5.喪失
信じられないほどの速さだった。
人ならざるような、異様なほどの速さ。ありえない速さ。
けれど、急く心を抱えるわたしにとってはありがたい。速ければそれだけ早く『ひまわり亭』に近づいていけるのだから。
ところどころで立ち止まり、方向をわたしに確認すると軽やかな足取りで瓦礫を飛び越える。わたしの足であれば普段でも2時間は掛かるであろう距離を、道などないに等しい破壊された街の中、わずか15分も掛からずに彼は走りきった。
北の広場とは反対側の南に位置する『ひまわり亭』は、潮の香りに満ちた港に近い通りの広場にある。けれど本来であれば潮の香りが漂っている辺りは、今は錆びた臭いと獣臭さに満ちていた。
「この辺りでいいのか?」
場所を訪ねる彼に頷くと、抱えた腕から下ろしてくれるように頼んだ。ラースさんはあちらこちらに転がる肉片を気にしたのか渋い顔をしたけれど、もう一度お願いすると渋々といったようにわたしを地面へと下ろしてくれた。・・・・血溜りをわたしの目に入れないように、向きを気にしながら。
優しい人だな、と思った。
些細なことだけれど、感覚が麻痺しそれでいて恐怖に怯えた心には、その気遣いがとてもありがたい。
「それで、君の家はどちらに・・・・?」
そう言ってラースさんが周りを見渡す。
日中ということもあり火を使っていた家も多かったのだろう。魔獣に瓦礫にされた建物も多いが、火が燻って今だ黒煙をあげながら消し炭になり崩れ落ちてしまった長屋も多く見てとれた。
見慣れた景色からは一変してしまっていた。
けれど、わたしが『ひまわり亭』の場所を間違えるはずがない。
目を向けた先には、辛うじて建物の形を保った食堂長屋が見えた。・・・あの縁が、わたしの『ひまわり亭』。
手を上げて真っ直ぐに食堂を指し示すと、頷いたラースさんはわたしの手を取った。
「・・・・・・え?」
「足元が危ないから。気をつけて」
そう言って、手は取られたまま、歩くように促された。
「・・・・・・・・・・」
正直言って歩きにくい、離してほしい。けれど、わたしを気遣ってここまで連れて来てくれた人。しかも命の恩人。無下にもできず、手を握られたままに長屋へと歩き出す。
危なっかしい足取りながらも食堂長屋へ近づくと、そこは思った以上にひどい有様だった。
遠目に見ても崩れ落ちて悲惨な有様だったけれど、間近でみるそれは周りの建物と違わずぼろぼろの状態。
長屋は外殻が辛うじて残り、建物だったことを伝えていた。けれど、建物らしいのはそれだけ。魔獣の腕になぎ払われたのか壁がごっそりと抉れて無くなり瓦礫となり、厨房から上がったのだろう炎が残った柱を炭に代えていた。建物の態を成しているのが不思議なほどで、今だ燻る煙があたりに充満している。
そして、足元に広がるどす黒い水たまりと。・・・・・・・・・・・・・転がる肉片。
誰の一部だったかも分からない肉の塊が、あちらこちらに点在していた。
千切れた腕。部位も分からないぐちゃぐちゃとしたピンクの塊。鉄の臭い。
ボロボロになり血と煤に塗れて誰のものともわからない、ちぎれた衣服。
殺戮の跡が、生々しく残っていた。
「・・・・・・・親父さん、いる?」
わたしの声が辺りに響いた。
「・・・・・・・女将さん、怪我してない? 迎えにきたよ。もう大丈夫だから、出てきて・・・・・・」
ぱきり、と柱が折れて地面に落ちてくる。
辛うじて外観を保っている建物は、今にも崩れ落ちそうだった。
「リイナだよ。出てきてよ、親父さん、女将さん」
店先にいつも置かれていた横長のテーブルがなぎ倒されていた。丸椅子は見当たらず、そのかわりに周りに木片が散らばっている。
・・・・・・・いつも綺麗に磨いて木目が浮いていたテーブルは、どす黒く変色していた。
「ねえ、返事してよ・・・・・・・・」
声が震えてくるのが、自分でも分かった。
認めない。認めたくない。
「・・・・・・・リイナ、ここは危ない。広場へ戻ろう」
掴まれていた手を、ぐいっと引かれた。
見上げると、ラースさんが痛ましげな表情をして、私を見下ろしていた。
・・・・・・・どうしてそんな顔をして、わたしを見るの?
「戻らない。親父さんと女将さんを探さなきゃ」
掴まれた手を振りほどく。
外にいないのなら、きっと厨房だ。
いつも二人は店を閉めると鍋やら皿やらを磨いて、翌朝の仕込みをしていた。
だから、外になんているはずがない。
魔獣の襲撃に腰を抜かして、厨房で動けなくなっているに違いない。
ドアとは言えない様相になったカウンター横の仕切りを、ギイっと開ける。
「駄目だ」
足を踏み入れようとしたところで、ぐいっと腰に腕を回され、後ろに引っ張られた。
「駄目だ、入るな」
ラースさんの硬い声が降ってくる。
けれど、わたしの足先は地面に触れてしまった。
・・・・・・・・びちゃりと、ぬめった水音がした。
「見るな」
わたしの顔を、大きな手が覆う。目の前が見えない。
けれど遮られる前に、一瞬、見えてしまった。
厨房を覆う、赤、赤、赤。
「――――――――――――――――――――あ、」
そこからは、覚えていない。