聞いてませんね
ゲマドロースの気配すら無くなった、もはや人間とも言い難い目の前の人物から黒い靄が抜けて、イーサニテルを追って行く。
「気に入られましたね、イーサニテル様」
「強欲の男神と戦いやすくはなったが、ちと心配じゃの」
「そうですね、あの追いかけっこもそう長くは続かないでしょう。神殿長の心配もごもっともです」
「そうだね、早いとこアイツを閉じ込めて侍従くんを助けよう」
「ご息女、巫覡、御前失礼つかまつる」
お姫様の言葉が終わるのを聞かず、神殿長がオリカル様を伴って強欲の男神へ突撃する。こちらの話なぞ聞いてませんね、あの方。
しかし天馬での攻撃だというのに、訓練と遜色ない攻撃力はさすが戦の神の侍従といったところか。
「イーサニテル様から注意を逸らすにしても、行動が早すぎでは?」
「あはは。侍従くんを出汁に、一番乗りで戦いたいんじゃない?」
激しく剣を打ち合わせる音が響いてくる中、楽しそうに笑うお姫様の横で巫覡も静かに頷いている。
いつも通りの二人で、僅かな緊張がほぐれる気がした。
「じゃ、私もメトゥスと行ってくる。戦いながらこっそり戦場の結界を展開するから、ちょっと時間かかるだろうけど、補助を頼むね」
「…………」
「承知しました。お気をつけて」
いつもの笑顔で駆けて行くお姫様と、目線だけで「頼む」と言ってお姫様へついていく巫覡の背中を眺めつつ、同調するイーサニテルの方へ意識を向ける。
こうして落ち着いて靄をしっかり見ると、あれが相当に悍ましいものだと感じる。恐らくイーサニテルが言っていた『視線』とやらは、彼を面白がる拘束の女神の欲みたいなものが乗っているのだろう。あの細長い二本の腕に捕獲されたら、ちょっとまずいのでは。死にもの狂いで逃げろよ、とこちらに意識を向けない程度に警告しておこう。
言いたいことは伝わったみたいだが、必死に逃げている為、こちらへ意識を向ける余裕はなさそうだ。
わざとらしく彼を囲い込もうとする黒い靄の気配は、どこか楽しげですらあって興味を持たれたのが自分でなくて良かった、と心から思う。あんなのに追い駆けられて、彼の様に逃げ続ける自信はないからな。
黒い靄に遊ばれている彼を助けるには、強欲の男神をなんとかするのが一番早い。やっかいな拘束の女神が居ないうちが勝負だ。
二重の結界の内側はいつもの鍛錬場より少し大きめに設定し、外側の結界はお姫様の手先から肘くらいまでの幅で展開する。底面の結界と結界の間には巫覡がびっちりと氷の板を生成するので、相当な重量になる。
お姫様ならば、例えその10倍の重量であろうとも難なく維持し続けられるだろうが、不測の事態に備えて結界をこの場で維持・固定するのはガウディムとオクルス、クリュセラと氷の男神の侍従の三人だ。
何度となく実験と訓練を行った結果の、最大の範囲がこれだった。あまり広く戦場を設定してしまえば強欲の男神に逃げられるし、狭すぎると満足に戦えずに同士討ちをしてしまうというのもある。
訓練で使用した鍛錬場の大きさに誰もが慣れていていいだろう、という結論に至った。
クアンドとスキエンテを結界の維持に回したかったが、フランマテルム王国の王宮や神殿を攻めるとなると、三人が指揮するのは荷が重いだろう。
侍従三人のうちピスティアブとクアーケルは、結界が落ち着いたらフィダと共に結界内の戦場へ投入する予定なので、底面の氷の維持の方に術力を注いでもらうことになった。
普段使わない結界だと意識が散漫になって結界がゆがんでしまうが、氷の維持なら意識せず出来るという不思議。彼らの頭の中はどうなっているのだろう?
まあ、慣れ親しんだものの方が力まず長続きするしな、と無理やり納得してこの思考は終わりにしておこう。
神殿長とオリカル様を相手に戦う強欲の男神の背後に、お姫様と巫覡が退路を断つように立ちふさがり強欲の男神を中心に囲む形になってきた。
一気に結界を展開するために細かい調整をしていると、イーサニテルが止まった気配がする。捕獲されたわけでは無さそうだが、リムスの体力を考えて立ち止まったのかもしれない。あの靄の腕は切り落としたのだろうか、相変わらずの剣の腕だなと感心する。
結界の調整も大方終わったし、少しだけ彼の方に意識を向けてみよう。
*** 一面の緑! …… 見た目と視線の感じが全然違…… ***
何を言っているのだろう? 見た目と視線、拘束の女神が顕現されたのか?
*** どうすりゃいいのよ、俺 ***
*** お断わりします ***
*** だから、お断わりしますって ***
女神に気に入られでもしたのだろうか?
すこしあちらに興味が出たものの、術の構築はすでに終えて展開を待つばかりの今は、こちらに集中したい。
*** イヴ、今!! ***
お姫様からの合図で、お姫様と巫覡の術の発動に合わせ細かい調整に集中する。
床面と大きな結界を空間固定し、それを維持し続ける為の術式を結界に這わせてクリュセラ達に維持を任せる。私も維持の一端を担うが、彼ら複数人で維持していれば誰かが脱落しても維持は可能だ。
結界周辺を俯瞰するように集中したため視界がぶれてかすんでいるし、水の中に居るように周囲の音が遠く聞こえる。
目を閉じて深呼吸を続ければ、お姫様との同調効果により術力と聴力が瞬く間に回復するのを実感する。副作用の事は、今は考えないでおこう。
音は遮断しない作りの結界のため、お姫様と巫覡が思い切りぶっ放す攻撃の術が激しく主張する音を奏でている。相変わらず好き勝手に撃っているらしい。
神殿長とオリカル様に当たらないように干渉しなくては、と目を瞬いて結界に焦点を合わせた。
絶対に近寄りたくない爆発音が鳴り続ける結界内部は白い蒸気で埋め尽くされ、ときどき赤と青の色彩が走る。それらが更に蒸気を生み、結界内部を漂って何をやっているのか全く見えない。
「何にも見えませんねー」
「なんか有り得ない音も聞こえてくるぜ。俺は見えなくて良かった気がする…」
「あの方たち、人外の動きをするものね」
のんびりとしたオクルスと、冷や汗をかくガウディム、おっとりと正解を言ったクリュセラ。
ちらりと見える鮮やかな赤い炎と青白く輝く氷のはしる音、次いで爆発音にも似た破裂音と雄叫び。剣と剣がこすり合う不愉快な金属音の連続の合間に、何かを殴りつけたような鈍い音が絶え間なく聞こえてくる。そして、また赤と青の光、爆発音がして…… 終わりがないな。
音の男神の愛し子のガウディムは、聞こえる音で誰がどう動いたとかを理解するらしい。だんだんと顔色が悪くなるのを見ると、お姫様たちはアグメサーケル陛下の評価する戦闘力をしっかり発揮しているようだ。
「ガウディムさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。なんでか知りたいか?」
「知りたくないです! 頑張ってください」
「あ、私も遠慮するから。頑張って耐えてね、ガウディム」
「おう…」
もちろん、私だって知りたくもないので、内部はどうかなんて聞かない。だが、お姫様と巫覡の補助をするのならば、状況把握は必須だし… 心の底から知りたくないのだが、視るしかないか。
小さなため息が出たが、諦めて瞳に術力を這わせて結界を見つめる。
内部ではアグメサーケルの合格が出た4人が、予想とはちょっとばかり違った感じで強欲の男神を追い詰めていた。