第7話 :灯
第7話:「灯」
「都市外縁部ニ接近。過去ノ戦闘痕跡、多数。敵性反応、現在ナシ」
ナインの報告を聞きながら、リラは歩みを止めた。
焼けたアスファルトの匂い。ひび割れた道路。風に揺れる電線の音だけが耳に残る。
コロンバス。
かつて九十万人近くが暮らしたという大都市の外れは、今はただの廃墟だった。
けれど、その静けさに驚きはなかった。もう何度も、似たような光景を見てきた。
崩れた街。消えた声。放棄された生活。リラにとって、それは“日常”になりつつある。
なのに――
この街には、どこか違和感があった。
ただ静かなだけじゃない。奥に何かが息を潜めているような、そんな妙な気配。
忘れ去られたはずの何かが、まだこの都市のどこかに残っているような――
そんな直感が、心の奥をかすかに揺らしていた。
期待とも、不安ともつかない感情。
それが、歩くたびに少しずつ膨らんでいく。
道路脇に倒れた自転車の前で、リラは足を止めた。
路面の埃が、その周囲だけ不自然に乱れている。そばには、まだ輪郭の崩れていない靴跡が残っていた。
「……新しい」
「肯定。形成ヨリ二時間以内ト推定。成人一名。進行方向、北西」
胸が高鳴るのと同時に、リラの中で別の疑問が形になった。
「ねえ、ナイン。私、ニューヨークを出てから一か月以上歩いてきたよね」
「肯定」
「それなのに、生きている人間には一度も会わなかった。……本当に、誰もいなかったの?」
ナインは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、リラには分かってしまった。
「いたのね」
「正確ナ人数ハ不明。但シ移動中、比較的新シイ煙、弾痕、薬莢、足跡、人工的ナ障害物ナド、人間ノ活動ヲ示ス痕跡ヲ複数回確認シマシタ」
「どうして教えなかったの?」
「使用者ノ生存ヲ最優先シ、接触可能性ノ低イ経路ヘ誘導シマシタ」
あまりに平然と認められ、リラは怒るより先に言葉を失った。
「助けを求めていた人もいたかもしれないでしょ」
「可能性ハ存在シマス。同時ニ、食料、武器、若年女性ヲ狙ウ可能性モ存在シマス」
「だから、怪物より人間の方が危険だって?」
「クリーチャーノ行動ハ、本能及ビ一定ノ攻撃傾向カラ予測可能。人間ハ虚偽、偽装、交渉、待チ伏セヲ行イマス。状況ニヨッテハ、人間ノ方ガ予測困難性ハ高イデス」
ナインの判断が間違っているとは言い切れない。
だからこそ、腹が立った。
「今度から、人間の痕跡を見つけたら教えて。避けるかどうかを決めるのは私だから」
短い沈黙のあと、ナインが答えた。
「了解。以後、人間ニ由来スル反応及ビ痕跡ヲ検出シタ場合、危険度評価ト共ニ報告シマス」
「……最初からそうしてよ」
「当時ノ最優先事項ハ、リラノ生存デシタ」
「今もでしょ」
「肯定。ソノ点ニ変更ハアリマセン」
リラは呆れたように息を吐き、歩き出した。
しばらくして、遠くに市街中心部の建物が見えてくる。
「コロンバスって、最初から州都にするためにつくられた街なんだよね」
「……物知リデスネ、リラ」
「昔、本で読んだだけ。確か、一八一二年にできたんだっけ」
「補足説明ヲ開始。コロンバスハ、一八一二年、サイオト川ト、オレンタンジー川ガ交ワル地点付近ニ建設サレ、一八一四年、オハイオ州都トシテ確立。都市名ハ探検家クリストファー・コロンブスニ由来シ――」
「待って。補足、長くない?」
「説明ハ開始直後デス。残リ約四分三八秒」
「そんなに聞いてない」
「追加情報。市内ニハ一八七〇年創立ノ『ザ・オハイオ州立大学』ガ存在シ――」
「“ザ”まで付けるんだ」
「正式名称ノ尊重ハ重要デス」
「銃に大学名の発音を注意されるとは思わなかった」
「私ハ物知リデスカラ」
「自分で言うんだ……」
呆れながらも、リラの口元にはわずかな笑みが戻っていた。
一八一二年も、一八七〇年も、今となっては遠い昔だ。それでも、失われた街の歴史を口にしている間だけは、ここがまだ人間の世界であるように感じられた。
リラはそっと息を吐き、前方に見える建物へと視線を移した。
屋根が半壊したスーパーマーケット。
崩れた看板に、かろうじてロゴの一部が残っている。
「とりあえず、補給だね」
ナインがすぐに応じる。
「内部温度、反応共に安定。侵入可能。危険度:低」
スーパーの自動ドアはすでに割れていて、ガラスの破片が入口付近に散らばっていた。
リラは周囲に目を配りながら、ゆっくりとホルスターからナインを引き抜いた。
銃口を下げたまま、足音を殺して中へ踏み込む。
「……相変わらず、静かだね」
声を潜めてつぶやいたが、返ってくるのはナインの応答だけだった。
「内部温度安定。生体反応ナシ。構造崩落ノ危険モ検出セズ」
薄暗い店内は、外光だけが頼りだった。
レジカウンターは崩れ、棚は倒れかけている。
けれど――リラはすぐに異変に気づいた。
食料品の棚が、やけに整然としている。
いや、整っているというより、“空っぽ”だった。
乾いたホコリだけが残り、パッケージの欠片すら落ちていない。
「……何も、残ってない?」
リラは棚の奥を手でなぞりながら、眉をひそめた。
これまでの廃墟では、期限切れの缶詰や乾パンのひとつやふたつ、必ず何かが転がっていた。
だが、ここにはそれがない。まるで誰かが“選んで持ち去った”ようにさえ思えた。
ナインが静かに言葉を重ねる。
「過去数週間以内ニ人為的ナ物資収集アリト推定。痕跡ハ薄イガ、配置ノ偏リニ規則性アリ」
銃を構えたまま、リラは静かに店内を見渡した。
ただの偶然か、それとも――
「……さっきの足跡の人か、別の誰かが来たのね」
「肯定。物資ノ偏リト棚ノ状態ニ、意図的ナ収集ノ痕跡ヲ確認」
「もう、そういう言い回し慣れたよ」
リラは鼻先で笑いながらも、指先で棚の端をなぞった。指に残るのは乾いた埃。だけど、ところどころ妙にきれいな箇所もある。
「で、その“可能性”はどれくらい?」
「主観ヲ排除シタ予測ハ困難。統計的補正ニ基ヅク推定値:発生率八十パーセント」
「……つまり、ほぼ確定ってことね」
「断定ハ出来マセン。万一ノ誤認ハ生命ニ関ワル」
「慎重で結構。でも、ナインがそこまで言うなら……」
リラは足音を殺しながら、冷蔵棚の奥を覗き込む。そこにも何も残っていなかった。もはや電源も切れて久しく、ガラスには内側からホコリの膜が貼られていた。
「……私、ここまで空っぽのスーパーを見るの、初めてかも」
「過去ノ探索実績ト比較シ、残存物資量ハ明確ニ少ナイ状態デス」
「統計より、こういうときは“勘”ってやつが当たるのよ」
しばし沈黙が落ちる。
リラはふと立ち止まり、手にしたナインを見つめた。
「ナイン。この街にいる人間とは、やっぱり接触しない方がいいと思う?」
ナインの返答は、少しだけ遅れた。
「先程ノ指示ニ基ヅキ、判断ヲ下スノハ貴女デス。ワタシノ役割ハ、情報ト制圧ノ支援ニ限ラレマス」
「……うん、そうだね」
リラが言いかけたところで、ナインが続けた。
「補足。アドバイストシテ提示――万一、対象ガ実在シテモ、必ズシモ貴女ニ対シ友好関係ヲ持ツトハ限リマセン」
「……敵意があるってこと?」
「可能性ハ常ニ存在シマス。敵意ハ環境ト状況、ナラビニ精神状態ニヨリ変動スル要素」
リラはほんの少しだけ微笑んだ。
「ま、そうよね。こっちも警戒はしてるし……ありがと、ナイン」
リラは棚を一通り見渡すと、ゆっくりとナインをホルスターに戻した。
「……まあ、しばらくはなんとかなるか。ウサギの燻製肉、まだ残ってるし」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたその声は、店内の静けさに吸い込まれていった。
完全に乾いた空気。棚の奥からは、もう何も動かない。
「ここじゃ収穫なさそうだし、もう少し中央に行ってみようか」
淡々とした言葉の裏には、どこか小さな決意がにじんでいた。
スーパーを出て、リラはゆっくりと歩きながら、ベックスリー方面を抜けて街の中心部へ向かっていった。
割れた舗道。傾いた信号機。バス停には広告が半分焼け残っていて、モデルの笑顔が無惨に裂けていた。
風景はどこも同じようでいて、どこか違っていた。
この街は、他の小さな都市とは格が違った――その痕跡が、あちこちに残っていた。
遠方に見えるのは、かつては行政の中心だったと思しき建物。
入り口の階段は崩れ、ガラス張りの正面玄関は風に晒されてほとんど剥き出しになっている。
高層ビルの一部は骨組みだけになり、まるで巨大な骸骨のように空を突いていた。
「昔はこのあたり、賑わってたんだろうね」
かつての写真で見たコロンバスの中心街。
オハイオ州立大学の学生たちが行き交い、バスや車が走り、歩道ではフードトラックが列をなしていた。
だが中心街へ至る前から、風の音と瓦礫の影しか残っていない。
人の声も、エンジン音も、誰かの笑い声すらも――すべて、遠い記憶の中に沈んでいる。
リラは黙って歩き続けた。
ただ、この都市の“死んだあと”に残された何かを確かめるように。
かつて「ようこそベックスリーへ」と訪問者を迎えていた看板が、鉄骨の枠だけを残して斜めに立っていた。
文字は焼け落ち、今ではその痕跡すらほとんど読めない。
リラは割れた歩道を踏みながら、ゆっくりと住宅街の通りを進んでいく。
かつては整えられた芝生が続いていたはずの街並みは、今や雑草と灰に覆われていた。
両脇に並ぶ家々の多くは、半壊していた。
屋根が抜け、窓は割れ、壁には火災の痕跡が黒く広がっている。
扉のない玄関からは、吹き込んだ風がカーテンの残骸を揺らしていた。
教会の尖塔は途中で折れ、レンガの破片が路上に散らばっている。
かろうじて原形を留めていた十字架も、傾いたまま沈黙していた。
一軒、フェンスの残った家の前に立ち止まる。
玄関先には、子供用の三輪車が転がっていた。
サビと煤にまみれ、片輪だけが宙に浮いている。
リラは目を伏せた。
こういう光景は見慣れている――はずだった。
けれど、この街に漂う気配は、他とはどこか違って感じられた。
少し開けた坂道の上に立ったとき、リラは正面に広がる影を見つけた。
煉瓦造りの大きな建物。崩れた校門。破れた垂れ幕が風に揺れている。
「……あれ、学校?」
誰にともなくつぶやきながら、リラは歩みを緩めた。
建物の正面には、いくつもの小さな窓と、崩れかけた階段。
割れたフェンス越しに、かつてはグラウンドだったであろう空き地が見える。
「高校、かな。カフェテリアとかあれば、何か残ってるかも……」
そのときだった。
「生体反応アリ。一名。識別結果:ヒト型。現在地、校舎内部。移動中」
ナインの機械音が静寂を切り裂くように響いた。
「……え?」
リラは足を止めた。風が一瞬止まった気がした。
「ほんとに? 生きてるの?」
「呼吸・心拍ノパターンヨリ、反応特性ハ人間ノ標準値ニ一致。現在地ヨリ約四十メートル先。オ気ヲツケ下サイ」
それだけの情報で、胸が熱くなるのが自分でも分かった。
これまで、誰にも会えなかった。
何度も探して、何も見つからなくて、それがもう当たり前になりかけていたのに――
「……会ってみたいな。誰かが、まだ生きてるなんて……」
リラはそっと息を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。
でもそれより、会いたいという気持ちの方がずっと大きかった。
「慎重にはする。でも――行く」
静かに銃を握り直し、リラはフェンスの影を通って校舎へと向かった。
「本状況ニ於ケル遭遇ハ、リスクヲ伴イマス。敵対行動ヘノ移行確率:算出困難」
「わかってるよ、ナイン。でも……無視できない」
リラは視線を校舎へと向けた。
「場所は?どの辺り?」
「反応位置:本棟内カフェテリア区域。西側通路奥、フロア端部。移動ハ緩慢。周囲ニ他ノ反応ハ検出サレズ」
リラは小さく頷いた。
校舎の輪郭が、ほんの少しだけ近づいて見えた気がした。
校舎内に足を踏み入れると、空気は一段と重く感じられた。
割れた窓から吹き込む風が、廊下に散らばった紙くずをかすかに揺らしている。
ナインの指示に従って進み、リラは崩れたロッカーの隙間から慎重に身を乗り出した。
カフェテリアが見えた。
広い空間の奥――
リラの視線が、誰かの背中を捉える。
「……いた」
男だった。
背はあまり高くなく、黒っぽいジャケットにミリタリー風のリュックを背負っている。
頭にはフードをかぶっていて顔はよく見えないが、その動きは確かに人間のものだった。
彼は、棚のようなものを引き倒しながら、中を探っていた。
どうやら食料を探しているようだ。
動作は素早く、慣れている印象を受けた。
何かを拾い上げたあと、小さく首を振りながら何かをブツブツと呟いている。
声はかすれていて、ここからでは内容までは分からない。
リラは物陰に身を潜めたまま、ナインを片手にゆっくりと呼吸を整えた。
心臓が速く打っている。
足を一歩踏み出すたびに、身体の内側が熱くなるような感覚。
けれど、それを押さえ込むようにして、リラは静かに息を吐いた。
「……話しかけてみようか」
そう呟いてからリラは一歩、廊下からカフェテリアへと足を踏み出した。
リラがそっと距離を詰めた瞬間――
男が、反射的に振り向いた。
目が合う。
白人の男だった。年齢は三十代半ばほどだろう。頬は落ちくぼみ、首筋には筋が浮き、汚れたジャケットの内側で体がひどく痩せ細っている。
食べ物の乏しい今の環境では、痩せること自体は珍しくない。だが、薄い唇を落ち着きなく舐め、くぼんだ目をせわしなく動かす様子には、飢えだけでは説明できない卑小さがあった。
世界が崩壊する以前から、強い相手の前では縮こまり、弱いと見た相手にだけ大きく出る――そんな小物めいた印象をまとった男だった。
そして直ぐに叫び声が飛んできた。
「うわあああっ!?」
男はよろけながらも、腰から何かを取り出し、手元で構える。
見慣れた形。銃だった。
手が震えている。だが銃口は、確かにこちらを向いていた。
リラはナインを右手に持ったまま、ゆっくりとした動作で一歩だけ踏み出す。
構えてはいない。けれど、その気になればすぐに撃てる位置にあった。
「……あの……」
リラが声をかけかけた、その瞬間。
「お前、あのゾンビみたいなやつじゃないなッ!? 人間か、あんた!?どっから来た!?」
混乱と焦燥が入り混じった声。
その叫びは、半分は問いかけで、半分は自分自身に言い聞かせているようだった。
そのとき、ナインが低く囁いた。
「警告。使用中ノ銃器ニ弾薬ハ装填サレテイマセン。脅シ行動ト推定」
リラはごくわずかに頷いた。
緊張はしていたが、怖れはなかった。
男はリラを見ながら、顔をしかめた。
「な、なんだ……何をブツブツ言ってやがる……! おい、女っ! 銃を置いて、そのリュックの中身を全部よこせ!」
銃口をぶるぶると揺らしながら、声を張る男。
その姿には必死さと恐怖が混ざっていた。
男はにやつきながら、銃を構え直した。
その手は震えていたが、口だけは饒舌だった。
「へへ……若い女とか、久しぶりに見たぜ。おい、殺されたくなけりゃ、この後どうすればいいか……分かるよな?」
リラは訝しげに眉を寄せた。
意味が分からなかったわけではない。
曖昧な言葉の陰に隠れた男の要求を、その口からはっきり言わせようとしたのだ。
「……何が?」
「脱げって言ってんだよ! 服を全部だ!」
怒鳴った声は、最後にわずかに裏返った。
言葉の汚れた響きが、静まり返ったカフェテリアに落ちた。
リラは、微動だにしなかった。
ナインを持った手に、ほんの少しだけ力がこもる。
「警告。精神状態:錯乱傾向。行動意図ニ対シ強制措置ノ選択肢アリ」
ナインの声が静かに告げる。
だが、男はまったく気に留めていない様子だった。
それどころか、ますます声を荒げ、苛立ちをぶつけてきた。
「おい、聞こえてんのか? さっさとしろよ。今すぐ荷物置いて、脱げって言ってんだろ……!」
リラは一瞬だけ瞼を閉じ、無言でナインをホルスターへ戻すと、ホルスターごと腰から外して床へ置いた。
男の目は、それを見てニヤついた。
「そうそう……素直にしときゃ、痛い思いしなくて済むんだよ」
リラはゆっくりと両手を上げた。
肩のラインがわずかに浮き、薄暗い光の中でシルエットが際立つ。
一歩、足を踏み出す。
もう一歩、男に近づく。
慎重に、しかし恐れず。まるで舞台に立つ役者のように、完璧に“演じながら”。
男は相変わらずニヤついたまま、銃をリラの胸元へ向けていた。
薄汚れた顔に浮かぶ笑いは、欲望と慢心が入り混じった薄気味悪いものだった。
リラの表情は、変わらない。
あと数歩。距離は十分に詰まっていた。
リラはゆっくりと腕を下ろし、男の視線を捉えた。
そして――次の瞬間。
怒りと、悲しみと、どうしようもない嫌悪を込めて、拳を振り抜いた。
「っ……!」
鈍い音が空気を裂いた。
男の体が大きくよろめき、椅子を巻き込みながら二、三メートル後方へ転がった。
床へ倒れ込んだまま、その動きが止まる。
静寂が戻る。
ナインの声が、静かにリラの耳元に届いた。
「警告。今ノ一撃ハ通常ノ人体ニ対シ致命的ナ損傷ヲ与エル出力。リラ、今ノ貴女ガ本気デ殴ッタ場合、対象ハ死亡スル可能性ガ高イ」
リラは拳を下ろし、震える手をそっと見つめた。
「……分かってるよ。手加減、したって」
言葉は小さく、震えていた。
拳に残る感触が、重くのしかかる。
ホルスターを回収し、彼女はカフェテリアの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
崩れかけた背もたれが、きしむ音を立てる。
リラはただ黙って、呼吸を整えた。
胸の奥で何かが静かに揺れていた。
椅子に座ったまま、リラは拳を膝の上に置き、じっと見つめた。
少しだけ、指が震えている。
期待していた。
誰かが生きていて、言葉を交わせて、同じ目を見て――そんな、当たり前のことができると信じていた。
だけど、現実は違った。
「……こんなことなら、来るんじゃなかった」
ぽつりとこぼした声は、カフェテリアの壁に吸い込まれていった。
心の中に湧き上がっていたものが、一気に崩れ落ちていく。
喜びは裏切られ、怒りになり、そして悲しみに変わった。
そのとき、ナインの声がそっと響いた。
「……リラ。今ハ、感情ノ揺レガ激シイ状態デス。休息ヲ推奨シマス」
彼女は小さく目を閉じて、静かに息を吐いた。
「……ありがとう、ナイン」
ホルスターの中にいる相棒に、そう呟いた。
ナインは続けて告げた。
「補足報告:貴女ガ殴ッタ男性ハ、死ンデハイマセン。
但シ、コノママ放置スルト、クリーチャーニ襲ワレル危険性ガアリマス。
目ヲ覚マスマデノ推定時間:約十分カラ二十分」
リラはゆっくりと目を開けた。
淡々と語るナインの声が、今は少しだけ優しく聞こえた。
男は床に倒れたまま、微動だにしない。
見張る理由なんて、本当はなかった。
放っておいても、彼があのまま死んでも――誰も責めはしないだろう。
でも、それでも。
「……とりあえず、起きるまで見張ってましょう」
その声には、悔しさと、悲しさが入り混じっていた。
やがて、床に倒れていた男が微かにうめいた。
その体が小さく痙攣し、次の瞬間、ガバッと勢いよく上体を起こした。
「うわああああッ!? や、やめろ、頼む、もう殴らないでくれっ……許してくれぇ!」
叫びながら後ずさり、尻を引きずるようにして床を這い始める。
動きは乱雑で、目は血走り、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。
恐怖に突き動かされるように、両手を前に出して懇願のジェスチャーを繰り返す。
「ご、ごめん、ほんとに、もうしない、何も奪わない、だからっ……っ!」
震えた声が途切れがちに床に落ちていく。
まるで殴られたのが現実じゃなく、何か深い過去の恐怖を呼び起こしているような反応だった。
リラは、静かに椅子から立ち上がった。
「……わかった。もう殴らない。こっちだって、好きでやったんじゃない」
怒りはまだ残っていたが、拳を振るうつもりはなかった。
彼の姿は、もはや哀れだった。ただの暴力的な他人ではなく、“壊れてしまった誰か”に見えた。
そしてリラは、少し声を落として問いかけた。
「一応、聞くけど――この街に、他にも生きてる人はいるの?」
その声に、期待はなかった。
ただ、確認として。
もう、信じるだけの感情は、残っていなかった。
男は肩を震わせながら、恐る恐る口を開いた。
「い……いる。生きてるやつ、いるよ。十人くらいのグループだ。たぶん、それだけ……他には……知らない」
リラは男の様子を見下ろしたまま、少しだけ息を吐いた。
「……そう。教えてくれてありがとう」
怒りは消えていなかった。
でも今は、それをぶつけるよりも、冷静に聞くべきことがあった。
「どこにいるの? 場所、案内して。……ここに置いていくのも後味が悪いから、送ってあげる」
その言葉に、男の表情が安堵と緩みに変わった。
口元が緩み、汚れた顔に薄ら笑いが戻る。
「へ、へへ……もう、あんなことしないんで。ほんと、俺……調子乗ってただけで……な?」
愛想笑いを浮かべながら、言い訳じみた声を漏らす男。
その軽さに、リラの視線は冷たくなった。
何も言わなかった。
ただ、目だけで答えた。
その目は、静かに、そして確かに――軽蔑を浮かべていた。
「オハイオ州立大学の敷地内……理学部棟の地下が、今の寝床だよ。しばらく前から、そこに集まって暮らしてる」
リラは短く頷き、指先で前を指した。
「案内して。……あなたが先」
男はわずかに肩をすくめたが、逆らう様子もなく歩き出した。
リラはナインを右手に軽く持ち、数歩うしろから静かにその背を見つめながらついていく。
街の瓦礫は、大学に近づくにつれてひどくなっていた。
崩れたベンチ、ひしゃげたフェンス、落書きまみれの掲示板。
歩道には、かつての避難誘導の痕跡か、破れた案内図が土にまみれて落ちていた。
男は落ち着かない足取りで歩きながら、ぽつりと口を開いた。
「俺は……食料を探してたんだ。交代制でさ。順番で外に出る決まりがあって……」
振り返りもせず、どこか言い訳のように声を重ねる。
「人数少ないし、危ないから基本は一人。俺の番だったってだけ。あんたがいきなり現れるからさ、ちょっとパニクって……な?」
リラは黙ったまま、警戒を解かずに歩き続けた。
返事はしなかった。
背中越しに男が続ける。
「へへ……もうあんな真似、二度としないって。マジで、勘弁な……」
返ってくるのは、風の音とリラの冷たい沈黙だけだった。
一時間以上歩き、大学の影がだんだんと近づいて建物の輪郭がはっきりと見えてきた頃。
男は振り返りもせず、ぼそっと口を開いた。
「……俺、カールってんだ。へへ、あんたは?」
リラは無言だった。
返事はなかった。
ただ、一定の距離を保ったまま歩き続ける。
「……ま、だよな」
カールは気まずそうに笑い、前を向いた。
大学の門が見えてきた。
かつて誇らしげに掲げられていた大学名の石板は、今やひび割れ、片端が崩れて地面に落ちていた。
錆びついた鉄柵の一部には、簡易なバリケードが組まれている。
リラは足を止めて、門の上部に残された文字を見上げた。
「……ここが、オハイオ州立大学」
かすれた声で、ぽつりと呟く。
その言葉には感慨も感傷もなかった。ただ、“確認”というような響きだけがあった。
バリケードの前には、二人の人影が立っていた。
粗末な防具をつけた男女。どちらも古びたライフルを抱え、こちらを警戒している。
女は四十代だろうか。ラテン系らしい彫りの深い顔立ちで、日に焼けた肌と引き締まった体つきをしていた。袖から伸びる腕には、日々の作業で鍛えられた筋肉が浮いている。
もともと長かったのだろう髪は、今では手入れが行き届かず、ところどころ乱れていた。それでも邪魔にならないよう頭の高い位置で一つに束ねられ、実用を優先する彼女の気質を表している。
険しい視線を向けてはいるが、そこに怯えはない。混乱した状況でも周囲を落ち着かせ、必要なら先頭へ立つ――そんな頼りがいのある雰囲気をまとった女性だった。
「ストップ、動かないで!」
女の方が声を張る。
銃口が、リラの胸元をかすめるように向けられる。
「カール、その人は誰? 新しい生存者?」
「わ、悪い! 食料探してたら会ったんだって! 敵じゃない、敵じゃない! たぶん!」
慌てた声に、男のビビり具合がにじむ。
リラは黙って彼らを見返したまま、右手にナインを下ろしたまま構えずに立っていた。
その視線には、ただ“状況を観察する者”の冷静さがあった。
「わ、悪いって! ホント、変なことしようとしたわけじゃなくて……! ちょっとその、ビビったっていうか……!」
カールは腫れ上がった頬を紅潮させ、みっともなく手を振りながら必死に弁明を続けていた。
その姿は、情けないを通り越して、もはや哀れすら感じさせた。
「……変なこと?」
ジェナの目が細くなった。
「カール。その話は後で詳しく聞かせてもらうから」
「いや、だから、違うんだって……!」
もう一人の見張りの男――こちらも三十代半ばに見える、やや寡黙な雰囲気の男がカールに歩み寄ると、無言で手を差し出した。
「銃。回収する」
「え、あ……ああ……」
カールは渋々と銃を差し出す。
男はそれを受け取ると、すぐに弾倉を抜き取り、残弾を確認した。
無言のまま、中を覗き込む。
「……弾が入ってないじゃないか」
「……分かってるよ。脅すだけなら、これで十分だと思ったんだ」
カールは気まずそうに目を逸らした。
見張りの男は空の弾倉と、腫れ上がったカールの頬を見比べた。その視線が鋭くなる。
リラはその様子を黙って見ていた。
ただ、冷ややかな視線を送るだけだった。
「それで?」
見張りの男が、抜き取った弾倉を銃に戻しながら言った。
「何か持ち帰れたのか?」
「えっ、あ、その……えっと……」
カールは顔をさらに紅潮させながら、オロオロと視線を泳がせた。
言い訳を探しているのは明らかだったが、口から出てくるのは曖昧な音ばかり。
リラは相変わらず無言のまま、その様子を冷ややかに見つめていた。
そんな空気を切るように、見張りの女が一歩前へ出て声をかける。
「……ところで、あんた」
声は鋭く、しかし冷静なトーンだった。
「名前は? それから、どこに隠れてたの?
この辺で避難してる人間は、私たちくらいのはずだけど」
彼女はリラの目をまっすぐに見据えながら続けた。
「私はジェナ。大学の構内で避難生活をしてる者のひとりよ」
ジェナの視線がリラを貫くように注がれる。
リラはほんの少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「……私はリラ」
その声は落ち着いていた。
だが、それは自然なものではなかった。
まるで、自分の内側を覗かれまいとするかのような、意識的に整えられた静けさだった。
「ピッツバーグにいたんだけど……その……周りが、みんな……」
語りすぎれば余計な疑いを招く。だが、沈黙しすぎれば警戒を強める。
その間を慎重に選ぶように、言葉を探す。
「それで……歩いて、ここまで来たの。避難できそうな場所、探して」
嘘ではない。けれど真実のすべてでもない。
その説明は、今のリラにとって“ちょうどいい距離”だった。
ジェナは眉をひそめたが、すぐには返事をしなかった。
リラの顔を、目を、足元の泥を、全身を順に確認するように見つめている。
「……気の毒ね。わかるわよ」
ジェナは少しだけ声の調子を和らげた。
だが、すぐに視線を引き締め直し、現実を告げるように言葉を続けた。
「でもね、ここを避難所としてるのは、私たちを含めて十人だけなんだけど……
それでももう……正直、手一杯なのよ」
その声には冷たさはなかった。むしろ、申し訳なさと責任感が混ざっていた。
誰かを見捨てることに、慣れてはいない――けれど、そうするしかない現実がある。
リラは黙ってその言葉を受け止めていた。
断られることを覚悟していたのか、感情を表には出さなかった。
「本当はね、受け入れたい。でも、もう限界なの。……だから、ごめんなさい」
その瞬間、バリケードの奥、大学構内の建物の陰から、足音が近づいてきた。
「ジェナ」
重みのある低い声。
姿を見せたのは、やや痩せ型の黒人男性だった。
三十代後半から四十代前半に見える落ち着いた風貌で、肩には古びたライフルを担いでいる。
「何があった?」
「新顔よ。ピッツバーグから歩いて来たって言ってる」
ジェナが振り返り、簡潔に状況を伝える。
男はリラに目を向けた。
その眼差しには、警戒と判断力、そしてわずかな興味が宿っていた。
そして、しばらく見つめたあと――ふ、と口元を緩めた。
「……ピッツバーグからか。大変だったろう」
「良ければ、少し休んでいけばいい。今日はもう、無理しない方がいいだろ?」
リラは彼の視線を受け止めながらも、そっと視線を外す。
「……ありがとう。でも、別にここに残るつもりはないの」
声は静かで、どこか突き放したような調子だった。それでも礼はきちんと伝えた。
「……目の前に倒れてたから……送り届けただけ」
言葉は静かで、温度は低かった。リラは善意を誇るつもりもなく、ただ起きたことだけを告げた。
男は、少しだけ目を細めた。
リラを疑うでもなく、軽く見るでもなく――むしろ、“なるほど”と静かに納得するような表情だった。
「……そうか。ありがとう」
「俺はここで一応、リーダー的な役割をしてる。元軍人でね」
男は一歩前に出て、リラに向き直った。
「名前はマーカスだ。よろしく」
短く、落ち着いた声だった。
リラはほんの一瞬だけ頷き、静かに答えた。
「私はリラ。でも……ここの世話になるつもりはないわ」
その返答は穏やかだったが、はっきりとした拒絶の意思を含んでいた。
マーカスは少しだけ表情を動かしたが、すぐに受け止めるように頷いた。
「そうか。……見たところ、まだ若そうだしな。危険があってからじゃ遅いぞ」
言葉に押しつけがましさはなかったが、明らかに気遣いを含んでいた。
その瞬間――
すぐ後ろで、カールがビクリと肩を揺らし、オドオドと顔を左右に動かした。
紅潮した顔からは、目に見えて冷や汗が滲みはじめている。
「……な、なんでもないって……別に、ね……?」
誰に言うでもないそのつぶやきに、ジェナがジロッと横目を向けた。
マーカスはほんの少し視線を遠くに投げてから、再びリラに向き直った。
「……まあいい。君がどう判断するかは自由だ。
我々は、数少ない生き残りだ。無理に誰かの行動を縛る気はない」
声に押しつけがましさはなかった。ただ、静かな覚悟と、誰かを尊重する姿勢があった。
「だが――君がここを利用しないというのなら、無理に引き留める真似はしない。
それでも俺は、いつでも君を歓迎するよ、リラ」
一瞬だけ、リラは彼の目を見た。
そして、それまで微かに緊張していた肩の力が、すっと抜けるのを自覚した。
心の奥に残っていた警戒が、ほんの少しだけ和らいだ。だが、解いたわけではない。
(――こんな世界になって、初めて出会った人間がもし、マーカスのような人だったなら)
そう思ってしまった自分に、リラはわずかに苦笑しそうになる。
だが、それを顔に出すことはなかった。
リラはほんの一瞬、静かに視線を落とし――そして小さく呟いた。
「……ありがとう」
それだけだった。
だが、その一言には、言葉以上のものが込められていた。
マーカスもまた、それを無言で受け止めた。
少しの間があった後、彼はふと視線をリラの腰のホルスターへ向けた。
「……その銃なんだが、弾はあるのか?」
リラは一瞬だけ目を動かしたが、答えは返さなかった。
マーカスは続ける。
「もし、ここから離れるつもりなら――少し、分けようか。多くはないが、いざというときに撃てないのは命取りだ」
言葉はあくまで現実的で、押しつけがましさも恩着せがましさもなかった。
ただ、「お前には生きていてほしい」と、ごくさりげなく告げられているようだった。
リラはほんの一瞬、考えるようにマーカスの顔を見た。
そのまなざしに偽りはなかった。
だが、彼女はそっと首を横に振る。
「……私は、大丈夫」
それだけを言って、リラはゆっくりと踵を返す。
何かを頼ることよりも、頼らずに立つことを選び続けてきた。
その背中には、決意と孤独が、静かに同居していた。
周囲の者たちは、誰も声をかけなかった。
ただ、風に揺れる音の中で――彼女の背中を、黙って見送っていた。




