ある観察記録-1
少年の荒い息づかいと足音が、日が沈んだばかりの夕闇の中で小さく響いていた。
ノースリーブのパーカーとハーフパンツから伸びる手足や額には、たっぷりと汗が浮かんでいる。整った顔立ちは中性的で、そのつぶらな目は輪郭がくっきりとしている。肩からかけられたプールバッグが、大きく一歩踏み出すたびに左右に弾んだ。
――危ない!
少年が左腕で抱えていた毛玉が、その大きな耳をいきり立たせながら声を発した。聞くが早いか、少年は左足で地面を蹴って、小さな工場と工場の間の路地に飛び込んだ。その後ろでは大きな風切り音が鳴って、振り返った視界の隅を、一つの影が飛び去っていった。
少年は前に向き直って、よろけながら、再び走り出した。工場地帯は、花火を思わせる焼けた金属の匂いに満ちている。そんな空気の中を、息を切らし、ぜいぜいあえぎ、汗で肌着を湿らせながら、走り続けた。
路地から路地へ、時にはナトリウムランプの橙色の光が照らす大きな道路を横切り、時には立ちふさがるフェンスをよじ登って。
――どこまで逃げるのさ!
フェンスの向こう側に放り投げられて見事に着地した毛玉のその言葉に、フェンスから飛び降りた少年は、毛玉を再び抱きかかえ、駆け出しながら答えた。
――河原だよ、河原!
――どうして!
――あそこが、一番人気が無くて、都合がいいからだよ!
毛玉は抱えられた腕の中で一つため息をつき、ウサギのように大きなその耳を伏せながら、ため息交じりにこう告げた。
――またそんなことにこだわってるの? それまでに追いつかれちゃうよ。
――僕にとっては、重要なことなんだよ!
――ああ、もう! また来る!
とっさに右に転げて、少年は襲来するそれから身を躱した。急降下してきたその影は、再び風切り音を残して飛び去っていく。少年は、今度はもうその影には目をくれることもなく、ひたすらに走り続けた。
工場を囲んでいたフェンスの前を走り抜け、土手に向かう階段を二段飛ばしで一気に駆け上がると、目の前が一気に開け、堤防沿いの広い運動場が現れる。街灯が途切れ途切れに光の島を作っていて、対岸の背の低い工場の明かりや、控えめな夜景、幅の広い川を横切る橋が、遠くに見えていた。
――さあ、満足でしょ。早く!
――分かってる!
腕の中の毛玉にそう答えた次の瞬間、少年の目の前に影が降り立った。ばさりばさりと羽音を響かせながら、闇の中、その姿をおぼろげに少年の前にさらした。
――逃げ切れるとでも思ったのか?
少年の耳にははっきりとそう聞こえたが、目にはかろうじて、その影の輪郭だけが見えていた。闇に慣れ始めた視界の中で、影はだんだんと明瞭に姿を現していき、彼が両手を広げるよりもずっと広いその翼や、ぎらぎらと闇の中で奇怪に輝く瞳、三本の足に生えたかぎ爪が、少年にも認められた。
その異様さを認識した少年には、体温を下げるためではない汗が自分の顔を流れていくのが分かった。
――相手にならないのによく言うよ。ねえ?
毛玉はそう言うと、少年の腕の中から飛び出し、足下の草の中に着地した。
わずかな光の中でも、それが、どんな動物にも似ているようで似ていないのは一目瞭然だったろう。ウサギのようにずんぐりした体と大きな耳を持っていても、その耳は今は伏せられているし、目は不自然なほどに大きく、その額には一本の角が生えている。
猫と狐をかけ合わせたような顔を上げ、鼻を鳴らして少年を見上げた。
――ああ、そうさ、そうだよ……
少年が歯を食いしばり、つぶやくように言い終わる前に、目の前にいたそれが大きく羽ばたいて、少年の方に突っ込んできた。どうにか倒れ込むように身を躱そうとしたが、次の瞬間には、左腕に激痛と、燃えるような熱を感じた。
影は再び空中高く舞い上がった。右手で左の二の腕を押さえると、ぬるりとした感触があって、悲鳴を上げることすら忘れさせた。
――さあ、もういいでしょ!
毛玉が叫んだ。少年は血まみれの右手で肩紐をつかんでプールバッグを投げ捨てると、
――分かった、分かったって!
と答えた。
次の瞬間、少年の下腹部、へその下あたりが、服の上からも分かるほどに光を放って輝き始めた。
そして、再び迫ろうとしていた翼を持った影が吹き飛ばされるほどの嵐が、少年の周囲に巻き起こった。その嵐がパーカーとハーフパンツ、その中の下着まで吹き飛ばして千々に引き裂き、少年の肌の全てをあらわにした。下腹部は変わらずに輝き続け、今度はそこからいくつもの光の帯が発され、少年の体を覆っていった。
――ええと……アンティノース! オルタレーション!
不慣れなかけ声に合わせて、光の帯は足、股、腰、胸、腕と巻き付いていき、少年の姿を変容させていく。
足には膝近くまであるブーツのような靴、腕には肘近くまである手袋、体を覆うのは足の付け根の部分が切れ上がったスーツ。腰にはベルトと丈の短いパレオ、最後の仕上げには肩から伸びる大きなマント。
そして、少年は自分の左手、もう痛みも血の痕跡も残っていない左手を右頬に当て、左に動かすと、その軌跡に光の帯が生じ、目の周りを覆う仮面が現れた。




