居眠り少年と元天才子役
33
篠田亘が五年二組の教室に戻ると、ちょうど次の授業が始まろうとしていた。ロングホームルームの時間だが、教室の中にはカメラが何台も置かれ、テレビ局のスタッフが準備を進めていた。
六時間目の始業鐘が鳴ると、担任の金江先生に付き添われるようにして、男の人が教室に入ってくる。すると、部屋の端に待機していたスタッフが生徒に向けてプラカードを掲げた。
『拍手!』
皆は慌てて、支持された通りに喝采を適当に送った。亘には見覚えのない人だった。あまりテレビは観ない方だけど、他の友達に聞いても知らないタレントだという。
「あのおっさんって誰だと思う?」
隣に座る高橋一也が聞いてきた。
「分かんない。誰も知らない有名人かな」
亘の感想に一也は小さく吹いた。
一也は同じ班の彼はサッカーがうまくて、地元のリトル・チームに所属している。最初は新しいクラスに打ち解けるきっかけを作ってくれたのが、気さくに話しかけてくれた一也だった。
知らない有名人は颯爽と登場すると、用意されていた椅子にどっと座った。
「皆さん、今日は有名なお客さんが来てくれました。元天才子役で、俳優の佐藤太助さんです。佐藤さんはこの学校の卒業生なので、皆さんの先輩に当たります」
淡々と説明していく金江先生は、陰気な感じをいつも崩さない。地味な眼鏡とほつれの目立つ髪のせいだろう。海外で教師をしていた異色の経歴を持つが、今は普段から大人しい女性教諭なのが有名で、こちらが話しかけるぐらいしか、生徒とのコミュニケーションはなかった。
「どうぞ、佐藤さん」
金江先生からマイクを渡されると、佐藤は咳払いしてから言った。
「皆、こんにちは。まずは質問だ。僕をテレビで見た事のある子はいないかな?」
反応なし。と思ったら、一人が手を上げていた。佐藤の目が輝いた。
「はい、そこの子!」
「ええと、この間やってた。サスペンスドラマの再放送で、お母さんと見ました。冒頭で死体で見つかる役ですよね。女子高生をラブホテルに連れ込もうとして」
どよめきが起こる。「エロい!」と「キモい!」の大合唱。「おい、ラブホテルって何だよ?」と能天気な質問が少々。「エロいホテルだよ」
「他にはいないかな?」
「はい」と、手を上げた他の生徒。
「昼ドラに出てくる浮気相手の役ですよね?」
また、どよめき。
「ラブホに浮気って、エロ過ぎ!」
「なんか、大した俳優じゃないよね」
「うん。なんか、先輩って名乗ってほしくないよね。こっちが恥ずかしいもの」
最前列で囁き合う仲良し女子。容姿も服もが似ているのは、彼女達が双子のせいだった。
「そこの君達! そうそう、そこのツインズ。僕は今でこそ、脇役に徹しているが、君達ぐらいの頃は、学校に行く余裕もないほどの天才子役だったんだぞ」
『天才とは何か?』
佐藤に黒板にこう書くと、チョークでこつこつ叩いた。
「今日の題目はこれだ。天才は一日にしてならずという言葉があるが、中には持って生まれた者もいる。この少年がそうだった」
持ってきた大きなポスターを取り出して貼り付けた。等身大の少年の姿がそこにあった。奇妙な衣装を着て、不敵な笑顔を向けるその顔は佐藤のニヤケと重なった。
「この子の名は青空小宇宙。かつて、九〇年代を騒がした天才子役であり、二十年前の僕でもあった」
「変な顔」
「あんなので子役なんかできたんだ。昔の人って、視力が悪かったのかな」
「自分で天才子役って、自画自賛っていうんだよね」
「てか、小さな宇宙でコスモって、完全にDQNネームだよな」
ヒソヒソヒソヒソと虫の這うようなささやきにも負けず、自称・元天才子役は滔々と語り出した。
「始まりは一九九一年の夏、カレーライスのCMに出た僕は、そのかわいさと小生意気さを注目された。その後、ドラマの脇役に出たのがきっかけで徐々にブレークしていった」
亘は欠伸を押し隠そうとした。有名人の卒業生が母校を訪ねて、一クラスの講師になる番組、『先輩のLHR』に選ばれた五年二組。でも、題目からして眠くなりそうだった。目の前がぼやけてきたら黄色信号、頭が重く出しだしたらもう駄目だ。後は睡魔に飲み込まれるのを抵抗しつつ、こっくりこっくりを繰り返す羽目になるだろう。
元天才子役が語る過去の栄光が御経のように聞こえてくる。
頭が鉛のように重くなる。もう駄目………撃沈寸前だった。
「ケッケッケッケ」
ふと、誰かの笑い声が聞こえた。蚊の羽根音に似た耳障りな感じに、まどろみかけた意識が目を覚ました。亘は声の主を探したが、誰もがOBの退屈な話に頬杖をついていた。
「つまらない授業だよな、亘」
また声がする。さっきとは別の方からだった。亘は周りを見渡す。
「こっちだ」
次は前の方から。後頭部しか見えない。
「そう、そう、こっち」
声がしたのはさらに前の方からだった。佐藤の声は聞こえなくなっていた。供託に立つ彼は口パクしているのだけで、しゃがれた声が出ていない。教室中が静かになっていた。
「ケッケッケッケ……」
「どこにいるの?」
「こっちだ、間抜け」
黒板に貼られたポスター。十一歳当時の佐藤であり、九十年代に子役ブールで全国を席巻した少年、青空小宇宙。その顔がこちらを向いてた。くりんとした目がいつの間にか、赤く充血して、光彩がやけに小さい。赤く染まった頬は青白くなり、老人みたいに痩せこけている。
小さな口が開いた。頬を引き裂いて耳まで伸び、そこから覗く歯は牙のように鋭い。顔そのものが別人に変貌した。
亘は席を立った。隣の一也もじっとしたまま動かない。他のクラスメイト同様だった。
「怖がらなくてもいい。他の奴みたいに取って喰いやしないさ」
「き、君は誰なの?」
「お前と同じ名前だよ」
「ワタル……?」
「そうだ。親近感が湧くだろ」
親近感も何もない。悪夢の世界にいるんだと、亘は自分に言い聞かせた。講師の退屈な話で寝てしまって、今の自分は白昼夢の世界に迷い込んでいる。こんな事が現実にある訳がない。これはきっと……。
「これが夢か? もしそうなら、お前は二度と起きる事はない」
ポスターの中のワタルが動いた。腕を前に突き出すしぐさをする。すると、ポスターをベリベリ破きながら抜け出てきた。
「このオレに生きながら八つ裂きにされるのさ」
亘は小さく叫ぶと、教室の扉へ向かった。開けようとしたが、ビクともしない。窓も全然動かない。
「篠田くん、何をしてるの?」
一人がそう呼びかけた。亘は腰を抜かした。クラスメイト達が首だけを後ろに向けたまま、全員、こちらを向いている。彼らが席を立ち、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「やめて、来ないで……」
教室の隅に追いやられた亘は顔を隠して、一心に心に念じた。これは幻か夢だ。本当に起こるはずがない。早く、目を覚まして。
「どうした、篠田?」
「そんなところでうずくまってさ」
上から一也の声がする。よかった、夢から覚めたんだ。亘は顔を上げた。
目の前には、クラスメイトの顔が一斉に覗き込んでいた。目と口が空っぽだった。
「仲良くしようよ、亘くん」
のっぺらぼうの百面相が覆いかぶさった。。
「うわあぁぁっ!」
亘は悲鳴を上げた。途端、足元の床が消えて、体が宙に浮いた。
そして、闇の底へと落ちていった。
34
急にドスンッと音が響き、佐藤太助は話を中断した。生徒の一人が席から転げ落ちたらしい。担任の金江や生徒が駆け寄る。
「何やってんだよ、篠田?」
篠田と呼ばれた小太りの生徒が隣のやつに支えられながら、机から起き上がる。顔色が血の気が引いて真っ青だった。椅子の角か床で打ったのか、額から血が流れている。
一人が騒ぐと他に伝播していき、教室中が騒然となった。
「保健係の人は、篠田くんを保健室まで連れて行って下さい」
二組の担任である金江先生の指示で、数人が彼を教室から連れて出て行った。
「どうしたんだろうな、篠田」
「熱中症じゃねえの?」
近くにいた生徒がささやく。教室の中はクーラーが効いているので、それはあり得ない。それにしても、学校の教室にエアコンがついているなんて時代が変わったものだと、元は内心呆れた。もっとも、小学校の時分は数えるぐらいしか通っていなかったから、はっきり言って覚えていないのだが。
「話が退屈だから寝ちまう気持ちも分かるけどな」
うるせいな。元は教卓に戻ると、スタッフが駆け寄った。
「申し訳ありませんが、撮影を中断してもいいですか、カメラの調子が悪くて」
「ああ、そうなんだ」
佐藤はいつもの癖でタバコを取り出した。
「あー、タバコ吸ってんぜ。学校で喫煙はいけないんだ!」
一人の野次が飛ぶ。ああ、うるせえな。だからガキは嫌いなんだよ。頭をかきながら、佐藤は近くにいたマネージャーを呼んだ。
「萌ちゃん、喫煙場所とかないの?」
マネージャーの加野崎萌は髪を染めているが、顔自体は田舎から出てきたような素朴な感じの子だった。端的に言えばイモ臭い。だが、ケバい女よりはマシである。子供の時は青空小宇宙の大ファンだったらしく、サインをもらった事もあるらしいが、当然ながら記憶にはない。
あの頃は、腱鞘炎になりかけるまでサインを書かされたものだ。挙句は事務所から断るように要請を受けたぐらいだった。そう、あの頃は、こちらがほっといても人がワンサカ寄ってきたものだ。
萌は慌てて、手帳で確認した。
「すみません。この学校は全館禁煙なんですよ」
「ああ、そう。じゃあ、外で吸ってくるよ。撮影再開する時は呼んでね」
未だに私語が静まらない教室を後にして、太助は中庭へ向かった。表校舎と裏校舎の隙間にある中庭には、ウサギの飼育小屋と、風変わりなジャングルジムがあったはずだ。
中庭に出ると、太助は足を止めた。日蔭の差す芝生の広場の真ん中に、そのジャングルジムが鎮座していたためだった。
まだ残っていたのか、という懐かしさがこみ上げてくる。
それは、タイヤを積み上げたアスレチックである。中心にはダンプカーに使われていたような、二メートルくらいのタイヤが重なり、その周りをトラックのタイヤが並んでいる。廃棄処分になる物をどっかからもらって来て、再利用したのだろう。タイヤ島と当時は呼んでいたか。
太助はタイヤ島の頂上までよじ登ってみた。タイヤとタイヤの隙間に足をかけ、溝に手を差し込む要領は、中年になってもそつなくできた。体は覚えているようだ。高いと言っても、実際は二メートル半くらいしかない。子供の頃はけっこう高いと思っていたが、年を取った証拠だろうと、口にフィルターを添えてある事を思い出して笑った。
「やっぱり変わらないな」
芸能活動でただでさえ少ない授業をサボっては、時々、こうやって一服した。誰にも見られていないと何度も確認した。それだけは神経を研ぎ澄ませて気をつけたつもりである。
きっかけは小学四年になった頃だった。当時、映画の撮影現場から、スタッフが忘れたタバコを拝借したのが悪癖の始まりで、煙草の味がストレス解消になると知ってからは、罪悪感など消えていた。以来、人気のない便所と並んで秘密の吸い場になった。吸い殻はタイヤの隙間に隠せるのも、重宝した理由だった。
我ながら、結構無茶をしたものだと思う。天才子役、喫煙の疑いなんてゴシップが一つも出なかったのは奇跡だろう。なんて言っても、学校にまでもぐり込んだブンヤもいたぐらいだった。
太助が自分が子役という仕事をしていると“認識”するようになったのは、五歳の頃だった。周りが公園の砂場で山をつくり、ブランコや滑り台で遊ぶ中、自分は大人がたくさんいるセットのある部屋で、言われたとおりの言葉やしぐさをした。そうするだけで母親が褒めてくれたし、欲しい物も買ってくれた。
小学生に上がると、仕事をする日が増えた。CM、ドラマ、バラエティ、映画、サイン会。出演すればするほど、カメラに映る出番も増えた。反対に入学式から学校に行く回数も減った。
入学当時はクラスの皆と仲良くしたいと思い、親に泣きついた。母親はその度にこう言っていた。
「あんたは他の子とは違うの。だから、勉強なんかしなくてもいいし、本当は学校にも行かなくてもいいのよ」
「どう違うの?」
僕は皆よりも頭が悪いの? そう聞き返すのもお約束だった。
「違うの。太助ちゃんはね、選ばれた子なのよ。皆は選ばれなかったから、学校へ行って勉強しないといけないし、大人になるとね、サラリーマンって言って、すごくつまらない仕事をして死ぬまでずっとしなくてはいけないの」
でも、太助ちゃんは天才から、勉強しなくてもいいの。サラリーマンにならなくても、大金持ちになれるの。だから、お母さんの言う通りにしてちょうだい。
母親の説得は、定期的に聞かされた。キツイ仕事で音を上げた時、思うような演技ができずに怒られた時。その繰り返しだった。
二年生に上がる頃には吹っ切れて、自分の立場を割りきるようになっていた。自分の居場所は学校じゃなくて、スタジオなんだ。学校は、児童法だとかの法律がうるさいから、仕方なく決められた日数だけを通うのだと。
その時から自分は世間と自身をシニカルに観察できるようになっていた。だから、学校にいる時は一人でいた。サインを求める子には、面倒なので予め書いてある色紙を渡し、話を聞かせてほしい子には適当に教えた。写真を一緒に撮ってほしい人には被写体になってやったし、手ともつないでやった。本当に自分が選ばれた人間だと自覚するようになった。選ばれなかった連中の図々しさときたらないただただ求めるばかりで見返りもない。母の言葉を信じて疑わなくなっていた。
そんな態度を見透かされたかは分からないが、三年の二学期からいじめにあった。たしたほどではなかったが、ちょうどその時に喫煙を覚えた。
太助は昔もそうしていたようにタイヤの空洞に入ろうとして止めた。足がなぜか震えた。代わりに仰向けになって寝そべると、校舎から映る空を仰いだ。台風が過ぎ去った後なのか、夏にしては心地よい風が吹いている。
学校に登校した日も少なければ、関わった人間の名前もあまり記憶にない。だが、どうして、この場所だけはっきりと覚えていた。
そろそろ戻ろうと思い、短くなったフィルターをタイヤの隙間に差し込もうとした。当時もそうやって隠していたんだったか。その時、頭の中に前触れもなく、一つの映像がよぎった。
35
一九九五年の七月十一日――いつものタイヤの上に座りながら、人目を気にしつつタバコに火をつける大空小宇宙こと、佐藤太助。平凡な本名を嫌い、学校の中でも芸名で通っていた。ついていけなくなって久しい授業に加え、仕事でのストレスに悩むたびに、適当な理由で授業中の教室から抜け出しては、誰もいない中庭のタイヤ島のに潜って、一服するのが彼の日課だった。
ホントにやってられない。算数は加減乗除で止まっており、分数少数なんて未知の学問だったし、国語も本を読む時間もないので、漢字に至っては基礎的なもの以外、ルビでも振ってもらわないとほとんど読めない状態だった。それに不安を感じないと言えば嘘になるが、そういった不安も大人の味のするタバコを吸えば、一時的に忘れられた。
そろそろ休み時間が終わる。誰かがやってこないうちにタバコを隠そうといつものようにタイヤの裏側に押し込もうとした。
コスモは「うわっ!」と声を上げた。
柔らかい感触がして思わず、手を引っ込めた。指先についたそれが最初はなんであるか分からなかった。黄色と黒の模様をした、親指よりも少し大きめの毛虫だった。思わず手で払うと、毛虫はタイヤの側面に当たって潰れた。見たことのない色の血をぶちまける。
気持ち悪さに目をそむけながら、太助はタイヤから出ようとした。
「わあっ!」
目の前にさっきの毛虫がいっぱい張り付いていた。足で踏んだのか、タイヤの底も毛虫でいっぱいだった。キィキィと断末魔が聞こえる。
太助はタイヤから逃げようとするとした時、頭上が急に暗くなった。
そこに小柄な人影が現れた。
「助けてよ!」
太助は必死に叫んだが、相手は事もあろうにけらけらと笑う。
「いいざまだな、天才子役」
相手が大きな口を広げた。顔の半分はありそうなぐらいある。小さな鼻の上に、大きな赤い目が輝いており、獲物を捉えた肉食の獣を想起させた。
こいつは人間じゃない。
「お前はそこに死ぬまでいるのがお似合いだ」
急にタイヤの中がくらくなる。黄色と黒に光るウジが上からぼとぼと落ちてくる。セットしたばかりの髪にへばりつき、顔にかかった。
太助は情けない声を上げた。
「開けて! ここから開けてよ!」
その口に何かが入った。
なんであるかは言うまでもなく、声にもならない叫びを上げた。
36
タバコが口から落ちた。紫煙の香りも漂ってこなくなっていた。
ここに今、あるはずがない。確か、タイヤ島は自分が六年生の二学期頃、タイヤに嵌って怪我をした生徒がいたのだ。それが原因でジムは撤去されたのだ。それ以来、秘密の喫煙場所はもっぱらトイレだけになってしまった。
欠席日数の方が多かった小学校時代の些細な記憶。それが突然にして鮮明に浮かんだ。
どうして、今まで忘れていたんだ?
じゃあ、自分がいるのはなんだ?
何を掴む感触があり、それを拾い上げた。太助は悲鳴を上げて投げ捨てた。親指ぐらい大きな毛虫、、忘れもしない、あの黄色と黒の斑点をした蛆が無数にうごめいていた。タイヤ全体を覆い、服もまとわりつこうとする。
太助は慌てて、地面に飛び降りて、ズボンにへばりつく虫を払った。柔らかいゴムをつかむ感触が不快だった。一体、何が起きているのか、頭が理解できていでいた。
「ケッケッケッケ」
子供の声がした。妙に甲高く神経を逆なでするような嘲り。
タイヤに埋め尽くす蛆の群れが、いつの間にか集まり出して、人の形をつくり出していく。最初に顔の輪郭が現れた。妙に目が大きく、瞳が小さい。口が頬まで広がっている。服はまるで戦争ドラマや映画に出てくるような、古い学生服の姿をしている。
赤い目がぎょろりと回転して、こちらを見てから口元を歪めた。
「よお、元子役」
「お前は……」
俺はこいつを知っている。
「落ちぶれたな。それとも、始めから大した事のない奴か」
「……お前なんか知らない。お前なんかが、ここにいるはずがない」
「いいや、オレはずっといる。お前がここに帰ってくるのを待っていたんだ」
急に足が動かなくなり、石を積んだように重く感じた。下を見て、太助は叫んだ。地面の芝生がいつの間にか、ウジ虫で覆い尽くされていた。ぬかるみのはまるようにして体が沈んでいく。
「大人になれば助かると思ったか? そうじゃない。お前がここに戻ったのは、オレに喰われるためだ。今度は逃がさないぞ、佐藤太助」
体はすでに胸の辺りまでウジの沼に沈みつつあった。やがて、顔まで届くと、ヌメヌメと動く群れが口や鼻にまで入ってきて、耳の穴に這って入ってくる。頭の中をかき回される恐怖は言葉にできず、太助は声にもならない叫びを上げた。
どれだけ時間が過ぎたか、気がつくと耳元に携帯の着信音が鳴り響いていた。
太助は芝生の上で倒れていた。起き上がると、顔や体を必死に確かめたが、ウジは一匹もいなかった。さっきのは現実ではなかったのだろうか。
「もしもし」
電話の相手は、萌だった。彼女からの着信履歴は三件もあった。中庭に出てからだいぶ時間が過ぎてしまったようだ。
(佐藤さん、どうしたんですか? 撮影もうすぐ再開しますよ)
「ごめん。すぐ行く」
(何かあったんですか? 具合でも悪いとか)
こちらの声色がおかしいと気づいたようだ。萌は今までのマネージャーよりも節介焼きだが、さすがに先程の出来事だけは信じてはもらえないに違いない。頭がおかしくなったと思われるのがおちだ。
「いや、怖い夢を見ただけだ。白昼夢ってやつだ。じゃあ、そっち向かうわ」
萌が何かを言う前に、通話を切った。快晴だった空は、いつの間にか陰鬱な灰色の雲が集まり出している。ひと雨来るな。そう思いつつ、校舎の中へ戻る際、中庭を振り返った。
やはり、タイヤ島は跡形もなく消えていた。




