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15



 走って走って、もう走れないと思えるほど疲れを感じて、アキはようやく立ち止まった。


 気がつくとそこはよく散歩にくる土手。道の脇に等間隔に植えられた桜の木が、サワサワと緑の葉を揺らしている。

 来たかったわけでもないのに、何故か足が向いてしまった。まだ整わない息を、肩を上下して荒々しく治める。頭が、酸素が足りないと言っているのを無視してゆっくりと歩く。コンクリートで綺麗に舗装された道を、桜の木の陰を踏みながら、ただ道が続くほうへ。


 行く手に、まだ沈まない太陽が今日最後の光を放つ。


 ―ああ、まだ沈んでいない

 ―まだ、終わっていない


 ようやく整った息を大きく吐いて、額の汗を拭った。先ほどまで混乱していた頭の中は何故か今すっきりとしていて、アキはただ、遠くの空を見つめていた。


 ―沈まないで。あなたが沈んでしまったら、明日が来てしまうの。


 桜並木も切れて視界を遮るものの何もない土手の上で、流れていく大きな雲と太陽を見つめたままぼんやりと立ち止まっていたアキに、声を掛ける人がいた。



「おうおう、何とも誰かの意思を表したかのような形の雲じゃのう」


 声のした方を向くと、近くにあるベンチに品のよさそうなスーツを着込んだ背の低いおじいちゃんがちょこんと座っていた。真っ白な髪と髭が緩やかな風になびく。


「ほれ、あの紫色とオレンジの混ざり合ったの辺りのでっかいの。わしには団子に見えるがのう、嬢ちゃんには何に見える?」


 よく散歩に来る場所なのに、会ったことのない不思議な雰囲気の老人だった。老人は細く皺くちゃな指を伸ばし、風に流されていく雲を指差していた。

アキは老人の指すほうへ視線を向け、思わずくすりと笑った。確かにその雲は、丸い雲が三つ連なった団子の形に見える。しかも色が絶妙で、夕暮れの光の中でみたらし団子そっくりだった。


 ……似ている。いつか隼人が描いてくれたお団子の雲に。


 アキが老人の質問にも答えずぼんやり雲に見入っていると、しばらくの沈黙の後で老人が再び声を掛けてきた。


「……嬢ちゃんや、暇なら話し相手になってくれないかね?」


 にっこりと笑ったその顔が、なんだか知った人のように思え、普段ならやんわりと断るだろうその誘いにアキはうなずいてそちらへ向かった。当たり前のようにそっと老人が差し出してくれた缶ジュースを、アキはちょっと戸惑った後でありがたく受け取っていただく。そういえば、朝から何も口にしていなかったのだと、今更ながらに気づいて喉を潤した。


 ふたり並んでベンチに座り缶を傾け、川の水が流れていくようすをしばらく見つめていたが、ふいに老人が口を開いた。


「わしの娘の話を聞いてくれるかね?」


 川辺に吹く風は、遮るものもなく一気に吹き抜ける。毛の長い絨毯のように敷き詰められた緑の草が、風の通り道を描いた。

 アキは何も考えずにこくりと頷いた。


「……わしの娘は昔からおてんばでな。喜怒哀楽が激しくて、そりゃあ手を焼いた。人が行かないところへ行っては迷子になったり、変なものを口に入れては大泣きしたりの。本当にたいへんじゃった」


 老人は昔を思い出したのか、楽しそうに笑った。


「大切に育てていたつもりじゃったんだがな。あるとき娘が言ったんじゃ。こんなところにいたくない。私のいる場所じゃないと。……そして家を飛び出してしまった。わしは必死で追いかけたよ。ちょうどあんな橋の上じゃ、追いついたのは」


 老人はすっと手を伸ばし、少し離れた場所にかかる大きな橋を指差した。


「橋の上でしばらく喧嘩してのう。お互い疲れてきたころじゃ。突然強い風が吹いて、娘は飛ばされそうになった。わしは娘の手を掴んだんじゃが、さらに強い風にあおられてな」


 そこで一度言葉を止めた老人は、大きくため息をついた。


「……助かったんですよね?」


 アキが期待を込めて尋ねるも、老人は首を振った。


「いや、手が離れて娘は川に落ちてしまった。深くて勢いのある川での。散々探したが、痕跡すら見つからなかった……」


 アキは老人にかける言葉が見つからず唇をかみ締め、空っぽになったジュースの缶を握った。


「……ところがじゃ。しばらく経って娘が無事だったと分かった」


 その言葉に、アキはぱっと顔を上げた。何とも浮き沈みの激しい話だ、どんどん引き込まれていく。


「川下で親切な人が助けてくれたのじゃ。娘は記憶を失い、体もぼろぼろじゃった。その人が手厚く看病してくれて、何も覚えていない娘に名前と家を与えてくれた」


「……結婚、したんですか?」


「そうじゃ。新しい名前、新しい場所で娘は幸せに暮らしておった。わしは知人のつてで、その娘が自分の娘じゃと知った。子供も……五人も生まれての、可愛いのじゃよ、すごく」


 老人が至極嬉しそうに笑うので、アキもにっこり笑った。


「子供が生まれる頃には、娘の記憶も戻っておった。しかし娘は帰ってこようとはせんかった。……わしも連れ戻そうとは、思わんかった。わしと共にいたころよりも、ずっと楽しそうに笑っておったから。じゃがの。ある時わしは娘の異変に気づいた。……それはどうしようもない病気じゃった」


 再び不穏な展開になってきた話に、アキはハラハラしながら聞き入った。


「そこにいては治らない病気じゃ。特別なところへ行って治療せねばならんかった。娘も、それに気づいていた。しかし娘は夫と子供を残していけんと、病気を隠して静かに生活しておった。わしは、ずっと見守っていた。娘の意思を尊重しよう、と。じゃが……」


 老人は両手で顔を覆った。


「どこの親が、娘が死にそうなのを黙ってみていられる? わしは、娘が強情に反対するのを押し切って、連れ去った。旦那と、まだ小さい子供達を置いて」


 そして屈みこんでしまった老人の背中を、アキは労わるように撫でた。老人は泣いているのだろう、小さな体を震わせ肩を上下し、くぐもった声で先を続けた。


「……ひどいことをしたと、今でも思っておる。じゃが、恨まれてもわしにはそうすることしかできんかった」


「娘さんは、生きているんですよね?」


 震える声で懺悔の言葉を口にする老人に、アキは再び期待を込めて聞く。そうでなければこの話に救いがない。


「……生きては、おる。じゃが二度と、家族には会えない」


「どうして……」


「住む場所が、違うから。遠すぎて、行き来することができぬ場所なんじゃ」


「……」


 何も言えなくなって、アキは遠くを眺めた。太陽が、ゆっくりと沈んでいき、もう半分くらいしか残っていない。オレンジ色の太陽から、光は地平線を走り、空は黄色から紫、そして徐々に濃い群青へと変化していく。眩しいくらいに黄金色に満たされた世界は、何故こんな風に、誰かと誰かを引き離すのだろう。こんなにも美しい世界なのに。



 老人が、落ち着いた声で静かにまた語り出した。


「ひどいことをした、じゃが許して欲しいとは思っておらぬ。許してくれるとも、思っておらぬ。娘は今でもわしを恨んでいてな、会うとひどい態度で、わしを蹴り飛ばす勢いで怒るんじゃ」


 切なそうな顔をしているのに、しっしっしと小さく、しかしどこか楽しそうに笑う。


「娘の旦那にも、孫達にも会ってはおらぬ。会わせる顔が、なくての。……じゃが、わしは後悔しておらぬ。わしはただ、選んだだけじゃ。わしが一番大切にしたいことを、選んだだけなのじゃ」


「一番大切に、したいこと……」


 何か引っかかるものがあって、ぼそりと言葉を繰り返したアキに、老人は包み込むようなやさしい笑顔を浮かべた。


「人生は選択の連続じゃ。こっちを選べばあっちを選べない。こっちもあっちも選びたくない。しかし他に選択肢はない。嫌じゃのう、苦しいのう」


 それは長い長い年月を積み重ねてきた人だけが語ることができる、悟りのような台詞だった。苦いものを食べたような、本当に嫌そうな顔をしながら、老人は言葉を続ける。


「それでも人は、選らばなければならない。限られた選択肢の中から、自分の最善を選んで先へ進んでいくのじゃ。……時には間違うじゃろう、後悔もするじゃろう。じゃが未来は常に選択の上に積みあがり、さらに選択肢を広げて待っているんじゃ。……わかるかね?」


 アキは回らない頭を必死に回転させて考える。アキの眉間に寄った皺を見て、老人は笑った。


「……未来は、何もないところにぽん、と現れる理想ではないんじゃ。望む未来があるのなら、それを現実にする為に、今をそういう風に積み重ねなければならない。そのように、選んでいかなければ、手に入らない」


 ぶつぶつと復唱しながら、アキは考え込んだ。

 残された選択肢の中から、望む未来のための最善を選んでいく。ひとつずつ……。


「広い世界の中で、たくさんの人が、それぞれの選択をしている。その選択に揺り動かされて、世界は形を変えていく。日々、変わっていくんじゃ。……壮大じゃの」


 老人は目を細めて、消えていこうとする太陽を眺めた。

 先ほどふたりが見ていた団子雲は、いつの間にか風に流されてお餅のように伸びて群青色の空に浮かんでいた。



 未だにぶつぶつと復唱しながら考え込んでいるアキの隣で、老人は何か愛おしいものを見るような優しい顔で、その雲を見つめて口を開いた。


「……時に嬢ちゃんには、家族はいるのかね?」


 ふいに変わった話題に、アキは考えを中断して答えた。


「えっと、はい、居ます。父と兄が二人。弟が一人です。母は亡くなってしまったので……」


「そうか、すまんことを聞いたのう」


 申し訳なさそうにしゅんとする老人に、アキは慌てて首を振った。


「母は居ないですけど、うちは結構にぎやかなんです。父は無口な人ですが、いつも私達を見守ってくれてて、いざというときとても頼りになる人で」


 話し始めると、アキはそれまでいろいろ考え込んでいたことも忘れ、夢中になって話し出した。父がいて、兄がいる。そして可愛い弟も。ひとりひとりの顔が思い浮かんでアキは思うままに口にした。


「一番上の兄は背が高くっていつも元気で、面白いことを言って笑わせてくれる優しい人。二番目の兄は、私の双子の兄なんですけど、頭がよくていつも私の考えてる一歩先を読んで行動してくれるんです。ちょっと偉そうにしているところがあるけど、器用だし、何でもできるし、偉そうにしてても違和感なくって何も言えないの。弟はもう可愛くって、くりんと大きな目をしてて。優しい性格で、私が泣いているといつも傍にきてくれて……」


 いつの間にかずっとひとりで得意げに話し続けていたことに気づいたアキは、バツが悪そうに声を落とした。しゅんとしてしまったアキに、老人は蕩けそうな優しい笑みを向けてうんうん頷いた。


「いいのう、羨ましいのう。素敵な家族じゃ。……わしには娘ひとりしかおらんからのう。それもすっかり嫌われてしまっているが」


 自嘲するように笑った老人に、そんなことない、とアキは言った。


「娘さん、だけじゃないでしょう? 娘さんの旦那さんも、お孫さんだって五人もいるんでしょう? ……きっと会いたいと、おじいちゃんに会いたいって思ってくれてますよ」


 その言葉に、老人は小さな目をいっぱいに見開いてアキを見、そして今度は見えなくなるほど細めた。喜びに満ちたその表情に、アキも心が温かくなるように感じた。

 家族が、大切な家族がいる。老人の家族がきっと彼に会いたいと思ってくれているように、自分の家族も、アキを支えてくれているのだと、思ってくれているのだと素直に感じることができたのだ。




 最後まで粘るように地平線にかじりついていた太陽がとうとうその光を手放し、あたりが薄暗くなってきた頃、遠くから聞こえる自分を呼ぶ声に、アキははっと振り向いた。


「アキーーー!」


 汗だくになったナツだった。だいぶ探し回ったのだろう、呼吸も荒くこちらへ走りこんでくる。


「……お迎えがきたようじゃの」


「あの……また、会えますか?」


 どっこいしょ、と立ち上がった老人を支え、アキは問う。老人は一瞬きょとん、とした顔になったが、それはそれは嬉しそうに笑った。


「……近いうちに、きっと」


 それを聞いてアキは安心したようにため息をついて、何だか言っておきたい気持ちになり、「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にした。


 「ではな」と言って、ふらふらと歩き出した老人を見送るアキの後ろから、ナツがぜーぜー言いながら走りこんできた。近くで見てみると、着ていた赤いティーシャツは、汗で色が変わるほど濡れていた。


「アキ、お前、携帯も持たずに飛び出すのはやめてくれ……」


 急に走って出てきてしまったことを責めず、ただ心配するから携帯くらいはもって行け、とナツは言った。相当走り回って探してくれたのだろう、膝に手を付き息を整えるナツに、アキは素直に謝ることができた。


「ごめんね、ナツ……」


「いいよ、帰るぞ」


 はぁ、と大きく息をついて、ナツは体を起こした。疲れてフラフラしているナツを支えるように腕を掴んだアキは、ふと、老人の歩き去った方向を振り返った。


 一本道の土手の上、老人の姿は、すでになかった。


「歩くの、速いんだな……」


 アキは瞬きをひとつして、老人が消えたのとは反対の方向へ、歩みを向けた。




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