表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

第5話

東京 台東区


地価、物価ともに全国最高水準を維持する東京23区において、平均所得が比較的低めなこのエリアには、浅草や上野という巨大な観光地と交通の要衝がある。

だがそれは、地元住民にとっては両刃の剣だった。街にあふれる「観光地価格」の煽りをまともに食らいながら、そこから日々の職場へ通勤する一般のサラリーマンが密集しているということでもある。

一流企業の高給取りならいざ知らず、中小の勤め人であれば、近年の物価高の直撃を全方位から受けているはずだ。


そして、彼らの財布を最も激しく痛めつけているのは、間違いなく「家賃」だった。

普通なら、ここで需要を見込んでアパート経営などの不動産投資に手を出す。だが、斎藤ファンドは違った。


「あんな複雑なビジネスに、うま味はない」


島根から関東へ進出し、新設された実業部門のトップ、事業部部長となった高橋は冷ややかに言い放つ。


不動産ビジネスに手を出した瞬間、そこには『借地借家法』という強力な権利で武装した入居者がくっついてくる。

スーパーなら工夫次第でいくらでも現場の合理化が進められるが、アパートの家賃や規約は、法的な制約が多すぎて大家の都合で勝手に変えることはできない。

何より最悪なのは、出口戦略のなさだ。もし『この事業は失敗した』と判断したとき、スーパーなら最悪、入り口に閉店の張り紙を一枚貼るだけで撤退できる。

だが、アパート経営ともなれば、入居者がいる限り事業を「放り投げる」ことすら許されないリスクを負うのだ。


それに、付随する各種法的手続きや、泥沼のような税務手続きの煩雑さ。

ペテン師の手口をデータ化して生き残ってきた俺たちが、わざわざ国家のガチガチの法規制に自ら絡め取られにいく必要など、どこにもない。


「俺たちがやるのは、もっとシンプルで、いつでも引き返せて、それでいて確実に需要の喉元を掴める商売だ」


高橋の視線は、観光客の喧騒の裏で、今日の生活費に頭を悩ませるサラリーマンたちの背中に向けられていた。


「空振りですね……」


「そうだな」


事業部の現地担当である中川と、係長の古谷は、重い足取りで地方銀行の支店から出てきた。初夏の東京のじっとりとした熱気が、スーツ越しに体力を奪っていく。

島根のシークレット・ファンドがいきなり挑む、畑違いのスーパーマーケット事業。

いくら潤沢なキャッシュがあるとはいえ、軍資金は無限ではない。万が一失敗しても、傷口を最小限に抑えて次の手を打てるようにしておく必要があった。


だからこそのスモールスタート。そのために二人が血眼で探していたのは、『不良債権化した同業の居抜き物件』だった。

倒産したスーパーの店舗や設備をそのまま安値で買い叩く。それが初期投資を極限まで抑える、ファンド仕込みの合理的な戦略だった。


だが、東京の現実は甘くなかった。


舞台は、世界中から人が押し寄せる一大観光地・浅草を含む台東区だ。

経営破綻した居抜き物件や、銀行が抱える不良債権物件が出回ったとしても、そんなものは「観光客向けのホテルや飲食店」を目論む大手資本や海外マネーが、一瞬でそこそこの高値でさらっていってしまう。


地銀の担当者が申し訳なさそうに提示してきた残骸は、どれも目を覆いたくなるような条件ばかりだった。

「もはや取り壊して新築した方がマシ」と言えるほどガタが来ているか、まともに客が通らない最悪の路地裏か、あるいは地価が高すぎてどれだけ薄利多売しても家賃負けする未来が見えているゴミ物件。


「画面の数字なら、指先一つで何億も動かせるのにな……」


古谷がネクタイを緩め、ぽつりと溢した。

東京の実体経済という巨大な怪物は、島根で磨き上げた彼らのテクニカル理論をあざ笑うかのように、冷たくそびえ立っていた。


「仕方ない。本丸がダメなら外堀を埋めるまでだ」


「セカンドプランですね」


翌日、古谷と中川の姿は埼玉県川口市に vacancy(空席)を求めてあった。

東京のすぐ北隣に位置するこの街は、都心へ通う労働者たちを呑み込む巨大なベッドタウンだ。東京のコア(中心部)に住む層を狙えないのであれば、そこから溢れ、毎朝長時間の遠距離通勤を強いられているサラリーマンたちを顧客として勝負を仕掛ける。


しかし、ここでも東京の影が二人の行く手を阻んだ。川口は東京に近すぎるのだ。近年の再開発による地価高騰の波は凄まじく、彼らの厳しいフィルターに合致する「手頃な不良債権物件」など、そう簡単には転がっていなかった。


「なら、さらに距離を取るだけのことだ」


二人は川口を見切り、東隣の草加市へと駒を進めた。

東武伊勢崎線が都心の地下鉄へと直通し、泥のように疲れた通勤客が帰ってくる街。東京からの距離が絶妙に開いたその場所で、彼らはついに、泥の中に埋もれていた原石を見つけ出した。


前経営者が夜逃げ同然で潰したという、駅の一角から少し外れた場所にあるスーパーの居抜き物件。


「……古谷さん、ここならいけます。冷蔵設備もレジの配線も、最低限の修繕でそのまま使える」

「ああ。ここが俺たちの実業の『第一歩』だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ