瞳のなかの単眼鬼
刺すような痛みがあって、それは鈍磨した全身に波紋のように広がってゆく。どこか他人事のように遠く感じる痛み。意識だけがぽつりと覚醒する。水から顔を出したように。宗助は首を動かして辺りを見回した。指にざらざらとした感触がある。
――そうだ、ここは夜の繁華街で、おれは地面に倒れている。仰向けになって。空を仰いで。
街燈から滴る緑色のスパーク。目に沁みる光線の滴り。甘ったるいような饐えた臭いが鼻を突いた。身を捩ると、がさがさと音がして、脇腹に激痛が走った。傍らに幾つかのビニールの袋が見える。自分がゴミ捨て場に上半身を突き込んで倒れていることに気が付くと、宗助は力なく笑った。強張った顔一杯に充実した痛みがある。記憶は混濁していたが、自分が泥酔しているところを数人の青年に絡まれて、やがて殴り合いになったところまでは思い出せた。身を起こそうとすると、腰に鋭い衝撃が走って、宗助は目を白黒させた。口からぼたぼたと涎が零れ落ちる。手を突いてなんとか立ち上がり、持ち物を確認した。財布からは紙幣が抜き取られていた。腹いせの為だろう、叩き折られたカード類の欠片が地面にばら撒かれている。ブルゾンを探ると、あちこちがべっとりと濡れていた。胸ポケットの携帯電話はどうやら無事のようだった。数人の通行人が顔を顰めながら傍を通り過ぎて行った。公園で顔と服を洗おうと、宗助は身体を引き摺って近くの公園に向かった。
トイレの鏡に映った顔は想像していたより酷かった。鼻から下は血塗れで、唇も所々が裂けている。飲み物の混交した汁が付着しているのだろう。ブルゾンには黒っぽい染みがあちこちにある。携帯電話を取り出して、ブルゾンを流しに脱いで洗った。汚れは落ちない。顔を洗って口を濯ぐと、奥歯が四分の一欠けた。蛍光灯が今にも消えそうにチカチカと瞬いている。不意に、郷里にいた頃に掛かった悪戯電話を思い出した。その後、幾度か掛かってきた電話。凡そ犯人の見当はついたものの、ついに追求することはしなかった電話。最新の電話で、宗助は自暴自棄になって酒を飲み、ゴミ捨て場に倒れながら、涙ながらに金の無心と肉体の欲求を訴えていた。そして、長田が学生時代に所属していた映画サークルの作品に出演した際、割り当てられた役名がゴミ男であったことを思い出した。つくづくゴミ捨て場に縁のある男だ。宗助は笑おうとして、上手く笑えなかった。明滅する鏡に、片頬を引き攣らせて血塗れの、単眼の化け物が垣間見えた。
顔と服を洗って、どうにか人間の体裁を整えると、宗助は公園の青白い光芒を離れた。帰路、結婚式の相談の後にもう一度、長田から電話があったことを思い出した。それに往信しようとして、すっかり失念していたのである。長田の番号をコールして、五回目に繋がった。
「おう。この間、電話しただろう。なんの用だ」
「おう、久し振り。今度、啓三を誘って富士登山をしようと思ってさ。そのお誘い」
「悪い。今身体を悪くしていて無理だ」
「そうか。そうだったな。しかし驚いたよ。まさかお前から電話が掛かって来るなんて」
「遅くなって悪かったな」
「違う違う。そうじゃない。今、由紀ちゃんの結婚式の帰りだ」
一瞬、息が止まった。
「別に知らせてもいないのに、まさかこんなタイミングでお前から電話が掛かって来るとは思わなくてな」
今更に関係のない女性の事とはいえ、唐突に告げられれば身に堪えた。宗助は疲労でなにひとつ考えが纏まらず、痙攣的に笑い声を上げた。
「そりゃあ良かった。おめでとうさんだ」押し出すように言った。
「……うん」
長田は大学の友人達と二次会に参加して、今しがた帰路に着いたところだと言う。そこから右へ左へと話が曲折した。長田も宗助も、相手を持て余した。自然、話題は由紀の結婚へと流れてゆく。
「お前が由紀ちゃんと別れて二ヶ月かした後、大学の奴等と飲み会やったんだ。由紀ちゃんになんて声を掛けたら良いか、わからなくてな。まあ、月並みなことを言った。その事はもういいの、なんて平気な顔をしているものだから、やっぱり少し物足りないような気もした」
長田の口調には宗助の心情に阿る調子と、反応を見るような調子とがあった。どちらも長田の本心には違いない。揶揄されたところで文句の言える宗助でもなかった。
「彼女、自分でも言ってたよ。厭なことは一晩眠れば忘れられるって。それでさっぱり忘れてさ、良い人見つけて結婚したんだろう。それで結構じゃないか」
「そう簡単な話でもないと思うがなあ。しかし、一年と経たずこうだろう。相手は同窓会で再会した同級生って話だったが、期間を考えると……」
「二股かけてたってか。無理におれの心情を汲むなよ長田。仮にしていたとして、いや……。おれが仲立ちになったんだろう。正反対の方向に。相手はやさしくて、普通で、しっかりとした勤め人なんだろう?」
「うん、そうだ。早稲田出身の社会人だってさ」
「だったら良いじゃないか。今度はより上手くやれるんだ。たっぷりと馴致して貰えばいいじゃねえか」
失言であったと宗助は思った。しばらく沈黙が続き、長田が口を開いた。
「なあ、お前らしくもないな。そんな嫌味みたいなこと言うなんて。少し、いつもの自分を見失っているんじゃないのか。もっと冷静な――」
「おれが自分を見失っているだって。馬鹿を言えよ。充分に理解しているさ」
――おれに自分なんてもの、最初からないんだよ、長田。いつもの自分が、これなんだよ。空っぽなんだよ。だから目に見える全てのものも空っぽだ。本当になにもないんだ。父性も、故郷も、生命も。虫みたいにさ、刺激に反応する作用があるだけなんだ。以前、中学生の頃にそれをお前に言ったんだ。お前はおれに不貞腐れるなと答えたんだ。おれは正直に心中を表白したことを後悔した。恥じたんだ。皆同じかもしれない。だったら他人にそれを言うってのは、やっぱり情けないことなんだって。でも、なにもわからないんだ。なにも接続しないんだ。生まれて、おれが自分を知ってからずっと。まるで困じ果てているんだ。それで人間の振りしているんだ。せめて表面だけでもと思って。デスマスクがさ、張り付いてんだ。
覚えているか? 啓三の兄貴が言った、大人カードって観念を。おれ達はプレイヤーでさ、ポーカーみたいにカードを使って勝負する。家柄、容色、運動神経、財力、家庭崩壊、人格、親の首吊り、馬みたいなペニス、可愛らしい笑窪、魅了する声、水虫とヘルペス、理想に燃える魂、精神分裂、演技する才能、喜ばれる料理の腕、的確な電話応対、信仰心、自殺、週末の予定、褪せない思い出、失踪、どれも勝負カードなんだってさ。役は自分で決める。面白いと思った。その通りだと思った。解り易くていいだろう。肝心なのはさ、カードの種類じゃないんだね。自分自身が賭けられているということ。既に賭けられているということ。役を決めるということ。
それで、おれは到頭、失敗したよ。
「なあ、宗助。おれは思うんだ。こないだ会ったとき、お前は由紀ちゃんの為にきっぱりと夢を諦めるつもりだったんじゃないか。いつかもしっかりとした仕事に就いてくれと、泣かれてしまったと言っていたじゃないか。それだから、いい加減は廃して、将来性のある仕事を探して、両親に挨拶するってさ」
「ああ、そうだ。その五日後だよ、別れたのは。おれは遅きに失したんだ」
そうして、時を同じくして、啓三は恋人と婚約を交わした。宗助の胸中にひとつの観念がはっきりと形を成そうとしていた。長田はその様を見て取るように思った。
「由紀さんは、」と宗助は続けた。恋人を呼付けるには些か改まった調子は、彼らが交際していた時分から変わらない。交際の当初からの変遷を、友人の屈託と卑屈に歪められた世間心とを、長田は良く理解していた。
「別れ際、宗助くんと結婚したいと思えなくなってしまったと言ったよ。おれはそれに頷いて、分かったと答えた。そうしたら由紀さん、殴られると思ったと言った。おれは自分にそんなことはできないと答えたよ」
長田は電話を耳に、押し黙って話を聴いていた。
「いつかではなく、彼女は結婚したかったのだなあ。そうして、おれには生活の仕切り直しということができなかった。その時、由紀さんが泣いているときに、おれが考えていたことを教えてやろうか」
ひとつ息をついて宗助は、
「綺麗だと思った。蒼白な顔をして、唇を震わせて、今にもおれに殺されるのではないかと恐怖して、そうしている彼女を綺麗だと思った。今まで見たどんな表情よりも、美しいと思ったよ。吐胸を突かれる思いがした。良い絵が描けると思った。壊滅的にそれを好ましいと感じた。おれはこんな調子だから、全体駄目なんだな」
宗助は淡々と語った。長田は思う。彼は純粋な生粋の芸術家などではない。それが為に逆賭しづらいものを取り返しのつかない位置へと投げ込み解消しようとするのだ。そうしなければ、観念の純粋さを保つことができない。故に彼は処断されることを望むのだろう。後戻りができない状態でなければ、生を切り詰めなければ、生きていかれないほどの放縦と薄弱。
「それで、おれは到頭、失敗したよ」
長田は吐き気を催した。その醜怪な破滅願望の告解には弁解せざる真実の響きがあった。宗助の交際の真実とは留保ということにあった。何れとも片付かぬ状態にあった。彼はまるで構わないのであった。それだのに、結果してみれば一人前に一心に打撃を受ける。由紀の比較商量を揶揄する資格が宗助にあろう筈もない。なんとなれば、彼自身が彼女に勝って功利的なのであるから。
かつて長田は宗助の裡に、跼蹐してはいるものの、陸離たる光彩を放つ何物かを確認した。それは渋滞し止まぬ宗助の感情の奥底に、確かに光を湛えて存在するものと感ぜられた。それは本来的にもっと自由な、こだわりのない美しい姿をしているに違いないと思われた。
けれども、今自分に話しかける人間は、人格の荒廃した一人の生活破綻者に過ぎなかった。彼は偶然、手にした電話から思いもかけぬ狂人の完成に立ち会ったのであった。どのように話の道筋を付けようとも、長田の胸中には旧友への抜き難い侮蔑の念と怖気とが憑いて回って、離れるということがなかった。ただまざまざと、モノマニアの偏執を見せつけられる思いであった。




