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67、回復

 最初の数日間は地獄のよう、とエドマーに説明されたように、魔術による精神の治療は想像を絶する苦しみだった。まるで精神的な拷問だ。魔術で心を鎮静化してあるとはいえ、凄惨な記憶を追体験するというのは耐え難いことだった。

 あの火事の光景と、恐怖感。キルデが話す母の最期と遺体の写真、小指の爪を剥がされかけた感覚……。気が付けば絶叫しながら必死に身をよじっていた。ベッドにベルトで固定されていなければ、床に落ちていただろう。


「辛いだろうね。でも頑張れ、ベス。徐々に慣れていくから」


 エドマーはそう言って、バケツを抱えて盛大に吐いている僕の背中をさすった。涙も鼻水も流れるまま、口の中は胃液の味で、気分は最悪だった。治療初日はこんなものなのだろうか。キースも、あの美しい顔をぐちゃぐちゃにして吐いていたのかもしれない。面会許可が出るまで時間が掛かったのも分かる気がした。

 何度か吐いてようやく気分も落ち着き、バケツから顔を上げることが出来た。エドマーがコップに入った水を差し出してくる。


「軽くうがいして、水を飲んだ方がいいよ。胃液で喉が荒れるかもしれない」


「はい……」


 そう答えた声が既にガサガサだった。叫んだせいだろうか。彼の言う通りにした後、僕はベッドに倒れ込んだ。尋常ではない眠気に襲われたのだ。


「ゆっくり休んで。たぶん、今日一日は――」


 彼の言葉を最後まで聞く前に、ふっと意識が飛んだ。



 その日のうちには結局目が覚めず、翌朝になって同じ治療を受けた。昨日よりは少しだけまし、といった程度で、精神的な拷問であることには変わりない。気が付けば治療中に「もうやめてください!」と譫言うわごとを漏らしていた。

 エドマーは毅然と断った。僕のためだと頭では分かっている。しかしこの苦痛から逃れたい一心で、僕は彼に対して聞くに堪えない暴言を吐いていた。自分はこんなに汚い言葉を吐けたのかというくらいの。


「気にしなくていいよ。回復途中によく見られる現象だから。君の本心じゃないことは私も分かっている」


 エドマーは優しく言って、ぐったりと項垂れる僕の背中をさすってくれるのだった。


「それだけの深い傷を心に負っていたということだ。でも大丈夫。君は確実に良くなっているから。明日はもっと楽に、明後日は更に楽になるよ」


 結果として、彼の見立て通りだった。4日目には治療を受けても吐くことはなくなり、5日目には自分の記憶がほぼ他人事に思えるようになっていた。


「驚異の回復の早さだ。普通、ここまで来るには最低でも10日は掛かる」


 その日の朝、エドマーは治療を終えた僕にそう言った。


「先生の腕が良いからだと思います」


 以前までの苦痛はほとんどなく、笑顔でそう返す余裕すらあった。


「いや。君の心にるところが大きいよ。謙遜けんそんではなく。治療をしていると、君とは違うもう一人の意思みたいなものを感じるんだ」


「もう一人の意思……」


 僕の兄弟のものだろうか。彼の魔力はあの事件で僕に移っているが、意思までとは思わなかった。驚くと同時に、彼がいつも一緒にいてくれたようで嬉しかった。


「そう。とても前向きで希望に溢れている何か。それが回復を早めている。あとは食欲が戻れば無事に退院出来そうだね。君はこの数日で、見た目がかなりやつれてしまった。体重を計ってみようか」


 そう言われて計ってみると、なんと5kgも落ちていた。体力がめっきり無くなったように感じるのも納得だ。


「おや……。想像以上に減っていたな」


 エドマーが呟いた。


「僕、同期の中では胃潰瘍で入院していることになっているんです。この方が怪しまれなくていいかもしれません」


 明るい気分でそんなことを言えた。皆が僕をどう見るのかが怖い、とは思わなかった。キルデが父親だとしても僕は僕――そんな信念を持てるのは、チェス教官の言葉やエドマーの治療のおかげか、はたまた兄弟の意思によるものだろうか。とにかく今は、早く学院に戻りたいと思っていた。


「まあ、見た目は確かにそんな感じかな。しかしそのままではいずれ訓練で倒れるよ。これから出される食事と栄養剤はしっかり摂ること。それと……面会許可はどうする? 君に会いたい友人がいるみたいだけど」


「友人……」


「キースだよ。チェス教官から連絡が来ていた。彼にキルデのことは話していないが、色々察しは付いてるみたいだって。私も実習で関わったが、賢い子だからね」


 やはりそうかと思った。あのキースが何も気付かないなんてことは絶対にない。部屋に残してあったキルデの手紙も、彼は恐らく読んでいるだろう。


「僕も会いたいです。でも、面会は夕方にして下さい。それまでに少しは見た目をましにしておかないと」


「魔術で血色は良く出来るけど、体に肉までは足せないなぁ。ただ、いきなり食事を詰め込むとひどいことになる。胃袋と相談して少しずつ食べるようにね。吐くのはもう、うんざりだろう?」


 エドマーは優しく笑い、僕も笑った。入院してからたったの数日だが、彼と信頼関係は築けたと思う。単に治療の成果が出ているからではなく、彼に医務官としての強い信念を感じるからだ。


「はい。……あの、エドマー先生」


 僕は以前から一つ気になっていたことがある。聞きにくい内容だが、関係性が出来た今なら大丈夫だと思った。


「ん?」


「先生が獄所台を出た後も医務官を続けられたのはどうしてですか? 魔導師の資格、剥奪されたりしなかったんでしょうか」


「ああ、それはね。被害者である先輩が、私に医務官を続けさせてほしいと自警団長に直訴してくれたんだ。レナ医長……今は院長か。彼女も一緒に。それからベロニカ院長も。そのおかげで特例として許可された。あと5年は監視付きだけどね」


 エドマーは悲しげにそう言った。


「監視?」


「うん。私は仮にも同盟と関わった人間だから。月に一度、獄所台に出向いて尋問を受けている。今も犯罪組織と関わりがないかどうか調べるために。あそこの審理官の尋問は、本当に()()よ」


 彼の顔色が微かに悪くなったような気がした。獄所台の尋問は自警団の比ではないと聞いたことがある。場合によっては発狂寸前まで追い詰められるという。それを月に一度だ。僕だったら耐えられない。


「でもそれが私の罪に対する責任だし、戒めでもある。辛いけど医務官をやめるつもりはないよ。私は両親と反対側に居続けると、今度こそ誓ったから。体の動く限り、君のように苦しむ患者を救い続けたいんだ」


 エドマーはそう言って微笑んだ。彼が道を踏み外すことは恐らくもうないのだろう。希望に満ちたその目を見ているとそんな気がしてくる。


「僕も、父親と反対側に居続けられるでしょうか。……この先、蜥蜴とかげの人間が僕に接触してくることって、あると思いますか?」


 ふと生まれた不安だった。キルデは蜥蜴と関わっていたし、あの日に僕を殴ったのも蜥蜴の人間だということが分かっている。今後、彼らが心の隙に付け込んでくることはないだろうか。

 エドマーは難しい顔をした。


「完全に無いとは言い切れない。蜥蜴の残党は恐らくまだいるだろうし。私の出自に関する情報が同盟に知られていたように、君の情報もどこからか蜥蜴に渡っている可能性がある。自衛するに越したことはないんだけど……」


 彼はそれから、ぱっと明るい表情になる。


「あの頃の私と君は違うよ。君はもう人の痛みを知っている。犯罪に巻き込まれた者の苦しみをね。例え蜥蜴にそそのかされても、その苦しみを自分の手で誰かに与えようとは思わないはずだ」


 犯罪に巻き込まれた者の苦しみ。被害者というなら僕自身もそうだし、キースやステイシー、ノアとネリーもそうだ。それから、ラシャも。僕は彼らの苦しみを知っている。共通して、今もまだ苦しんでいるということも。


「……確かにそうです。それを忘れなければ、何かあっても立ち止まれると思います」


 僕が答えると、エドマーはにこりと笑って頷いたのだった。

 不意に、部屋のドアがノックされた。


「はい?」


 エドマーが答えると、ドアがゆっくりと開き、一人の女の子が顔を覗かせた。ネリーだ。


「だめじゃないか、ネリー。勝手にこっちの棟へ来ては」


 エドマーが少し焦ったように、たしなめる口調で言った。顔見知りとはいえ、僕が入院していることは彼女らには秘密なのだろう。


「だって、ノアがこっちの棟でベスを見たって言うんだもん。会いたかったから、一緒に来たんだ」


 ネリーは無邪気に言って、ドアを大きく開いた。


「え?」


 僕は自分の目を疑った。以前会ったときは人形のように車椅子に座っていたはずのノアが、自分の足でそこに立っていた。

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