第1話
2028年 日本 島根県 松江市
宍道湖から吹き付ける湿った風にさらされる、昭和の匂いを色濃く残した雑居ビル。
その三階に『斎藤ファンド株式会社』はある。
銀行からの融資は一切受けておらず、当然、上場もしていない。
設立から12年。どれほど利益を出そうとも、彼らはこの手狭な居城を一歩も動かそうとはしなかった。
ブラインドが下ろされた薄暗いオフィスに、小気味よいキーボードの打鍵音と、マルチモニターの熱気が満ちている。
「プロル、週足で5SMAが前回高値を越えたので買います」
「矢田送風、週足でRSIの六〇到達を先週確定させています。保有分の七五%を、今週中に均等に部分利確していきます」
淡々とした、だが確信に満ちた報告が部屋に響く。
デスクの奥から、低く落ち着いた声が返った。
「よしよし、株式部門の基本通りだ。そのまま各員、見張ってくれ」
斎藤ファンド――。
その設立資金21億円は、すべてメンバーのポケットマネー、つまり自費の持ち寄りで始めたものである。
2016年
時計の針を12年前に巻き戻す。2016年、世は空前の投資ブームに沸いていた。同時にそれは、甘い言葉で金を毟り取る「詐欺投資案件」が雨後の筍のように乱立した時代でもあった。
斎藤ファンドのメンバーはみな、その犠牲者たちだ。ネットの掲示板や都内のオフ会で、傷を舐め合うようにして集まった勉強会が彼らの始まりだった。
騙された者たちの多くは、文字通り人生を狂わされたサラリーマンたちだった。
しかし、その中には本物の資産家や、小金持ち、成金と呼ばれる人種が数名混ざっていた。
後者たちには、「500万円も騙し取られてお先真っ暗だ」というような悲壮感はない。
有り余る財力よりも、むしろプライドを傷つけられたことへの、烈火のごとき怒りに燃えていた。
『あいつら、よくも俺たちをコケにしてくれたな』
その怨念と執念が、この島根の片隅で、12年かけて研ぎ澄まされた巨大な刃となったのだ。
彼らと、意地だけで付いてきたサラリーマンや主婦たちは、その勉強会で狂ったように学び続けた。
どこに罠があったのか。騙されたあのゴミのような銘柄の裏で、まっとうに稼ぐ方法は本当になかったのか。貪るソース(情報源)は何でもよかった。
一冊5000円もする分厚い洋書の投資専門書を血眼で翻訳する者がいれば、国内外の複数の入門書からエッセンスを抜き出し、独自のロジックとして整理し直す者もいた。
それらの手法を、大型株、中型株、小型株、さらには日本市場やアメリカ市場に適用すると、一体どんな結果が出るのか。
彼らは寝食を忘れて、ひたすらエクセルに過去の株価データを打ち込み、計算を回し続けた。数万行、数十万行に及ぶ数字の羅列が、彼らの武器だった。
当然、脱落者も多かった。
最初は熱気に満ちていた部屋から、一人、また一人と姿を消していく。特にサラリーマンや主婦層は、誰一人として生き残れず、全員がドロップアウトしていった。
去っていった者たちの空席を見つめながら、誰かがぽつりと言った。
「彼らには給与やボーナスという、明確な定期収入があるからな」
その声に、デスクの奥の男が静かに同意する。
「ああ。生活の基盤が脅かされていない分、我々ほど『金への執着』が純粋ではなかったのかもしれない」
毎月決まった日に口座に金が振り込まれる安心感。それがある者には、このゴールの見えない暗闇の計算作業は耐えがたい苦行でしかなかったのだ。
生き残ったのは、プライドを裂かれ、復讐という名の執念だけで脳を焼かれた、本物の怪物たちだけだった。
去る者がいれば、やって来る者もまたいる。
勉強会の噂を聞きつけ、別の詐欺被害者グループが合流してくることが何度もあった。
仕手株の株価操縦に嵌められて高値掴みをさせられた者。
金融庁非登録の海外FX業者に言葉巧みに誘われ、超ハイレバレッジの強制ロスカットで資産を溶かされた者。
海千山千のプロがひしめく商品先物市場で、カモとして狩り尽くされた者。
騙された手口や詳細こそ違えど、彼らの根底にある意志は完全に一致していた。
『舐められたままで終われるか』
もはや、失った金の問題ではなかった。
詐欺師が逮捕されたところで、警察が口座を洗ったときにはすでにマネーロンダリングの後か、すべて使い込まれた後だ。「一応捕まえましたが、金は返ってこないっすね」という担当刑事の事務的な一言で幕を閉じられる。
ネットを開けば、SNSのタイムラインには『騙されるバカが悪い』『自業自得』という無責任な冷笑があふれていた。
法も、国家も、世間も、誰一人として自分たちの尊厳を守ってはくれない。
「いいだろう」
集まった猛者たちの中心で、男が静かに、だが地を這うような声で言った。
「ならば復讐してやろうじゃないか。法律の枠内で、誰にも文句を言わせない本物のファンドを立ち上げて、あいつらの世界を叩き潰してやる」




