忘れさせてあげる
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「リエナ!」
背後から掠れるような声で名前を呼ばれる。しかし今は振り返ることが出来ない。気持ちとは裏腹に止まらない涙で視界が濁って世界が歪む。
後ろから追いかけて来る足音がどんどん遠くなる。こんな時に自慢の足の速さが役に立つと思わなかった。自分を見てもらいたくて努力した成果を、自分を見てもらいたくなくて使うなんて、なんて皮肉なんだろう。
今ならどこへでも行けそうな高揚感と悲しい気持ちがぐちゃぐちゃになって混乱する。周りの景色がスローモーションのようにすぎていく。このまま走って誰も知らないところまで行けたらいいのに、などと現実逃避が止まらない。
リエナは荒い呼吸を繰り返しながら後ろを確認する。テオが付いてきていない事が分かると、校庭の端にひっそりと佇む朽ちかけの教会へと足を踏み入れた。
ここは寄宿学校が城であった時の名残で、今は何にも活用されず廃虚となっている。例に漏れずここにも幽霊が出るという噂が流れていて、ここに近づく生徒は居なかった。それ故、ここは図書室の次にリエナのお気に入りの場所になっていた。廃教会に出入りするところを見られるとどんな噂が立つか分からないため、滅多に来ることはなかったが。
夕暮れ時には朽ちた天井から鮮やかな光が差し込み、早朝には爽やかな風が吹き込む気持ちがいい場所だった。
はぁ、と肺の空気を搾り出すように吐き出す。激しかった呼吸は落ち着きを取り戻し、滲む視界は乱暴にセーターの袖で拭われ本来の世界を取り戻した。とめどなく流れ出ていた涙は昨日で尽きたのだろうか。それとも皮肉なことに傷つくことへの耐性でも付いてしまったのだろうか。理由は分からないが、それ以上涙は溢れてくることはなく、心の中で留まっているのを感じた。
リエナは少しの冷静さを取り戻しつつ、教会の奥にある個室へと入っていった。そこは、様々な秘密を告白したり、罪を犯した人が赦しを乞う懺悔室だった。中へ入ると床に座り込み膝を抱えて丸くなった。立てた膝に顔を埋めると目を閉じる。狭く囲われた世界はリエナの心を落ち着かせた。
冷静に思考が動き出すと今さっきまでの行動に後悔の気持ちが強くなってくる。確かに覚悟はまだ出来ていなかった。しかし、現実は見れるようになったと思っていた。実際はどうだろう。取り乱した挙句、取り繕うこともせず走り去る暴挙。心配して追いかけて来てくれたテオさえまいて、自分を守ることだけを考えている。
考えれば考えるほど、枯れたと思っていた涙が溢れ始めた。誰にも見られることがない、自分を偽る必要がないのだと思えば思うほど、スカートが深い色に染まり始める。
友達と上手くいかなかった時だって、裏で噂話をされていた時だって、成績が良いことを僻まれて悪態をつかれた時だって、こんなに感情的になることは無かったのに。
止まらない涙はもう自分の意思とは関係ないところまで手離してしまった気がした。
「ごめんなさい……」
懺悔室で言葉を出すということは、赦されたいことがあるということだ。
それは他でもないフィリーネへの懺悔だった。
「フィリーネは悪くない……わたしが悪いの……なのに」
途切れ途切れになる言葉を必死で紡ぐ。嗚咽混じりの声は今まで聞いた自分の声の中で一番醜いものだった。
「フィリーネのこと、疎ましいと思ってしまった……あの子さえいなければって…………」
自分の言葉に驚いたとともに、胸につかえていたものがすとんと落ちたような気がした。誤魔化して、なんでもないような顔をして、自分の心に蓋をして、フィリーネへの本音を閉じ込めようとしていたのだ。自分自身が認めていない感情を、自分はどう処理ができると思っていたのだろうか。
涙の理由は殆どがフィリーネのことだった。フィリーネの様子を聞かれたとき、咄嗟に嘘をついてしまった。フィリーネの嬉しそうな笑顔を、弾んだ声を、まるで何もなかったかのように、嘘をついて隠してしまった。そんな自分が浅ましくて一気に嫌になった。
「大好きなのに、フィリーネも、カルヴィンも」
息が詰まって過呼吸になりそうになる。しかし言葉を止めようとは思わなかった。
「二人が一緒にいるところを想像するだけで気分が落ち込むの……」
まだ見ぬ先の未来を想像しては押し潰されそうになる。こんなことを考えること自体不毛だとも思うのにやめられない。きっとフィリーネとカルヴィンは二人で幸せな未来を歩んでいくだろう。しかしそこにリエナが寄り添える未来はきっとない。
「こんな思いするくらいなら、全部忘れられたらいいのに……」
大きく息を吸ってそのまま吐き出す。吐息同然の声は反響せず、人知れず静かに消えていく。はずだったが。
「じゃあ忘れさせてあげる」
どこからともなく聞こえた声は、緩やかな衝撃を伴って急接近した。
え、と思った瞬間には狭い室内に雪崩れ込む様にテオが押し入ってきた。そして不意に感じる熱い息と体温。
「テ……」
名前を呼ぶ前に頬を伝う涙の跡をなぞる様に触れられ、体が動かなくなる。押し倒されたような体勢で、テオが覆い被さっていて、目の前に顔がある。小柄なテオが乗ってきたところで拘束力はそれほどない。それでも動けないのはテオの目がリエナを捉えて離さないからだ。
リエナは呼吸すらも忘れてテオの瞳を覗き込んだ。外見がそっくりな姉と唯一違う、深い緑色の宝石が苦しげに細められる。
テオはリエナの黒髪を一房すくい上げるとゆっくりと弄ぶ。不意に伏せた視線になぜか心臓が跳ねた。
「俺が忘れさせる、から」
切なげに呟かれた言葉にやけに強い思いを感じ取って呼吸を忘れる。
いつものテオじゃない。
そう思った瞬間、テオは閉じることも忘れたリエナの形の良い上唇を甘噛みした。
ビリっと身体中に電流が走るような感覚。今自分に何が起きているのか、何をされたのか分からずに、ただただ固まりながら、自身の瞳が揺らめいていることにも気付かず、テオの瞳の中に映る自分を眺める。テオの瞳に映った自分は驚くほど間抜けな顔をしていた。




