9 夫の悔恨
重苦しい沈黙に包まれた部屋の中、私はどうにか口を開く。
「それで実家にまで嘘を吐いて、王都を離れたのか」
「嘘ではありません。『信用を失くした妻』には違いありませんもの。幾度となく疑っては確かめずにいられないほど、私からの愛は信じがたいものだったのでしょう?」
「そんな、ことは……」
否定したくても過去の己の言動が口を塞ぐ。他の男から言い寄られるのを心配していたということは、裏を返せば妻は言い寄られたら応える女性だと見なしていたも同然だ。
「ですから、そんな妻を捜し続けられるとは予想しておりませんでした。当主であるフェリクス様の貴重なお時間を無駄にさせてしまい、申し訳なく――」
「無駄などではない! 愛する人を捜すことが無駄な筈が無い!」
私は前のめりになって叫び、リーナが頭を下げるのを止めさせた。
「私は二年前から……いや、出会った時からずっと君を愛している。初恋の相手をね」
初恋と言った瞬間、エヴァンジェリーナの纏う空気が少しばかり柔らかくなる。彼女の目は私を通して遠い日々を見つめているようだった。
「私も貴方が初恋でした。あの裏庭で、薬を手作りする風変わりな女の子を、父にも兄にも可愛げが無いと疎まれていた私を、初めて褒めてくれた男の子が大好きでした」
「リーナ……」
愛おしい思い出を語る唇に見入っていると、一瞬だけ何かを堪えるように引き結ばれた。
「だから分からないのです。大好きな男の子に相応しくあろうと努力し、率直に気持ちを打ち明けて、それでも信じて貰えなかったのは何故なのか」
妻が遠い昔から今の私に視線を戻す。
背筋を正して深く息を吸った。ここで言葉を尽くさなければ二年前の繰り返しだ。
「……貴族の大半、とりわけ高位貴族は政略結婚が当たり前だ。私の両親のようにね。物心ついた時には形だけの夫婦だと何となく理解していた」
家の為だけに結ばれた両親は、罵り合うことはなかったが目も合わせることもなかった。相手が愛人宅に泊まろうと部屋に引き込もうと気にも留めない。間に生まれた私にも跡継ぎ以上の関心を寄せなかった。
政略結婚でも円満な家庭を築いている者はいる。だが幼い私にとっては不幸の象徴だった。
「私は両親みたいになりたくなかった。私に娘を引き合わせようとする者も、すり寄って来る令嬢達も疎ましかった」
だからお茶会を抜け出した少年は、裏庭で出会った少女に恋をした。
「互いに好き合っていると知って、君との縁談が決まった時はどれほど嬉しかったか。両親とは違う、愛情ある夫婦になれると思った。けれど父がチュカーリン伯爵と話しているのを聞いたんだ」
ある日、婚約者同士のお茶会で私は席を外した。リーナのために侯爵邸の蔵書室から植物図鑑を持って来ようとしたのだ。すると通りかかった応接室の扉が僅かに開いており、父親たちの会話が聞こえてきた。
「互いの家に益があると、声をかけておいて良かったと言っていた。何のことはない、私達も政略ありきの婚約だった」
貴族として当然だと理解していても、私は恐ろしくなった。
初恋によって結ばれた筈の婚約がありふれた欲得尽くの縁談だと知って、父母の冷たい関係が脳裏をよぎった。
「怖かったんだ。君が好きだと言ってくれたのは父親に命じられたからではないか、愛してるのは私だけではないか……そんなことばかり考えてしまって。だから私への気持ちを何度も口にするように仕向けた」
私から責められても周りから傷つけられても好意を示し続けるリーナに、私はひどく安心した。私達は相思相愛なのだと確かめられた。だが暫くするとまた言葉にして欲しくなって、その繰り返しだった。
「他の男性と話す度に咎めたのも嫉妬からだ。だが、それで君が周りからどう見られるか……考えが及ばなかった」
父母が私の振る舞いを注意しなかったのも原因のひとつだ。エヴァンジェリーナが私に縋りつく姿――実際に愛を乞うていたのは私だが――を見て、主導権が私にあると思って満足していたのだろう。いや、こんなのは言い訳だ。
「私は自分の不安ばかりで、君の気持ちを軽んじてしまったんだな」
歳を重ねるにつれ直視しないようにしてきた不安は、形にしてみればあまりに子どもっぽくて溜息がこぼれた。
こんなことは終わりにしなければ。私は席を立って向かいに回り、妻の傍に跪いた。
「本当に、本当にすまなかった! これからは決して君の愛を疑いはしない。自分よりも侯爵家よりも君を大切にすると誓う」
ぽかんとしているリーナの手を取ると、滑らかであった肌がすっかり荒れていて痛ましかった。だが温もりは二年前と変わらない。私は最愛の妻を見つめる。
「愛しているよエヴァンジェリーナ。一緒に家へ帰ろう。今度こそ、何があっても、君を幸せにしてみせる……どうか信じて欲しい」
結婚式の誓いよりもずっと緊張していた。
早鐘を打つ心臓を感じながら返事を待っていると、俯いた妻がおずおずと尋ねてきた。
「私の幸せの為なら、何でもして下さるのですか?」
「……ああ!」
出会った日の少女と同じ仕草に、懐かしさと愛おしさが胸に満ちる。
声を詰まらせながらも応えると、顔を上げた妻は真剣な顔つきで口を開いた。
「では、離縁状に署名なさって下さい」