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Alice in Abyss

時々、ただ長いだけの廊下が怖かった。

明るくても暗くても、静かで長い廊下というのはなんとなく怖かったが、今日は理由がわかった。

広さと、閉塞と、孤独だ。

視界の先はこれだけ遠いのに、閉じていて、視界の先はこれだけ広いのに、独りで、それをずっと感じる。

なので情けない話、隣に庇護するべき女の子がいるだけですごくホッとするのである。


「そういえば、名前聞いて良い?」


「ひろ」


「ひろちゃんか、いい名前だね。あ、私は麗夜。」


女の子から返答はない。

とつとつと、自身の歩調に合わさった音だけが返ってくる。

廊下を歩き、階段を登って、今は3階と4階の間だ。

マンションの構造は一棟一棟に限ればおかしくない。

出口がないこと、出口を塞ぐ棟があることがおかしいのだろう。

階段の折り返しから少し身を乗り出して向かいの棟に目をやると、やはり無数のドアや格子柵のついた窓、おかしな点はない。

左右に目をやっても同様だ。


「何もないね」


今度は女の子が呟いた。

顔色を見るがひどく怯えている様子はなく、子供の適応力は凄い、と十も変わらないであろう麗夜は思う。

静かに俯き目も合わず、どうにも感情の起伏がわかりづらいのでつまらないようにすら見えた。


「早く帰すよ。」


乗り出した体を少し捻って、上方を見る。

唯一見えるわかりやすい脱出口、赤く四角形に切り取られた空である。

直接屋上といかずとも、一つ下の階から跳べば充分に届くはずだ。

手すりから体を下ろして少女の手を取った。

細い指が妙に冷えていたので、包むようにして導いた。

ついぞ4階、異変が現れるならばこの階だろうと思っていたが特に何の異常もない。

廊下へ顔を覗かせて2階や3階とさほど景色が変わらないことを確認する。


「………景色が変わらない」


麗夜は三叉路を思い出した。

二十曰く、あのように歪んだ空間が特異界の特徴らしい。

であれば、この妙なマンションも出られない形になっているのではないだろうか。

思い立って階段から、扉の横につけられた部屋番号を見た。


「………?」


麗夜が思いついたのは階層のループであった。

実際のところ、階段から確認した際は視点が高くなっていたし、植木鉢やドアの装飾など、確認していないだけで差異はあったのである。

しかし彼女が数字、いや文字を見たのは幸運だった。


「80…4?」


麗夜が読むのに躊躇いを持ったのは表示された階層のせいではない、文字そのものだ。

隣の表札を見る。


「…704」


そう読める、そう読んで下手に恐怖しないのは、どういうものか理解出来ていたからだ。

7と4は鏡文字に歪んでいた。

表示は正しいが表記がおかしい。

ここで困ったのは、だからなんだという疑問である。


「おねえさん…?」


「……あ、ごめん。」


足早に階段へ向かう。

疑問の裏に隠れた得体の知れない嫌な予感から目を背けて。

とつとつとつかつとつとつとつかつ、とつとつかつ、

かつ、かつびちゃり。


やけに湿った風が、止まった体を抜けた。


かつ、とん、とんとんとん、かつ。


これは足音だ。

律儀に麗夜はその音を待った。

恐怖から目を背けるために、安心を得るためにだ。

救助が来るのでは無いかと淡い希望を以って待った。

壁からやっと覗いた足がゆっくりと落ちてくる。

小さな足、綺麗な白い足だ。

褪せた水色のスカートが綿毛のようにふわりと落ちてくる。

虫の這い上がるような忌避感が、今すぐに逃げろと叫んだ。

時が慣れ親しんだ早さに戻る頃に、手を引いて走る。

後ろを向いて、背を向けて。

それに背を向けて走っていたはずだった。

連なるドアを走って曲がった先、麗夜は眼にする。

小さい身体、ともすれば隣の少女と同じくらいの四肢である幼子の体格。

頭も同じだ。

しかし大きさだけだ。

一瞬金髪と見誤ったそれは、なめくじのような不定形のゲルであった。

一歩一歩、ノロノロと近づいてくる。

しかも奇妙なことに、近づくにつれて、遠近の差ではないと分かるほど()()()なっていた。

傲慢に死を告げる天使のように、それが丁寧な足取りでやってくる。

逃げるべきか?どこへ、後ろに?居るだろう。じゃあ下、ありだ。ひろちゃんを連れて、ひろちゃんはどこに?


「おねえさん」


右手から声が聞こえる。

いや、ひろちゃんだ。

彼女の背後に開いたドアがある。

開いてたの?危険じゃない?部屋の中は?

今ここで怪物と戦うよりマシだ。

ひろちゃんを押し倒す勢いでドアを潜り鍵を掛ける。


「あぁもうっ!やっぱ居た!」


少女の顔色も窺わず悪態をつく。

鍵をかけたが、ドアが保つかも分からないので土足で部屋に上がる。

偶然だったが部屋が開いていたのは良い、もしかしたらベランダから脱出できるかもしれない。

無遠慮に他人の家を踏み荒らしリビングに入るが、奥に行くにつれて光が薄くなっていることに気づく。

電気をつけると、外は真っ暗だった。


「かべ……?」


麗夜が気づくより前に少女は答えた。

戸を開いて直接触ると、パラパラと表面が足に落ちて、指先には冷たい地面の感触を覚える。

必要な事実はここからは出られないということだ。

麗夜の来た方向からドアを強く引く音が聞こえる。

どうする、どうする。

活動を止めて冷静ぶる頭を理性で回す。


ばしん


そうしていると、薄っぺらい、妙な金属音が鳴った。

瞬間的に麗夜の体が宙に浮く。


「がっ」


首に軋むような痛みと、音が鳴った。

喉がひしゃげて空気が歪な喉を通った音だ。

麗夜の首から枯れ木のような腕が伸びている。

それは薄暗い玄関のポストから伸びている。

あの怪物の手と分かったところで、麗夜にはどうしようもなかった。


「あ゛ゔっあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」


情報を咀嚼して、よって、叫んだ。

手のひらから痛むほどの冷気が伝わり、麗夜の体温は少しずつそこに近づいていく。

死ぬ、死ぬ、殺される。

枯れ木に掴みかかるが意味はない。

しゃくるような叫びは徐々に弱くなり、ついに、音は消えた。

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