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第4話

2029年


日本は、かつてない激動の最中にあった。止まらないインフレ、歴史的な円安、それに伴う輸入物資の容赦ない高騰。あらゆる国難が、地鳴りを立ててこの国に押し迫っていた。

テレビもネットも「どこまで円安が進むか」の狂騒に沸き返る中、斎藤ファンドのFX課のホワイトボードには、殴り書きのような赤文字の警告が掲げられていた。


『クロス円、全面取引禁止』


円が絡む通貨ペアには、一円たりとも資金を投じるな――。世界的なトレンドに乗れと叫ぶ世間の常識とは、真逆の命令だった。


理由はあまりにも単純だった。

現在の市場は一方的に傾きすぎている。

つまり、円売り(ドル買い)にポジションが集まりすぎているのだ。

それはすなわち、何かの拍子で、あるいは市場を裏で操る巨大な第三者の思惑一つで、溜まりに溜まったマグマが一気に逆流(吐き戻し)するリスクが常に牙を剥いていることを意味する。

日銀の電撃的な為替介入か、あるいは大口のヘッジファンドによる一斉の利食いか。いずれにせよ、ひとたび逆回転が始まれば、テクニカルの指標など一瞬で消し飛び、強制ロスカットの嵐が吹き荒れる。


そんな危うい泥縄に、自分たちの命金を賭けられるはずがなかった。

世間が「円安銘柄」の幻影を追いかけて熱狂している間、彼らはただ冷徹にクロス円のチャートをブラインドの裏へ追いやった。

そして、ユーロドルやポンドドルといった、世界で最も流動性の高い、嘘のつけないドルストレート通貨の海へと静かに視線を戻す。


誰もが理性を失う国難の時代だからこそ、彼らの『正気』はより一層、冷たく研ぎ澄まされていった。


「よし、ついにゴールドが目標額の10億円分貯まったな」


「正確には11億2000万ですが……ついに始動、ってことですね」


メンバーの一人が息を呑む。

彼らはこれまで、叩き出した投資利益から、節税スキームを一切使わない堂々たる税金を国に納め続けてきた。そして、そのクリーンな残高の12.5%を、毎四半期ごとに欠かさずゴールドETFの購入へと回してきたのだ。


買い方も一括ではない。毎日均等に、一定額をコツコツと買い付ける『ドルコスト平均法』を愚直なまでに守り通した。

この12年の間には、金価格の暴落も、市場の急激な調整もあった。だが、もともと10年以上を見据えた長期計画だ。

彼らは目先の上下を完全に無視して買い続けた。むしろ暴落の局面など、未来の果実を安く仕込めるボーナス期間として、冷徹に割り切ってさえいた。


インフレの熱風が吹き荒れる2029年の今、その愚直な積み立てが、11億円という眩いばかりの純金の要塞へと姿を変えていた。


モニターの中のデジタルな数字ではない。世界の信用が崩壊しても、その価値を絶対に失わない本物の『現物資産』。

そんなものを12年もかけて積み上げ、一体何に使うのか。


誰もが、この強大な資金力でさらなる巨万の富(株や先物)を狩りに行くのだと思うだろう。

だが、彼らが狙いを定めたのは、そんな華やかな金融市場ではなかった。


「スーパーマーケット業界に参入する」


発起人でありボスでもある高橋の口から突いて出たのは、あまりにも泥臭く、あまりにも日常的な、地域の生活そのものを支配する実体経済の戦場だった。


理由はいくつもある。

その最たるものは、ヘッジ――すなわち『保険』だ。


ファンドのような金融機関に限らず、企業や個人事業主なら当然、事業が傾くリスクを想定して何重もの保険を打つ。

文字通りの火災保険に加入することもあれば、金融機関なら市場の下落に備えてプットオプションを買い仕込む。それらが金融業界における一般的な防衛策だ。


俺たちが長年買い溜めてきたゴールドやアメリカ国債もまた、立派なヘッジとして機能していた。

株価が低迷すれば安全資産であるゴールドに資金が逃げ込み、逆に跳ね上がる。米国債であれば、満期まで持ち切る前提なら十万ドルで買ったものは確実に十万ドルで返って来る上、数%の利息まで付いてくる。


普通の投資家なら、おそらくそこまでで思考を止めるだろう。

だが、地獄を見た俺たちがやろうとしているのは、さらにその先だった。


「金融の盾が通じないなら、実業を持つ。それも、生活必需品を扱う実業だ」


高橋の言葉が、熱を帯びたオフィスに冷たく突き刺さる。


たとえ世界的な大恐慌が起き、株価が暴落し、あらゆる大企業がドミノ倒しに連鎖倒産したとしても――人間は、今日生きるための飲食をやめることができるだろうか?

答えは否だ。どれだけ通貨の価値が暴落しようとも、腹は減る。米は要る。塩も、水も、野菜も要る。

つまり、これまでの第1、第2の防衛線すら一瞬で吹き飛ぶような『最悪の崩壊』が来てもなお、この島根の地で生き延び、牙を剥き続けるためには、地域に根を張った実業が不可欠であると、俺たちは踏んだのだ。


11億円のゴールドという最強の矛を引っ提げて、俺たちは実体経済の喉元へ、静かにナイフを突き立てる。

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