10
タクシーを止めて車を出た場所は、細い路地裏の汚いアパートだった。
「確か二階だったと思うけど…」
嶌谷さんは鉄骨の階段をリズム良く上がって行く。俺はその後をついて行った。
「ここだ」
黄ばんだ紙の表札には、やっと読み取れるぐらいに薄くなった文字が書いてある。
「月村…孝道…」
「うん、ふた月ほど前までうちで働いていたピアニストなんだよ。凛一がひどくお気に入りでな。アパートにまで追っかけていきやがる。俺は反対だったけどね」
ノブを回して開かないと知るや、嶌谷さんは錆び付いた郵便受けやガスのメーター箱をガサガサと調べている。
「あった〜大体こういう場所に置いてあるもんだ」と、嬉しそうに俺に鍵を見せ、鍵穴に差し込んだ。
狭い部屋の中には誰も居ない。と言うより、人の住んでいた気配が妙に少ない。
本当に凛一は、ここに住んでいた月村という男と知り合いだったのだろうか。
嶌谷さんは窓を開け、新鮮な空気を入れた。
こもっていた空気が少しだけ晴れた気がした。
彼は休みなく「あいつらが行きそうな場所ってどこだろうなあ…それにしても汚くて狭い部屋だなあ〜」と、ぶつぶつ言いながら、少ない室内品の箪笥や棚の引き出しを開けては覗いている。
俺も突っ立ているだけじゃ意味が無いと思い、適当に探し始めたが、ふと気になってと嶌谷さんに話しかける。
「嶌谷さんを疑うわけじゃないけれど、本当にその月村さんって人と凛一は一緒にいるんでしょうか。…凛一とその男がどういう関係だったのか、あなたはご存知なんですか?」
「関係ねえ…たぶん、下世話なことを言ってしまえば、セックスはしていないと思う」
「…」
あまりに直接的な言葉で俺は思わず顔を伏せた。そういう風に言って欲しかったわけではないにしても、心を読まれたかと思ったのだ。
「月村はノーマルだから、凛一が誘ってもしないと思うんだ。それに…凛一自身はわかっているかどうかは知れないけど、あいつは自分が相手を好きかどうかじゃなく、相手が自分をどう愛してくれるのかを重要視している気がしてならない。相手の愛情を試すというか…だから心配なんだよ。無鉄砲に挑発するところがあるからね」
「…」
それを聞くと益々不安になってしまう。その月村って男はノーマルだと言ったが、じゃあ何を凛一に求めて付き合っているんだ。
「あ、これがなんとなく臭いなあ」
小ぶりの引き出しから嶌谷さんが出して見せてくれたものは束になった手紙と写真だった。
畳に座り込み、ふたりでひとつひとつしらみづぶしに目を通した。
古びた写真は外国の風景が多かった。
俺は月村という男の顔を嶌谷さんから教えてもらった。
ピアニストというからもっと芸術家風なのかと思ったら、予想に反して普通の男だ。なにかしらの魅力やカリスマも写真からは感じられない。
「意外だって顔しているよ、慧一君」
嶌谷さんは俺の顔を見て揶揄うように笑う。
「いや…ピアニストって言うから、もっとミュージシャンっぽい人なのかと…」
「見た目は冴えないんだが、ピアニストとしての腕は、本物だったよ。それこそ凛一が惚れ込むほどにね」
「…だったって…どういうことですか?さっき言いましたよね。嶌谷さんの店でこの間まで働いていたって…何故、彼は店を辞めてしまったんですか?」
「…それは…たぶん凛一が居なくなったことと関係があると思う」
嶌谷さんは眉間を歪め、低く声を潜ませた。
「…月村さんは…末期ガンでもう長く生きられない身体だった」
「えっ?」
「月村自身もそれは知っていて…だから自ら進んで店を辞めたんだ…」
「…それで凛一は?」
「うん、どうして辞めたのかを追求されて、とうとう口を割らされてしまった。俺も凛一には弱いんだよ。あいつの強引さには恐れ入る。だけどそれは酷く純粋なものだから、俺みたいな汚い大人でも、誤魔化せない」
「…」
嶌谷さんの言いたい事はわかる。凛一が本気で己の感情をぶつける時は、こちら側に一切の繕いや紛らすことを許さない。まさに天からの糾弾のごとくに。
「俺の憶測かもしれないが、凛一は月村に同情して、彼を追って行ったんだと思うんだよ。月村は黙って消えてしまったから、凛一はひどく気にしていたんだ。…俺が凛一をもっとちゃんと引き止めていれば良かったんだが…」
「あなたの所為じゃない。凛一がこうと決めたら俺でも止められないんだから。あんな風に育てた俺に責任の一端は感じてますけどね」
自嘲気味に笑うと、嶌谷さんは思いがけない事を言う。
「それが、宿禰凛一なんだろうね」
「…」
宿禰、凛一…そうだったのか…俺はそういう人間の兄であり、そういう人間を生まれた時からずっと見つめ愛してきたんだ。
凛一がどう思おうがそんなことは関係ない。
俺は凛一を愛したい。守りたい。彼の為に生きたい…
その想いだけで十分に生きられるんじゃないだろうか。
RRR…
腰のポケットの携帯が、凛一からの電話を示す着信音を響かせた。
俺は急いで携帯の画面を確かめる。
間違いない。凛一からの電話だ。ボタンを押すのもわずらわしく、自分でも驚くほどに必死に呼びかけていた。
「凛一か?どこにいるんだ!」




