゃんもカズの家族だもの」
翔が先導して、未来は走り出した。一也も状況が理解できないまま、二人の後を追った。
38
日直日誌を手に持って廊下を歩いていた篠田亘は、奇妙な光景を目撃した。生徒や教師達が行列になって、外へ出て行くのだ。一緒について行こうと思ったが、大事な用事があるのでそうはいかない。職員室を開けたが、中はもぬけの殻だった。
「あの、すみません」
大声で返事はない。仕方なく、担任の金江先生の机に向かうと、そこに書置きが残されていた。どうやら、家族の都合で家に帰ったらしい。
『本日の日直へ。日誌は机に置いておいて下さい』
そっけないメッセージに従って、日誌を置いてから立ち去ろうとした時、机の端に置かれた写真立てに目をやった。アルファベットのポスターが並ぶ壁を背景に、先生と金髪の男の子が映っていた。先生はこの学校で一度も見せたことないような笑顔を向けていた。
金江先生は去年までアメリカにいたらしいというのが、クラスメイトの情報だった。向こうの学校で教師をしていたが、家族の事情で日本に帰って来て、改めて教員免許を取得してからこの学校に赴任して来たという。嫌々ながら仕方なく、という事情が見え隠れしている。
家庭の事情というのは、高齢の母親の介護だった。終礼よりも早く早退するのが目立っている。眼鏡とボサボサの髪で地味な印象を与えていたし、授業中の声も覇気がないせいか、他の生徒の私語が絶えない。
こんな先生でも楽しい時があったんだなというのが、亘の感慨だった。せめて、ここでも同じような明るさでふるまってほしい。
その時、職員室の端にある扉から音がした。隣の校長室へ通じるドアである。急に開け放たれると、そこから一人の女子が飛び出してきて、慌てていたのか正面に立つ亘とぶつかった。
「イタタタ……あれ、雛ちゃん?」
「……亘?」
すると、校長室から一人の教師が顔を出した。彼女のクラス、一組の担任の佐奈田だった。あまり評判がよくないのは聞いているが、妙な声色で呼ぶのが妙に気持ち悪く感じた。
「仲里さん、話がまだ終わって――」
佐奈田は、彼女と一緒にいる亘を見ると、少し焦る表情を浮かべ、校長室のドアを閉めた。
雛は逃げるように職員室から出た。なんだが気になった亘が後を追うと、職員室を過ぎた先にある階段ので座り込んでいた。両腕で肩を抱きながら固まっている。ゆっくりと近づくと、亘は息を飲んだ。彼女は泣いていたのだ。男勝りで、少し乱暴だった雛から想像もできなかった。
「大丈夫?」
と、亘はハンカチを差し出した。
「何でもないから」
「何にもないはずがないよ。雛ちゃんが泣くなんておかしい」
「何もない。ただ、嫌味を言われただけ」
「あの先生に何かされたの?」
すると、彼女は振り返りざまに蹴りを入れてきた。それが急所に直撃する。予想外の激痛に、亘はその場で悶絶した。
「引っかかったな、バーカ。学校で雛ちゃんって呼ぶな、クソデブ。今度そう呼んだら、ぶっ殺すからな」
「不意打ちなんて卑怯だよ」
「うるせえ、デブ。なんで、お前があたしの義理の従姉弟になるかな。でも、まあいいか。ちょうどいいサンドバッグ代わりになってくれるし」
「僕はデブでもサンドバッグでもないよ」と小声で負け惜しみを言う亘。
亘と雛は親戚関係だが、血のつながりはほとんどなく、赤の他人同士だった。元々、亘は里子だった。彼の里親になった篠田家と、親戚の仲里家。幼少の頃に親戚の集まりで会って以来、今のように手ひどい目に遭わされてきたが、二人はいつも一緒にいた。いつ、同じクラスになったらどうしようと亘は内心ヒヤヒヤしていた。
「さてと、ランドセル取りに行こうかな」
「僕もだ」
「ついてくんな、デブ」
「僕はデブじゃない。ちょっと、太っているだけだよ」
「太っているからデブなんだ。ダイエットしろよ」
「いつもジョギングしてるよ」
「それで? あたしがもっとしばいて、痩せさせてあげようか?」
二人が職員室を通り過ぎた際、雛は一度立ち止まった。
「どうしたの、雛ちゃん?」
「ちゃん付けすんな。何か、学校の中、やけに静かじゃない」
「さっき、皆、外に出て行ったよ」
「でも、今はまだ四時なのに」
ふと、雛は壁にかかっていた一枚の絵に目を止めた。黒い背景に浄瑠璃の人形が一体描かれている。真っ赤な着物を着て、白粉の能面がこちらを見つめている。大きな簪を挿した髪は黒く背景に隠れ、白い顔と赤い着物が浮き上がっているような感じだった。
卒業生からの寄贈品であり、題目は『心中娘』とあった。
正直言って不気味な絵だと、亘は思った。クラスメイトは“オトネ様”と呼んで、ここを通る際は手を拝まないといけないらしい。
「気色悪いよね、この絵」
雛の言う通りかもしれない。伝統の優美さ、雅さというよりも先に、不気味という印象を与え、どことなく不安になる。
二人は手を拝む事なく廊下を進んだ。
無人の廊下の壁に掛けられた“オトネ様”。その細い小さな目が蠢いた。二人の向かった先に向かって、ゆっくりと。
38
三人は校庭を横切って目的地を急いだ。目的地のオボロ屋敷までは約二百メートルぐらいで、翔が急に引き返すように叫んだ。
「あれは何だ?」
最初に発見したのは、一也だった。
グランドの中央から抜き出た棒切れのような物体が動いて、こちらに向かってくる。近づくにつれて、それは棒切れではなく、三角形の奥行きのある物だった。まるで、魚の尾ひれにも似ている。砂をかき分け、自転車で走るぐらいの速さで、三人の元へ向かってくる。
「あれは……逃げろ! サメだ!」
翔の声に従い、一斉に元来た道を逃げた。尾ひれがすぐそこまで迫る。校舎へ続く石段の上に逃げた直後、砂ぼこりを舞い上がらせて、サメが頭を突き出した。
「なんで、サメなんかいんだよ!」
「ワタルの仕業だ。俺らにあそこまで行かさないためだ」
サメは石段の真下をうろついていたが、やがて、校庭の中心に戻っていく。
翔は石ころを拾い上げて、校門やジャングルジムの方へ投げた。尾ひれはそちらに向かうが、すぐに戻っていく。音だけ出しても、騙しとおすのは難しい。仮に、気をそらす事ができても、校庭の奥にあるオボロ屋敷まで到達できるが、未来には自信もない。
「正面から行くのは無理だな。迂回しよう」
表校舎から校庭を挟んだ先にあるオボロ屋敷。向かって右にはアスレチックと校門があり、向かって左には、新体育館と新図書館が建っている。
翔に連れられて、まずは体育館の方へ向かう。裏手に回ると、斜め方向におぼろ屋敷があるが、まだ相当な距離があった。石段から一歩降りると、サメがやって来るだろう。
「なあ、あれを使おうぜ」
一也が指さす方には鉄棒、その横にはタイヤ跳びが並んでいる。
「まさか、あれで行くの?」
「地面に着かないようにすればいいんだろ。それか強行突破しかないぜ」
「それで行くしかないな」
翔が石段から鉄棒に飛び移った。未来は助走をつけて跳躍する。ギリギリ落ちそうになったが、何とか鉄棒に捕まり、翔に支えられた。続いて、一也も難なく捕まる事ができた。サメの方はまだ中心にいる。三人は鉄棒を移動していく。段違いを過ぎて、端まで辿り着いたのまではよかったが、次のタイヤ跳びまでは距離があった。ジャンプしても届きそうになかった。
「一度地面に降りるしかない」
三人一緒に飛び降りた直後、未来がバランスを崩して無理な体勢で地面に着地した。立ち上がろうとすると、足首に痛みが走った。どうやら、捻挫したらしい。
「未来、急げ!」
砂ぼこりを舞い散らせ、背びれが迫って来る。未来は急いで近くのタイヤに飛び乗った。
「大丈夫か?」
「うん。でも、走るのはきついかも」
「クソッ、帰りはどうすんだよ?」
「帰りはおれがおぶさっていく。今はおぼろ屋敷に着く事に専念しないといけない。悪いけど、未来はそこでじっとしているんだ」
「うん。……ありがとう」
翔は軽やかにタイヤを飛び移っていく。その後を、一也も負けじとついていった。
未来は二人の背中を見守りながら、自分に何かできないか考えた。そばに落ちている石を拾って、サメに当てようと投げてみた。
サメは狡猾にも背びれごと土の中にもぐってしまったので、どこに隠れてのかも分からない。
「ああ、もう」
二人は大丈夫なんだろうか?
特に一也は様子がおかしい。イライラしているような感じだった。
39
どうもいけ好かない、というのが黒澤とかいう奴に対する、一也の印象だった。一つ学年が違うだけで、なんだか落ち着いているし、大人ぶって偉そうだし、しかも、未来に馴れ馴れしい。未来の方は君付けなのに、下の名でで呼びやがって。
今日はおかしな事ばかり起こる。久しぶりに会った未来に、サッカーの試合に観に来てほしいと伝えるもはぐらかされ、妹には使い走りされ、未来には変な男がついているし、学校は何だか様子がおかしい。
そして今、一也はいけ好かない翔に連れられて、徹と美月のいるオボロ屋敷を目指していた。ほんでもって、どうしてか分からないが、校庭の土の中にはサメがいて、自分達をしきりに狙っている。
「大丈夫か?」
翔がいきなり聞いてくる。
「ついて来れそうか?」
「これでもサッカー習ってるんで」
「そうか。おれもサッカーが好きだったよ」
お前よりも上手い。そう言われているような気がした。本当に気に食わない奴だった。
「あの、聞いていいっすか。未来とは何で知り合ったんですか?」
「おれが困っていた時に、彼女に助けてもらった。その恩返しに今こうして同行している。彼女の友人を助けないといけない」
「何かよく分からないっす」
「分からないさ。今のところは彼女とおれしか分からない」
なんだよ、それ。ますます、不信感が募っていくのを、一也は感じた。こんな奴と一緒にいるなんて、未来もどうかしてる。
「君も巻き込んでしまって悪いな。妹も徹と一緒に絶対に助けるから」
「余裕っすね?」
「いや、いっつもじり貧で、ギリギリで危なげない」
タイヤ跳びの端まで辿り着いた。おぼろ屋敷までは、二〇メートルほど。全速力で駆け抜ければ、あのサメをやり過ごす事ができる。
「サメの姿がないな」
「どっかに行ったんじゃないんすか?」
「急にいなくなったことはあり得ない」
翔はそう言うと、持っていた石ころを近くに落とした。すると、地面から勢いよくサメが飛び出した。鋸の形をした牙が口内を覆い、小さな瞳は赤く充血している。
一也は驚いて、タイヤから滑り落ちそうになった。
「やはり、隠れていたな。こいつは昔からずる賢い奴なんだ。今降りたら餌になってしまう。どうにかして、奴の気をそらさないと」
翔はふと、こちらを振り返った。
「おれが囮になる」
「なんだって?」
「おれがサメと鬼ごっこをする間、君がおぼろ屋敷に行って、二人を助け出してほしい。おれも何とか追いつくようにするが、出来るかどうかは神様次第だ」
一也は遠い対岸で待つ未来を眺めた。自分をカッコよく見せたい、そんな思いがよぎる。こんなどこの馬の骨か分からない奴には負けたくなかった。
「いや、俺が囮になります」
「君が?」
「足に自信がありますから」
「だが……できるのか?」
一也は強く頷いた。未来の見ている前でカッコよくできるなら、サメから走って逃げるぐらい訳もなかった。
「分かった。無茶はするなよ」
あまりカッコつけるなよ。そう言われているような気がしたのは癪だった。こうなったら、是が非でも、未来にはカッコ悪いところなんか見せられない。
「任せといて下さい。石をアスレチックの方に投げて下さい。俺が別の方からあいつを挑発します」
「分かった」
一也は足を屈伸させて、その時に備えた。
サッカーに必須なのは、まずはスタミナだ。ホイッスルが鳴ってから試合が終わるまで、ずっと走っていかなくてはいけないからだ。サッカークラブでは練習として、必ずグランドを三周走るのを日課にしている。レギュラーなら集団の先頭を駆けて、ビリに追いつくぐらいの走力がなければ話にならない。
もう一度、体育館側の石段に立つ未来を眺めた。今度の日曜の試合にも、観客席にあいつがいれば、きっと活躍ができる。今はその練習だと思えばいい。
「行くぞ」
翔の声が飛んで、石を構えた。
「あまり無茶はするな。危ないと思ったら、すぐに逃げろ」
「分かってますって」
うるさい奴だな。さっさと投げろよ。俺が時間稼ぎしてやるんだから、足引っ張るんじゃねえぞ。
翔が大きく振りかぶり、石を投げた。石の落ちた音を聞きつけて、サメが頭を出した。猪突猛進の勢いで向かっていった。
「今だ!」
一也は地面に降り立った。そして、サメとおぼろ屋敷は別の方から大声を上げる。
「こっちだ。馬鹿ザメ!」
尾ひれが方向転換した。そして、一也の方へまっすぐ砂をかき分ける。
その間、翔はタイヤから地面に降り立ち、オボロ屋敷の方へ駆けていく。やがて、その背中が扉を開けて中へと消えるのを確認すると、一也はサメの追撃を振り切った。ギリギリのところで左右に回避すればいい。尾ひれが消えたら、高オニの要領で高い場所に逃げればいい。
見ていてくれよ、未来。俺がクールに、間抜けなサメをおちょくってやるから。
一也の心身は、今までにない興奮で熱を帯びていた。
40
亘は教室に残していたランドセルを背負って教室から出ると、ちょうど隣の一組から出てきる雛と鉢合わせした。まさに息のあったタイミングだった。
「何で一緒に出てくんの?」
「偶然だよ」
「まさか、あたしを待ってくれたとか?」
「思い過ごしだと思う」
雛の肘鉄が横腹にヒットした。口に出してはいけないキーワードだったようだ。
「あたしの勘違いか」
そそくさと歩く雛の横を歩きながら、亘は恐る恐る聞いてみた。
「さっきの事なんだけどさ……」
「あたしがあいつと校長室にいた事を漏らしたら、絶対殺すから」
「……うん」
亘はそれ以上なにも追及しなかった。きっと、何か嫌な事を言われたのだろうけど、それに同情されるのを雛は嫌うのを知っていた。昔から意固地な面があるのだ。そのせいか自分にばかり当たってくる。彼女には、サンドバッグを持たせてあげるべきだと思った。
「分かった。僕は何も聞かないから。でも、辛かったら誰かにに相談した方がいいよ」
「篠田はあたしを心配してくれるんだ」
「一応、いとこだし」
「言っとくけど、あたしの方が早生まれなんだから従姉だからね。あんたみたいな弱虫でメタが従兄なんてないからね」
雛はそう言っているが、彼女の生年月日を亘は知らない。本人が言いたがらないせいだった。だからといって聞くには怖い。
「分かったよ。じゃあ、今度からは雛お姉ちゃんって呼ぶから」
「呼ぶな!」
雛の一撃に備えて、亘は口を塞ぐ仕草をした。自分よりも小柄とはいえ、喧嘩がとても強い。お正月に親戚一同で集まる場でもどれだけいじめられた事か。
これ以上口を滑らさないようにしよう。亘はそう決めていると、前方の雛が急に立ち止まってぶつかりそうになった。
「どうしたの、雛姉ちゃん?」
脇腹に二発目の肘鉄を喰らった。以外と痛い。
「呼ぶなって。ねえ、あれは何だと思う?」
雛が指さす方、五、六メートル先の角には人の姿があった。なんだか奇妙な格好をしている。上下とも赤い服、それも袖や裾が異様に長い。どうやら着物のようだと分かると、余計に場違いな感じで奇妙だった。
裾が動いて、その人物が顔をこちらに向けた。
「あっ!」と声を上げる雛。
相手は人間ではなかった。真っ白な顔に直線的な細い目に小さな口、その両端には立ての筋が入っている。髪は時代劇の女性に観たいに結っていて、金色の簪を挿している。その姿はどこかで見た事があり、亘はすぐに思い出した。
「オトネ様だ」
「そんな訳ないでしょ」
「でも、あの絵にそっくりだよ」
まるで、あの絵の世界から飛び出してきたようだ。そのオトネ様がぎこちない動きでこちらに向かって歩いてくる。左右の肩を上下させながら、すり足でゆっくり。頭だけは二人を見下ろしている。
「どうしよう」
逃げようと思ったけれど、雛に袖を掴んでいたためできなかった。
「馬鹿ね。こういう時は普通にしとくの」
「普通に?」
「誰かがふざけてんのよ、きっと」
雛に引っ張られるようにして、亘も歩き出した。廊下の端に寄りながら、オトネ様らしき人とすれ違おうとした矢先、そいつが歩みを止めた。首だけを傾けて、二人をじっと見つめる。亘は慌てて顔をそらした。
「キョロキョロしないの」
雛にお尻をつねられた。悲鳴をこらえた亘は早足でオトネ様をやり過ごした。さっきから手が痛いと感じたのは、隣を歩く雛が手を強く繋いでいたせいだった。少し震えているのが分かった。
亘はどうしても気になってしまい、止めておけばいいのに後ろを振り返った。オトネ様は立ち止って、首だけを後ろに巡らしてこちらをじっと眺めていた。
「雛ちゃん」
「何?」
「角を曲がったら、ダッシュするね」
雛は最初、困惑したような表情を浮かべていたが、無表情が崩れて、亘は少し安心した。彼女が小さく頷くのを確認する。
そして、角を曲った直後、亘は一斉に走り出した。雛も同時に駈け出す。階段を落ちるように駆け下りて、一階まで走り、長い廊下を過ぎて下足場に到着した。各自の靴を掴むと、履かないままに外に飛び出した。
お互いに荒れた息を整えながら、その下駄箱に背に座り込んだ。
しばらく言葉が出なかったが、雛の方から「やるじゃない」と言ってきた。
「でも、生意気だよね。亘の分際で、このあたしに指図するなんて」
「雛ちゃんだって、怖がっていた癖に」
脇腹に肘鉄。さっきよりは痛くなかった。
「今度、雛ちゃんって言ったら、絶対にぶっ殺すからな」
さっきは怖がっていたのが嘘のようだった。それにしても、さっきのあれは一体誰だったのだろうか。悪ふざけだと思うけど、それにしても不気味だった。
「じゃあ、帰ろうか」
亘が立ち上がろうとすると、雛がまたこちらを見つめたまま黙り込んでいた。彼女の視線は亘の先に注がれている。亘がそちらを見る途端、時間が止まったような気がした。
さっき、逃げたはずのオトネ様が隣で首を傾げながら座っていた。無表情の顔には感情がなく、ただただ不気味さだけがあった。
その顔が急に変貌した。小さな両目は回転して、見開いた赤い目に変わり、平面の口は牙の並ぶ大きなそれに様変わりした。そして、頭のてっぺんには二本の角が飛び出した。
亘と雛はせきを切ったように悲鳴を上げた。