15 追憶
その男は、その身にふさわしい清らかな床に膝をつかされ、静かに眼を閉じていた。
同じように静観していたエグマに向かって、兵士たちは最敬礼した。
その異変に気がついた、膝をつく男はゆっくりと、だがはっきりと眼を開いた。
「初めまして」
笑顔でこちらを出迎えた。
エグマをくわえていた煙草を携帯灰皿に投げ入れ、極めて丁寧な礼を返した。
「このような待遇を申し付けましたこと、大変おわび申し上げます。リヴァンダル卿」
まだ二十をいくつか超えたほどの歳若い城主である。エグマとそう変わらない歳だというのに、彼は荒事とは決して慣れあえない優雅な物腰で、世間知らずな笑みを浮かべている。
帝国で最も美しいと称されたリヴァンダル城。この城を代々守り引き継いできたリヴァンダル家は、帝国建国当初の戦における功績を認められ、手厚い保護のもと、生き延びてきた名門である。
「私は、この城の主、フレンダ・リヴァンダルだ。初対面で申し訳ないけれど」
温室培養の貴族が話し始めた言葉は完璧な連邦国語だった。
「先ほど貴方がたが捕えた巫女を逃がしてはもらえないだろうか」
「ご心配なく。彼女はすでに自力で逃げ延びましたよ」
エグマが応えると、フレンダは首を振った。
「いや、彼女は戻ってくる。だから、二度とここには戻ってこないように、元帝国領内から逃がしてほしい」
王はすでに死んだ。
エグマの部隊が城を包囲すると、ほどなく側近たちは投降してきた。
しかし、その隊列の中に王が紛れていた。替え玉のつもりだったのだろうが、王の顔を知っているエグマには無意味だったのだ。
側近たちの他に城に残ったのは美しい女たちやコックだけだった。それでも戦ったのが、このフレンダである。だが、戦いを知らぬ世間知らずが勝てるほど、エグマの部隊は生易しくなかった。ほどなく彼は捕えられ、エグマの前で膝をついている。
「彼女は巫女だ。利用価値はあるだろう。だが……」
フレンダは澄んだ碧眼を細めた。
神官や巫女は矜持が高い。帝国主都で神官たちの抵抗が続いていることはエグマも伝え聞いていた。
「彼女は……フィルディルシアはまだ十六歳で、自由を得るべきだ」
巫女と城主が疎開先で出会う。それから閉鎖的空間、恐慌状態でよく起こる症状だ。
さきほど火のように鮮烈な飛び蹴りをエグマの部下に放っていた華奢な少女を思い出す。確かに美少女と称しても良いほど、整った顔立ちの娘だ。若い城主も夜会に出ればさぞモテたことだろう。
エグマは、自分とは極めて反対の立場にあるこの優男に興味を抱いた。
「少し、時間をいただけませんか」
フレンダを連れ出すことにした。
温室の中庭に誰もいないことを確認して、エグマはそばにあったベンチに座す。
「――懐かしい」
思わず漏らした。エグマは幼い頃、父とともに訪れたことがあるのだ。
「―――私は、あなたを知っていますよ」
フレンダは笑ってガラス越しの曇り空を眺めた。
「先代のウルティア大帝が私の父に引き合わせた鮮やかな赤い髪の少年……。エミグラーセティマ皇子」
エグマは黙って瀟洒な植物たちで固められた温室を眺めた。
「お母上のご不幸で、カタスに引き取られたと聞き及んでおりました」
フレンダはエグマを振り返る。
「生きておられたのですね。よくお戻りになられました。―――おかえりなさい。あなたの生まれ故郷へ」
そう微笑んで、フレンダは眼を閉じた。
エグマもつられるように笑んで、ずっと決めかねていたことを決心する。
「リヴァンダル卿。あなたにここから逃げていただきたい」
エグマは驚くフレンダを見つめた。
「幸い、ここへは私の直属の部隊しか来ておりません。私の気まぐれには慣れている」
「そ、そうはいきません…」
「卿。あなたには望む未来がある」
あの巫女姫と生きたいという未来への望みがあるはずだ。
フレンダは少し黙ってから、ぽつりと話し始めた。
巫女姫との出会い、危なっかしい巫女との日々、惹かれあう過程をかいつまんでエグマに話した。
「あの気の強そうなお姫様を抱いてみたいと?」
フレンダは顔を紅くして首を振る。
彼は銀の指輪を取り出した。
「私は彼女に結婚を申しこみました。―――指輪を受け取ってはくれました…。しかし、彼女にとって人を愛するということは神が信者を愛するかの如く、陶然と、均一なのです」
巫女は常に、一貫した人への接し方を求められる。彼女等の真に愛すべきは、神なのである。年若く巫女になっているのだから、物心つく頃から刷り込まれた意識を変えるには時間がかかるはずだ。
そう。
城主と巫女の二人には時間が足りなかったのだ。時間さえあれば、確かに互いを愛し合って生きていける。
「子供はいつか成長し、あなたの心をわかるようになる。あなた方に足りないのは、ただの時間だ」
話し終えたフレンダに、エグマは静かに続けた。
「今の私には、あなたに時間を与える権限がある」
ふ、とフレンダは笑った。
「では、あなたは私に彼女が愛を返してくれるまで待ち続けていろというのですか?」
エグマは、息を呑んだ。
「私には、その胆力はない。彼女が私の愛に応えてくれるまで待ち続けていられるような……そんな身を焦がすようなことに、これ以上耐えていられない」
繊細な若者が、崩れるような笑みを浮かべる。
それは、崩れていくこの城の運命を物語っているようでもあった。
「私は彼女が私だけを愛さないことに耐えられない。ですから、彼女と二人きりになれば是が非でも彼女に私だけを見ることを強要するようになるでしょう。どんな手を使っても。私がこれから犯すであろう、彼女への仕打ちをとどめるには、恐らく死ぬことになる」
澄んでいる瞳は生気のないガラス玉のように見えた。
「ならば私は今、死ぬことによって、城と運命を供にした主として死にたい」
「リヴァンダル卿…」
「皇子。私は帝国の申し子ですよ。常に滅びを見つめ、腐り行くわが身をただ静かに見守っている。朽ちながら生きてきた私は、少しだけ、あなたと価値観が違うのです」
フレンダは真っ直ぐ、だが何処か虚ろにエグマを見つめる。
「私は、今、このとき死にたい」
人は彼を狂人と呼ぶのだろうか。
沸いた疑問に応えを出せないまま、エグマは彼の望みを叶えたいと願った。
「――わかりました」
「ありがとう」
フレンダは微笑み、
「彼女をお願いします」
エグマの手に銀の指輪を、恐らくエンゲージリングの片割れを乗せた。
「これを巫女に?」
「いえ。これはあなたに」
不思議そうな顔をしたのだろう。
フレンダは笑う。
「あなたなら、彼女と幸せになれる気がします」
エグマは呆れて肩をすくめた。
「あなたの天啓を信じる信心深い男に見えますか?」
「いいんです。信じていただかなくても。多分、ここで死ぬ私は、彼女の心の奥深くに残るでしょうから。今の私には、それで充分すぎる」
激しい嫉妬も、今はただ、深い愛情に見える。
「あとは彼女の……フィルディルシアの幸せを願うだけなんです」
「―――幸せ云々は別にして。彼女のことはわかりました。卿のおっしゃるとおり、責任をもって帝国から連れ出しましょう」
「彼女のことは、普段、私はフィーリと呼んでいました。だから、あなたもそう、呼んであげてください」
それから、とフレンダはエグマに向かって照れるように笑った。
「私のことは、フレンダと呼んでください。できれば、友人になってくれると嬉しいけれど」
※
城の、冷たい床に横たわった体は苦しげにあえいでいた。
ユーゲルトが用意していた毒を、フレンダがあおったのだ。
城主は毒を飲んで自決した。そう報告するためだ。
ユーゲルトは誰も手をくださないよう、部下を下がらせ、エグマも遠ざけようとしたが、エグマは苦しむフレンダの傍らに立っていた。
フレンダは苦しむ息の中でエグマを見上げ、笑う。
「……エグマ…。あとは……」
エグマは自分のコンバットナイフを引き抜いた。
「エグマ!」
ユーゲルトの叫び声は遠く聞こえた。
フレンダも突然の騒ぎに眼を見開く。
「―――友として、最初で最後にしてやれることだ。フレンダ」
これ以上苦しまないよう。
フレンダはしばらくエグマを見つめて、眼を閉じる。
その半瞬後、エグマはナイフを振り下ろした。
森で捕まえたフレンダの巫女姫は、どうにも気性が荒く、手のつけようがなかったが、エグマには手負いの獣に見えた。
時折見せる、深い心の傷はフレンダが彼女の記憶に一生消えることのない澱となって沈殿していく過程だ。
傷心の巫女の面倒をみるのは、とても神経を使い、とても興味深いものだった。
日々が発見に満ち、緩やかに過ぎていく。
それは戦争という他者を支配する世界とは違う、穏やかな時間だった。
ふと考える。
この少女を無事に導くことができれば、エグマ自身が癒されるのではないか。
そして自答する。
この淡い光のような日々を過ごすことで、多くの罪を風化させることができた。死は償いではなく、生きた結果はいつか必ず訪れる死の瞬間にわかる。
フレンダが残してくれたエグマへの穏やかな時間は、否応なく彼への感謝と、自己肯定を促した。
やがて少女との緩慢な時間を終えて、エグマは再び、身を引き裂く戦場へと戻る。
今まで考えもつかなかった、確かな望む未来を願って。