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 朝ごはんを素晴らしいスピードで胃に収めた父、(さかえ)は、仕事に出掛けるべく玄関の上がり(かまち)に座り込み、足袋(たび)を履き始めた。頭にはねじったタオルを巻きつけ、耳に鉛筆を一本挟んでいる。栄の職業は大工であり、代々続く工務店の跡継ぎになる予定だ。


 四十台も半ばを過ぎた年になって未だ“予定”なのは、ひとえに彼の父親、つまり四兄弟の祖父が、七十近くになってもバリバリの現役で、元気いっぱいに現場を仕切っているからだ。自分が動けなくなるまで家督を譲る気はないらしい。そのことに関して栄は、父の気のすむようにと考え、傍らで静かに見守る姿勢を貫いていた。

 栄はもともと無口で物静かな性格で、その真面目で実直な仕事ぶりを、工務店に勤めるほかの大工や職人たちも評価しており、性格の全然似ていない親子二代のかみ合わない漫才を、現場での隠れた楽しみとしている。


「じゃあ、行って来る。帰りは……六時くらいだろう」


 長年愛用している、履き慣れた足袋を履いた栄は、玄関まで見送りに来たハルに声をかけた。


「わかった。ほい、これ弁当」


 朝ごはんの残りやらを詰めてナツが作った弁当を渡す。夏だからご飯に梅干は必須だ。兄弟たちは祖父に連れられて現場に遊びに行くことも多かったから、建築現場が暑いことなど百も承知である。猛暑日になるのがわかっているときなどは、弁当箱ごとクーラーボックスに入れて持たせるのだ。


 息子がいつも気を使ってくれる、たっぷり量の入った弁当を受け取り、普段ほとんど動かない表情筋を少し緩ませた栄は、そういえば、とハルに尋ねた。


「アキは、大丈夫か? 寝かせたのか?」


「ああ、うん。寝かせたよ。ここんとこあんま食べてなかったのに、急にたくさん食べ過ぎて胃が受け付けなかったんだと思う。だから多分大丈夫」


「……隼人は?」


「アキに付き添ってるよ」


「……そうか。……行って来る。後頼むな」


 栄は自分に似て体格のいい長男と、声を落としてそんなやりとりを交わした後、玄関から出て行った。すぐに軽トラックのエンジン音が聞こえ、角を曲がって聞こえなくなった。

 ハルは玄関先でふうとひとつ息を吐くと、おもむろに二階を見上げた。視線の先は、アキの部屋であったが、そこに向かうでもなく、頭をがしがしと掻きながら、風呂場に向かい掃除を始めた。







 カーテンを引き、空調をかけて温度を調節した部屋で、アキは眠りについていた。ベッドの傍らの床に座り込んだ隼人は、アキの寝顔を眺めていた。

 だいぶ痩せこけてしまったアキの頬を撫でる。眠れぬ夜を幾度も過ごしてきたことを隼人は知っていて、痛々しい隈と泣き腫らして慢性的に赤くなってしまった目元にそっと触れた。


 自分を想って、こうまで思いつめてしまったアキに、隼人は複雑な思いだった。嬉しい反面、申し訳なくてどんな顔をしていいのか分からない。


「……出会ってから一年半、か」

 そうポツリと零した隼人は、アキと出会ったその日のことを思い出していた。




 一番最初の印象は、大人っぽい子だな、というものだった。


 高校に入学した隼人は、クラスメートの中でひとり、少し変わった雰囲気を持つナツに興味を持った。進学校とはいえ男子校ならではのうるささの中、机に向かって黙々と本を読む姿は、ひどく大人びて見えた。隼人は知らなかったが、元々ナツは切れ長の涼やかな目もと、少し明るめのさらさらな髪で、近隣の高校生の間で噂になっているほどの美少年だった。

 隼人は隼人でそのおっとりとしたやさしい雰囲気と、真面目な態度でクラスから一目置かれており、二人が周囲の喧騒から紛れ、仲良くなるのに時間はかからなかった。


 いつものように話しながら歩く帰り道。下校途中の学生がバラバラと帰っていく中、ナツは前を歩くセーラー服の女の子に声を掛けた。


「アキ! アキも今帰りか?」


 その声にくるりと振り向いたのは、近くの女子高の制服を着た、おっとりとたおやかな雰囲気の女の子だった。高くもなく低くもない身長、緩くウェーブした黒髪は肩口で緩く結われ、長いまつげに覆われた大きな瞳が印象的だった。


「あれ、ナツだ。珍しいね、帰りに会うなんて」


 そう言ってにっこり笑ったその顔に一目惚れしたことは、ナツにすら言っていないちょっと恥ずかしい思い出だ。


「えっと……ナツ? お知り合い?」


 まさかナツの彼女じゃないかと隼人は内心びくびくしながら尋ねた。


「うん、双子の妹のアキ。おっちょこちょいがトレードマークだぞ」


 笑顔全開で言われた『妹』という言葉にほっとしながら、目の前の美少女を見つめた。そう言われてみると鼻筋や全体的な顔の感じがナツに似ているが……おっちょこちょい?


「アキ、こっちは俺の友達、隼人だ」


「あ、僕、吉川隼人(よしかわはやと)です。よろしく」


 紹介されてそっけない自己紹介をした。高校一年の春なんて、自己紹介ラッシュだ。もう反射反応といっていい。


「はじめまして、兄がお世話になってます。日向(ひなた)アキです。よろしくお願いします」


 にっこりと丁寧な挨拶に、慌ててお辞儀をした。もう勝手に恋に落ちてしまっていて、かわいいかわいいと叫ぶ心臓を上から手で押さえる。

 どきまぎする隼人をそのままに、自己紹介完了とばかりに、「それじゃ三人で帰るか」と、マイペースなナツが歩き出した。アキも当たり前のように方向転換して歩き出す、その一歩を踏み出したときだった。


「きゃぁ!」


 という悲鳴に、隼人はとっさに手を伸ばす。何故か何もないところでバランスを崩したアキの腰を隼人が引き寄せ、転倒は免れた。一瞬の出来事、中途半端に密着した体制のまま固まったふたりに、ナツは呆れた声音で頭をガシガシ掻いて言った。


「……おっちょこちょい発動。隼人、サンキューな」


「あの……、ありがとうございました。恥ずかしいです、会ったばかりなのに」


 真っ赤に染まったアキの顔を見て、隼人は慌ててアキを解放する。落ちているアキの鞄を拾い、持たせてやる。


「ううん、気にしないで。よかった、転ばなくて」


 隼人はにっこりと余裕の笑顔を浮かべつつ、何食わぬ顔で三人一緒に家路についた。だが隼人の頭の中は、一目惚れした恋心に戸惑う気持ちと、先ほどアキに触れた時の柔らかい感触とが綯い交ぜになり、その日どうやって家まで辿り着いたのか、全く覚えていないのだった。






 いつの間にかアキの大きな黒い瞳が、隼人の顔を見つめていた。

 一瞬トリップしていた頭を振って、隼人は平静を装って呼びかける。


「アキ? 起きたの? 気分はどう?」


 アキはその赤みの引いた唇をゆっくり開いた。


「……初めてあったときの夢、見てた……」


 その言葉に隼人は目を瞬かせる。


「わたし、あの時、隼人を好きになったの……。笑顔が、素敵で……」


 言いながらも目線を彷徨わせた瞳は、瞼の裏に隠れ、薄く開かれたままの唇は寝息を立て始めた。どうやらまだ夢の中にいたようだ。


 隼人はふっと笑って再びアキの頬を撫でた。隼人の妄想が飛び火したのか、はたまたアキの夢を共有したのか……。どちらにせよ、同じタイミングで同じことを考えるなんて、滅多にないことだ。絆の深さだろうか、などと考えて、隼人は直後に頭を振った。


 目を閉じてふーと息を吐いた隼人は、何かを断ち切るかのように頭を振って素早く立ち上がり、そしてアキの部屋を後にした。




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