16
薄暗い土手の上を、アキとナツは並んで歩く。電灯がぽつぽつと点在するだけなので、もう少しすると真っ暗になってしまう。何も考えずに出てきてしまったアキだったが、ナツが迎えに来てくれてよかったと、ほっとした。
春になると植樹された桜並木がきれいなこの土手。今は緑色の葉をたくさん茂らせて風とおしゃべりをしている。葉っぱの擦れるざわめきを聞きながらしばらく無言で歩く。
アキは心の中で、老人の語ってくれた言葉を反芻し、考えていた。
―限られた選択肢の中から、自分の最善を、選ぶ。
遮るもののない視界。どこまでも広がる空。遠い地平線。流れていく川。流れていく、時間。
『……壮大じゃな』、と呟いた老人の声が、耳の中に残っている。
人はそれぞれ、自分の最善を選択しているだけ。それぞれの選択が、未来の道筋を変え、絡み合って、混ざり合ってまた現れた選択肢の中で、また選ぶ。
―どうにもならないことは絶対にあって、最初から選択できない選択肢もきっとあって、けれども人は選ばなければならないから、進んでいかなければならないから、だからきっと、一番大切なものを選ぶんだ。
老人の言葉が、ようやく飲み込めた気がして、アキは顔を上げた。
「ねえ、ナツ」
「……なんだ?」
暑そうにシャツをぱたぱた動かして風を通しながら、ナツはアキを見た。その何でもない空気感。『ナツは僕にはもったいないくらいの、いい友達だよ』と言っていた、隼人の言葉を思い出す。
―私にももったいないくらいの、いいお兄ちゃんだよ
「……話、聞いてくれる?」
「ああ」
当たり前だ、と言うように、ナツはアキの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。そんなナツのそっけない優しさに、アキはふわりと笑った。
「……やっぱぶん殴るの決定だな。あのやろー」
「え?」
ぼそっと怖いことを呟いたナツの言葉を聞き返したが、「なんでもない」と言いくるめられ、アキは首を傾げた。
土手を通り過ぎて住宅地へ入り、ふたりはゆっくり家を目指す。ハルには既に電話で連絡を入れてある。ほっと安堵したため息が携帯の向こうから聞こえ、「早く帰って来いよ」とハルはひと言言った。
歩きながら夕べ隼人とアレックスに聞いたことをナツに話した。
隼人の体のこと、正天使のこと、隼人と母親の約束、アレックスのこと、魂から自我が消えてしまうこと、それには生きている人間の想いが関係していること……
ぽつぽつと、思い出しながらゆっくり話すアキに、ナツは辛抱強く付き合った。
アキは、さきほど老人と会い、いろいろ話をしたことも語った。ナツとしてはそんな不審なジジイに引っかかって欲しくはなかったが、アキが嬉しそうに話すので、ナツはただひと言、「ふーん」と言った。何ともいえなかった。ナツがアキの近くまで走ってきたときには、老人の姿なんてなかったからだ。だからただ不思議な老人もいたもんだと、最近よくある話の変態ではなくてよかったと思っただけだ。
それよりもナツには、アキに聞いておきたいことがあった。アキの頭の中が整理されたのなら、確認しておかなければならない重要なことが。
「なあ、アキ。まだ、隼人が好きか?」
「え……?」
突然の意外な質問に、アキは戸惑う。
「あいつは死んだ。それはわかってるよな? それでも好きか? 今でも、そうなのか?」
「うん……好きだよ」
呟くように答えたアキに、ナツは更に畳み掛けた。
「あいつの傍に、行きたい……か?」
ぴくり、とアキの肩が動いた。隼人の傍に行く、それはつまり、死んで、ということだろうか。それならば、答えは、ノーだ。
ゆっくりと首を横に振り、否定の意思を表したアキに、ナツはほっと息を吐いた。
ナツは思う。アキは隼人が天使になって現れる前、死んでしまいたいと願っていた、と。
毎日眠りもせず、食べもせず、人形のようにたたずむ姿は、死という解放を待っているようにしか見えなかった。
生きている人間にできることは、後を追って死ぬことじゃない。その人を無理に忘れることでもない。ナツはそう、アキに言ってやりたかった。しかし自分の言葉では、アキの心に届かないと、ずっともどかしく感じていた。……そしてそこに隼人は現れた。隼人はそれを伝える為に来たんだと、ナツは信じていた。
「お前がその選択肢を捨ててくれてよかったよ」
「……うん」
アキは申し訳なさそうに頷いた。
「でも、あれだな。もしお前が今天国へ行ったら、きっと隼人と母さんに蹴り戻されるぞ、来るなって」
本当にやりかねないと、ナツは妄想の中の隼人と母に苦笑いする。アキは笑えない冗談に苦々しい顔をしただけだった。
どこかの家から、カレーのにおいが漂ってきた。平凡な、幸せのにおい。
「……ねえ、ナツ。隼人が消えないように、みんな手伝ってくれるかな?」
アキが下を向いたままぽつりと言った。
「ハル兄もフユも、お父さんも、みんな覚えててくれる……よね?」
自信なさそうに見上げてくるアキに、ナツは拳骨を落としてやろうかと思った。
「当たり前だ、バカ」
「痛い!」
拳骨はあんまりだから代わりにデコピンで勘弁してやった。額を押さえて、ちょっと涙目で見上げてくるアキを、ナツはじとりと睨みつけた。
「あのなぁ、隼人はお前の恋人ってだけじゃねーよ。じゃなかったら、普通にうちで歓迎しないだろ? あいつは俺の親友で、お前の恋人で。ハル兄的にはちょっと悔しいけど弟で、フユにとっては三人目の兄貴だ。父さんにとっては……まぁ息子みたいなもんだろ」
「そうだね、隼人はうちの家族なんだ」
くすくすと笑うアキを、ナツが見つめる。瞳の奥で、何かを探るように。
「……ん、そうだな、家族だ。ま、アキがこの先、別の男を好きになったって大丈夫さ。俺が代わりに覚えてるから」
「ほっ、他の人なんて好きになったりしないもん!」
怒ったように真っ赤な顔でほおを膨らませたアキが、ナツの発言に噛み付いた。相当不本意なようだ。そのまま無言で睨みつけてくるアキを、ナツは笑ってぽんぽんと叩く。
「お前がずっと隼人のことを好きでいても、俺は笑わないよ。なにしろもっとツワモノが家にいるわけだし」
面白そうに笑うナツを、アキはきょとんとした顔で見上げ、首を傾げた。アキも気づいてないのか、とナツは鈍感な家族に苦笑した。
「とにかくさ、みんなで覚えていればいいんだよ。忘れることなんてない。万が一にも消えることなんてないのさ。あいつもお前も、俺達を信用してなさすぎなんだよ」
「……うん。ありがと、ナツ」
いつの間にか家の前まで来ていて、玄関先で待っているハル、フユ、栄の姿が見えた。ナツが「おーい」と呼ぶと、バタバタと走り寄ってきた。もみくちゃにされながらも笑顔で家の中に入っていくアキを見て、ナツは大きなため息をつく。
―アキは気づいていない。やっぱりちょっとおかしくなってるな。
だからあの時聞いたのに。大事なことはちゃんと話しとけっつーの、あの馬鹿。
心の中で思う存分隼人に対する罵倒の言葉を吐き出すが、それでもすっきりしないもやもやした感情。ぐいっと腕を上にあげ、背伸びをしてから一気に力を抜いた。
「はー。行くしかないか」
首を鳴らし、ため息とともに呟かれた言葉は、誰にも聞かれず夜の静寂に溶けていった。




