35.憂鬱な男
またもや、何かの音で意識を引き戻された。
今度は女性の声だった。
「拾蔵君、大丈夫? 聞こえる? 拾蔵君?」
茫漠とした意識の中ではあったが、しかし声の主はすぐに分かった。琴音だ。
瞼を薄く持ち上げると、開放された玄関扉から陽光が射し込んできており、同時に琴音の必死な表情が視界に飛び込んできた。一体何故、彼女がここに居るのか。夢でも見ているのか。
その琴音の後ろに、これまた見覚えのある人影がふたつ。隣に住んでいる老夫婦だった。
「琴音さん、今、救急車呼んだから」
別角度から、玖瑠美の声まで聞こえてきた。彼女が、こんなところに居る筈がない。ということは、これは矢張り夢か。
しかし夢にしては妙にリアルだし、自分の頬や額に触れてくる琴音の手は外気に晒されていたのか、随分と冷たく感じた。
それからしばらくして、救急車のサイレンの音が遠くで鳴り響いている様に感じた。
更に数分後、今度は何故か和香と沙苗が連れ立って、救急隊員を案内してくる声まで聞こえてきた。
ここまで生々しい夢を見ているということは、自分はもう本格的に駄目なのかも知れない。
せめて最期ぐらいはマインドシェイドの面々や、琴音にお別れの挨拶をしておきたかったが、それももう叶わないだろう。
そして、その後のことはよく覚えていない。
誰かに声をかけられた様な気もするが、それが現実だったのかどうかもよく分からない。
しかし再びはっきりとした意識を以て目覚めた時、拾蔵はどうやら自分がまだ死んでいないらしいことを理解した。
瞼を開くと、まず最初に白い天井が見えた。そして薬品の匂いが漂う独特の空気感。
ここは恐らくどこかの病院の病室なのだろうと、すぐに直感した。
ということは、あの救急車のサイレンは現実だったということになるのだろうか。
ふと横方向に視線を流すと、ベッド脇でうつらうつらと船を漕ぎつつある琴音の美貌がそこにあった。
「琴音さん……大丈夫ですか?」
かすれた声で訊くと、それまで茫漠としていた琴音の表情が急にはっきりとした感情の色を張り付け、物凄い勢いで拾蔵の顔を覗き込んできた。
「拾蔵君……目が、覚めたんだね」
不思議と涙声だった。いや、よく見ると本当に琴音は涙ぐんでいる。彼女はただひたすら良かった、本当に良かったと繰り返すばかりであった。
しかし拾蔵は、やらかしてしまったと後悔の嵐。
よりにもよって、琴音に手間をかけさせてしまうとは何たる失態か。もう情けなくて声も出なかった。
「琴音さん、すんません。要らん手間かけさせてしもうて」
「そんなことは気にしないで……でもね拾蔵君。今回は私、本気で怒ってるんだからね」
矢張り、琴音は余計な手間と時間を取らされたことに怒っているのか。これは退院後の早いうちに、改めて謝罪にお伺いさせて貰わなければならない。
とはいえ、兎に角今は、謝れるだけ謝って誠意を示しておくべきだろう。
「いや、本当に、申し訳ない、です。折角の、貴重な、お休みを、俺なんかの、為に、潰させてしもうて」
「だから、そういうことじゃないの、拾蔵君」
琴音の声が外にまで聞こえたのか、玖瑠美や和香、沙苗、更には美奈貴といった面々が嬉しさと安堵の入り混じった笑顔を浮かべながら室内に入ってきた。
が、いずれも琴音の真剣な表情に気付いたらしく、その場でつと足を止めた。拾蔵が説教を喰らっているのだから、邪魔をしては拙いと判断したのだろう。
そんな彼女らに一瞬だけ視線を流してから、琴音は再び拾蔵の面を真正面から見据えた。
「拾蔵君はどうして、もっと私を頼ってくれないの? 今回だって、多分私の手を煩わせちゃいけないとか、そんなことを考えて御実家のマンションに逃げてたんだよね? 違う?」
拾蔵は神妙な面持ちで琴音の説教を聞いているのだが、しかし彼女の台詞が思わぬ方向に転び始めている。一体何をいっているのか、正直未だによく分からない。
琴音を頼ってはならないのは、当然の話だろう。
彼女はひとり暮らしの、うら若き美貌の女性だ。そんなひとに、ただ図体がデカいだけの餓鬼の為に余計な時間を取らせてしまうのは、余りに失礼ではないか。
「いや……琴音さんには、琴音さんの、お時間ってものが、あるでしょうし」
と、そこへ中年女性の看護師が現れ、拾蔵はまだ本調子ではないから余り根を詰めて話をしないようにと釘を刺していった。恐らくこの後、担当医がやってきて拾蔵の状態をチェックする筈であろう。
この時琴音は一応従う素振りは見せたものの、彼女の言葉が止まることは無かった。
「拾蔵君さ……どうしていつもいつも、自分だけ他のひとの為に頑張ろうとしちゃうの? どうしてそんなに、自己犠牲の精神で動こうとしちゃうの? 拾蔵君は私が寝込んだ時には付きっ切りで看病してくれたし、ヤリサー連中からも助けてくれたし……拾蔵君が私の為に時間を割いて、体を張って頑張ってくれたんだから、私だって拾蔵君の為に色々してあげたいの。もっと拾蔵君の助けになりたいの」
いつの間にか琴音は、拾蔵の大きな手を柔らかな白い両手で包み込む様にして握り締めていた。
そして更に気付けば玖瑠美、和香、美奈貴、沙苗の四人もベッドを囲む様にして佇んでいた。
「正直、私がどんなに拾蔵君の為に色々してあげたとしても、私が拾蔵君から受けた恩の方が全然大き過ぎて、本当に返し切れるか自信は無いんだけどね」
「いや、そんな大袈裟な……」
ところが、拾蔵のそんな否定の声を、更に強い調子で玖瑠美と和香が否定した。
「大袈裟なんかじゃないよ。笠貫君は大したことは無いっていうけど、あたしをSNSの中傷から助けてくれたのって、あたしの中では本当に、物凄く大きなことなんだよ」
「……右に同じ。あたしもトレパク疑惑から助けてくれたこと、絶対一生、忘れない。それぐらい大きなことを拾蔵君はしてくれたんだから」
そんなふたりの言葉に勢いを得たのか、琴音は更にその端正な美貌を拾蔵の面の間近に寄せてきた。
流石にちょっと近過ぎるのではと思ったが、拾蔵は余計な台詞は吐かずに黙っていた。
「はっきりいって拾蔵君、自己評価低過ぎ。世の中には全然大したこと無い、イミフなぐらいに自己評価高過ぎるチャラ男な連中が多いのに、拾蔵君はその真逆だよね。もっと自信持って良いと思うんだけど……」
溜息を漏らす琴音。
しかしそれ以上に溜息を漏らしたい気分は拾蔵の方だった。勃起不全である以上、男としては最低ランクにある自分がどうして自信など持てる筈があろうか。
と、そこへ先程の看護師が担当医を連れて戻ってきた。
漸く琴音の説教から解放されたと、拾蔵は少しばかりほっとしたが、琴音も、そして彼女以外の女子達も、まだまだいいたいことがあるといわんばかりの表情で、拾蔵の面をじっと見つめ続けている。
一体どうすれば、自分は一生自信など持つことが出来ない人間だということを分かって貰えるのか。
少しばかり、憂鬱だった。




