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第1話:限界社畜、36連勤の果てに地図に無い因習村へ

新連載です。よろしくお願いいたします!

午前二時十七分。

無機質な蛍光灯が照らすオフィスには、唸りを上げる換気扇の音と、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。


「黒井ぃ、悪いけどこれ、明日の朝イチの役員会議までに修正入れといてくれよ。クライアントから『全体的にエモさが足りない』って差し戻し来ちゃってさ」


背後から放られたファイルが、デスクの端にバサリと落ちる。

振り向くまでもない。終電前に「あとはよろしく!」と居酒屋へ消え、先ほど酒臭い息を吐きながら戻ってきたばかりのチームリーダーの声だった。


差し戻し事由は『エモさ』。

具象的な指示はゼロ。納期は約五時間後。

黒井護(くろい・まもる)二十九歳は、充血しきって視界が二重にぼやける瞳のまま、ディスプレイから目を離さずに言った。


「承知いたしました。朝八時までに改稿をデスクへ入れておきます」

「頼むよ、お前は本当に使い勝手がいいなあ」


ポンと肩を叩かれ、リーダーが仮眠室へと消えていく。

黒井はデスクの引き出しを開け、最後の一本だったエナジードリンクを取り出した。タブを引く。プシュッという気の抜けた炭酸の音が、深夜のフロアに小さく響いた。


(今日で、何連勤だったっけ……)


確か、三十六連勤目だったはずだ。もはや正確ではない。

途中で数えるのをやめた。三週間前の記憶はすでにもやの向こう側にある。

胃の奥がきしむように痛み、心臓が不規則なリズムで跳ねる。最近は、目を閉じるとまぶたの裏にエクセルのセルとガントチャートが焼き付いて離れない。


エナジードリンクを一気に喉へ流し込み、作業を続ける。

朦朧とした意識をギリギリつなぎとめる。

時間の感覚が希薄だ。

一瞬前まで三時台をさしていた時計は、もう四時を回っていた。

焦る。胃が痛い。

胃薬を二錠、噛み砕いて飲み込む。

その時だった。


ふと視界の隅で、ディスプレイに開いたままだったブラウザのバナー広告がチカチカと点滅した。


『都会に疲れたあなたへ――自然豊かな田舎の村で、心安らぐスローライフを始めませんか?』

『空き家・古民家無償貸与/地域おこし推進枠/固定残業なし/自由時間無限』

『20代30代大歓迎、40代もまだまだ若い』


普段なら怪しすぎて一秒で閉じる類の広告だった。

だが、限界まで焼き切れた黒井の脳には、その文字列が後光の差す救済の光に見えた。


(固定残業なし……?  自由時間……無限……?)


甘美な響きだった。

誰からの電話も鳴らない山奥。

深夜の急な仕様変更も、理不尽な怒号もない世界。


「やめよう」


思考の糸が、プツンと音を立てて切れた。

死ぬか、辞めるか。

天秤にかけた瞬間、黒井の中で生きる本能がギリギリで勝った。


黒井は引き出しから「退職届」と毛筆で書かれた白封筒を取り出した。いつか来る限界のために、半年前から肌身離さず持っていたものだ。そのいつかは今日だった。日付をボールペンで殴り書きし、リーダーのキーボードの真ん中に突き立てるように置く。


そして広告のリンク先にある応募フォームに氏名と職歴を高速で入力し、送信ボタンを押した。

スーツケースに作業着と手帳、名刺入れを詰め込み、ビルの通用口を出た。


東の空が、白み始めていた。


***


それからの記憶はひどく断片的だった。


新幹線に乗り、ローカル線に乗り換え、無人駅の先で一日一本しかないボロボロの町営バスに揺られた。

バスが山道を登るにつれ、窓の外から人家が消え、深い杉林と立ち込める霧だけが景色を埋め尽くしていった。


「お客さん、終点だよ」

運転手の低い声に顔を上げる。

「……あの、ここから『八咫村(やたむら)』へはどちらへ?」

黒井が尋ねると、初老の運転手はバックミラー越しに、奇妙に口角を吊り上げた。

「この先の林道を歩いて二十分だ。……へぇ、あんた、あの村に行くんかい。二度と戻れねえかもしれんのになあ」


ケケケ、と乾いた笑いを残して、バスは黒煙を吐きながら山道を下っていった。

一人取り残された停留所。スマホを取り出す。

アンテナピクトは一本も立っておらず、完全に『圏外』を表示していた。


「素晴らしい……」


黒井は思わず感嘆の声を漏らした。

電波が届かない。

つまり、チャットツールもSLAckも、クライアントからの緊急着信も、この地までは一切届かないということだ。完全なるデジタルデトックス空間。


黒井はスーツケースのキャスターを鳴らしながら、湿った山道を登り始めた。


しばらく歩くと、苔むした木造の鳥居が見えてきた。

村の境界を示す門のようだが、その光景は異様極まりなかった。

しめ縄には無数の獣の頭骨がぶら下がり、風が吹くたびにカチカチと乾いた音を立てている。木肌には赤黒い液体がべっとりと擦り付けられ、周囲には獣臭と線香が混ざり合ったような不穏な臭気が充満していた。


「なるほど……」

黒井は手帳を取り出し、熱心にペンを走らせる。

「害獣除けの伝統的なバイオハザード対策と、土着信仰を融合させたアイキャッチ設計。視覚的なインパクトが非常に強い。景観デザインとしての尖り方は素晴らしいですね」


鳥居をくぐり、急な坂を下ると、すり鉢状の谷底に黒々とした集落が姿を現す。

プリントアウトしてきた地図に示された区画――そこには、屋根に深い苔が生え、板壁があちこち傾いだ巨大な古民家が建っていた。軒下には正体不明の藁人形が等間隔で吊るされ、昼間だというのに底知れない影を落としている。


「ここですか」


黒井は満足げに頷いた。

雨風が凌げて、誰からも「明日までにやっといて」と言われない場所。

激務で感覚が完全にバグっていた黒井にとって、その廃屋同然の古民家は、まさに約束された楽園に見えていた。

すると――


「あれ? 先輩? ……黒井先輩じゃないですか?」


背後から、ひどく場違いで、聞き覚えのある若い声が飛んできた。


振り返ると、そこには薄汚れた舗装路に立ち尽くし、小刻みに肩を震わせているスーツ姿の女性がいた。

手にはボロボロのボストンバッグ。顔色は紙のように白く、今にも泣き出しそうな目で黒井を見つめている。


「……白石? 大学のサークル以来ですか。こんなところで奇遇ですね」

「奇遇とか言ってる場合じゃないですよ……ッ! なんで、なんで黒井先輩がこんなところにいるんですか!?」


白石はパニック寸前で駆け寄ってくると、すがるように黒井のスーツの袖を掴んだ。


「私、親戚の叔父さんに『母親の実家の古民家を譲るから、会社で疲れたなら静養においで』って言われて……鍵をもらって来たんです! でも、さっき村の入り口にあった鳥居、見ました!? 動物の骨がこれでもかってくらい吊るされてて、どう見てもヤバいカルト村ですって!!」

「落ち着きなさい、白石」

「落ち着けるわけないでしょ!!」


白石が絶叫した、その瞬間だった。


ザッ、ザッ、ザッ。

背後の深い茂みから、無数の足音が響いた。


竹槍や錆びた鍬を手にした、異様に腰の曲がった老人たちと、生気のない目をした男たちが十数人。二人の退路を完全に塞ぐように、音もなく輪を縮めてくる。


その中央から、白髭を胸より下まで長く伸ばした長老らしき老婆が、腰を折り曲げながらすり足で進み出てきた。

老婆の濁った黄色い瞳。

それが白石の顔を捉えた瞬間、歓喜とも狂気ともつかない笑みがその口元を歪めた。


「ヒヒ……ヒヒヒ……! よくぞ戻った、忌み名の血を引く娘よ……!」


老婆が杖を掲げると、男たちが一斉に竹槍を構え直す。


「お前がこの地に足を踏み入れた瞬間、数十年ぶりの『契約』は結ばれたのじゃ。今宵、血塗られた祭壇にて、ヤタガミ様の飢えを満たす贄となれい……!」


「ほら出たぁぁぁぁぁっ!!」

白石は頭を抱え、その場にへたり込んだ。

「生贄だ!! 私、やっぱり親戚に売られたんだぁぁぁっ!!」


絶体絶命。逃げ場のない閉鎖空間、異常なるカルト集落。

だが、白石の隣に立つ男の耳には、老婆の凶悪な言葉がまったく別の言語に翻訳されて届いていた。


(契約? ……なるほど、新規のキックオフ案件か)


黒井は胸ポケットへ滑らかに手を差し入れ、シャッと小気味いい音を立てて名刺入れを取り出した。

そして、竹槍を構えて威嚇する男たちの前へ、一切の躊躇なく、優雅な所作で一歩踏み出した。


「はじめまして! 広告を見まして移住推進枠として着任いたしました、黒井と申します! こちら、私の名刺になります!よろしくお願いいたします!」


「……は?」

長老の杖が、宙でピタリと止まる。


「それから、現場確認に関する手厚いオンボーディング体制、心より御礼申し上げます。今夜にもさっそく親睦会……いえ、伝統芸能の鑑賞イベントでしょうか? セッティングしてくださっているのですね」


黒井はリュックのジッパーを開け、東京駅の地下街で買ってきた『ヨックモックのシガール(季節限定アソート)』の缶を取り出すと、両手で恭しく長老へ差し出した。


「こちら、些少ですが手土産でございます。お近づきの印までに。皆様で分けてお召し上がりください。個包装になっておりますので、湿気る心配もございません」


「あ、いや……わしらは、生贄を……」

「バターの風味が非常に豊かで、お茶請けに最適ですよ」

「……お、おう……?」


数百年にわたり余所者を恐怖で支配してきた因習村の長老が、毒気を抜かれたようにシガールの缶を胸に抱きとめてしまった。


地面にへたり込んだ白石は、涙で濡れた目を大きく見開き、震える指で先輩を指差した。


(……あ、ダメだ。この先輩、ブラック企業で完全に頭のネジが焼き切れてるんだ……!!)


恐怖の限界集落と、極限社畜の勘違い。

最悪の地方創生が、いま幕を開けた。

面白かったら評価(★★★★★)とブックマークをぜひお願いします!


感想もとても励みになります! 

どのキャラが好き、このセリフが面白かったなど、次のお話の参考になりますのでアドバイスと思ってなんでも書き込んでいただけるととてもうれしいです。

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